一輪花 | ナノ


  05


御奉行である小栗から出された課題をクリアし、霊獣である黒麒麟も倒した。
残すところは燭龍のみ。
言葉にすれば簡単だが、それこそ死闘を繰り広げた八葉とゆきの疲労は凄まじく、現代に戻るまでに数日の猶予を設け、休養を取ることとなった。

皆が思い思いに時間を過ごすため、江戸の各地へ散らばっていく。
藩邸へ戻る者、知人に会う者、特に行く当てもなくリンドウ邸に残る者、様々だった。
その中で、当然瞬はリンドウ邸に残っていた。
ゆきがリンドウ邸を離れるのであれば随行するつもりだったが、ゆきも何か思うことがあったのかリンドウ邸に残ったままだ。
ならば瞬がどこかに出かける道理などあるはずもなかった。
明日に迫った決戦を前に、瞬の心は思いの他静かだった。
この世界に瞬が行きたい場所もなければ、会っておきたい者もいない。
そのような未練はここに来ても毛頭なく、未だにゆきのために死ぬことをずっと心に抱いたままだ。
燭龍を倒したからといって必ずしも瞬が助かる未来があるとは限らない。
その上燭龍を倒せるかどうかも怪しいのだ。
四凶を倒し、黒麒麟を倒したとあっても、燭龍の力が未知数で強大であることには今も変わりない。
万が一燭龍に打ち勝つことが出来なければ、瞬は己が消える未来をゆきに強いるつもりでいた。
欲張りなのはいけないと、幼い頃から教えてきたはずのことを実践させるのだ。
二つの世界を選ぶ代わりに瞬が消える。
選べないというのならこの命を絶ってでも選ばせるしかない。
どれだけ怨霊が減ったとしても、四凶を倒し江戸の澱みが薄れたとしても、着実に破滅の瞬間は近づいてきているのだ。

(……それに、気掛かりなこともある)

現代に行くための荷造りを終え、瞬は目に掛かる髪をそっと払った。
確かに、あと一戦もすれば全てのとは言わないが大体の片はつく。
瞬の前に道が伸びていくか、途切れるか、それは分からない。
だが世界は何らかの形で決着を迎えるだろう。
しかし、心のどこかで引っ掛かっていることがある。
もしかしたらと抱いていた疑念が、ここにきて急速に膨らみつつあった。

最後の四凶を倒し、黒麒麟を倒してから―――否、戦いの最中から、龍馬の様子がおかしかったのだ。
腕の怪我がまだ完治していないからというのも理由の一つだろうが、それだけではなく、何かがおかしく、不自然だと感じられた。
痛みがないと本人も言うように、銃を扱う手はいつも通りで痛みに竦んでいる様子もなかった。
戦いの後に皆に隠れるように確認した腕の傷は、しっかりと塞がったままだった。
なのに、何かが気に掛かる。
違和感がある。
それが何なのかははっきり分からなかったが、それは些細なことの積み重ねであるようにも思われた。

例えば、黒麒麟と戦う龍馬の銃の弾はいつもより外れる回数が多かったのだ。
外で自由に飛び回る黒麒麟が相手だったのならそれも当たり前のことだろう。
しかし幾ら広いとはいえ、戦った場所は城内だ。
そこまで弾が外れるのも妙な話だった。
例えば、黒麒麟を倒した労を労うかのように酒をともにした食事のとき。
あれほど美味そうに食事を取っていた男が、急に大人しく食べるようになっていた。
行儀がいいねと帯刀に不思議がられるほどには食べる勢いがなく、静かになったのだ。
龍馬は「どうも疲れが取れなくてなあ。何せいい年だ」と笑っていたけれど、その笑顔は何だか乾いているような気がしていた。

他にも色々と気になることはある。
しかし龍馬ばかりをじろじろと観察しているわけにもいかず、瞬は気付いた些細なことを心に留め、決して口にすることはなかった。
何かあるのだろう、とは思う。
もしかすれば自ら招いたことかもしれないとも。
それは「痛みがない」と打ち明けられたあのときからずっと気になっていることだ。
だからといって立ち止まるわけにも引き返すわけにもいかないのだから、このまま全てを終えてしまうのが一番の善作だろうと自分を納得させるしかなかった。
明日にはもうゆきの世界へ向かう手筈になっている。
きっと、皆が思い思いの夜を過ごすのだろう。
どれだけ思い悩んだとしても、今宵で最後だ。
瞬は立ち上がって窓辺に向かい、そこから闇の広がる世界を眺めた。
二度と見ることのないであろう、静かで美しいぬばたまの夜だった。

生きたいと思わないわけではない。
しかし、死にたいと思うわけでもない。
消えることが当然で、死は常に瞬を包み込み緩やかに窒息させていこうとしていた。
そこには瞬の意思など介在する余地はない。
だからこそ今更未来を提示されたところでどうしていいか分からないというのが本音だ。
情けないことにたくさんの可能性を前に瞬は足を竦ませていた。
それでいて、使命を全うして消えてしまいたいと思っているのか、それとも生きて未来を見てみたいと思っているのか、不思議なことにそのどちらも違うような気がしている。
御しがたい、と瞬は苦笑した。
どうやらまだ笑うことも出来るらしい。

「……全ては明日、か」

ぽつりと呟いても誰の耳にも届かない。
瞬は闇から目を離し、行灯が淡く照らす室内へと身体ごと向き直った。
綺麗に片付けられた部屋には生活臭など全くない。
僅かな痕跡さえ残したくないと思う、瞬の気持ちの表れだった。
今日はこのまま布団すら敷かず、ただぼんやりと時間を過ごし、朝を迎えるつもりをしている。
最後の夜だから寝てしまうのが惜しいと思う反面、それほど惜しむものだっただろうかと冷静な部分で考えた。
結果はこの通りだが、そんな矛盾すら今は嫌悪すべきものではない。
最後、というのは、何と甘美な響きを含んでいるのだろうか。

揺れる行灯の光を眺めながら背を壁につけ、ゆっくりと腰を落としていく。
目を伏せると目蓋の裏に淡い橙色の光がちかちかと瞬いた。
すうっと息を吸い込むと、瞬はゆるゆると目蓋を押し上げ、もう一度瞬きをする。
とんとん、と足音が聞こえたのは、丁度そのときだった。

「瞬、いるか?」
部屋の外から聞こえた声に瞬は「龍馬?」と聞き慣れた声の主の名を呼んだ。
江戸に知人の多い龍馬は当日の朝まで戻ってこないのではないかと晋作や帯刀が言っていたが、予想に反して今日戻ってきたらしい。

「邪魔してもいいか」
「……ああ、構わない」

最後の日にどうして瞬の下へやってきたのか、ゆきならばともかくと思いながら許可を出せば、するりと開いた襖から龍馬が身を滑り込ませてきた。
その様子は少しだけ人目を忍んでいるような感じがし、瞬は壁につけていた背を浮かせて龍馬を見据えた。

「突然押し掛けてすまんな。何かしてるところだったか?」
「いや、……明日の用意は終わっているから、特に何もしてはいない」
「それもそうか。……瞬が慌てて用意してる姿なんざ、想像もつかん」
「お前と違ってな」
「おっと、そりゃあ言わんでくれ。実は明日の準備など何もしとらん。銃の手入れだけは一応終わっとるが」
「……」

気楽なものだ、と瞬は溜息を零す。
心配しただけ杞憂だったかと思わされる態度に僅かながら安堵を覚えながら。

「何か俺に用があったんじゃないのか」

しかし口を突いて出るのはいつもの言葉で、不機嫌そうな低音でそう問えば、龍馬がぽんと左の手で右の手のひらを打って「そうだった」と笑った。

「なあ瞬、……最後の戦いの前に、お前に頼みがある」

笑っていたはずの龍馬の顔ががらりと様相を変える。
真面目な表情に瞬は思わず息を詰めた。

「最後の戦い、俺を外してくれ」
「なっ……?!」
「瞬のことだから気付いとると思うが…俺は多分、戦力にゃならん。それどころか足手纏いになっちまう。それくらいなら俺は戦いに出ん方がいい」
「どういう、ことだ」
「分かってるんだろう?」

短い駆け引き。
苦しいほどの沈黙。
瞬は喘ぐように息をした。
黒麒麟と戦っている最中に想定した最悪の事態が頭を過ぎっていく。

「龍馬、お前……目が、」

声はみっともないほど震えていた。
柔らかな癖のある髪から覗く、淡い茶色の瞳は対照的に穏やかだ。
その目が答えを物語っている。
焦点が少しずれていた。

「目が、…見えないのか」

笑って首肯する。
その仕草は数日前と何一つ変わっていない。
なのに龍馬の視界は変わってしまったというのか。

「痛みがなくなったのと同じくらいに、何か妙に見えづらくなってきてな。左は何とか見えるんだが、右がいかん。銃の狙いも上手く定められん状態だ」
「どうしてそんな大事なことを、今まで黙っていた…ッ!?怪我はいつか治る、傷は塞がる、だが目はそういうわけにはいかないんだぞ!分かってるのか!」
「落ち着けって、瞬」
「どうしてそんな目に、お前が……」

どうして。問いは瞬の心の中に大きく響いた。

「……痛みも、視力も、」

なくなっていく、感覚。痛覚の次に、視覚。

「……ま、さか」

疑念は最早確信だった。
瞬はもつれるようにして立ち上がるとそのまま引き倒すほどの力で襖を開け、猛然と廊下を走った。
瞬を呼ぶ龍馬の声も、足音も気にする余裕もなく、ひたすらに駆ける。
急に酷使したせいで心臓は破裂するほどにばくばくと脈打ち、呼吸も覚束なかったが、そんなことはどうでもよかった。

「―――リンドウ!」

礼儀も忘れてリンドウの部屋の襖を思いきり開けると、部屋の主は意外そうな顔で瞬を仰ぎ見た。

「夜分に随分な訪問だね、瞬くん。さては二番目に大事なものでも判明した?」

くす、と笑うその悠然とした様子に苛立ちが募る。
思えばずっと前からリンドウの言葉は瞬の心の内側を酷く不快に逆撫でることが多かった。
何もかも知ったような口調で、しかし助言ばかりを与えるわけでもない。
試すようなこともすれば、信頼を裏切るような真似をしたことさえある。
神子に仕える一族の者ではあるけれど、星の一族である前にリンドウは小栗の配下としての自分に重きを置いているように見えた。
そういう部分が、瞬には理解出来ない。
瞬は大股に歩み寄ると、そのままリンドウの胸倉を掴み、捻り上げた。
何の目的でここに来たのか気付いていてのその態度にどうしても怒りが堪えきれない。
喉元が詰まって息が苦しいのか、リンドウの眉間に皺が刻まれる。

「術を解け。今すぐにだ」
「解け、と言われて…解けるような、やわな術じゃ、ないよ」
「……っ」
「それに、解けたとしても…神子殿の身体は、どうなるか分からない……立て続けに、神子の力を使ってたからね。最悪、消えて、しまうかも……」
「……!」

その言葉に愕然とし、瞬の手の力が緩む。
引き剥がすようにしてその手から逃れたリンドウは、咳き込みながら荒く呼吸を繰り返した。
挑発したのがリンドウだったからか、瞬を非難する気配はない。
ただ、その唇はゆるりと弧を描いている。

「涼しい顔をして、激情家、だ……星の一族は、そういうのばかり、なのかな」

ごほ、とリンドウが噎せながらも笑う。

「二番目、は、龍馬くん、だった?」

言葉に、頭を思いきり殴られたような、そんな衝撃が走った。

「どうして、それを……」
「微かに呪が作用している気配があったから。あとは様子を見ていて何となくかな」

最後に大きく咳払いをしてからリンドウは襟を正し、座り直した。
その向かいに座るように指されたが、瞬はそれに首を振るだけで座ろうとはしなかった。
冷静さを取り戻した瞬は立ち尽くしたままリンドウをじっと見下ろしている。
解決の糸口は術師であるリンドウにしかない。

「何か方法は?」
「ないよ。僕だって龍馬くんをみすみす死なせるのは本意じゃないけど、解けば神子殿はただじゃ済まないし、それは困る。世界を救う前に死んでもらっては意味がないからね」

結局のところリンドウも星の一族なのだと、こういうところを見ると思う。
優先すべきは神子であり、八葉ではない。

「俺が肩代わりすることは出来ないのか」
「それが出来るなら、最初から君の命を代償にした呪にしているよ」

ならば龍馬は、あのままひっそりと衰えていくしかないということになる。
ゆきが龍神の神子として力を揮うたび、龍馬の中から何かが奪われていくのだ。
ゆきの命の代わりに、龍馬の何かが、一つずつ。

「龍馬くんは、今どんな状態?」
「…痛覚と、視覚が失われている。視覚は全部ではないようだが、視力をなくすのも時間の問題だろう」
「なるほど。命を削っているのかと思ったけど、そうじゃないのか。感覚が一つずつ神子殿の命に充てられていくといったところかな」
「っ……」

ずきり、と心臓が痛んだ。身勝手な瞬の行動が、こうして龍馬の身を削る羽目になったのだ。
少しずつ少しずつゆきの命となって、そして少しずつ生きているのに死んでいく。

「それにしても、瞬くん、君……」

沈痛な面持ちで立ち尽くしている瞬に、リンドウは形のいい顎を指で撫でながらゆっくりと口を開いた。

「大事なものが龍馬くんの命ではなくて、龍馬くんの感覚だなんて―――随分と、強欲で熱烈だ。それほどまでに、彼の感覚の全てが欲しかったのかな?自分だけ見て、感じて、……自分しか、龍馬くんが認識出来ないように」
「……な、にを」
「やっぱり、星の一族は欲深いんだな。僕も君も……君の弟も」

くすくすと笑うリンドウの、その笑い声が頭の中に木霊する。
そして、言葉を反芻して理解したところで、頬に宿った熱もそのままに瞬はリンドウの部屋を飛び出した。

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