一輪花 | ナノ


  09


目の前に広がる道は、あまりにも果てなく、広く、眩しかった。

燭龍を倒し、未来を得た瞬は、数日の猶予をもらい動乱の世に留まっている。
今日はその最後の日で、小栗が神子と八葉のためにとリンドウの邸で一席設けてくれていた。
明日には現代に戻るのだというゆきは寂しそうではあるものの、大業を成し遂げて晴れやかな顔をしている。
その顔を見て瞬もまた誇らしい気持ちになった。
自分が仕えた神子がゆきであったことが何よりも嬉しい。
その成長を間近で見届けられたことは、星の一族としてこの上ない僥倖だったと言えるだろう。
だが、星の一族としての役目は、もう終わりを迎えている。
その運命に縛られることはこの先きっとないだろう。
瞬はあらゆる意味で自由を得た。
今ならどんな未来を望んだとしても自分の力で叶えることが出来る。
医者としての自分も、一年ずつゆっくりと年を重ねていく自分も、想像に難くない。

だが、心の底に迷いがあった。
明るく拓けた未来とは別に、続いている道がある。
どんな道になるのか想像も出来ないような、もう一本の道。
決断は、明日に迫っている。

(……選べるのか、俺は)

酒宴を抜け出し、瞬はあの池の前に立っていた。
まだリンドウの術が掛かっているらしく、淡く光を放つ睡蓮が池一面に広がっている。
白龍に力が戻り、まったき龍になる日も近いとゆきは言っていた。
言葉は濁していたが、ゆきにも少しずつ命が戻っていくらしい。
ならば龍馬も徐々に失ったものを取り戻していくだろう。
戦いの後、視力と聴力を失ってなお笑う龍馬を思い出し、瞬はぎゅっと胸元の布地を掴んだ。

戦いの翌日には聴覚も視覚も徐々に戻っていたようだが、それでも元の状態に戻るまでに一月は要するだろう。
それならばと呪を解くことも考えたが、命が戻るとはいえ、それまでの間ゆきの身体が弱って現代での生活もままならなくなるかもしれないとリンドウが推測し、断念することとなった。
決断は、龍馬も納得済みのことだった。
もしも戻らなければこの世界に留まり生涯龍馬の支えになろうと心に決めていたが、いずれ治るのであればそうする必要もない。
不自由な思いをする一ヶ月、龍馬は薩摩藩邸辺りに身を寄せるだろう。
帯刀が龍馬の身体を心配し、裏であれこれと手を回してくれていることに瞬は気づいていた。
これも全て龍馬の人徳のなせる業だ。

(もう、全て終わったんだ。俺がこの世界にいる必要も、龍馬の傍にいる必要もない……)

あれだけ悩み思いつめていたのが嘘のような結末に、心がついていかない部分もあった。
現実感が乏しく、未だ決着など一つもついていないのではないかと思うときもある。
しかし、燭龍を倒したのは紛れもなく現実で、龍馬の身体が元に戻りつつあるのも、ゆきの命が戻りつつあるのも、然りだ。
何もかもがいい方向へと向かっているのを、現在の気の流れを読むことに長けている瞬は誰よりもはっきりと肌で感じていた。
だからこそ、瞬は明日、この世界の行く末を見届けられないまま現代へと帰る。
龍馬が完全に元に戻るまで傍にいることすら出来ない瞬を、龍馬は恨むだろうか。無責任だと詰るだろうか。

(…どちらも、しないのだろうな)

そっと膝を折り、光る睡蓮に手を伸ばす。
幻の花は瞬の指に触れることすらない。きらきらとした光の粒子が瞬の手をすり抜け、天へ上ることなく空気中にふわふわと蛍のように漂っていた。
以前、触れられない花を瞬のようだと龍馬は言ったが、瞬にとっては龍馬だった。
瞬とは対極の場所に立ち、未来に向かっていく男。
運命に縛られどこにも行けなかった瞬の前にはいつだって龍馬の背中があった。
立ち止まったままの瞬にとって、龍馬の白い背中は目を焼くほど眩しく、焦がれるばかりだった。
手など、届くはずもない花だったのだ。

なのに、どういう運命の悪戯か、たった一度だけ触れてしまった。
何度も重なった唇の感触も、瞬を掻き抱いた力強い腕も、痛みとともに瞬の奥深くに刻み付けられた快楽も、忘れられそうもない。
いつか必ずやってくる別れに隔てられ、触れることはおろか見ることすら叶わなくなると分かっていて、一夜の甘い夢に酔った。
この先、瞬の胸に咲いた恋情の花は、いつまでも枯れることなく瞬の心に咲き続けるだろう。
二度と触れられないと知っていても、こんなにも色鮮やかに咲き誇っている。
太陽のような、眩い花が。
つ、と手を引けば水面に波紋が広がり、睡蓮の花を揺らす。
不意に肌寒さを感じてぶるりと身震いすると、背中にふわりと何かが掛けられた。
白い羽織。見覚えのあるそれに振り向けば、持ち主である龍馬がにっと笑う。

来ると、思っていたのだ。

「主賓の一人が抜け出して、こんなところで何をしとるんだ?」

悪戯な目に、瞬はそっと嘆息する。

「お前を、待っていた」

話があるのなら、きっとここでだろうと思っていた。
そう言えば、龍馬は一瞬驚いた顔をして、それからなるほどと得心したようにゆるりと表情を戻した。

「聞いてくれるか、俺の言いたいこと」
「ああ。……そのために、ここにいる」
「そうか。じゃあ、遠慮なく切り出すとするぜ」

立ち上がり顔と顔を突き合わせる。
龍馬の顔は余裕を見せているようでもあり、目の奥にほんの少しの不安を宿しているようにも見える。
一体龍馬は何を言おうとしているのか。
永久の別れを惜しむ言葉でも口にするのだろうか―――瞬は菫の双眸を瞬かせた。

「瞬、……この先お前はどうするんだ?」
「……?」

龍馬の言葉に、瞬は僅かに眉を寄せた。予想外の言葉に言っている意味がよく分からない。

「瞬が生まれた世界っちゅうのは、異世界の未来なんだろう?」
「……そういうことらしいが、それが一体…」
「そこに帰るつもりか?」
「いや、俺はゆきと……ゆきの世界に帰る。今更生まれた世界にも、親にも、未練はないからな。蓮水の家を出て一人でやっていくつもりだ。まだ、未来を考えるほど、落ち着いてはいないが……いずれ医者になれたらと、そう思っている」
「その未来にゃ、俺はいないんだな」
「……それは、」

言われるまでもなく当たり前のことだった。
ゆきの世界には龍馬はいない。そして龍馬の世界に瞬はいない。
言葉を詰まらせた瞬を、龍馬がぐっと抱き寄せた。
ふわりと鼻腔に届く龍馬の匂いに、瞬はますます眉根を寄せる。

「瞬……俺は今から最低なことを言う。愛想を尽かすならそれでも構わん」

耳元で聞こえる龍馬の声は酷く低い。
真剣味を帯びたそれに瞬は遣り切れない吐息を零す。
尽かせるものならばとうに尽かしてしまっているというのに、それが出来ないからこんなにも迷い、惑っているのだ。

「……ここに残ってくれ、瞬。お嬢の世界にも、合わせ世にも戻らずにここにいてくれ」
「―――っ?!」
「俺はまだ完全に目も耳も戻っちゃいない。こうして触れても、水ん中で瞬に触ってるみたいだ。だから、瞬がいてくれなきゃ俺は刺客にでも襲われてころりといっちまう」

瞬の都合を無視した、龍馬の希望だけを押し付ける言葉。
卑怯だ、と思う。
龍馬の言う通り最低の言葉だった。
それを引き合いに出されれば瞬に否やなどなくなってしまうと知っていて、あえてそれを選んだに違いない。
龍馬は優しい男だ。
しかし、瞬と同じく不器用なところがある。
きっと瞬がどのような決断を下したとしても傷ついたりしないように慮った結果が、あの言葉に通じているのだろう。
悪者になるのは、龍馬一人で充分だとでも言うかのように。

「俺の傍で生きてくれ。俺は、あんたの未来にいたい。瞬が掴み取った未来の、その道をともに歩きたいんだ」

なのに、続いた言葉は切望だった。
そしてはっきりとした力強い声は、瞬のよく知る龍馬らしいもの。
いつだって真っ直ぐに未来を見据えている龍馬が、瞬と同じ未来を目指して歩きたいと、そう言っている。
志は違うだろう。
けれど寄り添い歩くその道は同じでありたいのだと、その声が、言葉が、瞬に強く訴えかけてくる。
胸が痛い。瞬はただ喘ぐように龍馬の名を呼んだ。

「龍馬……」
「医者になりたいっちゅう瞬の夢は、ここじゃ叶えられんか?」

緩く首を振ると、瞬は目を閉じて龍馬の肩口に自分の額を押し当てた。
色んなことが走馬灯のように瞬の頭を駆け巡っていく。
星の一族としてなら絶対に断るべき申し出だが、今の瞬はもう星の一族としての役割を担っていない。
何より、ゆきの傍には祟がいる。
きっとこれから先は祟が星の一族として、弟として、男として、今までの分を取り返すかのようにゆきを守っていくことだろう。
そこでようやく瞬は気づいた。
こうして道を選び、決断することが初めてだということに。
そして決められた運命に向かい死を携え歩いていくことが、どれほど楽だったのかを思い知る。
何もかも諦めさえすれば、余計なことなど一つも考えずに済んだのだから。
足元に広がる、二本の道。そこから枝分かれする数多の道。
これからは一つずつ選んでいかなければならない。
瞬自身の意思で、定められていない未来に向かって。

「……龍馬、俺は」

その最初の一歩を、瞬は踏み出した。
行こう、と心の中で呟く。
ゆっくりと目を開き、頭を起こして龍馬の顔をひたと見据えた。

「俺は、……ここで自分の道を探す」
「瞬…!」
「一番大事なものは、もう俺の手を離れた。なら、二番目に大事だったものを……俺は、大事にしていきたい。だからここに残る。それに、医者ならここでだってなれるだろう」

微かに微笑んで目を閉じると、すぐさま龍馬の唇が瞬の唇に重なった。
あの夜のように激しいものではなく、唇を通して嬉しさが伝わってくるような、子供のようなキスだった。
何が二番目で、それがどういう意味なのか、きっと龍馬には分かっていないだろう。
それでいい。
生涯、瞬がこの話を龍馬に打ち明けることはことは決してないと断言出来る。

「ここに残るって…夢じゃないよな?瞬!」
「煩い、夜中に騒ぐな!第一、お前が残れと言ったんだろう」
「そりゃそうだが、玉砕覚悟だったんだ!やった、やったぜ!悲願達成だ!瞬、瞬…瞬っ!」
「何度も呼ぶな、ちゃんと…聞こえている」

悲願というほど大袈裟なものじゃないだろうと呆れながらも、きらきらとした目で瞬を見て満面の笑みを浮かべる龍馬は、瞬の恋焦がれた太陽そのものの男だった。
屈託ない笑顔につられて眉尻を下げると、龍馬が瞬の背中を抱き直して腕に力を込めてくる。
ぎゅっと抱き締められ、頬を摺り寄せられた。
触れ合う頬は熱でもあるのかと思うほど熱い。
甘ったるいその仕草はそのままに、はあ、と溜息にも似た息を漏らし、龍馬はまた瞬と名を呼ぶ。
愛しさが滲み出たその声音に、瞬はそわりと落ち着かない心地にさせられた。

「……なあ瞬、俺に愛想尽かしちゃいないか?」

しかし不意に恐る恐る掛けられた言葉は、抱き締めている腕とは反対に自信がなさそうだった。
何を今更、と言ってやりたかったが、瞬はあえてそれを飲み込んで龍馬の胸を押して身体を引き剥がした。

「そんなもの、最初から尽かしている」

だから心配要らないのだと言外に告げる。
龍馬が瞬のことで不安になるのなら、それを取り払ってやれるのは瞬しかいない。
しかしストレートに何もかもを暴露してしまうのは瞬の矜持が許さない。
それどころか今までずっと色んなものを胸に秘めて生きてきたのだ、急に生き方を変えることなど出来るはずもなかった。
瞬に出来る精一杯の言葉を、龍馬なら酌んでくれる。
期待に正しく応えた龍馬はがばりと強く瞬の背を掻き抱いた。

「ああ、そうだよな。瞬にはいつも格好悪いところばかり見せちまってるし……これからも多分、そうなんだろうと思うんだが」

すう、と息を吸う音。
視界に入る龍馬の耳は夜目に分かるほど赤味を帯びていた。

「ずっと、傍にいてくれ」
「………」

返事は出来なかったが、同じくらいに赤い耳が瞬の気持ちを物語っている。
素直にならねばと思うのに言葉にするのはやはり難しい。
好きだ、と告げることが出来たのなら、龍馬はこの上なく喜んで同じ言葉を返してくれるだろう。
それでもやはり、瞬は気持ちを打ち明けることはしなかった。
第一、龍馬にも言われていない言葉を、瞬から告げるのは瞬のプライドが許さない。

(今はまだ、この距離でいい……)

時間ならそれこそ幾らでもあるのだ。
今までのように失うことを恐れる必要もない。
龍馬の身体が元に戻り、同じラインに立てたときこそ、ようやく口に出来るかもしれないと瞬は思う。
それまではめまぐるしく変わるこの世界と気恥ずかしいこの距離に少しずつ慣れていく努力をするのが先決だ。
これから織り成す二人の未来が、歩く道が、どうなっていくのかは分からない。
それでもやはり、龍馬がいるのなら何とかなるだろう。
 
 
太陽の花をしるべとして、瞬は初めて自分で新しい未来を選び取った。



−終−

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