【SS】愛しき暗愚/鳳瑛一



は、と目を覚ますと、目の前に目を見張るほど綺麗な顔がある。
「ん? 起きたか」
美術品のようなそれは、口を開いて声も紡いだ。
ハッ、と目を覚まし私は口元を拭った。そのまま口元を手の平で覆う。
ヨダレ垂らしてた。最悪だ。
私は口元を押さえたまま、グルリと一回転寝返りを打つ。ベッドが音を立て、シーツが擦れた。
シーツの外へ向いた視界は、物の少ない部屋の様子を映す。生活感の薄い此処は通り、瑛一さんが都内に持つ別荘の一つだった。
部屋の中はまだ薄暗い。
ギシッ、と音が鳴った。
「挨拶もないのか?」
私の腰の直ぐ傍に、手がつく。首を向けると、間近に美麗な瞳があった。
いつもレンズ越しに見ている瞳が、まざまざと晒されている。この人の眼鏡の掛かっていない素顔は、息を呑むほど、美しい。
私は顔をしかめてその瞳を見た。
この人の寝起きの姿は作品と見紛う如く美しいのに、私ときたら。
「……おはようございます……」
瑛一さんが片眉を上げる。口を押さえたまま言えば、声はくぐもった。
瑛一さんは暫く私を見つめ、それから顔を寄せる。
眼鏡がないからか近い。
「手を退けてくれないか」
瑛一さんが体重を乗せたのか、私の腰の横についた手がベッドを鳴らす。
「……嫌です」
「そうか? だが俺は目覚めのキスがしたいのでな」
伸びた手は手首を掴み、私の手の平を引き剥がした。
近い距離は、すぐゼロになる。
柔らかな感触が、さわるように触れた。
そうしてその唇は一つ笑むと、今度は吸い上げるように触れる。
チュ、と綺麗なリップ音がして離れた。
綺麗に口角の上がった笑みがある。
私は至近距離のそれに、顔を歪めた。
「……幻滅しないんですか?」
私が言うと、瑛一さんの瞳は数回瞬きをした。
「幻滅? 何の話だ」
眉を曲げ、不思議そうに問う。
「俺がお前にか? 幻滅どころか、限り無い幸福を感じているこの状況で、どうやったらそんな考えに至るんだ。有り得ないだろう」
近い距離で、大真面目な顔が言い放った。
私は口を開くが言葉を失くす。
「なんっ……なんでそう言うこと……う……」
言い返そうにも、舌は回らないし、顔が熱くてそれどころじゃない。
私は額に手のひらを当てた。この人は思いの全てを、惜しげも無く伝え過ぎている。聞いている側は平常心でいられる訳がない。
「……私、涎垂らして寝てて」
そもそも私の寝顔はとても醜いものなんじゃないだろうか。確認しようもなく、意識のしようもないから野ざらしだろう。
「ああ、そういうことか」
瑛一さんが、繋がったというように目を開く。
私の腰の側についていた手が、ベッドを離れた。代わりに私の顔へ伸びて、横髪を一房持ち上げる。
「涎くらいで見切ると思うか? こっちは嫌だと言われても離す気は無いんだぞ」
持ち上げた髪を自分の口元へ引き寄た。そしてキスを落とす。
私が思わず肩を揺らすと、反動で髪は瑛一さんの手からすり抜けた。
挑発的な笑みだけが残る。
私は顔を歪める。口を開くが、それより先に声がした。
「それに、正直なところ悪くないと思った。お前が無防備な姿を俺に晒している。優越感とでもいうのか? 他の男は、お前のこんな姿は見れもしないのだと思うと、たまらないものがある」
考えるように視線を天井へ向けながら、瑛一さんは語った。
「…………そ、んなこと考えながら、見てたんですか」
意識を起こした時、目の前で見た瞳を思い出す。
「まあそうだな。お前と恋人になって良かったと三度みたび思った瞬間だったな」
「……! …………!」
何か言おうとして、けれども言葉に詰まる。グッと出そうとして出せない息が、苦しいだけだ。
ギシ、と音が鳴って、瑛一さんが起き上がる。
手がサイドテーブルへ伸ばされ、置いてあった眼鏡を掴んだ。
眼鏡のテンプルを開いて、顔にかける。テンプルの先端が、柔らかそうな癖毛をくぐって耳に掛かった。
最後に、中指で眼鏡を押し上げる。
その一連の様を、私はうつけた視線で眺めていた。
瑛一さんの横顔がこちらを向く。
「どうかしたか」
「いえ……別に……」
私はそう答えて、自分の体に掛かるシーツを掛け直した。
ギシ、と音が鳴り、視界を占めていた白いシーツに手と皺が加わった。
関節の凹凸が浮き出た手の甲を眺める。案外色の強い肌色。
髪に感触があったところでやっと気が付き、視線を向ける。
瑛一さんの顔が直ぐそこにあった。
「寝癖がついているな」
瑛一さんの指が、私の頭頂部の髪に触れる。押さえたり離したりが繰り返された。
「あ、そうですか?」
涎だけでなく寝癖まで……。私は自分自身に半分呆れながら、手を頭頂に持っていく。
目の前の瞳が、その形を細めて笑んだ。
柔らなその笑みに、私は目を見開く。
頭の上の手が、撫でるように二、三度動いた。
……この人、も、相当浮かれてる。
瑛一さんと付き合ってから、些細な仕草でも視線が奪われる。一挙手一投足どんな姿も美しく思えて、他人から見れば何でもないところに鼓動が早る程の愛しさを覚える。
手の平が頭頂から頬にずれて、顔が近づく。
唇が啄ばむように触れる。
柔らな感触と、確かな体温が伝った。
「ふ……ハハ、名前、」
楽しそうな笑みで、瑛一さんが呼ぶ。
瞳が綺麗に閉じられ、また顔が近づく。
唇が触れる。今度はいじらしい音の鳴るキスを。
また触れる。また、また、何度も、何回も。


「うわー! ちょっと危ないですよこれ!」
「お前が急げと言ったんだろう」
助手席に座りながら、思わずシートベルトを握りしめる。
「道幅も広いし問題ない。6.2LのV8エンジンだからな。ギアも8速まである」
瑛一さんが得意げに話す。が、何を言っているのかわからない。
「とにかく危険だって事だけ分かります! 安全運転で行きましょう!」
「まあいいが、それだと遅刻は確定だな」
車が速度を落とす。広い道路を緩やかに走り始めた。
「もう……すぐに準備すれば良かった……」
私は額に手をついて項垂れる。
「そうだな。俺を押し退けて準備をすれば良かったな」
ハンドルを握りながら、瑛一さんの横顔は嘲笑あざわらった。
私は顔を歪めて隣を見る。
「私は遅刻しますよって言ったんですけど……」
「あんな言い方では誰も本気にしないだろう。このまま遅刻するのも満更でもないというような顔だったぞ」
「そんなわけ……!」
ハハハ、と笑い声がする。
運転席の横顔は、柔らかく目を細めていた。
「まあいいじゃないか。ナギに叱られたら庇ってやろう」
瑛一さんがハンドルから片手を離し、下部へと添え直した。
私はその様を眺める。
「まあ……いいですけどね……」
顔を窓の外に向けて呟いた。
街路樹の緑が朝日に照らされキラキラと輝く。それがいくつも通り過ぎていく景色。タイヤが伝えるアスファルトの感覚。
隣で小さな笑い声が漏れた気がした。


Fin
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