cantabile(カミュ) 1/2
I wish that this time under the rose continue. Until proper time to come over to me sometime.



「苗字さんは、この後どうされますー?」
番組の撮影が終わり、セットが解体されていく様を尻目にそんな声を聞いた。
「いや、すみません。用事があるもので、欠席で……」
女は申し訳なさそうに笑みを浮かべてそう答えた。呼び掛けたスタッフが、「了解ですー」と返した。
女はそそくさとスタジオを出て行く。
「苗字ちゃんまた飲み会来ないんですかー?」
「用事だって。あんまりこの番組好きじゃないのかな」
「えーでも他の現場でもそうですよ。カメラが止まると、意外と付き合い悪いですよねー」
小声のつもりなのか、そもそもそんな気もないのか、会話はこちらまで届いた。
会話が終わると、スタッフはこちらに目を止め、駆け寄って来る。
「カミュさん、この後皆さんで食事に行くんですが、カミュさんは来られますか?」
俺は進めていた足を止めて、振り向く。
「申し訳御座いません。私はこの後、仕事が入っておりまして」
ニコと笑みを浮かべて口にする。
「あっ、そうでしたか」
「ええ。皆様とご一緒出来ずに、残念です。お聞きしたい事も、お話したい事も、まだまだ沢山あるというのに」
眉を下げてそう言葉を並べた。
スタッフの「次は是非飲みましょう!」という言葉を最後にスタジオを後にした。
テレビ局の建物から出ると、冬風が伸ばした髪を攫う。冬風と言えど、祖国の凍てつくような強さには、到底及びはしない。
携帯電話を取り出し、タクシーを呼びながら通りへ歩いていると、ふと見知った背中を見つけ目を留める。
先程の女だ。携帯電話を肩と耳で挟み込み、忙しなくタクシーへ乗り込んでいる時点であった。
電話に向けて何やら話しており、そのままタクシーの扉は閉まった。
俺は走り去って行くタクシーを眺めながら、一考する。
確かに、あの小娘が飲み会や打ち上げに参加している姿など滅多に見ない。
そうして必ず、忙しない素ぶりで何処かへ出かけているではないか。
我が任務はあくまで早乙女の近辺諜報ではあるが、その早乙女の社の人間。何処でどう繋がるかも分からぬ。
タクシーが目の前へやって来たので、それに乗り込んだ。
勿論、この後に仕事などありはしない。



「あ、お疲れ様です」
大部屋の楽屋で帰り支度をしていたところへ、扉が開き事務所の先輩、カミュさんが帰ってきた。
年末特番の歌番組の収録だった。カミュさんはステージ衣装のまま私へにこりと笑いかけると「ええ、お疲れ様です」と返した。広い楽屋の中には、収録前後のアーティストが何人も集まっている。
カミュさんが楽屋の奥へ歩き出した時、ガチャとまた扉の開く音がした。
「お疲れちゃ〜ん! おっ、名前ちゃん〜! ステージ観てたよーん!」
入ってきた寿さんは、私を見つけるなり声を掛けた。
「ちょっとレイジ、邪魔」
綺麗な声がして、見ると寿さんの後ろに美風さんの眉を寄せた姿が見えた。
「めんごめんご! にしてもアイアイ邪魔って……」
「邪魔だから邪魔って言ったんでしょ? 何か間違ってる?」
美風さんは淡々と言いきると、寿さんの側を通り過ぎスタスタと楽屋の中に入る。
「寿さん、美風さん、お疲れ様です」
「お疲れ」
美風さんは素っ気なくそれだけ言うと、直ぐに荷物をまとめ始める。
「あ、そうだ名前ちゃんこの後暇だったりする? みんなで飲みに行こうって言ってるんだけど、名前ちゃんも良かったらどーう? やっぱり男ばっかじゃ寂しいしー」
寿さんの言葉に返事をする前に、別の声が飛び込む。
「『みんな』って誰?」
美風さんの呆れたような声に、寿さんが声を上げる。
「えっ! アイアイとミューちゃんとランランだよ!」
「勝手に決めないでくれる、ボクはパス」
「ええー! そんな〜! アイアイの薄情者〜! せーっかく4人揃ってるのに! 何気に久し振りでしょ〜?」
「あの、寿さん、私もちょっと用事が……」
言いかけたところで、ばっと寿さんが私を振り向く。
「嘘でしょ名前ちゃん! 君までぼくを袖にするの!?」
「袖っ? いやっ、そういう訳じゃ……」
返答を考えていると、目の前を靴音が横切る。寿さんが素早く呼び止める。
「ミューうーちゃんっ! この後暇でしょ〜? 飲みに行こうよ!」
カミュさんが一瞬、最大の嫌悪を滲ませて寿さんを睨んだが、寿さんはもろともせずにその肩に腕を回す。
カミュさんが大人しくしているのは、きっと寿さんが部屋に響き渡るような大きな声でカミュさんへ声を掛けたからだ。
カミュさんがにこりと笑みを浮かべて、寿さんの手を押し退ける。
「申し訳御座いませんが、私は明日の仕事に備えて休息を取ることにします。なにぶん朝が早いもので」
「ええー? でもーミューちゃん明日仕事お休みでしょ?」
寿さんがこれまた大きな声で言う。うわ、カミュさんの眉間のシワが。
「せっかくなんだから事務所の皆んなで飲みに行こうよ〜ってアレ!? アイアイ!?」
寿さんが辺りを見回すが、既に美風さんの姿はどこにも無かった。いつの間に出て行ったんだ。
ガチャと扉の開く音がした。
「あ? オイ嶺二まだ着替えてねぇのか」
「ランラーン! アイアイは逃しちゃったけど、ミューちゃんと名前ちゃんは来てくれるって」
私は思わず顔を歪める。参加する事になっている。
「はあ? カミュまで来んのかよ」
「蘭丸が不服のようですので、私は失礼します」
「あ、確か限定スイーツがあった気がする」
カミュさんの動きがぴたりと止まる。
「……話だけ聞いてやろう」
「おっ、確かねー冬季限定で、苺の……」
寿さんの話に、カミュさんはすっかり食い付いてしまった。黒崎さんがそれを呆れたように見ながら、「まあ嶺二の奢りで食えりゃ何でもいいか」と呟いた。
「じゃあ名前ちゃん、駐車場で待ってて〜」
寿さんの言葉に、私は曖昧な笑みを返して楽屋を出た。

外はすっかり日が落ち、暗い空に夜景のスペクタルが輝き広がっている。
マフラーを引き上げながら、私は携帯の画面を見つめていた。
暫くそのままで居た後、携帯を持つ右手を下げてポケットに突っ込んだ。
一歩、足を踏み出した。
と、瞬間グイッと何かに襟元を掴まれた。
バッと振り返れば、遥かに高い所から見下ろす見知った顔があった。
カミュさん。眉間に濃い皺を刻んでいる。
「貴様だけ逃げようだなどと、卑怯な事を考えている訳ではあるまいな」
「えっと……」
カミュさんは私のコートの襟を離すと、フンと不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「寿に付き合わされれば、翌日地獄をみるのは火を見るよりも明らかだ」
「はは、そうなんですね……」
「何を笑っている。貴様が寿の相手をするのだぞ」
「え、私明日も仕事が」
「知ったことか」
隣を見上げると、カミュさんは不機嫌そうな顔のまま、コートをさらりと着て立っている。
今日は格段と冷え込んだ風だが、身震い一つせず平然と美しい姿勢のまま立っていた。
不意に後方から騒がしい声が聞こえ始め、振り向くと案の定、寿さん達の姿があった。


目を覚ますと、私はまだ夢を見ているのかと考えた。
青白い月明かりが射している。
窓は高く、プリーツの美しいカーテンが両側に括られている。床は赤い絨毯が敷かれ、キャビネットや暖炉、ウォールランプ、この身が横たわっていたソファなど、家具は全て白で統一されている。
頭上にはシャンデリアさえ見えた。
そしてシンボルの如く堂々と部屋の中心に立つのは、上質な絨毯の続く、螺旋の階段だった。
「……お城…………?」
小さい頃に読んだお伽話を思い起こしながら、ただ呆然と呟いた。
何処だ、ここは一体。
記憶を呼び起そうと、頭を動かすが、そうして出て来たのは酷い頭痛だけだった。そういえば吐き気もする。
何をしていたんだっけ、確か歌番組の収録……その後寿さん達と飲みに行って……。
「……です。…………は……かと」
その時不意に声が聞こえた。
いや、声が聞こえている事に気がついたという方が正しいのかもしれない。
私は声の根源の方向を探して、やがて中央に登る螺旋にたどり着く。
赤い絨毯に素足を着けると、ソファを立ち上がり螺旋階段へ近づいた。
階段の柵に手をついて、上を覗き込む。
どうやらこの上が最上階らしく、目眩を起こしそうな螺旋はそこで途切れている。
「……はい、仰せのままに、陛下」
『陛下』?
聞き慣れない言葉に眉を顰める。けれど、何処かで聞いたことのある声だ。
「……ええ、勿論です。私は陛下のめいあってこの地へ留まっているだけの事。早乙女を諜報するが為に、アイドルをこなしているだけの事でございます」
『早乙女』? 『諜報』?
耳へ届いた単語を、ただ脳内で繰り返す。
『アイドルをこなしているだけの事』。
「陛下がお望みとあれば、矢庭に飛んで参りましょう。このカミュは、遠に陛下の物に御座います」
私はただ頭上の螺旋を見上げていた。
やがて、キラキラと不思議な光が上階を包んだ。
そうして、光の粒子のような欠片がこちらまでゆっくりと降り注いだ。
手のひらをかざしてみると、指先へ触れる前にその粒子は消えた。跡形もなく。
微かな溜息が聞こえた気がした。
だが再び頭上を見上げるより早く、鋭い声がした。
「! 貴様、」
顔を上げると、見知った事務所の先輩が目を見張ってこちらを見ている。
暫く目が合っていた。
カミュさんのその青い目が、スッと細くなる。
コツ、と絨毯にくぐもった足音が鳴った。
「…………」
コト、コト、と足音は徐々に降りてくる。私は息を潜めるようにそこに立っていた。
コツ、と足音が目の前で止む。
視線を上げると、何度も視線を交わした筈の人間が、見たことのない視線で私を見据えていた。
この家は、酷く寒い気がした。
「何を聞いた。全て吐け」
低い声が、けれども氷のように澄んだ声。
これは切っ先の鋭利な氷だ。
「…………カミュさん、」
スッと、目の前に美しい指先が伸びる。
その優雅な動きに目を奪われていれば、ヒヤリと冷たい指先は私の首を掴んだ。
「……生かしてはおけんな」
喉を押さえる親指に力が籠もった。
パンッ、と振り払った。
慌てて距離を取って、繰り返す呼吸は震えた。
心臓がドクドク鼓動を鳴らしていて、血の巡りが速く頭がクラクラと揺れた。
「なに……何ですか、どういう……」
私が呼吸の合間に紡ぐが、カミュさんは螺旋の柵から出ると、この階へと足をつけた。それから口を開く。
「単純な話だ。貴様に知られてはいけぬことを知られた。だから生かしてはおけぬ」
「生かしてって……殺すって事ですか……? いくら何でも……」
現実離れした話だ。話、だが、あの時、触れた指先の冷たい感覚が、本能へ絡みついて離れない。
視線が合う。
月夜に輪郭を照らされた姿を、私は眺めた。
静かな夜更けに、音は鳴らない。
「…………『早乙女を諜報』って、社長ですか」
「貴様は知らずとも良い事だ」
コト、とくぐもった足音が始まる。
「カミュさんは……何なんですか」
「貴様には関係がない」
コト、コト、と靴先が近づき、やがて、カミュさんの大きな影が、私へ照っていた月明かりを全て隠した。
すぐ側にカミュさんのシャツの胸元がある。その長い髪先が、パラパラと動く。微かに自分のではない匂いが香った。
「…………全部……その『陛下』の為に、アイドルをやっているんですか」
胸元から、襟へ。喉仏の凹凸のある首へ、そして、その顔へ。目を合わせた。
ふっ、と唐突に、カミュさんは息を出して笑った。
「貴様も同じであろう?」
口角を上げ、視線は見下ろし、言葉は落ちた。
ザラ、と鼓動を打つ血がザラつき、流れが滞りはじめた感覚が。
「貴様とて、金の為にアイドルをこなしているのだろう? 同じではないか」
目を見張り、私は思わず口を開く。
「なんで…………何の話ですか」
震えた息を無理矢理抑え込んで答えた言葉に、カミュさんは鼻を鳴らした。
「貴様が毎回付き合い悪く、早々に帰宅する理由。毎日決まった時間に電話をしている理由。……大学病院の近くへ部屋を借りている理由」
目を見開く。カミュさんはそれを鼻で笑うと、最後の距離を詰めて、私へ手を伸ばした。
「不純に動機を持っているのは同じだ。その点で、貴様が俺を咎める権利など、到底存在せぬと思うが?」
耳元で低い声が振動を伝える。
サラリ、と髪に真っ白な指先が触れた。辺りの空気が急に冷え下がる。
吐き出した吐息が、白く形作り上った。
バンッ、と胸を押し退けて走り出した。
螺旋の階段を駆け下りる間、何処かへ迷い込んで行く感覚ばかりが身体に纏わり付いた。
扉を見つけて叩き開ければ、外は澄んだ夜の空気の下、高い木々が鬱蒼と茂っていた。
本当に何処だここ、と胸中だけで顔を歪めて、ただ道しるべもないまま森を走った。
カミュさんが追ってくることは、なかった。



『口外は無用。然るべき事があれば、然るべき手段に出る事もやぶさかではない。従うが妥当であろう。』
翌朝目が覚めると、差出人不明のメールが届いていた事に気がついた。
寝癖のついた頭のままソファに座りながら、このメールには具体的な内容が何一つもない、と思いが浮かぶ。
決定的な証拠を残さぬように。
いつか出演した刑事ドラマの台本が思い浮かんだ。
二日酔いかはたまた別物か、ジンジンと痛む頭でただ携帯の画面を見つめていた。
アパートの場所も知られている。アドレスも然り。何より。
現実味を帯びていくのは、縁遠い非現実的な話だ。
「おっ、名前ちゃんおっはよーん!」
事務所の廊下を歩いていると、寿さんと出くわした。手を振って、いつもの調子で元気の良い挨拶だ。
「おはようございます」
「うん! そうそう、昨日はゴメンね〜」
寿さんは本気で謝っているのかそうでもないのか、「許してちょんまげ」と言ってウインクを飛ばす。
「楽しくってさ、飲ませすぎちゃったね。ランランも潰れちゃったから……っていうかぼくが潰しちゃったんだけど、名前ちゃんはミューちゃんに送って貰ったんだよね。無事に帰れた?」
私は寿さんから思わず視線を外した。
すると寿さんは突然目を見開いて、動きを止める。
そうかと思うと、突然私の腕を引っ張り、何故か2人して事務所の廊下でしゃがみ込む。
「名前ちゃんってミューちゃんのこと好きなの?」
顔を寄せてヒソヒソと伝えられる言葉に、私は少し眉を寄せた。
「まさか……あっ、いやそういう意味ではなくて……」
先程の反応が誤解を生んだのか、と気がつく。
「じゃあお兄さんからのアドバイスだけど、」
寿さんはこちらの言葉を最後まで聞かずに、私の耳に口を寄せる。
「ワンナイト・ラブにしといた方がいいよ。ぼくら腐ってもアイドルだからね」
両手を私の耳元から離すと、寿さんは人差し指を唇に当てて『しー』という口の形をしてみせた。
「寿さん、あの……」
「うーん、でもミューちゃんと名前ちゃんか〜 意外な2人だよね〜」
「いやあの、」
言いかけたが、「お」と寿さんが何処かを見て声を上げる方が先だった。
「ミューちゃん」
寿さんの声に思わず振り返ると、眉間に皺を寄せたカミュさんが立っていた。フリース生地のトップスに、ロングコートを羽織っている。
「……この様な所でしゃがみ込んで、何をしている」
「ちょっとね〜名前ちゃんから秘密の話を聞いてたんだ」
寿さんの言葉に、私が気を留めるより早く、カミュさんが片眉を上げた。
「『秘密の話』、だと?」
カミュさんの視線が私へ向く。私は慌てて立ち上がった。
「違いますっ、そうじゃなくて」
「そうそう秘密の話。ねっ」
「寿さんっ!」
からかっている場合じゃないのだと、まさか咎める訳にもいかず、私は言葉を詰まらせた。
まずカミュさんの誤解を解かなければ、カミュさんの思う秘密ではなく、寿さんは私とカミュさんが関係を結んだと勘違いして……って、言えるわけが無い。まず寿さんの誤解を解かなければいけないのか? 私とカミュさんは昨日……ってそれも。
パ、と手首を掴まれた。
顔を上げると、すでにそのカミュさんの顔は横顔だった。長い髪が揺れてそれすらすぐに覆い隠す。
「っ、ちょっとカミュさんっ……」
「なになにミューちゃんお熱いねぇっ」
寿さんの合いの手も、カミュさんは完全無視し、私の腕を引っ張って行く。
バラバラな靴音と共に、廊下を人気ひとけの無い方へ進んでいく。
途中見るからに具合の悪そうな黒崎さんとすれ違って、「はあ?」とぎょっとした声を上げられた。
しんとした廊下のはずれまで来て、靴音は止まった。
「丁寧に忠告までしてやったというのに、随分と物分かりの悪い愚民だな」
カミュさんが口を開く。
パキ、と音がして、思わず掴まれていた手首を振り払った。何だ、今、氷結するかのような冷たい感触がした。
私は手首を押さえながら口を開く。
「……誤解です。寿さんには……いや、誰にも話してません」
「どうだかな」
カミュさんは鼻を鳴らして、聞く耳も持たぬような素ぶりだ。
「……寿さんは、昨日私とカミュさんが……その……」
「……何だ、言うのならばハッキリと言え」
カミュさんの眉間の皺を、私はチラリと見上げてから視線を逸らした。何だって本人を目の前にこんな事を。
「…………体を、重ねたと勘違いしていて」
ボリュームを落として呟くと、「……何だと」と不機嫌そうな声が上がった。
「……まったく彼奴は、相変わらず訳のわからぬ事を」
カミュさんが眉間の皺を濃くして、溜息じみたものを吐いた。
「それで、寿の言う『秘密の話』はそれだと言うのか」
「はい……」
「…………」カミュさんは暫くジッと、その両目で私を見た。推し量るような沈黙だ。
「あの……カミュさんは今日はお休みでは。どうして事務所に……」
「貴様に関係が無いだろう」
即座に切り捨てられ、私は押し黙った。
ス、と目の前に指先が伸びた。
私は目を見開いて、ただその行く末を追った。
指先は、私の首元を、ふ、となぞった。
「自分の置かれた立場を分かっているのだろうな。貴様はその命……失くしては困るのだろう?」
私はただカミュさんの長い髪の先を見ていた。
カミュさんが軽く笑って身を引いた後も、私は暫くそこに立っていた。


『そりゃやっぱ日向龍也! ありきたりって言えばそうだな〜アイドルに憧れて、アイドルになりたいって思ったし』
ガラガラと病室の扉を開ければ、寝台に幼い身体が横たわっている。
後ろ手に、なるべく静かに扉を閉めて、足を進めた。
荷物を足元に置いて、ベッド脇に置かれた椅子に腰掛ける。
『誰かを励ませる存在になってるって、すげぇ事だろ? 子供の頃、よく寝込んでたんだけど、その時、その姿見るだけで不安がどっか行ったりした』
ベッドを挟んで向こう側にあるサイドテーブルに、電池式のラジオが付けっぱなしになっていた。
『直接会いたいって気持ちもあったけど、俺もこんな風に誰かを元気に出来たらって、やっぱそれがアイドル目指した一番の理由……』
手を伸ばして、ラジオの電源ボタンを押した。何時間付けっ放しになっていたんだろうか。また電池も買っておかなきゃいけない。
コンコンコン、と後ろでノックの音がした。
「はい」と声を掛けると、扉が開いて看護師が顔を出した。
「あ、お姉さん、こんにちはー」
「こんにちは。昨日はすみません、大丈夫でしたか」
椅子を立ち上がると、看護師は扉を閉めながら、いえいえと笑った。
「少し寂しがってましたけどねー何かあったのかなって心配の方が大きいみたいでしたよ」
「そうですか、すみません……」
「いえいえ、説明したらちゃんとわかってましたし、昨日はその分お母さんが長く居てくれました。お姉さんも付き合いがありますしね。あんまり無理せず通ってくださいね」
看護師は優しく笑って、胸ポケットから体温計を取り出した。
私はベッドから少し離れて、その様子を眺めていた。
『貴様も同じであろう?』
点滴の管が繋がる、ベッドの上の幼い身体を見ていた。


「ねえ、翔……」
番組で一緒になった翔に声をかければ、弁当を食べていた翔が振り返った。
「苗字か、お疲れさん。さっき嶺二先輩が寿弁当持ってきてくれたぜ! お前の分も! ……で、何だって?」
翔は私が何やら抱えている事に気がついて、それに視線を落とすと口を開いた。
「あのさ、午前の現場の楽屋に置いてあったんだけどこれ……」
私は抱える程の大きさの、リボンでラッピングされた不織布の袋を少し持ち上げて見せた。
「四ノ宮さんからで……」
「那月から!? 中開けたのか?」
翔が明らかに警戒した様子で袋を見つめる。
「うんあの……」
私はリボンを開いて中から取り出してみせる。
2匹のクマのぬいぐるみだった。
淡い水色とピンク色の、胸の前で抱きしめるのに丁度いい大きさのぬいぐるみ。赤ん坊程のサイズだ。
「……何だこれ」
「これ手紙で」
私は2つのぬいぐるみを翔の隣の椅子とその隣にそれぞれ座らせて、袋に付いていたメッセージカードを開く。何故だか翔が口を開けて私を見ていた。
「『苗字さんへ。2人にそ〜っくりなくまさんを見つけたのでプレゼントします! 2人のように仲良しにさせてあげてくださいね〜! 四ノ宮那月より』……」
手紙から翔へ視線を上げると、あー……という顔で翔が額を押さえていた。
「まあ那月らしいっつーか……」
「四ノ宮さんがこういうのを好きなのは知ってるけど、この『2人』っていうのはどういう事?」
「そりゃカミュ先輩じゃねぇの?」
「え?」
「ん?」
私は固まって翔を見つめた。
翔は不思議そうに口を開けている。
「ん? あれ? だっておまえカミュ先輩と付き合ってんだろ……?」
「は……?」
私は思わず声をあげて、それから視線を動かす。何だって。
「え、違うのか?」
「誰から聞いたのそんな話……」
私は様々なことを思い出してはしまいながら、翔に問う。
「誰からっていうか、事務所中で噂になってるぜ?」
翔の言葉に私は口を開けて固まった。

ノックをして扉を開けると、長い脚を優雅に組んで椅子に座る先輩の姿が確認できた。
事務所の会議室の一つだ。
「カミュさん、」
私が呼び掛けても、カミュさんは一瞥もくれず、膝の上に広げた本に目を向けたままだ。英文の活字が所狭しと並んでいた。
「何か重大な用か。つまらん用事なら摘まみ出すぞ」
活字を追い続けたままカミュさんが口を開く。
「あの、可笑しな噂が事務所に広がっているんですが……」
「俺と貴様が付き合っている、などという噂か」
私は眉をひそめる。
「知っていたんですか?」
ペラリ、と頁がその美しい所作で捲られる。
「あれだけ噂になっていれば耳に入る。それで、用向きはそれだけか」
「それだけって、困ります、そんな根も葉もない噂……」
「ふっ、火の無いところに煙は立たぬと言うではないか。何ならば、」
グイッと腕を掴まれ引っ張られた。
「噂の通りにしてやるか?」
少し動けば鼻先の触れそうな距離に、不敵に浮かべたカミュさんの笑みがあった。
蛍光灯の明かりが私の影で遮られ、その顔立ちの彫りの深さを美しく強調する。
「なにを……」
視線を外して、軽く腕を振り払い身を引けば、カミュさんは一つ鼻で笑った。それからまた書籍に目を向ける。
私はその姿を眺めながら、ゆっくり口を開いた。
「……困るんです。こういった噂は、この事務所じゃ厳禁だし……」
ふっ、と軽く笑い声がする。
「そうだったな、貴様はこの職を失っては困るのだったな」
私は眉を歪めた。カミュさんはそれに気がついているのかいないのか、相変わらず活字へ視線を滑らせていた。
「しかしまあ、貴様の事情など知った事ではない。広まった噂を態々撤回するのも面倒だ。それに、貴様には損でも、俺には有益だと捉えることも、出来んでも無いのでな」
「……? どういう事ですか」
カミュさんが頁を捲る。
「貴様と俺が恋人同士ならば、貴様を始末したとして疑いをかけられる余地が少なくなろう。普段から仲の良い姿を見せておけばより効果的だな」
口元に微笑を浮かべて話すその姿から、私は無意識に半歩足を引いた。
カミュさんが横目でそれを捉えて、鼻で笑う。
「貴様には危機管理能力というものが無いのか。それとも、俺を甘く見ているのか……」
「……社長に対して素性を隠しているなら、事務所で下手な事をしたりしないでしょう」
私の言葉に、カミュさんは私の足元を一瞥してからフンと軽く笑った。
視線がこちらを向く。
「試してみるか?」
ジリ、とまた踵が後ろへ動いた。
視線を合わせ続ける眼と、後ずさろうとする踵と。ちぐはぐで、訳の分からなくなる。
バタンッ、と唐突に扉が開いた。
2人揃って入り口を見る。
「あら、2人ともいるじゃない。ひと手間で済んじゃったわ〜」
「月宮さん……」
私が呟いた通り、ノックもなしで開いた扉からは、私よりバッチリ髪を巻いてバッチリメイクをした月宮さんが立っていた。
月宮さんは、私達に向かってウインクをした。
「2人とも、シャイニーが呼んでるわよっ。即刻、社長室に来なさい! ですって!」


ノックをする為に掲げた手を、私はもう何秒間か静止させていた。
「……貴様、いつまで突っ立っている気だ」
後ろにいるカミュさんが眉間に皺を刻んで、一瞥を向ける。
「わかってます……わかってます……」
うわ言のように呟きながら、手の甲を向けて握った拳に力を込める。
と、ノックをする前にガチャと音がした。
え、と思う間も無く、中から勢いよく扉が開いた。
咄嗟に目を瞑ったが、いつまで経っても何処にも痛みは来なかった。
片目を開けると、呆れた顔のカミュさんが見えた。
両目を開けて状況を確認すると、カミュさんの片手が、私の服の背を掴んでいる。どうやら咄嗟に引っ張り、扉に額を打つのを回避してくれたようだ。
「あ……ありが……」
「ムムムーー? YOU達、来ていたんデスかーー」
扉の中から顔だけ出してこちらを見ている社長の姿があった。顔だけなのに、相変わらず凄まじい存在感。
「ナーカナーカ来ないのでーミーが直接レッツゴーしてしまうところで〜した! とにかく中へ入ってクダサーイ!」

『愛故に』と大きく掲げられた書が見える。
デスクに座った社長は、机の上で両手を握り合わせている。
そのデスクの前に私はカミュさんと立ち、ただ社長の黒いサングラスを見つめていた。
私が唾を飲み込んだ所で、社長が口を開いた。
「単刀直入に訊きマース……事務所に流れるYOU達のウワサ……lie or true?」
どうして英語、と思いながら口を開く。
「ただの噂です。事実じゃありません」
「なーるほどなーるへそー。Mr.カミュ、YOUも同じ答えデスか?」
「ああ。この様な小娘に興味などないわ」
カミュさんは物怖じ一つなく言い切る。
社長は顎に手を当てながら、低い声で唸る。やがて顎から手を離すと、口を開いた。
「ワカーーリマシターー今のYOU達から、LOVE LOVEな雰囲気は感じマシェーン。よってYOU達は白! 真っ白デース! BUT!!」
社長がそこで言葉を止めて、ダンッと立ち上がる。
「噂一つでもアイドルは命を落としまーす……根も葉も無いウワサといえど、YOU達にも責任はあーる……なーにーより、こんな噂が立っているのに何のお咎めもナシでーは、恋愛禁止を謳っているミーの示しがつきましぇーん!」
ビシッ! と社長が私達を指差す。
「よってばってんYOU達には、罰を受けてもらいマース!」
社長は何処から出したのか、縁日などで見かける吹き戻しのオモチャを咥えて、ピーと吹いた。頭の上からも笛が伸びて、『おめでとう!』という字が見える。
「納得がいかんな」
隣から声がした。
「事実、俺とこの娘の間には何も無いというのに、何故罰とやらを受けねばならん。罪を犯していない者を強引に祭り上げて罰を課すなどとは、組織のかしらの取る行いとは思えん横暴ぶりだな」
ハッキリと言い切るカミュさんの言葉に、社長の吹き戻しがプシュ、と不発になった。
「…………」
「…………」
吹き戻しを咥えたまま唸る社長と、眉間に濃く皺を刻んで社長を見据えるカミュさんと。
私は暫く続いたその無言の間をただ見守っていた。
「……問答は無用デーーース!! この事務所ではミーの言うことは絶対! 異論は許しましぇーん!! Mr.カミュ、これからもこの業界で生きて行きたいと思うなーら、ミーの言うことには従っておくのが賢い選択YO!! ではミーは用事があるので失礼シマーーース!」
社長はその長台詞を一呼吸で言い切ると、パリーンッ! と派手な音がして、窓ガラスの欠片がキラキラと散った。
上階の窓から飛び降りた社長を見送ると暫くの後、ドンッ! と激しい音がしたがいつもの事ではある。
「……カミュさん、社長に食い下がるなんて珍しいですね」
「黙れ。奴の罰ゲームで一度酷い目に遭った」
カミュさんは眉間に濃く濃く皺を刻んで、苦い顔をした。その後溜息をついて部屋を出て行った。
私も割れた窓ガラスを尻目に部屋を出る。
取り敢えず、クビにならずに済んで助かった。……罰って、減給だったらどうしよう。


週末、呼び出された場所は都内から少し離れた豪華な屋敷だった。
花々の両脇に咲いた道、噴水、階段、そうしてその先にあるのは西洋風の煉瓦造の屋敷。
あまりの広大な敷地に思わず口をあんぐり開けて見回していると、遠くから声が掛かった。
「おい小娘、此方こちらだ」
見ると私服のカミュさんが立っていて、私が返事をする前にさっさと背を向けて歩いて行ってしまう。
「あ、はい」と返事をして慌てて後を追った。
カミュさんの背中を追って辿り着いたのは、昼下がりの光が柔らかく照る、温室だった。
半透明な建物は外の空や穏やかに流れる雲、太陽を取り込む。あちらにこちらに並ぶ様々な種類の植物は、冬だと言うのに華々しく咲き誇っていた。
暖かい色の煉瓦で模様作られた地面。歩く度にコツコツと小気味の良い音を鳴らす。
温室の中心の、開けた場所に出ると、私は思わず声を上げた。
広々とした円のスペースには、丸テーブルと椅子が二つ、それがワンセットとされいくつか並んでいる。
そうしてその茶会の場をグルリと囲むのは、色取り取りの薔薇だった。
「薔薇の手入れをしろと言うのが早乙女のめいだ」
カミュさんがそう言って手紙を一つ差し出すので、私は近づいてそれを受け取った。
二つ折りにされた用紙には、
『何も面白いものが思いつかなかったので、そろそろ時期だし、薔薇の手入れを命じマス! 事務所の所有する、撮影地なのヨ! 業者に頼むと高いので(龍也サンがまた怒りマ〜ス)、YOU達に任せマース
早乙女み シャイニング早乙女』
と書かれていた。
「薔薇の手入れ……」
罰の内容を知り、まず一つ息をつく。
ここは撮影地なのか。通りで、夢みたいな場所だ。
私は頭上にもぶら下がる、小輪の薔薇とその葉を見上げた。蔓性のようで、針金で作られた受け皿から、降るように垂れ下がっている。
ガガ、と微かな音が響いた。見るとカミュさんが椅子を引いた時点だった。
カミュさんはそのまま椅子に腰掛け、長い脚を組んで、テーブルの上に置かれていた台本を開き始める。
「……カミュさん」
返事は返ってこない。
私は暫くその様子を眺めた。金色の髪が、太陽の日を淡く透いた。
「何だ」
不意に声が掛かり、私は意識を取り戻す。
「いやあの……薔薇の手入れって、素人にも出来るものですか?」
カミュさんは暫く台本に視線を落としていたが、不意に顔を上げて前方の薔薇を見た。
「知識があれば出来るものだろう。例えば、一枝単花咲きならばつぼみをかき取る必要がある。房咲きでも、成長にバラツキがあれば摘み取る必要がある」
カミュさんは言い終えると台本に視線を戻したが、私が口を開けてただ立っているのでまた視線を上げた。
そうして軽く眉間に皺を刻むと、「例えば、」と視線で一つ示した。
「そこに橙色の大きな薔薇があるだろう」
「あ、はい」
私はカミュさんの言う薔薇の元まで進む。オレンジ色の大輪の薔薇が、株から一輪だけ咲いていた。
「その薔薇は単花咲きの種類だ。一本の枝につき、一番良いつぼみを一つのみ残して、他は全て摘む必要がある」
「えっ、つぼみを摘むんですか?」
「ああ。そうせねば養分が足りずに、どれも中途半端な花しか咲かん」
薔薇の元からカミュさんを振り返れば、カミュさんはもう台本に視線を落としていた。今気がついたが、眼鏡をかけている。
「一番良いつぼみって……どうやって見分けるんですか?」
「一から十まで訊くつもりか。自分で調べろ」
カミュさんは顔を上げずに言う。私は仕方なくポケットから携帯を取り出して、検索をかける。
脇から伸びている蕾や、間延びしているものは良くない蕾らしい。
少し複雑な気もしながら蕾を摘み取る。
「それと、その花も落とした方がいい」
「え? 花もですか?」
思わず振り返ると、カミュさんは相変わらず台本を読んでいた。どこに目があるんだろう。
「見たところ1番花だ。浅めに剪定すれば、一ヶ月後にまた花が見られる」
「へえ……でもなんか……可哀想な気も」
「薔薇はハサミを入れてこそ美しく咲くのだ。手入れなしにあれ程麗しく咲いたりせん」
私は目の前の薔薇に体を戻した。
薔薇は華やかな花々の中でも、圧倒的な存在感で目を奪う。それは、それだけの愛と手塩を一身に与えられたからなのか。

パチン、と音が響く。
花に首からハサミを入れる。
農具庫から探してきたハサミやら何やらを足元に置いて、パチン、パチン、と音を立てていた。
剪定に慣れ始めたところで、パチンという音に、パタン、と紙の音が混ざった。
振り返ると、カミュさんが台本を閉じて、別の台本と挿げ替えている時点だった。
声を掛けようかかけまいか一度考えて、結局口を開く。
「……もう覚えたんですか?」
カミュさんはこちらを一瞥もしない。
「これ程の文章ならば、一度読めば覚えられる」
「一度で?」
驚いて口にするが、カミュさんは特に誇らしげな顔もせず、また新たな台本に目を通し始める。
私もまたハサミを入れるべき枝を探した。
「じゃあ、天職ですね」
何げなく口にしてから、あの晩の気温を思い出した。
「馬鹿らしいな。この仕事は女王陛下の命でやっているだけのことだ」
パチン、と一番花を切り落とせば、花を押さえていなかったせいで、傾いて落下した。
「…………」
またパチンと一つ音が鳴った。ペラリと離れた所でも音が鳴る。
目の前の綺麗な形の薔薇を見つめた。同心円に、花弁を重ね、目を奪う程の鮮やかな色で、堂々と一輪咲く。
カミュさんの見る『女王陛下』は、きっとこの薔薇のようにまばゆく。
『貴様も同じであろう?』
立ち止まって考えてみた事も無かった。
けれどあの晩、あの氷のように冷たい先輩の声を聞いて、抱いた感情が確かにあった。
怒りのような、寂しさのような、その感情。
けれど、私も同じことを。
パチ、パチン、と響き続ける。暫くの間、音だけが響いていた。
どれ程経っただろうか。ふ、と視界が翳った。
私は手元から顔を上げた。
「アイスバーグか。懐かしいな」
隣にカミュさんが立っていた。伸ばした手は、指先でそっと小輪の白薔薇を持ち上げた。
高い所にあるその横顔には、見たことのない優しい微笑が携えられていた。
振り返るとカミュさんの座っていた席には、台本が積んで置いてあった。読んだものを片脇に避けていたから、全て読み終わったのだと見られる。
「…………薔薇に、何か思い入れがおありですか」
私はカミュさんの指先を見ていた。その肌のように真っ白な薔薇。
「この薔薇は、陛下が特に好まれていた種だ。我が国ではオアシスのような暖かな温室に、氷の名の付いた薔薇が咲く。一興だとな」
カミュさんは柔らかく息を漏らして、ゆっくりとその薔薇から手を引いた。
「……薔薇にも名前があるんですね」
私は視線を手元に戻して口にした。
「当たり前だ。品種ごとに名がある。それは『ピース』という名だ。アイスバーグと並んで、殿堂入りを果たした種だな」
「へえ、そうなんですか。この薔薇は?」
「『ブルームーン』だ」
「へえ、それはまたロマンチックな」
私はハサミの手を止めて薔薇を見渡す。
「あれは?」
「それは知らんな。祖国には無い品種かもしれん」
カミュさんの声を聞きながら、私は一つの薔薇に目を留める。
「あの薔薇……凄く綺麗」
少し離れたここからでも目を引くほど、大輪の、真っ白な薔薇だった。
近づくと、その花弁の独特の文様が知れる。
ヒラヒラとまるでレースのように細かな波線が花弁を縁取る。それが幾重にも幾重にも重なり、重厚で、堂々たる咲き方だった。
しかし、その純白は、ぼんやりと儚い光を返す。
「これも……見たことの無い品種だな」
カミュさんが隣から薔薇を覗き込み呟いた。
「何て名前なんだろう……」
「名付けてみれば良い」
隣のカミュさんを見上げる。
「早乙女の管理する庭だ。もしかすると、そもそも名が無い新種かもしれんぞ」
それは確かに、社長ならば不思議では無いが。
「名前……」
薔薇を見つめて思考を回す。
「カミュさんなら、何て名付けますか」
私が訊くと、カミュさんは顎に手を当てて一考し始めたので、機嫌が良いのかもしれない。そういえば先程から、良く会話が続く。
……『陛下』の話をしてからだ。
「え? 何ですか?」
私は耳に届いた聞き慣れない発音に、声を上げた。
「貴様には分からんな。祖国の言葉だ」
カミュさんは微笑を浮かべて口にしていた。
「日本語ではなんて……」
「そうだな……翻訳するのは少々難しい所がある。そもそも我が国独特の概念であるからな……」
カミュさんは考え込んだ様に呟いた。
数秒考え込んだが、答えが出なかったのか顔を上げる。
「それで、貴様は何と名付ける」
「うーん……そうですね」
大輪の白い薔薇。
唸りながら、私はその薔薇をぼうっと眺めた。日本語に訳せない言葉か。なんだか、隣のこの距離が遠く。
「……『牡丹雪』、とか」
「薔薇に牡丹か、ナンセンスだな」
「あっ、本当だ……」
確かに違う花の名前を付けるって。そもそも牡丹雪が牡丹を象ったものであるのに、またそれを象ったものと見て名付けて……訳が分からないな。
唐突に、笑い声がした。
「しかし、『牡丹雪』か。気が合うな」
見上げたカミュさんの顔は、緩んだ様にふっと笑った。
それから視線はその白い薔薇に向いたが、私は暫くその笑みのあった場所を見つめて固まっていた。
「……? 何だ」
こちらを向いたカミュさんの顔は、もう訝しげに眉間に皺を刻んでいた。
「いえ…………」
私は呟いて視線を外した。その大輪の白い薔薇を見つめた。
ちらりと隣を窺って見ると、隣の横顔も同じ薔薇を見ている。掛けた眼鏡に色取り取りの庭の景色が反射して、綺麗に色を出していた。
「……眼鏡、掛けられるんですね」
「何だ、今気が付いたのか?」
カミュさんは唐突な話題に、訝しげに眉をひそめた。
「いえその……お似合いですね」
はは、と笑みを浮かべて言ってみれば、カミュさんは一つ眉間の皺を濃くして私を見つめたが、暫くすると諦めたのかそれを解いた。
「可笑しな女だな」
カミュさんはそれだけ呟くと、薔薇の元を離れ、また元居たテーブルへと歩いて行った。
午後の柔らかな光で満ちた温室を眺めながら、私は不意にカミュさんの歌のメロディを、一節思い出した。
なんだ、この人は、『陛下』以外の事でも、あんなに柔らかく笑えるじゃないか。
私はふと肩の力を抜いた。
大輪の純白の薔薇に向かって微笑んでみれば、風のない温室で、花は答えるように揺れた気がした。



師走はその名の通り、数える暇もなく過ぎて行く。
年末特番、クリスマスイベント、事務所もてんやわんやの忙しなさだった。
12月31日。嵐が無事過ぎ去った事務所は静かだった。私の足音だけが、廊下にパタパタ響く。
「わっ、すみませんっ」
曲がり角で誰かにぶつかり、慌てて顔を上げた。
「……誰かと思えば貴様か。止まれんなら走るな」
「カミュさん!」
目の前にはロングコートを羽織ったカミュさんが立っていた。
「すみません、急いでいたもので」
私は肩から滑り落ちてきたマフラーを後ろへ戻して答える。
「年越しに何を焦る事がある。今年の仕事はもう全て終えたのだろう」
大晦日の夜。この時ばかりは、いつも忙しない事務所も眠るように静かだ。
流石に今夜、夜通し仕事をする無粋な人間も多くはないだろう。
「何か用でもあるというのか」
「いや何でも……」
私は天井に目線をやる。誤魔化すこともないか、カミュさんは全て知っている。
「……実は、今日明日、弟が一時退院で家に帰ってくるんです」
カミュさんは私を見る。
「ほう、それは良かったな」
「はい! だから日付が変わる前に帰りたくて。せっかく一緒に年越しを迎えられるんですからね。蕎麦も食べないといけないし」
私が顔を緩ませ話すと、カミュさんは少し眉間に皺を刻んでいた。
「煩い女だな。機嫌が良いのが誰が見てもわかる。仮にもアイドルなのだから、もう少しポーカーフェイスを身につけろ」
私は声を立てて少し笑った。カミュさんの小言も、今は楽しく思える。
カミュさんはそんな私を見ると、眉間に皺を刻んで、最後には溜息じみたものを吐いた。
「あっ、カミュさん」
私は不意に視野の端に映った物に声を上げる。
「見てください、『牡丹雪』!」
窓の外には、ふわりふわりと大きな雪の集まりが、天から地へ、ゆっくりと流れていた。
世界の流れごとゆっくりと止めてしまうような、真っ白な雪。
コツ、と靴音がして、手をついていた窓にカミュさんの姿が映り込む。
「この国の雪は、相変わらず生温い」
「あはは、カミュさんの祖国は、一年中雪が降るんでしたっけ」
一つの窓枠の中に、私の姿とカミュさんの姿が収まっている。
「ああ。雪など珍しくも何ともない」
カミュさんは降る雪をただ眺める。
私は窓を介すのはやめて、直接隣へ顔を向けた。
「でも、牡丹雪ですよ」
私が目を細めて笑えば、カミュさんの視線は私をチラリと一瞥だけした。
私は窓に視線を戻して、白く降りしきる雪を眺めた。
「このまま行くと、明日は積もりますかね」
窓に額を近づけて階下を覗き込む。もう薄っすらと白く染まり始めている。夜中に降るから余計に。明日朝起きれば、一面銀世界かもしれない。
「『Ubder the rose』、という言葉を知っているか」
不意に聞こえた声に、隣を見上げる。
息が合って丁度、横顔だったカミュさんの視線が私に向いた。
「……薔薇の、下……? どういう意味ですか?」
カミュさんの視線は窓に戻る。空から降る、結晶が付着しあった大きな雪片を、最後消える時まで追った。
その氷の色の瞳だ。
「知らぬならいい」
カミュさんはそれだけ呟くと、一度目を閉じてコツ、と靴音を鳴らした。長い髪が翻る。
「えっ、カミュさん」
「貴様も、そろそろ行かねば蕎麦を食べ損ねるのではないのか」
言われて腕の時計を見れば、積んだ365日のカウントが0になるまで30分と無い。
「あっ、本当だ、行かなきゃ。カミュさん!」
私はすでに数歩行ってしまったカミュさんの背中を呼び止めた。
「よいお年を!」
笑ってそう叫んだ。
「……ああ。お前もな」
カミュさんの返事が届いたので、私はまた少し頬を緩めて背を向けた。
またパタパタと静かな廊下に足音が響く。
明日はきっと、新しい真っ白な世界。雪合戦でもしようか。


新年初仕事は、新曲の打ち合わせだった。
「それじゃあ音源はこんな感じで」
再来月に発表になる。その頃には、少しは寒さも和らいでいるだろうか。
「あ、そうだ名前ちゃん、今の段階でタイトルとか決まってたりする? 方向性だけでも何となく知っておきたくてさ」
作曲家の言葉に、私は譜面から顔を上げる。
「歌詞も今から考える所なので……うーん……」
私は五線譜に腰掛ける音符の並びを眺めながら、頭を捻る。ぼんやり口を開いた。
「牡丹雪……」
「おお、いいねそれ!曲とも合うよ」
顔を上げると作曲家が笑顔で楽譜に書き留めている。
私は少し考えた。口を開く。
「じゃあ、牡丹雪で」


打ち合わせの後、事務所の廊下を歩いていた。
「ええ。やはりお嬢様方に喜んで頂きたいので」
ふと声が聞こえて、私は扉の前で立ち止まる。
会議室の一室。扉がきちんと閉まっておらず、数センチ空いていた。
「では次にこのタイトルですが、カミュさんの母国語だと伺ったのですが」
カミュさん。取材か何かだろうか。開けっ放しじゃまずいんじゃ。そう思いながらも、閉めるわけにもいかず、私は扉の前でどうしようかと頭を悩ませた。
「――、ですね」
何処かで聴き覚えのある発音が届いた。私は思わず聞き耳を立てる。
「私の祖国の言葉です。毎回、お嬢様方には新しい私と言うものをお見せしたいと考えているのですが、その一環で、私の生まれ育った国について、少しでも共有出来たらと思ったのです」
「確かに、カミュさんの魅力をもっと知るために、長い年月を過ごしたお国の話は外せませんね」
「ええ、私もそう思います」
「このタイトル、英語にも無い言葉ですが、翻訳するとどういった意味なんですか?」
「そうですね、翻訳するのは中々難しいきらいがあります。我が祖国独特の概念が根本にありますから……」
私は目を開いて、思わず息を潜めた。
「ですから、そうですね。イメージでお伝えしましょう。このタイトルは、ある薔薇を見た時に思いついた言葉なのです」
「薔薇?」
「ええ。純白で、大輪の薔薇です。色取り取りに咲く派手な花の中でも、見劣り一つしない純潔を持つ。それでいて崩れそうに儚い」
ヒラヒラとした豪華な花弁、幾重もの大輪。
雪のような、白。
「何してるの?」
「わっ」
突然声を掛けられ、私は思わず肩を跳ねさせた。
「美風さん……」
振り向くと眉を寄せた先輩が立っていた。美風さんはドアの隙間をチラリと見た。
「ああ、カミュが取材をしているから気になったんだね。でも盗み聞きなんてどうかと思うよ。恋人だと、そんな所まで気になるの?」
「恋人? ああ、違います……そんなんじゃ……」
「そう? 何でもいいけど。見つかる前にやめときなよね」
美風さんはそう言うと、スタスタ歩いて行ってしまった。
私もドアの隙間に数秒視線だけ置いて、歩き出した。
「…………かぶって」
カミュさんが社長の温室での薔薇の事を言っているのだとしたら、タイトルがぴったり重なってしまっている。変えた方がいいだろうか、まだ変更は効くけれど……。
「…………」
白い薔薇。穏やかに降る雪。
私はポケットの中で掴んだ携帯から、手を離した。
けれど、私達以外は誰も重なっている事に気付きはしない。
廊下を歩けば、コンコンと音が響いた。
それは何だか秘密みたいで、どこか心強い気持ちを生んだ。


「あれー? 名前先輩だー」
レッスン室に入るところで、誰かに呼び止められた。
「音也、愛島さん」
振り向くとレッスン着を着た二人が立っていた。音也がいつもの人懐っこい笑顔で口を開く。
「偶然! 今から練習?」
「うん。ライブが近いから振付けの最終確認を」
腕時計で時間を確認してみると、振付けの先生との指定時間には、まだ少しばかりある。
「そうです! ワタシ貴女に聞きたいことがあったのです!」
えっ? と声を上げる前に、愛島さんにバッと腕を掴まれる。
「わ、え……何でしょうか」
珍しい翡翠色の瞳にじっと見つめられると、吸い込まれそうな不思議な感覚が降りてくる。
「カミュに脅されているのですか!?」
大きく響いた声に、私は「え?」と声を上げる。
「セシル、何言ってるの?」
音也が不思議そうな顔で首を傾げる。
「貴女はカミュと恋人だと聞きました。そんな筈ありません! 貴女のような人がカミュと! 何をされたのですか!?」
愛島さんは大真面目な顔でそう言って、じっと私の目を覗き込むように顔を近づけてくる。
「あ、そうだ、カミュ先輩と付き合ってるんだよね。おめでとうー!」
音也は笑顔でそんな事を言う。
「いやっ、違う、付き合ってないです! 噂だよただの……」
そう言って弁解すると、愛島さんは瞳をぱちくりさせた。パッと手を離す。
「やはり! 勘違いだったのですね! 貴女とカミュが恋人のはずがありません!」
「カミュ先輩ってそんなに? 確かにちょっと怖いけど」
「オトヤ! 貴方はカミュの本性を知らないのです!」
うーんと悩み始める音也と、アレもコレもと例を並べ始める愛島さんと、私は2人を瞬きを繰り返しながら見ていた。何だか賑やかな2人だ。
「そういやカミュ先輩って言えばさ」
ふと音也が口を開く。
「今日の収録来てなかったんだよね。楽しみにしてたんだけどなー」
「……何かあったの?」
私が訊くと、音也はうーんと顎に手を当てる。
「それがさ、スタッフも詳しくは聞いてないみたいで。風邪かな?」
「カミュが風邪を? アンビリーバブル! まさかあり得ません」
愛島さんがキッパリと言い切る。確かに、体調管理を怠る様な下手を踏む人ではないし、寒さにやられるとはもっと考え難い。
「名前先輩何か聞いてない?」
「いや私は何も……カミュさんの何でもないし」
呟いて顎に手を当てる。なんだろう、仕事を休むなんて、何かよっぽどのことがあったのだろうか。
「カミュに何か……国のことくらいしか思い付きません」
私は目を見開く。
「国?」
音也が首を傾げて訊き返す。
「はい。カミュはもしかしたら国へ戻るのかもしれない。シルクパレスの情勢は安定していますが、それはあくまでアグナへ、外部の国へ伝えている情報に過ぎない」
「情勢? 外部?」と音也はハテナを浮かべる。私は呟くように口にした。
「国へ……カミュさんは国へ戻ってしまわれるんですか」
「わかりません。しかし、カミュがこの地へ居るのも、元々国の為。任務を果たせば、帰ってしまうでしょう。カミュの歌には愛がないのでわかります」
『私は陛下の命あってこの地へ留まっているだけの事。早乙女を諜報するが為に、アイドルをこなしているだけの事』
首を捻っていた音也が口を開く。
「任務って?」
「サオトメの情報を国へ伝えることです」
「おっさんの? 何で? 流石にうそでしょ」
「ノン! 事実です」
音也は「えー?」と笑って言う。
「だって小さくても国でしょ? 何でおっさん1人の情報を国が欲しがるの?」
「うーん……」と音也は首を捻る。
「セシルはアグナパレスの王子だからかもしれないけど、俺はちょっと信じられないかなぁ。流石におっさん何者?って。そう思わない? 名前先ぱ……」
音也が目を丸くして言葉を止める。
「え? ひょっとして信じてるの?」
私は地面を見つめて考え込んでいた。


「はぁ……ったく面倒くせぇ」
楽屋のドアを開けるとそんな声が聞こえた。
おはようございます、と挨拶をする。
「あれ、名前ちゃんどっしたの?」
寿さんが声を掛けてくれる。楽屋の中を見ると、手前に黒崎さんが、奥の席に寿さんが、座っているだけだった。
私は後ろ手に扉を閉めながら口を開く。
「すみません、お邪魔して……あの、ユニットでお仕事だと伺って、カミュさんはまだいらっしゃいませんか?」
寿さんが一瞬「うーん」と唸って、それから口を開く。
「ミューちゃんに急ぎの用事?」
「いえ急ぎでは……偶々同じ局に居たので、伺ってみただけなんですが」
「アイツなら来ねえよ。この番組も降板だ」
黒崎さんが珍しく書類にペンを入れながら呟いた。
「この番組『も』……?」
思わず繰り返すと、黒崎さんが「は?」とこちらを振り向いた。
私は眉を歪めて口を開く。
「どういう……」
まさか。
「はあ? 何でてめぇが知らねえんだ。あの野郎、自分の女にも一言も無しで……」
黒崎さんは独り言のように呟くと、一つ舌打ちを打った。
「カミュさん、もしかして」
「知らねえよ。アイツが話してねぇならそういう事だろ。おれが話す事はねぇよ」
黒崎さんはそれだけ言うと、また書類との睨み合いに戻ってしまった。
「うーん、ぼくはいっそ名前ちゃんもついて行っちゃったりするのかな〜って思ってたけど、ミューちゃん1人で帰っちゃうんだ」
『帰る』。
「オイ嶺二、何でもかんでも首突っ込むんじゃねぇよ」
「えー? ぼく何か言った?」
バンッと挨拶も忘れて楽屋を飛び出せば、危うくスタッフとぶつかりそうになった。
『貴様も同じであろう?』


最初に出迎えたのは、白い毛並みの犬だった。鳴き声が聞こえ、その後ガチャリとドアノブが回る。
「……貴様か。自宅まで何の用だ」
曇り空の中、それを覆い隠すほど鬱蒼と伸びた森の中、あの夜の屋敷が建っていた。
カミュさんは部屋の中だからか、普段より軽装で、眼鏡をかけている。
「何も言わんなら閉めるぞ」
「どうして……」
言いかけた所で足元に毛玉の感触がした。
思わず下を見ると、白い大きなその犬が私の足元をすり抜けて扉から外へ出て行ってしまう。
そうして外へ出たところでこちらを向いてお座りをし、ワンッ、と一つ鳴いた。
「……散歩がまだだったな。仕方がない」
カミュさんはそう呟くと、一度扉を閉めた。
パタンとしまった扉に向かって、ワンッと犬が嬉しそうに吠えた。

首輪から伸びた手綱を握って、コートを着たカミュさんが森の中を歩く。
白い毛並みの大きなその犬は、カミュさんがそう呼んだのでアレキサンダーと言うらしい。アレキサンダーは、尻尾を振って嬉しそうに歩いている。
「それで、用は何だ。散歩のついでとはいえ、こうして時間を割いてやっているのだから、つまらん用なら許さんぞ」
私はカミュさんの隣で足を動かしながら、口を開いた。
「事務所のスケジュール、今月以降すべて空でしたが……」
「それはそうだろう。じきに国へ帰るのだからな」
カミュさんの横顔は涼しい顔で言い切る。
ガサ、と枯れ葉を鳴らして私の足は止まる。
アレキサンダーがこちらを振り向いたのでカミュさんも足を止めたのか、その逆なのか、わからない。
「……どうして、ですか」
呟いた声は微かに震えた。マフラーを巻いた口元から、白い息が上る。
カミュさんが、その氷を透いたような目で私を見る。
「予想はついているのだろう。貴様が思っている通りの理由だ」
「『陛下』の為に……?」
「ああ」
カミュさんは即答する。
「つまらん用だな。終わったのなら帰るがいい」
「すべてが『陛下』の為ですか」
背けかけたカミュさんの背中が止まる。振り向いて再び私を見据える。
「何度もそう言っている」
「本当に……カミュさんにとってアイドルは、本当にそれだけですか」
カミュさんの足元を見て話したせいで、アレキサンダーの黒い瞳と目が合った。首を傾げたその球体に自分の姿が反射するようで。
「貴様とて、」
顔を上げると、カミュさんも視線を上げた所だった。目が合う。
「貴様とて……岐路に立てば選ぶ筈だ。弟の難病の治療費、貴様はその為にアイドルを始め、その為にこれまでを過ごしてきたのだろう」
『ありきたりって言えばそうだな〜アイドルに憧れて、アイドルになりたいって思ったし』
そんなありきたりは私には無い。
「岐路に立たずに済んでいる、己の運の良さに喜んでいればよい。貴様に俺を咎める権利は無い。帰国を止める権利などもっと無いだろう」
『不純に動機を持っているのは同じだ』
誰かを、皆んなを笑顔にしたい。そんな愛念もない。天辺に輝く。向上心もない。
全て金の為に始めた稼業だ。間違いはなくて。
視線が合っている。カミュさんのその瞳は、冷たい薄氷の色に光るのだ。
この怒り、寂しさ、けれど私とて。
カサ、と枯れ葉を踏む音がした。
「それとも何だ。何か他の主張で俺を止めてみるか?」
顔を上げれば、すぐ近くにカミュさんの胸元があった。
ス、とその美しい指先が舞う。
私の頬に触れた。冷たい体温が、私の頬を撫でるように滑る。
耳元に、吐息が近づいた。
「俺が好きだと言ってみるか?」
低い声が、囁くように鼓膜に伝える。
「好きだ、だから、遠くへ行って欲しくないのだと。愛で、俺を絆してみれば良い」
その美しく白い手が眼鏡のつるを取る。
顔が近づいた。
トン、と軽く胸を押して、下を向いた。
カミュさんは何も言わずに、一つ鼻を鳴らしただけだった。
カサ、と枯れ葉の音がして、押さえていたはずの胸が離れる。
「……帰国は13日だ。それまではまた顔を合わすことになるだろう」
「行くぞアレキサンダー」とカミュさんは一つ声をかけて、背を向けた。アレキサンダーは少しだけ私を見やって、それからすぐに主人と足並みを揃えた。
カサ、と枯れ葉に微かな音がする。
溢れた雫が、乾いた葉脈へ染み込んでいった。

next→2/2
prev next
back top
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -