stain(寿嶺二&黒崎蘭丸) 2/3
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貨物車の荷台の中、厚い布の隙間から一筋陽が落ちていた。
この布の外は、朝と見える。
人々の騒めきが聞こえる。どうやらどこか、町中のようだった。
荷台の中はシンとしていた。
トッドが腕を組んで壁に背を預け、瞼を閉じている。
不意に、トッドの腹辺りへ落ちていた細い陽が、大きくなる。
トッドが眼を開けた。
布の隙間から指先が見えている。その手は暖簾のように微かに布をめくっている。
トッドが何事か呟いた。その手がそれに答える。
すると、トッドは一つ笑って、布の割れ目に手をやり、大きく広げた。
「お久しぶりですねぇ、いやあいい天気で」
トッドが布の向こうと会話をする。
「旦那様はいらっしゃっていないのですか」
「ええ、迎える準備をなさるそうです」
「ははっ、確かにそれがいい。ちなみにどういった事を?」
トッドが話をしたままこちらへ体を向ける。ポケットから取り出した鍵が、チャリ、と音を立てた。
「一つは、防腐処理を施せる死体処理師を呼んだとか」
後ろから聞こえる声に、トッドは笑みを浮かべて私と目を合わせた。
ガチャン、と錠前が外れる。
檻が開いて、トッドの腕が私の手首を掴んだ。
「どうです? 御覧になりますか」
トッドが布の向こうへ口を開く。見えていた手が、布を押し上げて、上等な身なりをした男の顔が見えた。
「ほうこれは……正直旦那様からお代を渡された時には、正気かと疑ったものですが、これならば確かにそれ程の価値がある」
「ははっ、そうでしょう」
トッドは機嫌よく口元を引き上げて、私の腕を引っ張りその男の前へ出した。目の前で男が私を見下ろしている。
男の後ろに見える景色は眩しかった。
パサ、と肩に感触がして、見ると黒い外套がかかっている。
トッドは私に外套をかけると、後ろから手を回して、首元で紐を結んだ。頭巾も頭に被せて、顔を軽く隠した。
「では書類にサインだけ頂きましょうか」
トッドは丁寧に折り畳まれた紙を二枚、懐から取り出すと、ペンと一緒に男へ差し出す。
男はそれを受け取る。そしてふと不思議そうに私を眺める。
「枷がどこにも付いていないように見えますが……」
「ええ、必要ないのでね」
トッドは言いながら、小さなインク壺の蓋を回す。
「旦那様に傷一つなく、と御注文を賜っているものですから、枷をつけてしまって、傷になれば大変です。ご安心下さい、その辺は、しっかり躾けをしているんでね」
トッドの眼がこちらへ向いて、すっと細められた。
向いた私の視線を嘲笑うかのように、トッドは視線を外すと、インク壺を男に向かって差し出す。
「成る程、さすが評判の良い人売りは違う」
「ははっ。それはどうも」
男のペン先が、トッドの差し出すインク壺に浸され、紙に移る。
流れるように二枚ともサインがなされ、片方がトッドの元へ返される。
トッドがそれを受け取ると、男はもう一人、ずっと居たのか後ろの従者のような男から麻袋を受け取った。それをトッドへ渡す。
受け取ったトッドが荷台の床へ置くと、ドン、と軽く音がした。「少々お待ちを」と言って、中身を開くと数を数え始める。
紙の帯で束ねられた札束を、パラララと捲る音が鳴っている。
それを数十回繰り返した後に、トッドは視線を上げた。
「確かに」
短くそれだけ言った。
背中に手が触れる。直ぐそばにトッドの顔があった。
強く押されて、体が傾く。
飛び出した私の身体は、貨物車の外の男に受け止められる。
心臓の血管が収縮した。
「旦那様にも、よろしくお伝えください」
薄暗い布の中で、トッドは細い目をさらに細めて笑った。
「ええ、分かりました。では」
男はそう言うと、従者に目で指示を出す。すると控えていた従者が私の腕を掴んだ。
が、グイッと後ろから引かれた。
紐で止められた首元が閉まって、外套に伝わる力に体が傾く。
ドンっと、気づけば目の前に揺れている深緑の布がある。
再び薄暗い貨物庫の中に舞い戻っていた。
「トッ…………」
口を開いた瞬間、肩に腕が回る。
グッと傾いた身体はトッドへ抱き寄せられて。
『主人に会ったら自分から服を脱げ』
耳元で低い声が囁いた。
目を見開いて、それからバッと体を押し返す。
だが、その動きを読まれたように、グッとまた近く引き寄せられる。
「少し受け身なお方でねえ……眺めるのがお好きなんだと」
呼吸が荒くなっていて、トッドはそれを嘲るように耳元に口を近づける。
私は、これから。
「おい、何をしている」
声がして、飛び込んできた陽の明るさに顔を歪める。男が布をめくって鋭い表情を向けていた。
「いやあ、これ程上物だと、少しばかり別れが惜しく思えてきましてね」
トッドが胡散臭い笑みを浮かべて答える。
男は疑うような視線をトッドへ向けたが、特に追求もせずに、爪先の向きを変えた。
従者が私の腕を掴んで立たせる。
「忘れるな」
後ろで声がした。
「この金がグレアムの命になる」
愉快そうに引き上げた獣の口元を最後に、布は閉じて微かに揺れる。
振り向いたままの私を、従者が引っ張って無理矢理歩かせていった。


「これで0割8分、取り戻したようなものですね」
麻袋の中の札束をもう一度数え直しながら呟く。
あの少女は間違いなく言った通りにするだろう。そしてあの主人は今までで一番羽振りがいい。数日と待たずに、失った0割8分程度の金がこの懐に入っている筈だ。
「ほんっとにすげぇな、あのガキがそんな大金になぁ」
前の座席部分へ繋がる小窓が開いている。
「俺は弱っちぃガキなんて食ったところで、何の腹の足しにもならねぇけど」
「バーナード、午後にはまた仕事です。金を新しく貸し付けましょう。確かこの前“相談”に来た男が居ましたからね」
「その前にまずなんか食おうぜ? 夜通し運転させといて、可愛い〜仲間に労いもねぇのか?」
バーナードはふざけたように口にして、こちらの言葉を聞く前にさっさと車を降りる。
「おっ、美味そうなもんが並んでるな〜朝市か。たまには人間みたく、優雅に食ってみるのもいいかもなあ」
こちらも荷台を降りて、外に出る。確かにバーナードの言う通り、朝の街中は市場で賑わいを見せて居た。
「つってもトッドはいつも人間みてぇな食事してるよなあ。腹減らねぇの?」
「人間相手に商売するなら、人間の食事が出来て損はありませんからね。まあ、確かにせっかくこんな所まで来たんです。何か食べて帰りましょうか」
「金はたんまりある事だし?」
バーナードに、口角を上げて返す。
爆発音がした。
ドンッ!! と破裂音のような響きだ。
「ああ? なんだぁ? 向こうの方だな」
バーナードが目元に手をかざして、音のした方角へ目を細める。
暫くすると黒煙が立ち上り、人々の騒めきがさざ波のように段々と押し寄せてくる。
「爆発だ! 広場から水を!」
「火事か!? こっちまで来るのか!?」
人々が騒がしく言い触れて回る。早々に市場のテントを畳み始める商人もいた。
「『爆発』……? てか、あの方向、さっきのガキが連れられて行った方向じゃ……」
バーナードが隣で言った言葉に、目を細める。
「オイ、いいのかトッド」
「確かあの御主人、ギルドの恨みを買ったという噂がありましたねぇ」
「はあ? じゃあビンゴじゃねぇの?」
バーナードが顔を歪めて問うのを横目に、懐に閉まった書類を取り出す。
欄にサインが見える。
「この控えと、あの金があります。商品をあちらの手の中へやった時点で、もう私達は無関係。法で裁いたって、潔白でしょうよ」
そう言って書面を折りたたんで懐に仕舞い、車に乗り込む。
「『法で裁いたって』って……人売りは罪じゃねぇのかな」
バーナードが呆れたように言った。



言われた通りに、顔を下げて歩いた。
黒い頭巾が視界を遮断する。前を歩く従者の靴、パラパラとすれ違う人の足、衣服の裾、馬の蹄。
レンガタイルの地面は、朝日の光を受けて眩しく輝いていた。
花が、目の前に揺れている気がした。
リコリスのあの赤い花。催眠をかけるためにコインを目の前で揺らされているような、間隔で、ゆらゆらと。
不意に前を歩く足が止まった。
「乗れ」
車輪の大きな車があった。
先に乗り込んだ男に腕を掴まれ、引き上げられる。席に着くと隣へ従者が乗り込んだ。扉が閉まる。
「出せ」
前に座っていた運転手に向かって、男が言う。
運転手が黙って車を動かした。
確かに、焦げた匂いはしていた。
刹那。
耳をつんざくような音。
大きな痛みが右半身に走って、気がついた時には地面に転がっていた。
「かはっ……おいどうなって……」
男が体を起こして呟いた。
離れたところで悲鳴が上がって、見ると、大きな車輪が何故か市場のテントの傍にあって、何か物体が一つ、その車輪の下敷きになっていた。
指先が、見えた。
「あああああっ!!」
地響きのような低い叫び声がして、見ると真っ赤に燃え上がっていた。
さっき隣に座った、従者の体が。
火達磨になったその男は、暴れまわって、駆け回り、助けてくれと叫んだが、人は皆周りから散っていくばかりだった。
私は地べたに座り込んでいた。
パサ、と髪が一房地面に落ちた。
金色の髪。こんな現象は見た事がなくて、思わず固まって呆然とした。何が起きているのか、理解が遅れた。
落ちた一房の髪が、地面の上で、チリチリと赤く焼けていく。
「…………!」
バッと右肩を見た。
黒い外套は既に燃え終わっていた。
シャツが焼けて、皮膚が。
「っ! はっ、あっ!」
慌てて外套を脱いで、それで右腕の炎を必死に擦った。
布に擦れて、焼けた肌がこびり付く。
やがて炎は消えた。
浅い呼吸を繰り返した。
目の前で車が燃え上がっている。
声が、する。
『助けて……助けっ』
白く輝く金髪が血に染まり、心臓から滴る血液の量に比例して、青紫の瞳は色を失い始めて。
仕方がない、バラしてしまえ。
髪と、瞳だけでも、残さなければ。
妹が、自分とそっくりの姿をした妹が。生き写しが、私の可愛い妹が。
唯一の家族が。
私が蹲っている間にバラバラにされてしまった。背を向け蹲って耳を塞いでいる間に。
「オイ、君、」
心臓が、血液を止めた心地がした。
蘇る。見ていないのに再生される。ナイフの音、血の流れる音、柔らかい、音。
「おい君……どこへ!」
肩に置かれた手がフラリと滑り落ちて、立ち上がった地面は柔らかく歪んだ気がした。
逃げて、逃げなきゃ、逃げなければ、
私も、ああ、なって。
幸い足は動いて、ただどこかもわからず走った。
走って、駆けて、たまに人にぶつかると、悲鳴が上がる。私には激痛が走った。
逃げなければ、どこへ!
逃げなければ! どこへ。
無条件で愛されるものだと思っていたよ。
血を分けた肉親なら、姉妹きょうだいなら。
けれど私はあの日、身を以て知ったのだ。
そんな物は、はなから存在しないのだと。
腕を掴んだ。
その力が強すぎて、掴んだ体はつんのめるように傾いた。だが、すぐに元に戻る。
その体が振り返る。
それは細くした目で私を見下ろした。
「助けて! 助けて、ください…………」
しがみつくように両手で腕を握った。足の力が抜けてズルズルと体が崩れた。
腕に額を付けて、本当にしがみつくような姿だった。
「おいトッド、ソイツ……!」
運転席に乗り込んでいた男が、驚いたように声を上げる。
「…………」
しがみついた腕からは、何も聞こえてこなかった。強く握りしめたら、衣服に大きな皺が寄った。
ガッ、と首を掴まれた。
大きな片手が私の顔を上げさせる。喉が閉まって、呻き声さえも出ない。
「…………」
その細い目で、観察するように眺める。
やがて、パッと手を離すと、二の腕を掴まれた。
「バーナード、様子を見て来い」
「はあ!? 正気かよ」
バーナードと呼ばれた男の声に、横目も向かず、トッドは私をズルズル引っ張って後ろの荷台に回る。
グッと強い力で引っ張られ、投げ入れるように布の中へ乗せられた。
ガンッ! と派手な音が鳴り、私が荷台の奥に背中を打ち付けると同時に、「人使いの荒いキツネだぜ」、と外で文句が吐き出された。
コツ、と視界の上端に靴先が映る。
トッドは膝を折ってしゃがんだ。
そうして荒く手が伸びてくる。
ビリッ、ビリ、と音が響き、着ていた衣服が焼け目から破れ、肌色が露わになる。
目を見開いて、荒い呼吸を繰り返す私に御構い無しで、トッドは私の着ていた物を、塵一つ残さず全て脱がした。
激しい呼吸に、自分の裸の胸が大きく上下する。
手が伸びてくる。
私の腕を掴んで、引き上げた。そうかと思うと、片脚を掴んで自分の方へ引き寄せたりした。
トッドはその細い目で、私の身体を隅から隅まで眺めて回った。
その大きな手が伸びて、最後に私の顔を掴んだ。
トッドの眼の水晶体は、薄暗い中で光って。
「……身体の半分が焼けて、頬にも火傷、髪も熱で変色している」
トッドの見開かれた眼が、すぐ傍から私を見下ろし。
「その眼だけか」
気管の堰が塞がったように、呼吸がおかしくなった。
フラッシュバックする。揺れる脳に、過って、消えて、赤くなる、黒くなる。
取り出された眼球と、切り刻まれた、身体。
ガッ、と、握った。
トッドの衣服の胸元に激しく皺ができる。
「お願い…………おねがい、します……助け……たすけて…………」
ガッと髪を掴まれ引き剥がされた。
「何でもする、何でもします! ……お願い……」
見開いて閉じない眼から、涙が落ちた。
死にたくない。
震えた声は、布の隔てる薄暗い中に漂った。
トッドが手を離すと、ガタリとそのままトッドの前に身体は崩れた。
「おいトッド、ガソリンに引火して二度目の爆発だってよ。そこら中に飛び火してる。発火元の車は見るカタもねぇ大惨事だぜ」
バーナードが荷台の布を少しめくって報告した。こちらの様子を見ると、ヒュー、と軽く口笛を鳴らした。
「……そうですか、成る程。では車を出しましょう」
「そのガキ、どうするつもりだ?」
バーナードは片口を上げて訊いたが、トッドが何も答えないので、溜息をついて布から手を離した。
やがてドアの開く音と閉まる音がして、古臭いエンジン音がすると、動き出した。
身体が半分宙に浮いて、手首を掴まれていたのだと知る。右腕は皮膚の痛みと熱のせいか、感覚がなかった。
「『助けて』、『死にたくない』」
トッドの声が、私の言葉を繰り返す。
耳元で、声がする。
「確か貴女の妹もそんな風に」
目を見開いた。その目から壊れたように勝手に涙がボロボロ落ちた。
トッドの笑い声がする。
腕を離され、ドサッと身体が床に落ちる。
「どんな有り様でしたっけ? 盗賊が貴女達を運ぶ伯父の馬車を襲った。妹は見せしめに刺され、有り金を奪うと盗賊は退散。暗い山道だったのが良かったんでしょうねえ。出なきゃ貴女も一緒に攫われていた。暗い道でそのなりが見えず、価値がわからなかったわけです」
トッドは私の髪を一房掴んでさらりと持ち上げた。その髪は先が焼け焦げて短くなっている。
「そして伯父は、どうした? 血に染まっていく妹の身体を、劣化していく髪を、瞳を」
ダンッ! と頬のすぐ傍に踵が振り下ろされた。
「妹は言わなかったか? 『助けてお姉ちゃん』『死にたくない』『何でもするから』」
ハハッ、と愉しげに笑い声が響く。
「美しい双子が手に入る予定が、美しい少女が一人と、200グラムのプラチナブロンドの髪、一対のバイオレットの瞳になってしまいました」
さらりとトッドの手から髪が滑り落ちる。
ガッと力を込めて掴まれた。顔が無理矢理上がり、頭皮がミシミシと痛みを訴える。
トッドが顔を寄せた。
「貴様も、貴様を売った伯父と叔母、父親と母親、そしてグレアムと同じだ。卑しい人間。自分の死を目の前にした時、愛する家族でも躊躇うことなく売ってしまえる人間だ」
ハッ!とトッドが笑う。より強く引っぱられ、顔を歪める。
「どうっしようもねぇな、愛する妹は見殺しにして、自分は助けてください何でもします! ははっ! どうしようもねぇ人間だ、価値なんてひとつもねぇ!」
トッドの声が頭にグラグラ湾曲して響く。
呼吸が震えて、何度も殴られるような頭痛が永遠に続く。
髪から手が離されたと思ったら、今度は胸倉を掴まれて引き上げられた。
トッドの顔が、目の前に陰をつくった。
「てめぇはどうしようもねぇ人間だ。それがわかったら、堕ちるとこまで堕ちろ。てめぇは、幸せを望める人間じゃねぇよ」
見開いていたその目が、すっと元に戻る。
手を離されたら、そのまま床に崩れた。
腕を掴まれ持ち上げられ、そのまま身体が反転した。
仰向けに床へ転がされ、布切れ一つも纏っていない裸の身体に、暗い影が覆い被さった。
「っ、ぁっ」
股の間に指が触れた。
引き千切れそうな感触を無視して、奥まで押し入った。
ガタンガタン、と床ごと揺れている。
自分の焼き切れた髪が、床に散らばりうねっている。
見下ろす狐の顔を見ていた。瞳を揺らして見上げていた。
やがて、瞼を閉じて首を傾けた。



「はっ……あっ、あっ」
快楽に背を仰け反らせたら、腰を掴まれてピストンが激しくなった。
「はっ、ああ……気持ちいいのかい? こんな子供の身体でこんなに咥え込んで……!」
「ああっ……! 待っ、やっ」
グルンと体勢が反転して、大きな身体が上に覆い被さる。
「や、やめっん」
口を開いたら口の中にハンカチを放り込まれた。思わず咳き込もうとするが、それすら叶わない。
「はぁっ、あっ、悪いね妻がっ、帰って来てしまうといけないっ」
脳裏に白く火花が散る感覚がした。奥を突かれて、声も出せない。
パンパンと肌のぶつかる音がする。ベッドは壊れてしまうのではと思うほどに、この中年男の体重で軋んだ。
繰り返していた全ての動きが不可能になる。身体は気づかぬ間に達してしまったのか、背骨を砕かれたように力が抜けて動かない。
ベッドに投げ出された無抵抗な身体に、何度も男の運動が繰り返された。
「ぅっ……!」
声にならない息が喉の奥から出た。男がベッドのへりを掴んで、より深く挿入したのだった。
もうこれ以上ないという奥の奥まで先端が押し入った。
同時に男の動きが変わった。
もう駄目だと、天井を見上げながら思った。
もう、駄目……。
コンコン、と音がした。
だが、スプリング音に肌の音、男は気がついていないようだ。
ガンッ! と派手な音がした。
流石に男も気がついて、同時に飛び上がる。
「おやおやちょいと旦那さん、一体何をしているんでしょう」
扉が勢いよく蹴り開けられた反動で、扉の傍の棚から物が落ちた。陶器だったようで、パリンッと割れる音がした。
靴音を鳴らしてずかずかこちらへ入ってくる。
男は思考が働かないのか、唖然と固まっている。
「もう一度聞きましょうか。何をしているんです?」
ベッドまでやって来たその男が、私の腕をガッと引っ張った。
他人ひとの女に」
やってきた男――トッドの言葉に、男の顔が蒼ざめる。
トッドが掴んだ私の腕を引っ張って、ベッドから引き出す。
が、私の体には力がまるで入っておらず、かくんと崩れかけた体を、トッドが掴み直す。
肩に手を添えられ抱きとめられると、体を支えるために思わずトッドの胸元の衣服を掴んだ。
「なっ……何を言ってるんだ!」
「何ですか? 私が何か理解できない事を言いましたか?」
私は口の中に入れられていたハンカチを取り出して、何度か咳き込む。呼吸を繰り返していると、トッドが急に抱いていた腕を離したので、私は慌てて近くの腰掛け椅子を掴んだ。
ガンッ! と派手な音が鳴る。トッドがベッド脇のミニテーブルを蹴飛ばしたのだ。
花瓶が転がって、中の水が絨毯にぶちまけられる。
「ふざけてんのか? ああ?」
低い声で凄んでみせる。
男は途端にさっきまではなかった緊張感を、顔に走らせた。
「ひとの女を抱いているワケを教えてくれないかと言っているんです。そんなに難しい事を言っているわけではないでしょう」
顔を近づけて低い声で言う。
「そっ……その女も乗り気だったじゃないか!」
ガッ!とトッドが男の胸倉を掴み上げる。
男は喉の奥から引き攣るような声を出した。
「……彼はこう言っていますが、そうだったのですか?」
胸倉を掴んだまま後ろの私へ問うトッドに、私は慌てて首を振る。
「うっ、嘘つグッ……!」
トッドが男の胸倉を締め上げる。
ドンッと音がして男の体がベッドから落ちる。
床に転がった男にトッドは足を振り上げた。
「わっ……悪かった! 私が全て悪かったからやめてくれ!」
トッドはその言葉を聞くと、男にはわからないように少し口角を引き上げた。
脚を止めて、床に降ろす。
「……わかりました、私も悪魔ではありません」
トッドの言葉に男はおずおずと顔を上げる。
「しかしタダでというのも、腹の虫が収まらない」
男の顔が引きつった。
「そんな……これは犯ざ、」
ガンッと床についた手の甲を踏みつける。
「はい? 何か言いましたか?」
男は青ざめて慌てて首を振ると、トッドが足を上げるや否や、一目散に二階へ走っていった。
そうしてあっという間に戻ってくると、銀貨を差し出し床に額をつく。
「こ、これでお許し頂けませんでしょうか……」
トッドは男の手のひらから数枚の銀貨を受け取ると、私に視線をやる。
「これが貴女の価値らしいですよ。堕ちたものですね」
そう言うと、青い顔をした男の手の甲をにじる。
「私の女がこの程度の価値しかないと?」
「しっ、しかしこれ以上の金は!」
「リアン、二階を探してきてください」
トッドの呼んだ名に、瞬時には反応出来ず、暫くしてから視線を上げた。
トッドがすっと目を細くして私を見た。
私は直ぐに足を動かして、早足で階段へ向かった。
二階には扉が二つあった。
一つは物置になっていて、もう一つは寝室だった。
後者に目星をつけて、中に入る。
華美な装飾の施されたドレッサーが見えた。宝石などがあしらわれていて、相当な代物だ。
タンスや戸棚を開けて回る。その内の一つから、鍵付きの箱を発見した。大きな箱だ。
当然鍵は開かない。
揺すると、ジャラリと音が鳴った。
「…………」
この重さ、音、相当な額が入っているに違いない。
他にそれらしきものもない。きっと、これが全財産。
貯金も生活費も、今夜の夕食代も、全て。
「…………」
私は引き出しを閉めた。
その重たい箱を抱えて部屋を出た。
箱を手に戻ると、男は今までにない色を顔に浮かべた。
トッドへ渡すと、トッドは箱を揺らして音で中身を確認する。
「鍵はどこにあるんです?」
「そっ、それだけは! 勘弁ください! 明日生きる金も無くなってしまいます! 私だけではなく妻も……!」
「妻をなくすのと、どちらが不幸でしょうねえ」
トッドは、はははっと愉快げに笑って言う。男は真っ青に青ざめて、それからふらりと力なく立ち上がった。
男が台所の戸棚を開けている様子を見ていると、トッドが傍にしか聞こえない声量で低く口を開いた。
「本当にこれで全てだろうな」
トッドの細い目が私を見下ろす。
迷った一瞬を見抜かれたようで、私は瞳を揺らした。慌てて頷いた。
ふんとトッドは鼻を鳴らして、それから男が鍵を持ってくるといつもの狐の笑みを浮かべた。


「ははっ、やはり私の勘は当たっていましたねぇ。あの家、外は質素に構えているくせに、たんまり金を蓄えている」
トッドが手に入れたばかりの金の入った袋を揺らして、上機嫌に笑う。
まだ日は沈んでいないはずだが、森の中は木々が天を覆って薄暗かった。
トッドは私を、リアンと名付けて呼んだ。
「リアン、」
「なに……」
今度はすぐに反応をして返す。
「男の台詞を聞いただろう、罪悪感なんて塵を数えるほどしかなかった」
「…………」
前を歩くトッドの靴を見ながら、顔を歪める。
「そのお陰で、何度声を荒げる羽目になったか……罪の意識を抱かせておかないと、こっちだけが犯罪者になる、そう教えなかったか」
私は黙って下を向いて歩いていた。
と、気づけば目の前に腕があって、ガッと胸倉を掴まれる。
そのまま傍の木の幹へ押し付けられた。
「『やめろ』、『やめてください』、『嫌だ』、『こんな事はいけない』……知らねぇ男に突っ込まれて、拒否の言葉も口から出ねぇ淫女になっちまったか? そうならいよいよ使い道がねぇな」
グ、とトッドの腕が私の衣服に力を込める。
「……口に、」
「ハンカチを詰められたから言えなかった」
先回りして言って、トッドはガッと強く引き上げる。
「なら、口に物突っ込まれながらやる練習もするか? なあ」
ガッと口へ突っ込まれたのは、トッドの指で、それは一気に喉の奥を突いた。
「かっ……うっ……」
げほっ、げほっ、と咳き込みながら蹲れば、トッドは、ハッと一つ笑ってそれから手を振りかぶった。
鈍い音がして、気がつけば草の上に身を転がしていた。
「口ごたえするんじゃねぇよ。誰に生かされてるいるのか、もう一度その体に刻み直せ」
「リアン」と最後にトッドはその名前を口にした。
人の道を生きるための名は、遠に捨てたのだ。



構えた屋敷の一室から廊下へ出れば、直ぐそこにいたマーリンが眉を歪めていた。
その表情のまま、「……トッド、」と私の名を呼ぶ。
「聞き耳とは、趣味が悪いですねぇ、マーリン」
「そんなわけないじゃない、馬鹿な事言わないで」
マーリンはさして面白味もなくそう答える。私が一つ鼻を鳴らすと、マーリンはちらりと私が今し方出てきた背後の扉に視線を向けた。
「それで? 用件は何です」
「その前に、」
マーリンはこちらの言葉を遮ると、少し考えるように視線を落とした。
「彼女を本当にこのまま使い続けるつもり?」
マーリンは眉を寄せている。
「まだ子供じゃない。それなのに……」
「マーリン、貴様を世話してやったのはどこの誰だ」
マーリンは顔を歪めて、口をつぐんだ。それを見て、ふんと鼻を鳴らす。
「……それに、私は助けてやっているんです。私の匙加減一つで、あの少女は生きもし、死にもする。マーリン、貴女の嫌いな人売りを、しないでやっているわけですからね」
マーリンは眉を歪めて、少し視線を下げた。
「けれどトッド、……仕事ならまだしも、貴方の私用で乱暴にしていたら、彼女の体は持たないわよ。その扉の中でも、気絶して眠っているんでしょう」
「私用ではなく仕事です。それに、人間は我々獣よりも遥かに強いものですから、平気だと思いますがねぇ」
爪先の向きを動かして歩き始めれば、マーリンは「ちょっと、」と声を上げて追ってきた。
一階に降りれば、すでにバーナードは出向いてきていて、しかしあの狼の姿は見えなかった。



「あ……ああ、あ…やめ、やめて……」
ガッと髪を掴まれ、うつ伏せの体勢から頭を引き上げられる。肩までもない、短く切り揃えた髪だ。
トッドの笑い声がする。
「言えばいいってものじゃあありませんよ。そんな顔で言ったところで」
髪を離され、シーツに顔面が落ちる。奥の奥を突かれて、声にならない声が出た。
「はぁっ……ぁあ……あ…………」
肩で呼吸を繰り返す。顔の傍のシーツがギシ……と沈んで、挿入っていたものが抜かれた。
私は動かないまま、浅く呼吸を繰り返していた。
フクロウの声がどこかでした。トッドの屋敷の、窓の外は深い夜の森だ。
サラリ、とうなじの髪が撫でられる感触があった。
「一つ、いいことを教えてあげましょうか」
上からトッドの声が降る。私は指先を動かしてみたが、まあ丸っきり動かない。身体はただシーツの上に放られていた。
「今度、子供の人売りをします」
ギ……ギシ……とベッドの軋む音が鳴る。トッドが服でも着ているのか。
「相当上玉です。燃えるような赤い髪に、赤い瞳。この世の幸せを全て集めたような、健康的な身体」
トッドの上機嫌な声が流れていく。
「リアン、貴女も知っている子供ですよ」
頬をシーツにつけたまま目を閉じていた。
だが、薄く開いて、それからそれを徐々に大きくした。
顔を向けたら、トッドは愉快そうに目を細めた。
バッと起き上がったが、体の力が抜けていて、直ぐに崩れる。
ベッドの上で、シーツの皺を、目を見開いて眺めた。
「……ブラッド……」
呟いて、は、と呼吸がおかしくなる。
ブラッド、ブラッドが。堕ちる理由など何処にもないブラッドが。
「どうして……どうしてそんな事、」
ははっ、とトッドが笑う。
シーツにうつ伏せのままの私の、前髪に触れて掻き上げる。
パラパラと視界に金色の髪が零れた。
「あの子の兄が、金が要るそうでねぇ」
一瞬、体の中身がグチャグチャに引っ掻き回された心地がした。
「どう、して……」
体を起こして、ガッとトッドに掴みかかった。
「借金は返したって!」
パンッ、と音が響いて、私の体がベッドから転げ落ちる。
床に転がったまま、打たれた頬を抑える。
「はあ? 何か勘違いしてねぇか。グレアムがどこまでもクズだった、それだけの話だろ!」
トッドは掴み掛かられたのが気に入らなかったのか、ドスの効いた声で吐き捨てて、自分の着たばかりの衣服の襟を直した。
「薬を買うのに金が要る」
トッドが言った言葉を、私は口の中で繰り返す。
「……『薬』」
機嫌を取り戻したように、トッドは、ハッとひとつ笑い、「ええ」と返した。
薬、薬って、ことは。
「ふっはっは」
語尾を上げてトッドが笑う。
揺れる瞳で口を開けば、言葉にならない声だけが漏れた。
「ああ……ああ、ああ……!」
ガッと髪を掴まれた。
痛みと共にトッドの高い所にある顔が見える。
「グレアムを救いたいか……? あるじゃねぇか」
トッドが目を見開いて、笑っている。見下ろす顔には深い陰が落ちていた。
トッドの手が、頬に触れて、親指が、眼球を触った。
「っ……!」
その痛みにか別の物にか、バッとトッドの手を振り払い体を背ける。
呼吸が、いくら繰り返しても酸素を取り込まなかった。
「はっははっ!」
トッドは愉しそうに声を上げて笑った。
それから上機嫌で私の腕を掴むと、引っ張り上げて再びベッドへ転がした。
ギシッ、という音と共に大きな影が私の体を覆う。
おかしな呼吸を繰り返した。
涙が片方、青紫色の、輝く瞳から零れた。



「ナマエ……?」
暖かい日が射していようとも、森の中では冷んやりとした冷気が漂っている。
今度は、こちらの名に反応が遅れた。
歩いていた足を止める。私はトッドの屋敷へ帰る所だった。
「……ブラッド……」
振り向いて呆然と呟く。
ブラッドは暫く瞬きを繰り返して、それから瞳を大きく見開いた。
「ナマエ! やっぱりナマエだ! 久し振り!」
ブラッドは顔を綻ばせて駆け寄ってきた。私の両手を握ると、嬉しそうに数回上下に振り回した。
ブラッドはあの嵐の日に着て行った薄汚れた外套を着て、腕には籠を下げていた。布の下には、チーズやら果物やらが見えていた。
「ナマエ? どうしたの?」
私が固まっていたら、ブラッドが不思議そうに首を傾げて私の顔を覗き込む。
私は瞳を揺らした。それから、ふらりと逸らす。
「……何でもないよ」
「そう?」
ブラッドは首を傾げたが、私はそのまま何も言わなかった。
「元気だった? びっくりしたよ、お別れも言わずに行っちゃうんだもん……。お父さんとお母さんとまた暮らしてるんだよね!」
「……うん」
私は視線を左下の木の根に下ろしたまま、返した。
「……ブラッドは? 元気だった?」
「……うん」
すぐに返ってくると思っていた返事に、一拍の間があった。
私はブラッドに視線を向けていたが、今度はブラッドが木の根に視線をやっていた。
ブラッドの視線が上がって、目が合うと、何でもないよという風に微笑まれる。
私はブラッドから目を逸らせないでいた。
ブラッドだけを映す視界に、手が伸びた。
それは私の髪を微かに触った。
「……髪、切っちゃったんだね」
ブラッドの指が、私の短い髪に通る。
「もったいないな。凄く、綺麗だったのに」
首を傾げるブラッドは笑っているが、穢れの一つも見えないあの頃の笑みとは違った。
「……ブラッド、ここで、何してたの」
「村長さんに手紙を届けてきた帰りなんだ。……ちょっとリコリスの花畑に行こうと思って」
ブラッドの手が下がって、その目は遠い何処かを映した。
「リコリスの花を摘んで帰ったら、グレアム兄さんも、きっと喜んでくれると思うんだ……」
頬の痛みと共に、昨日のトッドの言葉が蘇った。
呼吸をするのが、それすら、苦しかった。
「グレアム、さん、どうかしたの」
ブラッドの視線が私に向いた。
その顔は、歪められていた。
バッと、次には赤い色が映る。私の目の前には燃えるように赤く、美しい髪の毛があった。
ブラッドは強い力で私を抱きしめた。
私は、その体の重みに、呆然としていた。
「どうしよう……どうしようナマエ。グレアム兄さんが死んじゃったら、僕、ぼく……ほんとうに独りぼっちだ」
ブラッドの声は掠れていた。
私は、渇いてほとんどない唾を飲んだ。
「死ん、じゃったらって……」
「村のお医者さんは、治らない病気じゃないって言うんだ。でも、治すには高い薬がいるんだって」
ブラッドの声は肩口でする。お陰でくぐもって聞こえる。
「どうしよう……どうしたらいいの、グレアム兄さんの為に、お金がいるのに、僕じゃそんなお金、とてもじゃないけど用意出来ない……」
『今度、子供の人売りを』
私を強く抱きしめて離さないブラッドに、私は腕を添えられなかった。
その腕は震えて、呼吸も震えて。
唾を飲み込んだ。
トッドの言葉が、頭に響いて、何度も、エコーを繰り返して。
金を用意する方法がある。ブラッドも、グレアムも助かる方法がある!
この、眼を。
「はっ……!」
ブラッドを押し退け離れたら、ブラッドが私を見た。
「ナマエ……?」
はあっ、はっ……と荒い呼吸を繰り返す。心臓を握りしめながら、この鼓動が存在する事を感じた。
「い……行かなきゃ、もう行かなきゃ」
震える声で呟いて、ブラッドの返事も聞かずに、逃げるように走り出した。
ブラッドの声が後ろで聞こえた気がしたが、私はただブラッドの前から姿を隠したい衝動で一杯だった。
走る、駆ける。
森はどこまでも冷たい。
トッドの屋敷は深い森の中にあるから、足を進めるたびに少しずつ靄が濃くなる気がした。
『助けて』
また、また繰り返すのか?
見殺しにして、知らないふりをして。
『どうしようもねぇ人間だ、価値なんてひとつもねぇ!』
ヒューヒューと呼吸がうまく行かず、喉を抑えて咳を繰り返す。
グレアムが、ブラッドが。
死にたくない死にたくない死にたくない!
また、繰り返す。
「っ、あっ!」
ドサッ、と気づけば草の上だった。呼吸で背中が上下する。
見ると、不気味に伸びた木の根が、足首に蛇のように絡みついていた。
草の上に投げ出された、自分の右腕が視界に映る。
火傷の跡が、醜く続いている。
価値なんてない。こんな皮膚をしていて、切る髪もなく、悪事に加担して、奪った他人の金で生きながらえて。
こんな私が生きて、ブラッドが死ぬのか。
あんなに優しいブラッドが。ブラッドは、私を、助けてくれた。
ちらちらと視界の端に赤が映った。
顔を上げると、リコリスの花が、一輪、ユラユラと揺れている。
冷たい風が、吹いた。
『いくら助けてくれたとはいえ、他人じゃないか』
声がする。まるでリコリスが語りかけているかのようだった。
「他人……だけど、ブラッドとグレアムだ……」
『血の繋がった妹でも見殺しにしてしまったのに、赤の他人を命を懸けて助けられるはずがないのさ。至極、真っ当な思考回路だ』
「違う、そもそも妹を助けなかったのが……守ってやるって約束したのに」
『けれど、伯父も叔母も、父も母も、自分のために私を捨てた。グレアムだって、実の弟であるブラッドを売ろうとしている。誰だって自分の命が全てさ。何も恥じることはない』
靄の中に、リコリスはゆらゆらと。
「でも……でも!」
『でもブラッドは私を助けてくれた。グレアムだって世話をしてくれた。何より私はグレアムを愛している』
「そう……そうだ……死ぬなんて、そんなの……」
『それにこのままトッドの元にいても、殺されない保証はない。あんな乱暴な扱いをずっと受けていたら、いつか死んでしまうのが道理だ。それにもしかしたら、トッドは私を使えるだけ使って、ダメになったら瞳だけ取り出して売るつもりかもしれない』
「ああ……そうだ……トッドはその話ばかりする……」
フワリ、と視界の端に何かが映り込んだ気がした。黒い、外套……?
『ああそれじゃあ、この瞳、金に換えるとしてもトッドの元ではダメだね。上手く騙されて、グレアムの薬にはならないかもしれない』
頭を撫でられる感触がした。
『誰かパーツに詳しい人を訪ねないとね。そういえばバイオレットの瞳は、食べると未来が透視できるようになるという言い伝えがあるね。まるで、魔術みたいだ』
私の頭上でリコリスが揺れている。
プチ、と音がして、その茎からちぎり摘まれたようだった。
『ふふふ、そうだ、明日になったら彼を訪ねよう。一度トッドも口にしていたね。トッドはダメでも、マーリンなら場所を教えてくれるかもしれない。彼はどこか、私を案じてくれているようだし、きっとトッドにも秘密にしてくれる』
そっと目の前の草の中に、赤い花が横たえられた。
意識が朦朧としていた。
瞳を閉じたら、そのまま深い闇へと落ちていった。


朝日に目を覚ます。
散々乱れたシーツの上に、あざだらけの自分の裸体が放られていた。
トッドの姿は無かった。確かに、昨夜マーリンが言った通りだ。
痛む体に暫くうずくまって、それからゆっくり動かし始めた。
衣服を着て屋敷の外に出たら、遠くで朝の光が、木々の間から斜めに射していた。
森の中を歩く。
昨晩のマーリンは怪訝な顔をした。理由を訊いてきたが、私が答えずにいると、暫く物思いに耽った後、徐に口を開いた。
暫くは真っ直ぐ進む。そうしたら木々の開けたところに出るから、一番大きな木のある方へ進むといい。
そこから木を数えていって、25本目辺りに切り株があるから、その年輪の示す向きになるべく真っ直ぐ進む。
そうすると、黒い木々の中に、ひっそりと佇む家が見えるはずだ。
それが。
トントントン、とツタがびっしりと張った木の扉に、ノックをした。
扉を開けると、ギィ……と軋んだ音が大きくついた。
「やあ、そろそろ来る頃だと思っていたよ。道には迷わなかったかい」
家の中は暗く、様々な薬草の匂いが鼻について、くらくらとした。
男は座っていた椅子を立って、乾燥させていたのか、上に吊るしてあった薬草を一つ掴んだ。
「はじめまして、私の名前はアルヴィンという」
「……私は、」
「いい。知っている。両方の名ともね」
私が眉間に皺を寄せるのを見て、アルヴィンは一つ小さく笑って見せた。火にかけられたケトルの傍へ行き、蓋を開け、手に取った薬草を中に浮かべた。
「それで? 用件は何かな」
アルヴィンは、ケトルからカップに茶を注ぎ入れながら口を開いた。
私が口を開けば、そのタイミングで、
「いや、茶でも飲みながらゆっくり聞くとしよう」
と呟く。
私は眉間に寄せた皺を濃くする。
アルヴィンは私にカップを差し出した。
受け取ると、中身の液体は茶色く濁っていて、カップの底も見通せなかった。
私は口にしなかったが、アルヴィンは自分の分もカップへ注いで、少し匂いを愛でてから、口に運んだ。
「……アルヴィン、」
「何かな」
優雅な様で茶をすするアルヴィンに、私は視線を向けた。
「この眼を……なるべく高く、買って欲しい」
アルヴィンは茶を啜った。おもむろに口を開く。
「バイオレットの瞳か。遺伝的作為ができないものゆえ、希少で高く取引されている。その上、効果も確か」
アルヴィンはそういうともう一度茶を啜って、カップをテーブルに置く。本やら薬草やらフラスコやらが雑多に置かれたテーブルだ。
「グレアムのためかい?」
アルヴィンの目がこちらを見る。
「愛した者だとはいえ、自分を売った相手に命をやれるとは、実に素晴らしい」
「……買うの、買わないの」
芝居掛かった調子に痺れを切らして言う。アルヴィンは少し視線を落とした。
「買ってやろう、高い金も出そう……と、本来なら言うべきところだが……」
アルヴィンの口ぶりに眉を寄せる。
「グレアムのためなら……もう遅いな」
アルヴィンの言葉の、意味を理解するのに、時間を有した。
私は暫くただそこに立っていた。
「…………グレアム」
呟いたと同時に、私は服の裾を翻してドアを叩き開けた。
アルヴィンが何か言ったが、それを聞く間もなく駆け出した。
グレアム……そんな、まさか、そんな事は!
黒い森の中を駆ける。
朝日が射しているはずなのに、まるで嵐の目の中のように暗く、しんと奇妙に静まり返っていた。
自分の足音だけが大きく響く。
木の根に足を取られて、転んで、起き上がって、またつまづき体が傾いたりした。
トッドにいたぶられた身体は痛く、呼吸は上手くいかず、アルヴィンの家の薬草の匂いがまだ鼻に残って、思考回路をぐわんぐわんと歪めた。
「っ、痛っ……」
ドンっ! と何かにぶつかって、体が草むらの上に放り出される。
「……お前は」
眉をひそめたランドルフが私を見下ろしていた。
だが、私にはそんな事はどうでもよく、立ち上がるとまた走った。
道順など意識しているはずもなかったのに、不思議なことに、あの懐かしい家の前に辿り着いた。
扉を、叩き開けた。
「グレアム……!」
私は肩で呼吸を繰り返した。
目を見開いて、こちらを見るその姿を見た。
「はぁ……はっ……はあ……」
私はズルズルと崩れ落ちた。
膝をついて、頭を下げて、深く深呼吸をした。
「……ナマエ…………?」
家の中は、出て行った時となんら変わってはいなかった。
テーブルに椅子、花瓶にキッチン、棚に、ベッド。
グレアムが、ベッドに横になっていた。
私は深く息を吐いて、力の抜けた脚をドアのヘリに手をついて、なんとか立ち上がらせる。
グレアムは驚いた様子でこちらを見て、身体を半分起こしている。
「よかった……グレアム、」
「ど、どうして君が……」
ベッドに近づく、傍まで行って手を伸ばした。
ひ、と引きつったような声が聞こえた。
「…………」
私が見下ろすグレアムは、頭を抱えて、震えている。
「……グレアム、さん、」
腕を伸ばすと、肩が大きく跳ねた。
「ひっ、許してください、お願いですお願いです」
私は伸ばした手を空中に留めたまま、ただその有様を見ていた。
「……なにを言って」
腕を掴むと、明らかに震え上がった声を上げて、体をひねって壁に顔を向ける。私に背を向ける。
「ああ、ああ亡霊なんだ、私を罰しに来たんだ」
「違う、違います、グレアムさん……」
「違わない!」
大きな声がして、グレアムの唇が震える。
ガッと衣服の胸元を引っ張られた。
グレアムの目は、こちらに向いているがそれは、何一つ光景をうつさぬような、ただただ光のない闇の色をしていて。
「君は私を殺しに来たんだろう! 私があまりにも罪を重ね過ぎたから……ブラッドを……売ってしまったから……!!」
心臓が、呼吸すら、止まったように、しんと音が一つも無くなった。
「今……なん、て…………」
グレアムは私の衣服を掴んだまま、こうべを垂れた。荒い呼吸を繰り返して、ふらりと私から手が離れると、また頭をその腕で覆った。
ブラッド、ブラッド、ブラッド。
ああ、そういえばさっき。
ランドルフは森の中で、何をしていたのか。
ああ、あの赤く輝く髪が。
ああ、あの赤く燃えるような瞳が。
健康的な恵まれた肉体が。
花の咲いたような笑顔が。
『なんで……助けてよ、おねえちゃん!』
「ああ……ああ……ああ!」
バラバラになるんだ。あの笑顔が、リコリスの花を私に差し出した腕が、頬にキスをした唇が、抱きしめた体が。
「なんで……どうして……!」
もう少し待ってくれていれば、いや、私がもう少し早く覚悟を決めればよかったのか?
いや、グレアムがもう少し待ってくれていたら、トッドが今日を選ばなければ。
『それより何より、どうしてこの男は、愛しいはずの弟を売ったりできるんだろう……? 私の父と母も、どうして私を売ったりしたんだろう? それがなければ、私は幸せだった』
ガンガンと頭痛の中に、フラフラと目眩の中に、声がして、その声の促すままにグレアムの胸倉を掴んだ。
「ひっ! 許してください助けてください! お願いです、お願いですどうか……!」
『ブラッドも私も被害者だ。彼らが私達を不幸にしなければ、私達は罪を重ねることもなかった。私達は何も悪くない、全ての元凶は彼らにある』
「どうして……どうして! 愛してくれていたんじゃなかったの!」
グレアムの胸倉を掴んで揺すった。
両の瞳から涙が零れた。
「生きたいんだ……死にたくない……例え誰にも必要とされていないとしても…………もう死しか、道は無いとしても…………。……私が生きることに、何の意味も、ないと、しても…………!」
ボロボロと、涙が零れた。
グレアムの胸倉を掴んだ自分の手が、離れた。
脳に響きわたる声が何か言っていたが、何を言っているのか、わからなかった。
ただ頭を抱えてうずくまるグレアムを見ていた。
ああ、ああ、何処か、遠くへ行こう。
誰もなにも知らないところへ行こう。全てを一から始められるところへ行こう。
そうでもしなければもう、私は。

『赤い糸は、グチャグチャに絡まってしまっていた。
それは一度切れてしまえば二度と復活など望めない、無力な人間の血の糸。
なぜ、こうまで絡まってしまうのか。
それは、皆が欲望に、素直になった結果だ。
さあ、この目も当てられない地獄で、どう生きる?』

私はフラリと、グレアムのベッドから離れた。
そうして力のない足取りで扉まで向かうと、外に出て扉を閉めた。
外は、満面のリコリスの花畑だった。
真っ赤な花が、ゆらゆらと揺れている。
誰をも、悪だと言えない。
リコリスの花弁に、誘われるように歩き出した。
何処か遠くへ。
この苦しみから、ただ逃げるために。



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