その少女は、幸福の絶頂にあった。
小さな花屋で働きながら質素な暮らしを送っていた少女は、領主の息子に見初められ、次期領主の妻という地位と名誉を手に入れようとしていた。
領主である彼の父親にも気に入られ、実の娘のように可愛がられた。
誰もが二人を祝福し、二人は永遠の愛を誓い合った。
それが、悲劇の始まりだとしても。
事件はその日の夜に起こった。
街の領主が何者かに殺された。
転がったグラスと血塗れのナイフ。
生気を失った青白い顔を月明かりが照らし出していた。
ぼんやりと浮かぶ両手は真っ赤に染まり、指先から零れ落ちた赤い滴がカーペットに染み込んでいく。
結婚を明日に控えた夜の出来事。
幸福の絶頂にいた幸せな花嫁は、虚な表情でその場に立ち尽くしていた。
「どうして…」
呟かれた言葉に、花嫁は引きつった笑みを浮かべながら答えた。
「これは復讐。初めからそのつもりでここに来たの。何もかも奪われたから、同じように奪ってやろうと思って…」
広がっていく赤い色を見つめながら、彼女は泣いていた。
断片的に甦った記憶を一通り話し終えて、少女は深く息を吐いた。
「私は人を殺めました。あの人の大事な家族を奪ってしまいました。私はあの人の父親に、何もかも奪われたのです。だから…どうしても許せなくて…私の手でお母さんやお父さんの仇を……」
独り言のように呟く少女を眺めながら、男性は小さく頷いた。
「なるほど、君は復讐を果たしたかったんだね」
男性の言葉にゆっくりと顔を上げた少女は、真っ赤に染まった自分の両手に目をやった。
「ほら、私の手はこんなに汚れてるんです。自分の手を汚しても、望みを叶えたかった」
男性はもう一度頷いてから静かに口を開いた。
「そう。でもそれは本当に君の望んだことかい?君のその両手の血は、本当に"憎い男"の血?」
「!」
少女の肩がびくんと揺れた。
血の気が引いた真っ青な顔で少女は男性を見上げる。
何もかも見透かすような、深い
「わ、私……私は……っ」
一瞬だけ蘇った光景。
佇む自分の前に立つ愛しい人影。
「違う…違うの、私は……」
瞳から涙が溢れ出し、汚れた白い服に染み込んでいく。
視界が歪んで、一つの光景だけが鮮明に甦る。
転がったグラス、注がれたワイン。
月明かりに照らし出された青白い顔、両手に握られた銀のナイフ。
ぼんやりと浮かんだ愛しい人の顔。
永遠の愛を誓い合うはずだったその唇が、どこか悲しげに言葉を紡いだ。
「君の憎い男は死んだ。もう君は復讐なんて考える必要はない」
見開かれた瞳の中で、愛しい人がナイフを奪い取り、そして崩れ落ちる。
「どうして…」
呟かれた言葉に、花婿は消えそうな笑みを浮かべながら答えた。
「これで終わる。初めからすべてわかっていた。もう奪わせはしない。君の憎んだ男はこれでみんな死んだ…」
広がっていく赤い色を見つめながら、彼は泣いていた。
…これで、おしまい。
「君の望みは叶った。なのにどうしてそんなに悲しい顔をしているんだい?」
溢れ出す涙で歪む視界の中、少女は自分の両手を見つめた。
「…違う……違うの、こんな……っ」
"愛しい男"の血で汚れた両手で顔を覆い、少女は泣き崩れる。
「"彼"は卑怯だね。何も奪わせないと言って置きながら、最後に君の幸せを奪っていった」
音もなく席を立った男性は、光の差し込むステンドグラスに目を移した。
「君は憎かったんだろう?君の幸せを奪った男が…」
泣き崩れる少女に視線を戻した男性は、微かに口元に笑みを浮かべた。
「物語はいつも残酷なものさ。悲劇の女神が望むのは、悲劇の結末だけなのだから。そうだろう?"復讐"を望んだ女神様?」
少女はゆっくりと顔を上げ、立ち去る男性の後ろ姿をただ茫然と見送っていた。
「…さて、次はどんな物語を探しに行こうか」
月明かりの中歩き出した"アイオン"は、空に輝く月を見上げて静かに呟いた。
→あとがき