▼5.「あれ」には自分だけ カンカンと高い足音が近づいてくる。女性のヒール特有の音だ。 階段の方を向く。じっと相手が見えるのを待っていると、すぐに思ってた通りの人が現れた。向こうもおれを見つけて何か言いたげに口を開けた。 結局何も言わずに手を振っただけだったけど。 「おかえり、ちきちゃん」 「ただいま、変なあだ名つけないでくれる。とどくんて呼ぶわよ」 「それイジメだよ。カッコ悪いよ」 「じゃあ、ろき? いやカッコいいなダメだな」 カッコいいのはダメなのか。ちきちゃんの中でおれの評価が相当低いのは分ってたし、別になんだっていいけどね。 「でもちきちゃんはちきちゃんで決定ね。可愛いじゃん、ちきちゃん」 「そうやってまた押し通す……」 呆れるちきちゃんに笑いながら靴を脱いだ。部屋に入って、一直線にリビングに進む。 ベッドとテーブルの間に座った。ここはもうおれの定位置になっている。 先週からちゃんとクッションまで置いてくれてるんだから、ちきちゃんもなんだかんだ、おれが毎週この部屋に来るのに慣れてきちゃってるよね。 「ちきちゃんお腹空いたー」 「厚かましい。あんた、最初の頃の遠慮とか……そんなもん最初から無かったな!」 「あれー、おれ遠慮してなかった?」 「してたら知らない、しかも女の家に上がり込んだりしないよねー」 「でも手出さなかったっしょー?」 「そんな事されたら、二度と使い物にならなくしてあげるから」 「どこを?」 「目がいいかなー、手がいいかなー、足がいいかなー」 目は怖すぎる。にっこり笑ってるのに、ちきちゃんの全身から怒りのオーラが見える。調子乗り過ぎた。 チン 実は用意してくれていたらしい料理をレンジで温めたちきちゃんがこっちにくる。 おれは入れ違いでキッチンに行って2人ぶんのお皿とお箸を取った。 あ、コップと飲み物も。 「ちきちゃん、おれも桃飲みたい」 「ノンアルに限る」 「たまにはいいじゃん」 「黙れ未成年」 前でぐびぐび飲まれるのは目の毒なんだよ。ちきちゃんって変なとこ堅いよなぁ。 そのくせ危機感ないとか。おれもだし、前飲みに来てた男とか、良く知らないくせに簡単に家あげちゃうんだから危なっかしい。 よく今まで無事だったもんだ。 まああの男は何かあったならそれでも良かったらしいんだけど、おれの場合は完全に男扱いされてない。 出会った時のシチュエーションのせいか、拾った子犬と飼い主みたいな関係になった。お互い特にそれで困る事もないし、面白いからそのままにしてる。 無理やりちきちゃんに手出して追い出されたらおれ困るし。死活問題です。来週からまた寝床を求めてさまよわないといけなくなる。コンクリートで寝たくない。 「ところで、ちきちゃん呼びは固定?」 「何の違和感もなく」 「廿六木くんの下の名前って何ての?」 「え、呼んでくれんの」 とどろき、どこの2文字を取ってもいい感じのあだ名にならなかったらしく、下の名前で攻めるようだ。 どうせなら可愛いあだ名希望。愛着がわくようなの。もちろん、ちきちゃんにとっ て。 そうしたら捨てないでしょ。 追い出しにくくなるでしょ。 おれはちきちゃんに「出てけ」って言われるの、結構本気で怖いと思ってる。ちきちゃんには、言われたくない。 何時までも続かないのは分ってる。おれやちきちゃんに恋人が出来たら確実に終わるって。 それはその時考えるとして。今は出来るだけ長くここに居座れる努力をするだけだ。 おれは甘えるようにちきちゃんに顔を近づけて、そっと耳元で名前を囁いた。 fin. '13.5.1 前 | 次 戻 |