▼page.3 もぬけの殻。こんな経験は初めてではない。 起き抜けの重たい体を引き摺って寝室を出てきた凌は、人っ子一人いないリビングに顔を歪めた。 目が覚めた瞬間、ベッドに自分しかいなかった時点で生まれた焦燥がここで膨れ上がる。 過去に同じ目に合っているが為に、否が応でも思わずにはいられない。 あいつは何度同じ事繰り返せば気が済むんだ。 大股で玄関へ向かえば、今正にドアを開けて外へ行こうとしていた侑莉がいた。 寝ているとばかり思っていた凌が出てきた事に驚いているらしく、彼女はぽかんと口を開いた状態で見てくる。 凌はそんな侑莉の手を取ってドアノブから離した。 「お前昨日の今日で勝手に何処行く気だ」 「え? ご飯が何も無いから買いにって……ちゃんとテーブルの上に書き置きしましたよ?」 「知らん」 「香坂さんが見てないだけです!」 そんな余裕が無かったのだ。テーブルになんて目もくれなかった。 履いた靴のままフローリングに上がれないと踏ん張っている侑莉の手を力ずくで引っ張り上げる。 するとバランスを崩した侑莉が凌の方へと倒れこんできて、二人はその場に座り込んだ。 「香坂さん!?」 「何でもいいから黙って出てくな、起こせ」 侑莉は息を飲んだ。 抱き込まれている状態では顔は見えないが、こんな凌は珍しい。 笑ってはすぐ不機嫌になってしまうだろうから耐えたが、それでも声は楽しさを隠せなかった。 「香坂さんまだ完全に起きてないでしょ。寝惚けてる」 「――るせぇ」 否定しない凌に今度こそクスリと笑う。 彼が言った通り、昨日の今日だ。侑莉が凌から離れるなんてありえない。 目が覚めてそこに居なかったにしても、少し考えれば理由は幾らでも出てこよう。 それなのに焦って探そうとするなんて、そんな勘違い嬉しくないはずが無い。 「……誰かの身の上話に遅くまで付き合わされたせいだ」 「香坂さんが話せって言ったんじゃないですか!」 懸命に伝えたというのに、この言い種はなんだろう。 凌から抜け出そうと腕を突っぱねた。 「まだ寝ててください、その間に何か買ってきますから」 「いらん」 「や、私がお腹空きます」 言い切った侑莉をまじまじと見た。 「それはまぁ、健康的な体になったもんだな」 「お陰さまで」 食欲という人間の三大欲求のうちの一つが欠落したような生活を送っていた侑莉から、お腹が空くなんて言葉が出てくるとは思っていなかった。 もう思い悩むような事は何もなくなったからだろう。 うだうだと喋っている間に頭は覚醒し、凌は背伸びをした。 「ちょっと待ってろ、用意してくる」 返事を待たずに部屋へと戻っていった凌の後姿を見送る。 どうやらついてきてくれるようだ。 夏にこの町を案内してもらった時の事を思い出した。 あの頃はまだ凌を怖いと思っていて一緒に出かけるのが不安だった。 そしてまだ彼とこんな風になれるなんて、二人でいる事が居心地が良いのだと思えるなんて、予想もしていなかった。 一夏だけの関わりだと信じて疑っていなかったのに。 今はこんなにも、季節が何度廻っても隣にいられるようにと願って止まない。 「何が食べたい? せっかく食欲あんならお前が決めろ。何処でも連れてくぞ」 着替え終わって戻って来た凌が尋ねる。 食材を買って自分で作ろうとしていた侑莉は、思っても無かった質問に頭を働かせた。 さっさと侑莉を追い越して玄関のドアを凌は開けて外に出ようとしている。 「えっと……」 「あ、これお前のだろ」 慌てて後を追った侑莉を振り返り、彼女の前に手を翳す。 凌が持っていたのは一本の鍵だった。 この部屋の合鍵。夏に出て行った時に一度は返したものがまた侑莉の元に戻って来た。 「ありがとう、ございます」 思わずお礼を言う。このタイミングで渡されるとは思っておらず、嬉しい誤算だ。大事そうに鍵を握り締める。 大げさな奴だな。 凌は自分でも知らず顔を緩めていた。 その表情がこれまで見た事もないような甘やかなもので侑莉は目を見張った。 「反則だ……」 「何が」 何でもないです! と侑莉は慌てて凌の手を取って歩き出した。赤くなっているだろう顔を見られたくなくて気持ち前を行く。 早く平常心を取り戻そうとするも、繋いだ彼の手に自分と同じ指輪が嵌っている事に気付いて、暫らくはどうにもなりそうもなかった。 前 | 次 戻 |