ひと夏が巡る
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目を開けると、見慣れた壁、シーツが見えた。
葵は重たい体を何とか起こし、辺りを見渡す。
いつの間に家に帰ってきたのだろうか、と不思議に思いながら携帯を見ようと探す。


(あれ…俺、いつもあそこに置いたっけ?)


やっと見つけた携帯は、部屋の中央にあるテーブルの端っこ。
寝るときはいつも枕元に置くのだ。そこにある訳がない。不思議に思いながらも、チカチカとランプが光っているので取りに行こうとベッドから下り立ち上がろうとする。

しかし、体はまったく言うことを聞かず、ぐらりとバランスを崩しその場に倒れてしまった。


「い、って…」

倒れた瞬間に腰を打ち付けてしまい、鈍い痛みに呻く葵。
起き上がって気づいたが、吐き気と頭痛がまだ続いている。しかも風邪を引いたようで、熱と関節の痛みすら感じた。

体調の悪さに、今何がどうなってこうしているのか考える能力さえ鈍る。
ぼんやりと倒れたまま天井を仰ぎ見た。


すると、なにやら階段の方からバタバタバタ!と騒がしい音が聞こえてくる。
何だと思う間もなく、葵の部屋のドアは勢いよく開いた。そこに現れたのは、


「あ、葵大丈夫か!?」


血相を変えて心配そうに葵に駆け寄る拓也だった。
拓也はちょうど下の部屋にいて片づけをしていたので、葵が倒れた音を聞いたのだ。いきなり響いた鈍い音に、拓也が駆けつけてみると案の定床に倒れている葵。

痛かっただろ、と優しく声をかけて拓也は葵を抱き上げベッドへと寝かせた。
葵はぼんやりしながら、されるがままに寝かされる。
ふと、葵は拓也の方をぼんやり見つめながら、


「…俺、いつ帰ってきたの…」

と聞いた。
拓也はちょっと気難しい顔をして、眉をひそめる。
葵の携帯を取って渡しながら、


「…お前が帰ってきたのは一昨日の夕方」


葵が携帯を開けば、自分が意識のあった日付より2日進んでいる。更に時刻は夜。丸2日寝ていたことになる。
葵は何がなんだか分からず、必死に自分の意識がある頃を思い出した。


「…俺、学校に行った」


鷹島に宿題が7月中に終わったことを報告して、褒美を取り付けるために葵は学校へ行った。
そして、認めてもらったのだ。週末水族館に連れてってもらうことが決まって、葵はとても嬉しかった。

そこで一緒に昼を食べていると、なぜか眠くなって寝ていたら冬香が現れ…。


「ンで、陸部のマネやって…」

押し切られて、臨時としてマネージャー業務をしたのだ。なかなか大変だったが楽しかった。
そして、長距離組の手伝いとして折り返し地点に立って、鷹島と一緒に途中まで走ってから。


「…第2グラウンドまで行ったはず…?」

そこから記憶がない。
確か、ポカリを渡されたがあまりにも気持ち悪くて飲めなかったはず。
と、葵が拓也に状況説明をすると、兄は何度も頷いて、


「葵、熱失神になって倒れたンだよ…熱中症の寸前で命に別状は無くて良かった…」


「え?」


熱失神、保健体育の授業でうっすら聞いたことのある単語。葵はぽかんと口を開けた。

拓也は持ってきたポカリを渡しながら、電解質の補給を促す。
葵は「熱失神って2日も寝込むのか…」と不思議に思いながら渡されたポカリを飲んだ。
拓也は飲んでくれたことにホッとしながら、ついで持ってきたひんやりシートを葵の額に張る。


「葵は体調崩したら一気に色んなの持ってくるからなー…ほら、まだ熱っぽいだろ。風邪も引いたみたいだな」


「あ、そういえば」


すっかり忘れていたが、葵は風邪もひいたのだ。
自分の体力の無さにちょっとがっかりしながらも、早く直そうと軽く心に誓った。
ふと、何か忘れている気がしてならない。

夕飯持ってくるからな、と腰を上げる拓也の声を聞いて、はっと思い出した。


「ちょ、待って兄ちゃん!陸上部の人たちは…?」


自分が倒れた所は第2グラウンド。陸上部の人たちと校舎へ帰る予定だったのだ。
そこで自分が倒れたなんて、きっと多大なる迷惑をかけてしまったに違いない。
葵は「どうしよう…」と彼らに申し訳ないことをしたと項垂れる。

相変わらず、優しい子だと拓也は不謹慎ながらもにやける。その口の端の緩みを抑えながら、


「どうもこうも…その人達からポカリとかりんごとか色々貰ったンだぞ?
昨日も見舞いに来てなぁ…葵が寝てたから玄関までだったけど。…あと、因みに…」

拓也の笑顔が一瞬にして渋くなる。
葵はみんなが見舞いに来てくれたことに、感動して笑顔をこぼしたが、兄の言いかけたことが気になって発言を待った。

拓也の脳内では、葵に付きっ切りだった男前を思い出している。
あまり言いたくないのだが、拓也は仕方なく


「誰だっけ…、鷹島先生か。
あの先生がお前にずっと付きっ切りだったからな。
救急車とか、応急処置とか、俺に連絡とか…あと病院から家に送る時も手伝ってくれたぞ」


鷹島のことを告げた。
葵の表情がふわっと華やかになる。なんとなく気づいてはいたが、鷹島が例の葵の手作り弁当を食べた彼である。
だから拓也は気に食わない。
しかも、自分より大人で男前で、更に言えば深々と頭を下げて「自分の管理不足だった」と拓也に何度も謝る真面目さも持っている。
そのうえ、単身赴任かつ出張中の葵の両親にも連絡を入れたらしい。真面目な男だ。

より、気に食わない。


「…ま、今頃報告書とかに追われてンじゃねぇの」


そう言って兄はさっさと台所へ向かってしまった。
兄が去った後、葵はしばらくぼんやりする。
自分の寝ている間に、鷹島がそんなにしていたとは。付きっ切り、という言葉がなんだか照れくさい。

だが直後、『報告書』という事実に眩暈がした。



(うそ、どうしよ…お、俺のせいでまた書類送検とかそういうのになったら…!)


せっかく勇気を出して、辞めようとする鷹島を止めたのにこれでは意味が無い。
葵の胸がずきずきと痛み出す。
鷹島が教頭や校長、またはPTA会長などに責め立てられる姿を想像してがっくりと項垂れた。


(俺のために駆け回ったみたいだし、なのに…)


葵は取ってもらった携帯を開いた。
週末まであと数日。この状況と体調では、約束の水族館もきっと無理だ。
葵が完全に風邪を治すのには2日以上かかるから。


(…鷹島先生に、ごめんなさいって言わないと…)


散々振り回している気がして、ならない。
葵は苦しいことから目を背けるために、ごろりと寝返りを打って竜一から来た「大丈夫?」のメールに返信を打ち始める。

そういえば、陸部のHPがあったなとぼんやり思いつつも、なんだか怖くて行けなかった。




一方、葵の夕食を作るため滋養がつくであろう玉子粥作りに取り組む拓也。
ぐつぐつと粥を温めながら、ため息をゆっくり吐く。

ぼんやりと、病院に駆け込んだ時を思い出した。


治療を受け、点滴を打たれつつもぐっすり眠っている葵の傍にはたくさんの人がいた。
恐らく、体育系の部活をしている生徒たちだろう。葵は部活をしていないのになぜだろうと思いながら拓也は葵に駆け寄った。


「葵!」


その声に皆はっと拓也を見上げる。
誰だろう、と皆が思う中1人の教諭であろう男性が拓也の下へ歩いてきた。

「…斎藤…君のお兄さんですね」

「はい、あなたは…というか、葵の症状は?」

鷹島は、病室に入ってきた医者に視線を送って頷く。自分より、医療関係者の説明の方が正しいからだ。
優しそうな初老の医者は、カルテを兄に見せつつ


「葵くんは熱失神で倒れたみたいです、ちょっと重くて…熱中症とまではいかなかたのですが…応急処置とが早かったので今は安静にしています。
命に別状はありませんよ、ただ免疫がちょっと弱いみたいですね…もしかしたら風邪を引くかもしれません」


熱失神、という言葉に拓也は疑問を覚える。
ついで鷹島に「葵はなんで倒れた?」と聞いた。
すると、鷹島は苦しそうな表情を浮かべて、


「陸上部の臨時マネージャーとして活動していて…道路で長距離を走る手伝いをしていたんです。手伝いといっても、折り返しで目印として立って、第2グラウンドまで俺と一緒に走っていたのですが、」


恐らくそれが原因かと、としっかり告げた。
そして、即座に深く頭を下げ、謝る鷹島。生徒が倒れて、親族に謝らない訳が無い。
しかし、一般の生徒が熱失神や日射病になって保健室に運ばれたりしても、親族や保護者はそれほどまでショックを受けないだろう。
骨折や、死に至る病気なら話は別だが。

しかし、拓也はわなわなと震えて、



「ふざけるな!なんで、何でそんなことをさせるんだ…葵がやると言ったのか!」

何も知らず眠る葵を見つめながら怒りをぶつける。
すると、葵の傍にいた女子生徒があわてて駆け寄り、鷹島の隣で何度も頭を下げた。


「すみません…!わた、私がっ…無理やり斎藤くんに頼んだんです!鷹島先生は悪くありません、」


だから私の責任です!と冬香は泣きそうになりながら必死に謝った。
拓也も、さすがに女子に謝れては怒れない。こんなにも反省して、心を痛めている。これ以上責めることなんて、出来ないに決まっているのだ。
すると、また1人男子生徒が隣に立って、同じように頭を下げた。

「いえ、…僕が長距離の手伝いをしてくれと言ったから…!」

高木も心底申し訳無さそうに頭を下げる。
すると、鷹島は2人の肩を優しくたたいて、

「…お前らは下がれ、俺が監督だから気にするな」

とフォローした。


拓也はやるせなさに苦しむ。
彼らに悪意は全く無い。むしろ、葵が倒れてこんなにも心を痛めているのだ。
けれど、この苦しみと怒りをどこにぶつけたらいい。

「分かりました」と拓也は告げ、再度葵を見つめる。
点滴を打って、眠っている葵。
熱失神なので今日か明日には目が覚めるだろう、ということでしばらくしたら家に帰ることになった。


拓也は苦しそうに呟く。


「…どうして、また…」



その言葉が薄っすらながらも聞こえた鷹島。
「また」という意味がどんなものを含んでいるのか分からないが、なんとなく察しがついてまた苦しそうに表情をゆがめた。




拓也はぼんやりと天井を仰ぎ見た。
あの後、葵に告げた通り鷹島は一生懸命頑張ってくれたのだ。葵のために。
あの言葉が聞こえたかどうかは拓也は分からない。
それに、心が弱って呟いただけで、実際はそんなに重たい症状ではなかったのだ。

けれど、思い出す昔の事。


(…もう1個、玉子を入れておこう)


コンコン、と玉子の殻が奏でる無機質な音が静かな台所に響いた。

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