微睡んでいる。
自分を包むシーツの温度があまりに心地良く覚醒を渋っていると、
唇にふ、となにかが触れて、つい目を開けてしまった。


「……?」

「あ、恭弥、おはよう…起こしちまった?」


寝ぼけた目蓋は何度か閉じかけたが、
シーツだと思っていた温度はこのイタリア人のもので、
唇に触れたのは彼の唇だったのかという事に気付いた。


「……ふふっ、」

「なに……」

「いや、キスで目を覚ますなんて、眠り姫みたいじゃねぇか」


あなたは目尻を下げて笑った。
僕の頭の下に右腕を突っ込んで、
痺れたりしないんだろうかと思った。
でも退こうとかそんな考えは浮かばなかった。


「今、何時、」

「朝の9時。昨日あのまま寝ちまったからな」

「あのまま」


記憶を辿って、はっとした。
思わずあなたの右腕から退いて、ベッドの隅まで後ずさった。
顔が熱くなるのを感じていたら、あなたが困った様に笑った。


「悪ぃ、でもちゃんと後始末はしといたから、その辺は心配無いぜ」

「後始末」


おうむ返しにする僕にあなたはくすりと笑うと、
顔真っ赤だぜ、とからかってきた。


「おいで、恭弥」

「……、」


やはり次第に寒さを感じて、ふと見れば各室備え付けの寝間着が、
なんとも奇妙な着付け方で身体に巻き付いていた。


「なにこれ」

「なにって、それユカタってんだろ? ちゃんと着付け通りにやったんだけど、なんか上手くいかなくってさ、」


逆になにをどうしたらこうなるのか知りたい。
へらりと笑うこの人が、昨晩のあの余裕の欠片も無い、
本能を剥き出しにしていたあの人と同じ人間だとは到底思えなかった。
しかし肌寒さはどうも耐え難く、大人しくあなたの隣へ戻る。
あなたの体温はひなたぼっこをしている時の温もりに似ている。
首筋から甘い匂いがする。昨夜、僕を煽って仕方無かったこの匂いは、今はただ僕を穏やかな気分にさせた。


「ねぇ」

「ん?」

「人の名前呼び捨てにするの、やめてくれる」

「じゃあどうやって呼べば良いんだよ」

「雲雀恭弥だって言っただろ」

「ジャッポーネは後ろがファーストネームなんだろ?」

「そうだけど、みんな僕を雲雀って呼ぶ。落ち着かない」

「お、じゃあ、恭弥って呼ぶのは俺だけか」


無邪気に笑い掛けるあなたは僕をぎゅうと抱き締めた。
跳ねる心臓の音が聞こえるのではないかと気が気で無い。
お願いだから僕を無駄に喜ばせたりしないで欲しい。


「……聞いたよ。今週中にはイタリアに帰るんだろ」

「……あぁ、」


甘ったるく触れてくるあなたから逃げる様に、現実的な話題を持ち出した。
昨日、沢田が教えてくれた事だ。
この人たちは仕事の為に日本に来ていて、
今週の半ばにはイタリアに帰るのだと。
なんとなく聞いただけだったのに、
何故だか胸がつんとした。


「いつ帰るの、」

「えーっと、明日…の次はなんて言うんだっけ……?」

「明後日」

「そうそれ、アサッテ」


明後日。
頭の中で繰り返す。また胸がつんとした。
明後日になったら、この人はイタリアに帰る。
もう二度と会う事も無い。二度と唇を、身体を重ねる事も無い。
あぁこれが一夜限りという奴かとぼんやり思った。
しかしそれでも良いと思ったのだ。
一度きり、会えなくなろうと遊びだろうと構わない、
それでもこの人に抱かれてみたかった。
少し唇を動かすだけで、僕を見て笑うだけで、
あのジャズバーで、ステージの上とフロアの端とで、初めて目が合ったあの時から、
身体がぞわぞわと疼くのを感じた。
廊下で話しかけられて今度はぞっとした。
首筋に毒牙を当てられた気分だった。
話せば話す程離れ難くなった。
まるで麻薬の様な、中毒性のある毒に違いなかった。
どうしようも無く惹かれていった。
どうしようも無く欲しくなった。
それなのにキスをされておかしくなるかと思った。
咄嗟に押し退けて、飛び込んだエレベーターの中で、少しだけ後悔した。
ひとりきりの部屋に戻る頃には、後悔は心臓を支配するまでになっていた。
僕はあなたに恋をしてしまった。
だから昨日、ステージの上とフロアの端とで、もう一度目が合ったあの時、
胸を巣喰う後悔が少しだけ身を潜めて、
心臓が飛び跳ねて喜ぶのを感じた。
せめてあなたが少しでも僕の事を気に掛ければ良い。それだけだった。
それだけ思って手を引いた。
あなたが追っていて、唐突に決心した。
今夜だけ。今夜だけ、この人の事が欲しい。
そうしてあなたの一夜を手に入れた。
満たされたはずの欲望は、目覚めてみたら、空っぽだった。
もっとあなたが欲しくなっていた。
馬鹿げている。本当に。


「恭弥はこれからもずっとここに居るのか?」

「たぶんね」

「じゃあまた遊びに来る」

「そう」

「……信じてねぇだろ」

「どうだろうね」

「イタリア人は嘘吐かねぇから、安心しろ」

「どうだろうね」


息が止まりそうになる、別れの気配。
静かな部屋は不思議と空気も冷たかった。
そんな僕を暖める様にあなたが耳朶にキスをする。
胸の痛みが少しだけ和らいだ気がした。
優しさなんて要らない。
これ以上僕をつけあがらせないで、
これ以上あなたを好きにさせないで。
あんまり暖かい腕の中でそんな嘘みたいな事を言えるはずが無かった。
部屋は依然、しんとしている。

あなたは結局嘘を吐いた。








111218.  |



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