小説 | ナノ

兄主5


次の日から女は怯えを滲ませた目で僕を見るようになった。キスの要求もない。平手打ちにこれほど効果があったとは知らなかった。

「菜々美さん。頬まだ腫れてるね」

手を伸ばすと女はギュッと目を閉じる。僕はその様子に痛ましげに眉を顰め、やさしく跡を触る。

「ごめんね。痛かったでしょう」

泣きそうな表情をつくりもう一度ごめんね。と呟く。

「……大丈夫よ。心配させてごめんなさい」

「怖かったでしょう」

「いいえ」

女は無理やりつくった笑顔を僕に向ける。僕も醜い笑いで見つめる。

「旦那さんの時と、どっちが怖かった?」

途端に女の顔が引きつった。

「っちがうの……あの人は悪くないの」

女はうわ言のように呟く。
驚いた。てっきり旦那のことは嫌っていると思っていたが、そうではないようだ。
目を伏せる女に頭の奥がキリキリと痛む。

「私がもっと支えてあげていれば……」

呟く女の目は今までに見たことがない温かさを持っている。
馬鹿な女。暴力男を責めようともしない。

尚も夫のことを話そうとする女の唇を乱暴に奪う。息ができないほど激しく執拗に。何回もそうしていれば女の体は弛緩し、目の温かさも消え去った。

「愛してるよ」

快楽と酸素不足で朦朧とした女に言い聞かせるようにささやく。

「愛してる。菜々美さん。他の男の話なんてしないで」

「僕だけ見て、僕のことだけ考えて」

愛してる、愛してる。そういい続けると、女の口からも言葉が零れた。

「私も愛してる」

空っぽのまま呟く女の姿にえぐられるような苦みを感じた。



[back]