きっとソレは楽しいから


「なあ、テニス楽しいか?」

 コートの外から声をかければ、手を止めて訝しげな表情でこちらを見る彼。かれこれ三十分はサーブの練習をしている彼を、俺はただただ見続けていた。

「……楽しくなきゃやってないでしょ」

 彼――越前リョーマはそう言って、また一本サーブを打つ。放たれたボールは見事な弧を描き、サービスコート内に落ちる。流石だと拍手すると、越前は満更でもない顔を浮かべる。が、すぐにいつものポーカーフェイスに戻る。
 俺が気付かないわけないのになぁ。なんて思っていると、今日はこれで終わり、と越前は打ったボールを拾うためにコート内を歩き出す。俺も慌ててコート内に入り、ボールを拾っていく。

「先輩は、楽しくなかったの?」

 拾ったボールをカゴに入れていると、越前が話しかけてきた。何が?と聞けばテニス、と返ってくる。
 ああ、なるほど。さっきの質問を返してきたのか。

「楽しかった……かは俺にもよく分かんねえな。今は見てて楽しいけど」

 正直なところ、最後の方にやっていたテニスは楽しくなかった。頭が、目が、耳が、手が、腹が、足が、身体中全てが痛い。そんなテニスが楽しいわけがなかった。
 何故昔の自分がそこまで無理をしてテニスをしていたのかは、自分でも分からない。痛い、苦しいと感じ始めた時点でやめていればよかったのに、やめなかったのは単純に意地を張っていたのだろう。中学二年生という時期は妙に頑固なものなのだ。
 結果的に、テニスができる身体ではなくなってしまった。一時の気に身を任せて突っ走った結果がこれなのだから、馬鹿らしい。
 でも今、テニスを見ていて楽しいというのは本当だ。青学テニス部のみんなが、特に今目の前にいる彼がテニスをしている。それを見るのが俺の今の楽しみと言っても過言ではないのだから。

「ふーん……」

 越前の返事は素っ気ない。どうでも良さそうだな、とまたボールを拾うため越前に背を向ける。それと同時に俺は動けなくなる。
 静かなコート内にラケットが倒れる音が響く。俺の身体には、越前の細い腕が回されていた。

「圭先輩って、意外と馬鹿だよね」
「は?」

 流れを無視した突然の罵倒に変な声が出る。この状況で何を言ってるんだこいつは。甘い言葉の一つでもかけるところ、ではないけれど。越前にそんな事は求めていない。
 だが、ここは励ましの一つくらいあっても良いのでは、とは思うが越前に限ってそれはないかと自己完結する。

「俺らのことが好きなお人好しで、誰にも踏み込ませようとしない自己完結者」
「えっ、」
「俺たちに負けないくらいテニスが好きで、俺たちに負けないくらいテニスがしたい、生粋のテニス馬鹿」
「え、えちぜ―――」

「―――そんな圭先輩がテニスを楽しくないって思うのは、馬鹿以外の何物でもないと思うけど」

 回される腕の力が強まる。首と視線だけを動かしてみれば、俺の背に顔を埋める越前。俺が見ていることに気がついたのか、越前はこっち見んなと言わんばかりに俺の背中に頭を押し付ける。男に抱きついて何が良いのやら。
 ……でも、可愛い奴だなぁ、なんて考えてしまう自分も大概だというのは知っていた。

「越前、えーちーぜーん」
「……なに」
「ちょっと離れてくんね?」
「……え、あ、なんで」

 おそるおそる力を緩めて離れる越前。
 ―――ああ、違う。そうじゃないんだ越前。お前が嫌だから拒否したわけでも、お前に態度に怒ったから離れてほしいわけでもないんだ。

「背中越しじゃ抱きしめ返せないだろ、ってな!」

 振り返って勢いよく抱きしめてやれば、越前は勢いに耐え切れなかったのか、そのまま後ろに倒れる。もちろん、俺も一緒に。

「ちょっと、圭先輩。勢いくらい考えてよね」
「ん、ごめんごめん。でもちゃんと頭守ってやっただけ良いじゃん」
「背中が痛いんだけど?」

 咄嗟に頭を庇ったのは自分でも流石だと思ったが、越前は背中を打ったことが不満らしい。ごめんって。
 なんて考えていると、越前が突然顔を赤くした。手を額に持って行き何かを掴もうとするが、そこに何もないことに気がつくと次はその手で顔を覆った。

「越前?急にどうした、顔赤いけど」
「なんでもないっす……」
「いや、そうは見えな―――」

 越前の頬に触れようとして、ようやく気付く。この体勢、はたから見ればかなりまずいのでは?
 俺たち以外に誰もいない夕方のテニスコート。越前を押し倒して頬に触れようとする俺と、俺に押し倒されて赤くした顔を隠そうとする越前。

「ご、ごめん!そういうつもりじゃ、ないわけではないんだけど」
「……何それ、どっちなわけ」

 慌てて飛び退こうとするも、越前に手を掴まれる。顔は依然赤いままだが、先ほどの余裕のない表情と打って変わって普段でさえなかなか見せない満面の笑みを浮かべている。
 今度は俺がたじろぐ番だった。意識しないようにするだけ無駄なことはわかっているが、どうしようもない。立場が逆転してしまえばもう越前のペースに乗せられてしまう。

「ねえ、圭先輩」
「な、何だよ。というか、手、離せ」
「手?良いよ」
「えっ、」

 ぐっと腕を引かれ、バランスを崩した俺は越前の上に倒れこむ。顔がぶつからないよう咄嗟に肘をついたのは身体に染み付いた動作だから仕方がない。そして、越前のその行動に対する驚きと現状に対する羞恥で鼓動が早まる。

「こうするから」

 するりと首に腕が回される。中学生らしからぬ妖艶な笑みを浮かべる越前に、かああ、と顔が赤く熱くなる。全身の血液が沸騰しそうだ。
 確かに手は離されたが、これでは逆にもっと恥ずかしくなってるじゃないか!と叫びたい衝動に駆られる。だが、本当にそんなことを言ってしまえば、また彼のペースに乗せられること間違いない。

「テニス、嫌いになった?」
「そんなわけない……俺の生きがいだよ、テニスは」
「ふーん。テニス以外にもっと楽しいこと知らないの?」
「……別に、知る必要もねえ」

 鼻先が今にも触れ合いそうな至近距離で、居もしない誰かに聞かれないよう、二人してか細い声で囁き合う。
 こんなところで何をやっているんだとは思う。だが、二人きり。二人しかいないのだから、少しくらいはいいじゃないか。
でも、

「圭先輩、」
「……越前、ダメだ」
「え……?」

 戸惑う越前の頬に一度、キスを落とす。

「続きは、家で。な?」
「先輩の家で楽しいこと、するの?」
「……さあ、どうだか」

 きっと、楽しいんじゃねえの。俺にとっては、だけど。





(遅くなるって連絡入れとけよ)
(今日は帰らないって言っとくっす)
(お、おっまえ、そういうことはしねえかんな!?)
(圭先輩、何考えてんの。ゲームするだけでしょ、ゲーム)
(こ、こんにゃろ……)



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