星苅り 星が消えた。
音楽も、夜も、もうここにはない。
ただほんのりと、やわらかい香りだけがかすかに残っている。
ティエリアはその色づいたかのような空気をひとつ、すう、と吸い、吐いて、呼吸をしてから、立ちあがった。
それに呼応するようにライルの右腕がぱたりとシートに落ち、はずみでようやく目を覚ます。
「……ん、あれ?終わって……」
「安眠できた様で何よりだ」
しばらくの間ぼんやりと両眼をしばたかせ、かと思えば一度だけ目もとにてのひらをあてがい、その後で両腕を振り上げてライルは気持ちよさそうに伸びをした。ちらとティエリアに投げた一瞥には、それでもやや気後れの気配が滲んでいる。
「初めてのプラネタリウムのご感想は?」
「ライル・ディランディの腕が邪魔だった。以上だ」
それだけ即答すると、ティエリアはライルをその場に早々と立ち去ろうとする。が、出口に群がる観客の群れを見て、舌打ちせんばかりの忌々しさのもと、一旦、歩を止めた。その背中を見てライルがあからさまに安堵しつつようやく動き出すものだから、ティエリアは尚更に不機嫌になってしまう。
「だってしょうがないだろ?お前、リクライニングシートで背中まっすぐとか。マナー違反だし後ろの席の人に迷惑だろ」
「生憎、人前で仰向けの姿勢を晒す趣味は無い」
「その趣味は俺の前でだけ発揮してれば良いけどさ、だからマナー違反なんだって」
「君の発言は虚偽に基づいた公序良俗違反だ!それに比べれば!」
「この場合どれに比べても迷惑は迷惑なの!」
「だからと言って僕の胸元を右腕で押さえたまま四十五分間五十二秒熟睡して良い理由にはならない!」
「何だ、寂しかったのかよ。じゃあ今夜は胸の上じゃなくて頭の下にして腕枕してやるからそれで大目に見ろって」
「君はこの銀河系が滅びるまで目と口を閉じていろ」
お、プラネタリウムっぽい台詞。そうライルが茶化すのを今度こそ振り切ってティエリアは扉へと進んだ。もう雑踏はだいぶ控えめになり、人に揉まれず外へ出ていけそうだ。
プラネタリウムのチケットが余ったので、良かったら。そう言って譲ってくれたのは、ライルの旧友のクラウスだった。何やらフラットの入り口で興奮気味に、実に素敵だった、ロマンを感じた、と熱弁していたその声は、リビングにいたティエリアの耳にも届くほどだった。ライルが、ふうん、シーリンの反応はどうよ、と皮肉げに探りを入れても気づかないのか気にならないのか、とても喜んでくれたよ、と照れ隠しもせず至極まじめに返すほどだから、そうとう有頂天だったと見える。
でも、とクラウスは尚も吐息まじりの感嘆をこぼした。
「星の女神の美しさも、俺のすぐ隣で星を見つめる彼女の瞳の輝きには叶わない……それを再認識したよ」
ライルは玄関で、ティエリアはリビングで、それぞれ軽い、しかし確かな衝撃を受けた。
が、ティエリアはそこそこ早めに気を取り直した。類は友を呼ぶと言う。まともそうにしていてもクラウス・グラードにだってそれなりの癖があっても何ら不思議はない。ロマンと言うよりロマンチックでは、などと余人が口を出す必要性もない。
ただ、ライルの方ではまた別の感慨があったらしい。
「ティエリア!明日はプラネタリウムに突撃だ!」
クラウスが帰るや否や、なかば駆けるようにして戻ってきたライルに高々と宣言され、ティエリアは気圧されるあまり反抗の機会を逃した。ライルの手の中で、チケットは早くも強く握りつぶされ端が震えていた。
「そもそも僕は気が乗らなかったんだ」
ティエリアは無性にやり場のない感情を、ぶつくさとした文句にこめながらロビーの椅子に身を腰を降ろす。出口から程ない距離に、付属の休憩用テーブルや売店が設えてられている。退出時間をずらしたせいか、それとも観客の大半が屋外の小洒落たレストランやカフェにでも移動したのか、既にあたりに人影はまばらだ。時計は夕刻を指していて、窓越しの空には藍色がまじりはじめている。
「宇宙など見慣れている。日常の景色だ。わざわざ見に来る様なものじゃない。トレミーでならば無料で鑑賞可能だ」
「まあまあ。結構、楽しかったじゃないの」
「ほとんど寝ていた君に何が分かるんだ」
「あー……いやほら、暗い中で良い香りと音楽に癒やされちゃってさ、つい、な?」
「僕の身体も押さえていたから疲労が出たのだろう。大変だったな」
「そこ根に持つなって……。でもさ、寝てても分かったぜ」
「何がだ」
テーブルを挟んで座っていたライルが、ふいに穏やかに微笑みながらティエリアの方へとわずかに身を乗り出して、囁く。甘く。
「星の女神よりティエリアの瞳の方がずっと……綺麗だよ」
「太陽系が消滅するまで寝言は慎んで貰おう」
ライルはあえなく肩を落とした。ゆっくりと長い溜め息を吐き、椅子を後ろへと引く。
「喉、乾いたろ。紅茶で良いよな?」
「水」
「はいはい、紅茶な。ちょっと待ってろよ」
ふらふら歩き回るなよ。そう言い残して、ライルがドリンクカウンターの方へと立ち去る。子どもじゃない、と噛みつく暇も無かった。どのみち、ティエリアにはその気力もあまり残ってはいなかった。
そもそも気が乗らなかった。それは嘘ではない。星なら母艦で嫌というほど見れるというのも、偽りない事実だ。
でも、人工の星空にまったく興味がなかった訳でもない。
仮にも、ただライルがあの台詞を言ってみたかっただけだとしても、それはそれで悪くなかった。
自分は比較されるのを嫌がるくせに。そんな嫌味の一つぐらいは口にしようと思っていたが、つまり、その準備ができていた程度には、気乗りであったとも言える。
どちらかといえば、そういう雰囲気が欲しかった、ような気もする。
それなのに、とティエリアは思う。
僕は毎回あのライルの救いがたいどうしようもなさを何故だか忘れてしまう。
きっと、一定の期待値があるからいけないのだ、とティエリアは性急に答えを出す。手持ち無沙汰がそれを加速させる。
今度という今度は何も望まないし求めない。あちらもそうすれば良い。実にさっぱりする。
「こぐまざ」
ややこしいことや面倒ごとなど何ひとつなくなる。
「おおぐまざ」
よし。
「りょうけんざ」
それで行こう。
「おとめざ」
ティエリアは心を決めたくだりで、ふと振り返った。
「からす」
ライルが向かったのとは反対側の、ちいさめの売店。飲食物ではなく、星をデザインしたグッズなどが、整然と並べられている。
そこで、半ズボンをはいた少年が天井を指さし、ひとつずつ、名を唱えていた。
「コップ」
その後ろ姿をティエリアは何とはなしに眺め、次いで、少年の指の先をたどる。
「ししざ」
売店の天井に描かれた、星座図。少年は星の場所を確認するように、順ぐりに追っていく。
「うしかいざ」
知る限り、全問正解だ。ついさっきのプラネタリウムで学んだのだろうか。身長や幼い声音から察するところ、十もいかないだろう年齢だろうに、春の星座をしっかりと記憶してしまっているらしい。
「デネボラ」
つたない発音ながらも、どんどんと少年は進んでゆく。
「スピカ」
あとひとつ。あとひとつで、春の大三角ができあがる。が、少年の指はふいと予想とは別の方向へ逸れた。
「ほくとしちせい」
一拍おくれて、ティエリアが、ああ、と納得するのと同時に、少年はその星の名を呼んだ。
「アルクトゥルス」
春の大曲線。
なだらかに落ちていくような、ひとすじ。
アルクトゥルスは、牛飼い座を構成する一等星だ。牛飼い座のモデルは、
「アトラス」
少年がティエリアの胸中を見透かしたかのように、語り出した。
「巨人のアトラスは、ゼウスの命令で天を支えていました。でも、天を支えるのはとても大変なこと。あるとき、メデューサを倒しに行くペルセウスに出会ったアトラスは、こう頼みました」
神話にも詳しいらしい。ティエリアは知らず、耳をすましてその語り部に聞き入った。
「メデューサの首を落としたら、どうかメデューサの力で自分を石にしてほしいと」
身をよじった姿勢のまま、ティエリアは物語の続きを待つ。
「ペルセウスは、約束を果たしました。みごと、メデューサに打ち勝ったあと、ペルセウスはアトラスのところに立ち寄り、望み通り、メデューサの首の力で、アトラスを石に変えました」
少年は天井を見上げながら、あどけないかかとを床から少しだけ浮かせる。
「これでもう、アトラスは辛い思いをすることはありません。なぜって」
身も心も石になったから、天を支えることも、苦しくなんかないのです。
少年のくるぶしが揺らいだ。ティエリアがはっとするより早く、しかしその足はきちんと地につく。
「ゼウスは、ようやく楽になったアトラスを、天に上げて星にしました。それが、うしかいざです」
おしまい。
少年は神話を結んでから、しばらく立ち尽くしたあと、ずっと上向けていた顔を徐々に下げていった。
しかし、天井以外にも見どころは尽きない様子で、顔を正面に戻すには至らない。そこかしこにちらばる天球儀や小型プラネタリウム、天体の模型を忙しなく眺めてはうっとりしているらしい。
らしい、と言うのは、少年がずっと背中を向けているから、ティエリアにはその顔が見えないのだ。はっきりと目でわかるのは、金髪だというだけ。
しかし、あれほどすらすらと星座や神話を暗記して語れるぐらいなのだから、きっととても星が好きなのだろう。第一、ここはプラネタリウムだ、とティエリアは遅まきにも判断材料を追加する。星の好きな少年にとっては、売店も宝庫そのものだろう。
だが、親は何をしているのだろう。今更ながら、ティエリアは訝しんだ。子どもから目を離して良い時間の目安は測りかねるが、やや長い時間、この少年はひとりでいるように思える。
それに、ほしいものがあれば記念に何か買ってやっても。これだけ、賢い子なのだから。
ついそこまで思考を巡らせた段になって、やにわに鋭い声が飛んできた。
「グラハム!」
ティエリアがそちらへ振り向いたのと、少年がそうしたのとは、恐らくほぼ同じ仕草だっただろう。声の主は、黒い修道服を纏ったシスターだった。
まったく、こんなところに。探したのですよ。
ちょこんとお行儀よく頭を下げながら恐らく謝罪を呟いた少年に、シスターが未だ困ったふうに、でも笑いながら手をつなぐ。
またここに来る機会はありますからね。でも、もう帰りますよ。皆も待っています。さあ、行きましょう。
手を引かれて、プラネタリウムから離れていく、そのとき。
少年がかえりみた。
前へと歩きながら、別れがたそうに、売店を、天井を、プラネタリウムの扉を、じっと見つめている。
ティエリアは思わず、不躾にもその姿に目を留める。とめてしまう。
あんなに欲しがっているのに、去っていってしまうなんて。
頭の中で、少年の物語が残響が幾重にもこだましては、消える。
天はとても重たかったけれど、石になったから、楽になったから、苦しみなんか、もうないのです。
とん、と紙コップがテーブルに置かれる音で、ティエリアは我に返った。
「ほら、ご所望の水」
琥珀の液体から、ふんわりと湯気が立ちのぼっている。ティエリアはそれを見てから、ライルの顔へと視線を移した。ライルは座りながら、ティエリアを見返してわずかにまたたいた。
「何かあったか?」
「……いや」
ああそう、といつもの調子で受け流して、ライルは自分の紅茶を啜る。ティエリアも数秒、遅れて、カップを手に取る。あたたかい。
「ライル」
「ん?」
「売店に興味はないか?」
ライルはティエリアの肩越しに売店を見やった。途端に表情が華やぐ。
「面白そうなのあるなあ。後で寄ってくか?」
「君が寄りたいかを聞いているんだ」
ティエリアが咬んで含めるように言い返すと、ライルは再び不可思議といわんばかりの顔つきになった。
「寄りたい、かな。ご許可頂けるなら」
それでいちいち一言おおいのが、この男の特徴で。
それにいちいち反応しないと決めたばかりなのに。
「許可する」
「ありがとうございます」
どこまでも腹立たしいが、ティエリアは眼鏡を掛け直すそぶりで自分自身をいなす。
「やはり、ああいったものを好むのか」
こめかみをほんの僅か傾げて売店を示してみせると、ライルはどういう訳か素直に頷いた。
「好きだなあ。ああいうの、わくわくするだろ」
「わくわく……」
「正直、星とか詳しいことはそんなに知らないけどさ。巨大な惑星がてのひらサイズとか、隕石の欠片とか、まあ何て言うの?」
ロマン?
疑問系で同意を求められ、ティエリアはつい胡散臭いものを目の当たりにした表情を浮かべてしまう。
「ロマンチックではないのか」
「……お前の口からその単語が出るとか地球終わるの?」
「……君は僕を楽にさせたいのか……」
「は?そりゃ何でも楽しんで貰えたら嬉しいけど」
駄目だ。まったく、どうにもならない。
きっと、一緒にいようとする限り、とにかくすれ違い続けるに違いない。相性が悪いからではない。それを言ったら、自分と相性の良い人間など、まず存在すらしない。
でも。
間違いなく、自分は今、とてつもなく物欲しげな感情で、いる。
それがただの負けん気なのか、征服欲なのか、あるいは闘争心なのか、わからないけれど。
可能性が三つもあれば充分だという気もする。
他の人間にはいちどきに三つも何かを要求したり触発されたりすることなどは、決してないのだから。
「それで」
ティエリアは紅茶がほんの少し残ったカップを手に包んだまま、ライルを見る。
「目的は果たせたのか」
「目的?」
「クラウス・グラードの上を行きたかったのだろう?」
率直にティエリアがそう言うと、ライルは、しばらく黙りこんでから、ああ、と曖昧な声を出した。
「シーリンだったら俺を見捨ててさっさと帰ってるだろうなあ」
「ライル。今はシーリン・バフティヤールの話をしている訳では」
「分かってるって。だからさ」
ライルの指が、こっそりとティエリアの指の関節をくすぐった。そして流し目で、笑う。
「俺はティエリアがきらきらしてるところを見逃さないので精一杯ってこと」
ティエリアはあまりに思いがけないそのことばに、石になってしまいそうになる。
「きらきら?」
「あー……分かんない?」
「分からない。月が粉砕されでもするのか」
「俺達、宇宙を破壊しすぎだろ」
呆れたふうに自嘲したのち、ライルは真正面からティエリアを見つめた。
「ティエリアが俺のことで怒ったり呆れたり悩んだり考えたりしてる、そういうのを、きらきらしてるって言いたいんだけど」
「……」
「そういうの、俺しか見れないわけでさ。誰かと競ってる暇はないんだよな」
自惚れるな、といつもならばとりあえず一喝するところだ。
けれど、今。
ティエリアはそれ以上に、声に出して伝えるべきことがあると、はっきりそう気づいていた。
未だ指の表をなぜてくるライルの爪先を見下ろし、そっと手を引くと、居住まいを正してティエリアはライルに向かう。
「ライル」
「はい」
「君のことで喜んでいる、嬉しい、有り難い、思い出している、なども、その中に追加して欲しい」
一緒にいる時だけではないのだから。
そう告げると、今度はライルが石化した様だった。
数秒の静寂の果て、ようやっと、微笑む。防壁も繕いもない、自然なかたどりで。
窓の外はすっかり暗くなってしまった。地上のあかりが眩しすぎて、空の星はほとんど見えない。
こころを失った巨人が支えている、天。
そのはるか下で、ふたりはいつまでも楽になりきれず、おどろくほどの貪欲さにあえぎながら、向きあうことをやめられないで過ごしている。
「帰るか」
「売店は」
「寄ってく」
「何か欲しいものは?」
「まずは見ないとなあ」
「ロマンのあるものか」
「あとロマンチックなやつな」
椅子を引き、紅茶の紙コップを捨てるためにゴミ箱へ向かいがてら。ライルの要らぬ軽口にティエリアは気持ち容赦した蹴りを投げるだけで、それ以上に何かを思い知らせようとすることはなかった。
ロマンチックは間に合っているのでは、とも敢えて口にはせず、ティエリアはライルの選ぶものを想像しては、わくわくと好奇心がふくらんでいく幸福を、ただ静かに追いかけていった。
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