常宿、不可の深み、そして朝のまどろみ。
150413 2207



運動神経という名前の神経は人体に存在しない。
運動を司る神経はある。
だが、それらが特にスポーツを得手とするか否かの分け目になることは恐らくない。

無神経という言葉がある。
これはどの神経をもってして無とするのか。
どの神経がどのくらい劣っているとか平均よりも活発でないかで、無神経な発言、無神経な対応、無神経な人と段階を設け、区別するのだろうか。
一方で、とりわけ人づきあいにおいて、神経を使うことは良いことと見なされない傾向にある気がする。
神経を使う交流はどうにもこうにも疲れるが、適度に気を遣うそれはさほど忌避されていない。バランスの問題でもないように思う。

先月末、ひっそりとスポーツクラブに復帰を果たした。
改めて、ああ、我が運動神経たるや母の胎に置き忘れた如し、と、周囲を巻きこんで苦笑いしきりである。
おおよそ私ほど出来の悪い人間もそうはいないだろう。
常人が三もやれば済むところを、私は五ではとても足りず、十、二十、下手をすれば三十は必要だ。
と、あまり自分自身について否定的なことを言うと人さまを困らせてしまうことも少なくないので、最近ではめっきり口にしなくなった。
といっても、今やさほど悲観しているわけではなく、単純明快な事実として過大あるいは過小評価もせず、ごく自然に自覚することを憶えた。ようやく、ここまで来れた。長かった。
かつては神経質だとしょっちゅう評されていたものだ。現在、恐ろしいほどおおざっぱである。
が、実はこの点は昔からあまり変化がない。
考えすぎだとたしなめられて耳に大タコから子タコまでを取りそろえこしらえつつ、自分では思考の過程に主観的な要素が入りこみ暴走する癖が強すぎて、ゆっくりとした、冷静、かつ素朴な分析や捉え方が習得できていないだけだと思っていた。
それをきちんと伝える術もまだ確立されていなかったため、大変ややこしいことになっていた。
数年前にうさぎをお迎えして、はじめての健康診断で獣医さんにあれこれ聞いたとき、「あまり神経質にならなくて大丈夫ですよ」とのお言葉を頂戴した。
その台詞、びっくりするほど久しぶりだと妙なところでいたく感銘を受け、今は昔を懐かしんだ。

身体を動かしていると、たとえば手仕事の際とはまったく異なる神経を使っていることに気づく。否が応にも意識させられる。
どこでどの神経を、ということはまだはっきりとは言えない。筋肉と神経をないまぜにして理解したつもりになっている危険性も考慮しなければならない。
しかし、習ったことを頭の中でおさらいして、反復を試みるとき、何がしかの神経が肉体的な筋を正しく動かすよう促している感覚はある。
いま気づいたが、脳におさめるそうした情報も大方あやまたず回路をしっかりと通っていっているのだから、人間という存在はつくづく線のかたまりだ。

こころはきっと目に見えないけど、極端な話、神経は解剖でもすれば目視することはできる。
間違いなく存在する。誰にでも。個体差はあれど。
が、言葉として取りあげた途端、どこか実態のない、日本人にしかわからない、世界と共通することのない、何かになってしまう。
それがひとつは運動神経なる便宜的な単語であり、無神経という間接的な表現であり、神経質など個性の一部を評価するためのざっくりとした用語である。
どれも会話のなかで充分に通じるけれど、現実からの乖離のありようときたらちょっと他に類を見ない。

逆説めいたことを言うと、数多あるプログラムの中でも特に好んでいるヨガ。
これに限っては、精神に埋没する瞬間こそもっとも神経を高めているであろうに、肉体をほぼ完全に忘れる瞬間が時おり訪れる。
次点で太極拳。意図しない集中は天地神明との無邪気な戯れだ。
エアロやダンスなどはどうもそうはいかない。身体の重さをあらゆる意味で痛感しながら必死に暴れている。そう、本当にまったく、肉体が、そう、肉が、筋肉よりも何倍も先にあの疎ましき脂肪が、地球の引力との不毛な争いを私に強いる。
以前ほんの少しだけかじったバレエはまだヨガや太極拳に通じるところがあった、かもしれない。が、やはり精神だけではどうにもなりっこないので、結局のところ、汗にまみれて積み重ねていくしかない。

ヨガも太極拳もダンスも、まだ戻ってはいないけれど水泳も、型にはまることの楽しさがある。
それに気づくことができたのは、ごくごく最近のこと。運動を通してではなかったが、自己流にあふれる喜びや美しさと背中あわせの危うさを感じるようになって、まず、自分を型に押しこめたくなった。
つまらない、不自由、きゅうくつ。そこから遂に踏み出した最初の一歩は、どれほど軽やかで、確かなことだろう。

私には運動神経がない。似た言いまわしが許されるならば、音楽の神経もない。絵の神経も、もちろんない。有していたらどんなにか素晴らしいだろうたくさんの普通のものすら、総じて、ない。
だが可能性だけは常にある。
それを知り、信じて、ようやく、型にはめていることができる。安心して、方法も、選択も、ひょっとしたらなけなしの、だが確実に生き生きと存在する神経までも。

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