ひとりのナノカナ尖塔
150404 2302



週末、あれこれと家事などを適当にこなしながら、何とはなしに昨日の出来事を思い起こしては自問自答を繰り返している。

その駅が折り返し出発点となる電車内。はやばやと乗りこんでいた私は、4人がけの席のすみに座り、音楽を聴いていた。どうでも良いことだが初代のiPod shuffleを愛用している。
隣の席には若い女性。向かい側にも女性。2人ともスマホを操作していた。更にどうということもない話だが最近は手帳型のスマホカバー(と言って良いのか?)が流行中とお見受けする。
残りの席もほとんど埋まった頃、その家族が乗りこんできた。母親と、4人の子どもたち。女の子が1人、男の子が3人。見た目だけで推察するに女の子は小学3年生くらい、男の子たちは6歳、5歳、3歳か4歳といったところ。
わいわいとしていても当たり前だと思った。この構成では仕方がない。私のちょうど目の前の位置に母親が立っていた。裾にレースをほどこした真っ白なパンツをはいていて、それが汚れるのもいとわず、最年少の子にねだられれば靴を脱がせずすっと抱き上げた。白にかすれて残る茶色の跡に、私の母の影が重なる。衣服に小さなしみをつけただけで激高して死ねと罵倒する母。だから、まったく見も知らないこの母親は良いお母さんだと、私は単純にそう信じた。
席を譲る選択肢はとらなかった。何しろ人数ぶんに見あわない。路線が進んで他の席が空きはじめたら横にずれるか他の席に移動するなりしようとは考えていた。
電車が動き出した。家族5人は通路の中央を占めて立ったまま、ずっとじゃれあっていた。小さい子は母親の腕から降りてその白いパンツにしがみつき、そうすると今度は兄たちが母親を取りまいた。突撃するふりをして胴体にしがみつく。それを母親が受けとめる。抱きしめる。それを何度も。女の子は母親より弟たちと似たような遊びを楽しんでいた。
実際、私はこの家族をそれほど集中して観察していたわけではない。途中で急に隣に座っていた女性が立ち上がり、車両間をつなぐドアのむこうに消えてから、はたと気づいたのだ。この家族のはしゃぎ方は迷惑なのではないかと。
私自身はイヤフォンをつけていたこともあって、うるさいとはまったく感じていなかった。その後も音楽にまぎれて届く笑い声などを騒音と受けとることはなかった。子ども特有の甲高いソプラノを、そういえば耳にした記憶がない。活発な行動のわりに静かなほうではあったと言える。
が、通路をふさいで身体をぶつけあう遊びをしていたら、それは音がなくてもノイズになり得る。
気がつけば、彼らの周辺の席があいても、誰も座ることはない。無言で家族に譲ったということもあるだろう。事実、小さい子は外の景色を見たがって、席によじのぼっていた。母親がそのおもちゃのような靴を脱がせるその間も、兄たちは母親に戯れを要求する。それが気になるのか、小さい子はすぐに席から降りて母親の脚にすがりつく。
次第に迷いが生じてきた。向かいの席に残った唯一の女性も、目線はスマホに注ぎつつも眉をひそめている。それはスマホの内容によるものかもしれないし、先ほど移動した女性もこの家族を避けたのだと言いきることはできない。
しかし、席と席のあいだの通路をふさいでしまっているこの状態は、明らかに公共の場にそぐわない。もう少し片側に寄ることも、席に座ることもできるのに。大人と子どもが身体をぶつけあう遊びのためには広い空間が必要なのだろう。
そうしているうちに、電車が大きめに揺れた。母親がのけぞりつつバランスをとる(その平衡感覚は本音を言うと賞賛に値した)。男の子たちはふざけ半分で腕をぐるぐると回し踏みとどまってから母親の方に前のめりで身を乗り出す。
揺れる少し前に、小さな子は床にぺたんと座り、母親の脚の間にもぐりこんでいた。母親を見上げて、笑っている。母親は女の子のほうを見て何かしゃべっている。
この揺れの数秒が、私を冷静に動かした。
「すみません。電車の中ですので、もう少し静かにして頂けませんか」
繰り返すが、私はこの家族を音としてうるさいとは感じていない。静かにして欲しいということの真意は、ここは自宅や公園ではない、公の場なのだから、それにふさわしい態度を心がけてもらいたいということだ。小さな子はともかく、他の家族の全員に共通して伝わりやすい言葉を選んだ結果、静かに、ということになった。
母親は、低い声で、すみません、と言ってから私に背を向けて女の子以外の子どもたちを席に座らせた。
「走っている電車の通路で遊ぶと危険だということを、お子さんがたに教えてあげてください」
電車が安全性を保障するのは、最低限の条件を乗客が守ってこそだろう。これで怪我をして、だけれど自己責任だからともしも本人が誰をも責めなくても、居合わせた者や鉄道関係者が何も感じないわけがない。それに、ここで声をこうして声をかけることも、責任のひとつなのではないか。乗りあわせた乗客としての、大人としての、私の。
母親は私にはもう答えずにいたが、それからはずっと席に座った子どもたちと普通におしゃべりをしていた。小さな子こそ時おりぐずってはいたが、母親が吊革に片手で捕まったまま抱っこをし、降りたがっても席に座らせて景色を見るよう促していた。
つまり、普段からしつけはできているのだろうと思う。やればできるというのはこういうことなのだと感心した。
が、今やドアの横に立っている女の子と目が合うと、勝手なことに胸が痛んだ。不思議とまっすぐな視線で、でも悲しげで、バツが悪そうで、居たたまれなくなった。
何か言わなければならないという衝動に駆られた。
私が降りる駅のひとつ前の駅は乗り換えが多く、人の入れ替わりも激しい。この家族もそこで降りる可能性が高いと踏んで、しかしその場合、電車がとまる前に私が席を立って女の子に話しかける……これは不自然ではないか?
というのも杞憂に過ぎなかった。どんな偶然が働いたのか、その家族と私が降りる駅は同じだった。
当然、同じドアを通ってプラットフォームに立つことになる。
自然、同じドアを目指して距離が縮まることになる。
そうなった。
女の子と隣あわせになった。
気まずそうな女の子の顔を見た。
「ごめんね、ママのことを悪く言ったわけじゃないのよ」
一緒に遊んでくれる、楽しいママだね、でも、電車の中は危ないからね。
そう続けたかった。
母親の声が遮った。
「子どもを産めば分かるわよ」
私の顔を見ない。
「はい。生意気を申し上げました。すみませんでした。申し訳ありませんでした」
その後、また何か母親が言ったが、聞こえなかった。
何を言ったのでも構わない。内容がどんなものであれ、私の希望とは関係しない。聞こえなかったのだから推測しても私の主観の域を出ない。だから私もここは深く考えない。
人の流れで分かたれ、改札までの道のうえ、もう交わることはなかった。

ひとつ。私は母親に謝ってはいけなかった。謝ることで責任を放棄したも同然だ。覚悟のない責任など存在し得ない。
ふたつ。謝るより、ありがとうと言いたかった。私の声はちゃんと伝わったのだから。しかし、嫌味に聞こえてしまいかねないので、言わずにいて良かったのかもしれない。
みっつ。恐らく春休みでみんなで出かけて、楽しい1日を過ごしただろうに、最後に嫌な思いをさせてしまった。母親が目の前で文句を言われることはつらいだろう。
よっつ。私のことを母親がすぐに忘れるか、私だけを憎んでくれれば良い。どうか誰かに、特に子どもに八つ当たりをしないで欲しい。
まとめ。人に物申すことは本当に難しい。

それにしても、私がもしも不妊を患っていたり、たとえば既に出産はしているが亡くしていたりしたら、彼女はどうするつもりなのだろう。どうもしないのか。想像力を使ったら言えない台詞だろうに。
と、一種の被害妄想にふけたところで我に返る。
むしろあれはベタな返しだったとも思う。うまく言えないが、たとえばオーストラリアを旅行してカンガルーのおなかに仔カンガルーが入っていたら「話に聞いてはいたしテレビでも観たことはあったけど本当に……!」と感動する類の、あれだ。コアラがユーカリを、パンダが笹を、ワニがフック船長の腕を食べたり、アルプスにハイジという名前の子がいたり、フランダースにパトラッシュという名前の犬がいたり、韓国にキムさんという名前の人が山ほどいたり、ファックを連発するアメリカ人、カレーを手で食べるインド人、語尾が「アルよ」の中国人などなど、「本当だ!」となるような、あれだ。
イメージと偏見は紙一重なのかもしれない。

さて、産んだら分かる。
真実だとして、何が分かるのだろうか。
恐らく、奇跡的に私が母親になったとしても、自分の子どもと電車の中で危険も顧みず遊ぶことを良しとする理由は永遠に分からないだろう。
だが、まだ学齢にも満たない子どもと一緒にきちんとするより、ちょっとくらい迷惑をかけても子どもが上機嫌でいてくれるなら手を抜いて楽なやり方を通したい、という気持ちなら分かるようになるかもしれない。
まして4人もいたら疲れて大変、これが精一杯なのだと言いたい感情も、分かるようになれるのかもしれない。
やるかやらないかはまた別の話。私は現時点では、やりたくてもやらないことを選びたいが、やはり今どうこう言っても意味がない。

誤解を招きかねない書き方をしてしまっているかもしれない。
私はこの母親に怒っているわけではない。
どちらかというと、中途半端なことをしてしまった自分を恥じているし、もっとより良いやり方があったのではないかと反省している。
だが卑屈になっているわけでもない。
不可思議な心もちである。

まとまらないが、大人と呼ばれる年齢になって、その負うべき責任というものを、ここ数年は特に深く考えるようになっている。
そのひとつに、大人の役割として子どもの敵であろうと思っている。
わざわざ争いを好むわけではなく、味方をしないと決めているのでもない。本物の、徹底した敵になるということでもない。
ただ、「大人はわかってくれない」と言われないようではいけない気がする。
子どもに仮想敵が必要となるとき、それは大人であった方が良い。
子どもと大人が相容れない構図を崩してはならない様に思う。
だから、今回、私は子どもの前で謝るべきではなかった。
最後まで毅然と筋を通せなかった。あまりに未熟であり、甘い。
大人になりきれていないぶん、せめて大人げは持っていたいものだ。
でなければ敵など務まらない。味方になんて、尚更なれっこない。

星の王子さまのようなことを言うと、すべての母親はかつて子どもであったのに、誰もが未婚であったのに、ひとりだったのに、何故、忘れてしまうのだろう。
表面やうわべのことほど惑わされやすいのかもしれない。
あの母親は確実に私より年下なのに、というのも、見た目にとらわれているだけだとしたら、もう話をする以外に何かを知る方法なんてひとつも思い浮かばない。
かなしいことに、世界は広すぎて、人生は短すぎ、関わることのできる人はどうしたって一握りだ。もどかしくてたまらない。

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