――人が落ちていた。 あのマグルの車というやつに轢かれたカエルのように地面に這いつくばっていた。明らかに面倒くさそうなことになりそうな予感がしたため、スルーしようかとも考えたが、これでスルーしてこの地面に這いつくばっている女がもし死んでしまったら夢に出てきそうな予感がしたため女を救助に向かう。大体、こんな真夏の炎天下の中よくも地面で寝てられるな。 「おい、こんなところで寝てるといつか溶けるぞ」 女の頭の近くにしゃがんで肩を揺さぶる。 「うっ……ん」 女が唸って反応し始めた。ごろりと今度は仰向けになって、太陽の眩しさに眉を顰めていた。特に外傷はない。ということは本当に寝ていただけか? もしかしたらこいつは道の真ん中で寝るのが趣味なのかもしれない。マグルってやつは本当に変なやつが多いんだな。 「ふぁ〜」 眉を顰めて寝転がっている女は、あくびをし出した。 ……本気で道で寝るのが趣味とかじゃねえだろうな。 頬が引き攣るのを感じた。女が目を開けた。 「うわっ! だ、だれ!?」 「……それはこっちの台詞だっつーの。お前こそなんでこんなとこで寝てんだよ」 「え……? こんなとこ? ……は!? なんで私道の真ん中で寝てたの!?」 驚愕の表情を俺に向ける女。いやいや、だから聞きたいのはこっちだっつーの。 「俺はここを通りかかったら知らねえ女が倒れてるから親切に声をかけてやったんだよ」 「……そ、そうなんだ。それはお手数おかけしました。……なんで私こんなところで……」 本当にここで眠りこける前の記憶がないのか、顎に指を添えてうんうん唸っている。……もしかしてこの女、夢遊病とかいうやつじゃないのか? ホグワーツでもたまにいる。寝ている間に無意識に部屋や寮中を歩き回る生徒が。 「えっ!? まっ、え……!?」 俺が夢遊病の気について疑っていると、急に女はうろたえだした。冷や汗も掻いているし、顔色もよくない。何か思い出したんだろうか。 「おい、どうかしたのか」 これは面倒くさいマグルに手を差し伸べてしまったなと改めて後悔してしまう。やっぱりただ寝ていただけだったし捨て置いても問題はなかったな。 「わ、私は、だれ……?」 混乱した、泣きそうな表情で俺に縋るように女は訪ねてきた。 「……は、はあっ!?」 予想外の言葉につい大声を出す。思ったよりも大きな声が出てしまい、少し気まずくなり、罰に何も悪いことなんてしていないが、周りに誰もいないことを確認する。女は泣きそうな顔をしてるし俺は大声を出すし、なんだか俺が女をいじめているみたいに思われるかもしれない。予測不可能な出来事が起こった時には努めて冷静でいることを心がけないと……。 「と、とりあえず、近くに公園あったから、そこのベンチに行こうぜ」 こんな道の往来で話し込んでいると誰に見られるかわからない。俺が女をいじめているなんて勘違いされたらたまったもんじゃない。 「わかった……」 素直に言うことを聞いて立ち上がった女。女を先導するように前を歩き、来た道を引き返す。 ……あー、マジで面倒になった。これどうすりゃいいんだ。マグルの女なんて家で保護できねえぞ。ババアに見つかったらこの女一瞬であの世逝きだよな。 記憶喪失っていったいどうすりゃいいんだ。病院に連れて行けばいいのか? 俺、マグルの病院なんて一度も行ったことねえぞ。というか、病院なんて行ったことねえ。いつも風邪ひいたとき専属の医者が家まで来たしな。 ……とりあえず病院にさえ連れて行ったらマグルの医者が何とかするか? いや、マグルの土地にさして興味がねえから、病院なんてどこにあるかわからねえ。 マグルの乗り物とかなら興味はあるから車屋とかなら知ってるんだけどな……。マグルのバイクってやつはマジでクールすぎて初めて見たときは全身に雷を受けたみたいな衝撃だった。あれを飛ぶように改造したらもっと格好いいんだろうな。 いやいや、今はそんなこと考えている場合じゃねえだろ。面倒くさくて現実逃避してしまった。頭を振ってバイクの良さを語ろうとする思考を脳内から追い出す。 公園に入ると、ついさっきまで遊んでいた子供たちはいなくなり、寂し気だった。 まあ、誰もいない方が落ち着いて話せるしいいか。 女をベンチに座らせて俺も隣に座る。 「……で、何もわかんねえの?」 自分のこと。と聞くと、女はこくりと頷いた。 「……名前も?」 警察、とやらに連れて行っても名前すらわからないこの女を果たして保護してくれるのか。悪戯だと扱われて放り出されそうだ。名前や住所さえわかればなんとでもなるんだが。 「……! 名前は、『マイラ』」 「お! 覚えてんじゃねーか!」 一筋の光が差し込んだと気分が上昇するが、女の表情は晴れないままだ。 「けど、本名じゃない」 「はあ? なんだそれ」 名前なのに本名じゃない? 一体なんなんだそれは。こいつ、もしかして俺をからかってるのか? 「ま、マイラ、だけど、これは家族以外の人が呼ぶ名前、だったと思う……」 記憶喪失だと嘘ついて俺に取り入ろうとしているのかと思って少しイラついたが、この女の表情から察するに嘘じゃないようだ。何よりもこの女が一番動揺している。 「……あだ名みたいなもんか」 「そ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」 「何だよ、はっきりしねえな」 「だって! わかんないし!」 「あー悪かった。そうだよな。だから泣くな」 「泣いてない!」 ……泣いてんだろ、と指摘したかったが、やめておいた。泣いてる女に追い打ち駆けると余計にややこしくなる。ここで十五年培ってきた女の扱い方でそう予感できる。 目を強く擦り、必死で涙を隠そうとする女。 ……居心地悪いな。てか、そんなに乱暴に目を擦ったら腫れる。ただでさえ身元が不明なのに顔面の造形まで変わってしまったらいよいよ絶望的だ。いや、今でも絶望的には変わりないんだが。 とにかく泣いてる女を、しかも偶然嫌々とはいえ、一度自分が手を差し伸べたのに放っておくのは憚られたため、ポケットからハンカチを取り出して差し出す。 「ほら、これ使えよ」 「……あ、ありがと」 女が遠慮がちに受け取ると、次の瞬間何の遠慮もなしに俺のハンカチで鼻をかみだした。ぶぴーっと豪快な音を立てる。 いや……使えって、涙を拭うのに使えって言ったつもりなんだが。 というか、人から借りたハンカチでよくもまあそんなに豪快に鼻をかめるな。こいつ、女じゃないのか? とドン引きしてしまう。 「……はあ、すっきりした。これ洗って返すね」 「いや、もうそれやるよ」 「え? それは悪いよ」 「いいって」 他人の鼻水付いたハンカチなんていくら洗われても返していらねえ。そんな俺の意図をちゃんと汲み取れてないのか、女……マイラは優しいね、とハンカチを受け取った。 「で、これからどうするんだよ」 「……どうしよう。私、このまま野垂れ死にするのかな……っ」 「だあああ! 泣くな! 俺が何とかするからもう泣くなって!」 「ほ、ほんとに……?」 「あ。……いや、その……おう、任せとけ……」 女に泣かれるのが嫌すぎてついついそんなこと言っちまった。んなこと言ったら、最後まで付き合わなきゃいけないのに。くそ、適当なところで見切りをつけて交番かどこかに連れて行く気だったのに……! また面倒くさいことになっちまった……。 リーマスに脊髄で話す癖を治せって言われた意味がようやく分かった。……マジで口は禍の元だな。 マイラが希望に満ちた視線を俺に向けてくるからつい勢いで言っただけだとは言い出せなかった。つい漏れそうになるため息を噛み殺してマイラに質問する。 「あだ名以外マジで何にも思い出せないのか?」 「うーん……うー、ん。思い出せない」 「はあ、絶望的だな」 ため息がついに漏れた。 何とも出来ねえだろこれ。片っ端から家を回ってこいつが家族じゃないかって聞くしかねえだろ。……一体何日かかるんだ。 「うっ……う、う」 「お、おい、泣くなって、お前もうガキじゃねえだろ!? すぐ泣くなって!」 「だって……! なにも思い出せない、から」 「不安なんだな!? わかってるって! けど俺がついてんだろうが! だから泣くな!」 「……! うん!」 急に涙を止めて花が咲いたように笑ったマイラ。 いい笑顔なんだが、鼻から出てるものがな……。 「と、とりあえず、鼻水拭け。な?」 「うん。ぶぴーッ!」 「……」 そのハンカチはもうお前にあげたものだからどんな風に使おうとお前の勝手だから俺は関係ない。そう言い聞かせて元俺のハンカチでまた鼻をかんでいるマイラを見ないふりする。 すっきりした表情になったマイラを見て立ち上がる。ここで何か手掛かりはないか探したところで何も始まらない。だってこいつは自分のあだ名しか覚えていないのだから。だったらやるべきことは一つだ。何日かかったっていい。一軒ずつ家を回ってこいつの家族や知り合いを探す。 「よし行くぞ」 「え? どこに?」 「お前の家を探しにだよ」 立て、と手を引いてマイラを立ち上がらせる。 未だきょとん、と状況をはっきりと理解していない様子のマイラは放っておいて、公園から出ようとする。こんなぼんやりした奴に付き合ってたら何年かかるかわからねえ。俺がしっかりしねえと。 「……ラ! マイラ!」 「あ?」 「え?」 女の名を呼ぶ声が聞こえて、同時に声の方へ振り向く。杖をついた、口髭と顎髭がつながった爺さんが息を切らして歩いていた。……爺さんにとったら全速力なんだろうが。 「マイラ……よかった、ここにいたんだね」 「……誰ですか?」 「……っ、また記憶が……そうか」 『また』……。ということは、こいつ、よく記憶をなくすのか。 病気、または魔法か……。まあこいつはどっからどう見てもマグルだし、前者の方か。 「わしは、マイラ、君の爺さんだよ」 「おじいちゃん……?」 「ああ。少し目を離した隙に君は家を出て行ってしまったんだよ」 「私の、おじいちゃん。私の家族」 しっかりと一言一言を噛みしめるように声に出すマイラ。必死で自分の記憶にないか呼び掛けているんだろう。特徴のある見た目だ。記憶に残りそうな気もするが。 まるでダンブルドア先生のような髭だ。先生とは違って頭の毛はほとんどないが。ドレス ローブのような服装もダンブルドア先生がよく着ているな、と考える。……ダンブルドア先生がよく着るような服? マイラの服装を見る。マイラはいたって普通のよくマグルの人間が着ているような服装だ。けれどこの爺さんはどうだ。魔法使いがよく着る服装で、この服を着ている他の爺さんをマグル界で見かけることはない。 ……こいつ、魔法使いか。ということは、こいつの血縁関係であるマイラも記憶を失っているだけで本当は魔法使いか……? 探るような視線を向ける。すると、思い出したように爺さんが俺に視線を向けてきた。 「……君は……いや、君がマイラを助けてくれたのかい?」 「いや、俺は何もしてねえけど」 俺を見て少し驚いた顔をした後、感謝の眼差しを向けてくる爺さんに否定する。本当に俺は何もしてない。無理矢理何かしたというなら、ハンカチをあげたくらいだ。 「本当にありがとう。君が居なければマイラは悪い奴にさらわれていたかもしれない。本当に何とお礼を言ったらいいか」 「本当に俺は何もしてねえし、お礼なんて……」 「いやいや、それでは私の気が済まない」 食い下がる爺さん。 ……まいったな、面倒くさいことになった。 爺さんは見たところ折れそうな様子もないし、俺が譲歩するべきか。 「じゃあ、お礼代わりに聞かせてほしい」 「ああ、私にできることならば」 「こいつ……マイラはよく記憶をなくすのか?」 俺が聞くと爺さんは眉間に皺を寄せた。……これ、他人が聞いちゃまずいことだったか? 「ああ、マイラにも教えなければいけないし、ここで話そうか」 マイラ自身はよくわかっていないのかまたきょとんとした顔になった。こいつ、自分のことだってわかってるのか。 「マイラは、私が知る限り記憶がなくなるのはこれで三回目だ」 「私、三回も記憶なくなっているの?」 「……ああ。はじめの記憶を失った原因は娘、つまりマイラの母親が死んだときだ。今回と前回はは何が原因かはわからないんだ」 「私のお母さん、死んでるの……?」 「そうだ」 母親が死んだときに記憶がなくなった、ということはショックが原因か。だとしたら今回もショックが引き金になった線が濃厚だが、こいつに至って外傷はないし、精神的な傷か……? 何かあったのか? すでに道端で寝こけていたこいつしか知らないため、俺には推測しかできない。もう少し早くあの道を歩いていればこいつが記憶を失う瞬間を見られたかもしれない。……もしかしたら、何か酷いことをされたのかもしれない。マイラとはついさっき出会ったばかりで何のつながりもないが、助けられられなかったことが歯痒く感じた。 「今は私と二人で暮らしているんだ」 「おじいさんと二人で? お父さんは?」 ゆっくりと首を横に振る爺さん。どうやら父親もすでに亡くしているらしい。 「そっか……私、もうお父さんもお母さんもいないんだ」 ポロポロと涙を流すマイラ。こいつ、ずっと泣いてる気がする。 「両親はいないけれど、わしが居るからどうか泣かないでおくれ。ほら。これを見てごらん」 爺さんの言葉に涙を止めて、マイラが見る。爺さんは何も仕掛けがないと証明するために両の掌を見せて、次は甲を見せた。そのまま手を合わせて、開いた。すると、爺さんの手の間から小鳥が現れて空に飛んで行った。 「わぁ! すごい!」 「ふふ、そうだろう?」 マイラは笑顔になり、爺さんもその様子を見てホッとした表情になる。その様子を見て確信する。爺さんが俺が驚いていると思ったのか、説明してきた。 「少々手品というものを嗜んでいてね」 「……いや、違う。それは魔法だ」 「おや」 「爺さんも持ってるんだろ」 腰元に隠していた杖を取り出す。するとマイラは予想通り木の棒? とか言ってきょとんとしていたが、爺さんは目を見開いて俺の顔を見た。 「……もしかして君も」 「ああ」 「ねえねえ、どういうこと?」 状況が分かっていないマイラが爺さんの袖を引っ張って催促する。爺さんは目を細めて少し周りを見回した後、マイラの手を解いた。 「私と彼はね、魔法使いなんだ」 「えー! すごい! 私は?」 「マイラは……」 爺さんが口を濁した。 ……ああ、マイラはスクイブかと理解する。 「私は魔法使えないの?」 「ああ」 「そっか」 また俯くマイラ。 こいつ……何回泣くんだよ。 「おい、魔法なら俺が飽きるほど見せてやるから泣くな」 「……ほんと?」 「おう。何でも見せてやる」 「そっか、じゃあいいや!」 嬉しそうに笑ったマイラを見てホッとする。すぐ泣くけどすぐ機嫌が直るのがまだ救いだな。 「優しい人を見つけたね、マイラ」 「ふふ、うん!」 微笑みあう孫と爺さんに気まずくなる。……また脊髄で話してしまった。これ以上余計なことを口走る前にさっさと帰ろう。というか、未成年の俺は外で魔法使えねえし。大人が近くにいれば使ってもまずバレねえし問題はねえんだけどな。 「じゃあ、保護者も来たことだし俺は帰るわ」 手を上げて二人に背を向ける。 「あ、まって! ねえ、あなたの名前は?」 マイラに呼び止められて振り返る。……もう会う気もないし、言わずに帰った方がいいんだろうが、振り返ったのがまずかった。 こんな期待に満ちた目で見られたら、応えざるを得ない。 「……シリウス」 「シリウス、明日も会える?」 「……暇だったらな」 「待ってる!」 行けたら行く。みたいに来ない確率の方が高い返事をしたのにもかかわらず、マイラは疑う様子もなく笑顔になった。 * * 次の日。 いや、会うってどこで、とか何時に、とか全く決めてねえし。何ならあいつだって来るかどうかわからない。待ってるって言ったのも社交辞令かもしれない。保護者が見つかった今、あいつが記憶喪失だとは言え俺が行く義理なんかない。 昨日初めて会った人間だ。しかも一緒にいた時間は一時間もない。その場限りで終わらせておいた所で俺が気を病む必要なんてない。 けれど、足は昨日と同じ道のりを歩いていた。 公園に差し掛かったところで一人の女が砂場に座って何か作業をしていた。見覚えのある、昨日見たばかりの女にため息が出る。 「……なんでいるんだよ」 「あ! シリウスおはよう!」 俺の声に反応したマイラが笑顔で立ち上がる。今何時だと思ってるんだ。まだ朝の八時だ。こんな早くからもうすでにいるなんて一体何時からここにいるんだ。俺が来なかったらどうするつもりだったんだ。 大体お前は記憶をなくしてて、土地勘だってない癖になんで一人で外出しているんだ。 いろいろな疑問が浮かんだがそれを噛み殺す。あまり質問攻めしたらこいつ混乱して泣きそうだし。 「爺さんはどうした」 いろいろな質問を抑えて一つだけ質問する。こいつが一人で外出することをよく許したな。普通心配で外に出さねえだろ。 「なんかお仕事だって」 「仕事? あの爺さん現役かよ」 てっきり隠居した爺だと思っていたのに。まあ、娘夫婦亡くして記憶喪失の孫を養っていかなきゃいけないから働いてるのか。 「けど、ちょっと気まずかったから仕事でよかったよ」 「なんでだよ。血の繋がった爺さんだろ」 「……そうなんだろうけど、私記憶ないからまだあの人を心の底からおじいちゃんだって思えてなくて。他人だと思っちゃうと居心地悪くて……」 気まずそうにマイラが砂を触る。両手で湿った砂を握っている。 ……こいつ、もしかして泥団子作ってんのか? 「俺だって他人だろうが」 しかも俺はこいつからしたら昨日出会ったばかりの素性の分からない男だ。そんな俺といるよりよっぽどあの血縁関係の優しそうな爺さんと一緒にいる方が安心できるだろう。 「ううん、シリウスは別」 「はあ?」 「シリウスは私のために何とかしようとしてくれたから。シリウスはいい人だから安心」 「いや、結局俺何にもしてねえし」 「それでも。『俺が何とかしてやる』って言葉すごく嬉しかったから」 嬉しそうに泥団子を握りながら笑うマイラ。 いやいや、昨日のアレはお前を泣き止ますために口から出たでまかせというか、勢いというか……。ちゃんと考えて発していない言葉にそこまで喜ばれると罪悪感が募る。 俺、昨日お前のこと捨て置くとか交番に連れて行きゃ何とかなるとか思ってた男だぞ。 「…………」 本音を正直に言うべきか言わざるべきか判断にあぐねいていると、マイラは下に握った泥団子を置いた。 「そうだ! ね、ね! シリウス魔法見せて!」 「は? なんで」 「昨日飽きるほど見せてくれるって言ったでしょ? 私見たい!」 ……そういやそんなこと勢いに合わせて言ったな。くそ、だからちゃんと考えてから喋れよ、俺。 これからリーマスの忠告はちゃんと聞こうと心に誓う。 「こんないつマグルが来るかわからねえところで見せられねえよ」 断ろうとするとマイラがマグル? と首を傾げた。……そうか、そこから説明が必要か。面倒くせえなと思いながら、マイラにマグルの説明と魔法界の掟を教える。なんとなく納得したような顔をしたマイラが何か思いついたように顔を上げた。 「じゃあ、私に魔法について教えて!」 「まあ、それくらいならいいけど」 「じゃあ暑いし私の家行こう!」 「はあ!?」 突然の提案に驚愕する。 出会って間もない男をよく自分の家に招待できるな!? 立ち上がって俺の手を引いたマイラ。先程まで砂を触っていたせいか、マイラの手のひらはざらざらとした感触がした。 「私の家すぐそこだから! いこ!」 にこにこと裏表のない笑顔でそういう女に俺はされるがままだった。ああ、俺が危惧してることとかこいつは全く考えていないんだろうなと考える。 ……あのくそ居心地の悪い家にいるくらいだったら今こいつと一緒にいる方がまだがマシかもしれない。暇だし、仕方ねえから付き合ってやるか。決して感触がいいとは言えないざらざらと砂っぽい手を振りほどくことはやめた。 これが俺の十五の出逢い。 * * 「何してんだ」 「あ! シリウス!」 庭に座り込んでいるマイラに話しかける。すると、俺の声に気付いた途端表情を明るくさせて立ち上がった。 「今から水やりしようと思って」 水の入った入れ物を見せてきた。赤色で象の形をした小さなそれはどうやら鼻先から水がシャワー状に出るのだろう。 「お前……これだけ花があるのにそれで水やりするのか」 「うん。だってじょうろはこれだけしかないし」 別段何とも思っていないようにマイラが答える。 少し民家から離れた林に囲まれたこの家はおとぎ話に出てきそうだ。煙突のついた小さな赤い屋根の家。庭には畑やガーデニングがある。このガーデニングが中々凝られていて、初めてこの家に来たときは驚いた。 マイラの住む家は白く塗られた腰ほどの高さの木の柵が家を囲むように一周されている。その唯一の入り口にはバラのアーチがかかっていて、敷地内に入れば本当に絵本に出てきそうなほどたくさんの色とりどりの花が咲いている。こんな家の敷地いっぱいに咲いてる花をあんな象の形をした小さなじょうろで水やりしたら一体何時間かかるんだ。 「……ちょっとそのじょうろってやつ貸せ」 「いいけど?」 マイラからじょうろを受け取って地面に置く。腰に隠した杖を取り出して、エンゴージオ、アグアメンティと唱える。俺と同じくらいの高さに肥大しし、中に入るだけの水をいれた。浮遊呪文でじょうろを浮かせて少し傾けると、まるで雨のように象の鼻から水が降ってくる。 杖で位置を調整しながら庭中の花に水をやる。 マイラを見れば、目を輝かせながらその様子を見ていた。 「うわあ……すっごい! シリウス! すごい!」 「……こんなの別にすごくねえよ」 呪文だって低学年で習うような呪文だ。ピーターだって楽々使えるだろう。それを使っただけでこの喜びようは何だか照れくささを感じてしまう。 「ううん。シリウスはやっぱりすごいよ。魔法使いってかっこいい」 裏表のない笑みを向けてくるマイラ。 泣き虫だが、いつだってこんな風に俺に笑いかけてくる。記憶はないようだが、きっと記憶が戻ってもこいつはずっとこんな感じなんだろうと思う。 夏休みの一か月一緒に過ごしてわかった。屈託のない笑顔は俺の陰険どもが住まう家では絶対に見られないものだ。ババアの小言や純血思想の話を聞いて辟易としたときにはいつもここに逃げていた。 一種のオアシスのようだった。マイラはいつだって俺を拒むことはなかったし、魔法界のことを聞きたがって快く受け入れてくれた。まあ簡単に言うと家にいるよか断然居心地がよかった。 象の鼻先から水が出なくなるのを確認して元の大きさに戻した。俺の手のひらに落ちてきたじょうろをマイラに手渡す。 「ありがとう! シリウスのおかげでおやつの時間早くなったよ」 「この大きさで水やりしてたらそれはおやつじゃなくなってたな」 きっともう夜になっていただろうとからかってやるとマイラはそうだね、と笑った。 「ね、また図書室で絵本見つけたからおやつ食べながら一緒に読もう」 「絵本ってまたプリンセスの話か?」 「うん!」 嬉しそうに笑うマイラは家の中に入った。俺もマイラに続いてもう見慣れた玄関をくぐる。 マイラがいつも持ってくる絵本はこの家の一室にある図書室からの物だ。この家の図書室には中々の蔵書数があり、俺も見たことないような本があって初めて入った日は好奇心がそそられた。 占い学や天文学系統の本が多かったためすぐ飽きてしまったが。苦手というほどでもないが興味があるわけではない。ホグワーツでもテストではもちろんいい点数を取ることはできるが、記憶には残らないタイプの授業だ。 マイラがカウンターキッチンでティーセットとお菓子を用意しているのを眺めてソファーに座る。質のいいソファーとは言えないが、このソファーは俺のお気に入りだ。ソファーの前に置かれている机の上に先程言っていた絵本が置かれていたため、手に取ってパラパラと捲ってみる。いつもと同じような結末が描かれていてため息が漏れる。 ……なんでプリンセスの本っていっつも王子のキスなんだ? キスなんかで魔法や呪いが解けるかよ。何のために反対呪文あると思ってんだ。まあ、魔法を知らないマグルが描いたものだしな。想像力はそんなものだろう。 「あー! 一緒に読もうって言ったのに!」 「どうせ結末一緒だからいいだろ。王子サマのキスで呪いが解けてハッピーエンドだ」 ティーセットを運んできたマイラが非難するように声を上げる。 「いいじゃん。夢があって! 私もいつかこんな王子様が迎えに来ないかなあ」 「ぶっは! お前に!? むりむり!」 「むかつくー! 私だって希望はあるし! ……あっ、つ!」 むくれたようにティーセットの乗ったお盆を乱暴に机に置いた。するとポットからお湯が漏れてお盆を持つマイラの手にかかった。 「ばっ、何やってんだよ!」 立ち上がってお湯のかかった手を取る。すでにもう赤くなっている手を見てすぐさま台所に連れて行く。使い方を教えてもらって覚えた水道の蛇口を捻って水を出す。 「お湯、冷めちゃう……」 「んなもん後で淹れ直せばいいだろ。それより手、痛むか?」 「ちょっとヒリヒリするだけ」 泣き虫のこいつが泣いていないところを見ると、それほど酷くはないのだろう。わざわざ魔法を使って治す必要もないかと杖に伸ばした手を引っ込める。 「一応氷で冷やすか」 マグルの冷蔵庫とやらの引き出しを開けて氷を袋に入れる。 ……随分俺もマグル製品に慣れたもんだな。バイクや車以外別段マグルにもマグル製品にも興味はなかったが、意外と便利なところもあると一か月この家に通ってわかった。 「ほら、これで冷やしとけ」 マイラに手渡すと素直に礼を言って火傷部分に乗せた。 「シリウスって、意地悪だけど王子様みたいだね」 「っはああ!? て、てめ、何いきなり言ってんだよ」 「だってシリウス格好いいし。もうちょっと口調が優しくて目つき悪くなかったら白馬の王子様みたい」 「ばば、ばっかじゃねえの! 口調優しくて目つき良かったらもう俺じゃねえだろ!」 「あはは、それもそうだね」 特に気にした様子もなさそうにマイラは笑ってソファーに向かった。嫌な音を立てる心臓を押さえつける。なんて心臓に悪いことを言うんだこいつは。思わず息するの忘れてしまった。息を整えて俺もマイラの隣に座る。 座ってまた王子様云々の話になったらどう対処していいかわからないため、話を変えることにした。 「ったく、しっかりしろよ。夏休み明けたらどうする気なんだ」 「え? 学校始まっても帰り寄ってくれるでしょ?」 きょとんとした様子でティーポットの蓋を開けたマイラ。 「……ホグワーツは全寮制だぞ」 「え、ええっ!?」 ガシャン、と蓋を落として俺を見た。 そういや学校の話は何度もしたけれど、全寮制で学校の期間はこの町を離れるとは言ってなかったな。 「うっ、うそ……じゃあ、次いつ会えるの?」 「クリスマスは帰る予定ねえし、来年の夏だな」 「いっ、一年後……」 クリスマスに帰省したところでくそ面倒なパーティーやらに出席させられるだけだからごめんだ。 「い、一年も、会えない」 「お、おい、なんで泣くんだよ」 ポロポロと涙を流すマイラに慌てる。 「だって、シリウスいないと、私、一人だし」 「爺さんが……ってそうか」 爺さんは結局三回しか一か月でこの家に帰ってこなかった。マイラを養うために働いて尚且つ記憶を戻すために何か手掛かりがないか探しているらしい。 爺さんの話によると、マイラのこの記憶は母親を失ったショックというより、呪いの類だと考えるのが妥当らしい。呪いならば方法があれば記憶が戻るかもしれない。そう思って爺さんは老体に鞭打ってその方法を探し回っているらしい。 流石、自分の孫のためなら何でもする、爺さんの鑑のような爺さんだ。まあ、そのせいでマイラはこの家で実質一人暮らしになっているんだが。 マイラをできるだけ寂しい思いをさせないように、と白羽の矢が立ったのが俺だ。暇なときはマイラの相手をしてほしい、何か思い出したら逐一報告してほしいと依頼された。依頼された時は死ぬほど面倒だと思ったが、まあ、引き受けて損はしていないと思っている。 なにせ、未成年の俺でもこの家の敷地内でなら魔法を使っても魔法省から警告が来ない。 だからマグルにばれない程度であれば好きに魔法の練習をして構わないと爺さん自身が言っていた。爺さんは家を空けることが多いがそれを誰かに報告することはなく、隠れて各地を転々としている。マイラに呪いをかけたやつに探っていることをバレると不味いらしい。だから爺さんは常にこの家にいることになっている。俺が魔法を使って魔法省が俺の臭いを嗅ぎつけても爺さんが近くにいることになっているため、俺が使ったとはバレないということだ。 どうやって爺さんが常にこの家にいることになっているのかは俺にもよくわからないが、爺さんは魔法省にコネがあるとだけ言っていた。 まあとにかく、俺も家で隠れて魔法の練習をするが一度も警告が来たことはない。未成年が家庭内で魔法を使ってもそれを咎めるのは親の裁量の内として見逃されるためだ。俺がこの家で魔法を使っても大丈夫だということはたぶんその仕組みと同じようなものだろう。 「ううっ、週末だけでも帰ってこられないの?」 「無理だな」 「わ、私もホグワーツ、行く」 「それも無理」 無茶な我儘を言い始めたマイラを一蹴する。 スクイブであるこいつがホグワーツに通っても何も学べることはないだろう。マグルとして生きた方がいいに決まってる。 「っ」 「泣くなよ、手紙書きゃいい話だろ」 「……絶対シリウス筆不精じゃん」 「う……よくわかったな」 確かに俺は緊急性の高い手紙にしか返事を返すことの方が少ない。 「じゃあ意味ない!」 「書くから! 絶対返事書く!」 「……電話は?」 「は? でんわ?」 「あれ」 マイラが指さす方を見るとマグルの機械だった。確かあれって、同じ機会を持つ遠くの人間と話ができるやつだよな。 「魔法学校にそんなものあるわけねえだろ」 「魔法って案外不便だね……あれの方が手っ取り早いのに」 「……言われてみればそうだな」 マグルなんて魔法使えないから随分不便だなとか俺なら絶対ごめんだとか思ってたけれど案外マグルの科学というやつは魔法を超えるものを生み出しているようだ。電話然り、飛行機然り。テレビとかいう奴もなかなかいいもんだ。魔法が使えるからってうかうかしてられねえなと思う。 「とにかく、声が送れる手紙とかもあるからよ。それ使ったらその電話みたいなこともできるだろ」 「……」 「だから機嫌直せよ。夏には戻ってくるし、そしたらいくらでもプリンセスの絵本読むの付き合ってやるから」 「……お母さんも、そう約束したけど、守れなかったし……」 ううっ、と涙を堪えるように唇を噛みしめているマイラ。 ああそうか、こいつの母親もマイラにそんな約束してたのか。 「って、お前記憶戻ったのか!?」 「え……? あっ!」 自分でも気づいていなかったようで俺が肩を掴むと気づいたように目を丸くした。 「今、急に口に出てきた……そうだ、お母さんとそんな約束した」 「他には!? 他には何か思い出したのか」 「……お母さんが私に絵本を読んでくれて……それだけしか思い出せない」 「そうか。まあこうやって少しずつ思い出せばいいしな」 別に時間に迫られてるわけでもない。ゆっくり時間をかけて思い出せばいい。 俺がそう言うと、マイラは少し悲しそうに笑った。 別にお前は何も悪くない。悪いのはお前に呪いをかけたやつなんだからそんな表情せずにいつもみたいに笑えって、そんな恥ずかしいこと言えるわけがないからマイラの髪をぐしゃぐしゃにしてやった。 [戻る] ×
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