▽ <間話>

一瞬の漂白のあと、感じたのは浮上だった。
白濁する視界から光の筋が目の前に現れる。

ーーマスターに呼ばれている、行かねばなるまい。

使命感のなかけだるい体を起こすと、そこは岩と少しの草が生えている農地だった。召喚による情報補正で、どこの辺りにいるかは分かる。ウクライナとポーランドの国境近くか。
立ち上がり、歩き出してしばらく経つと村が近づいてきた。夕方の時間が近づいており少し肌寒い。家々には明かりが灯っていた。

他より少し立派な門の家を通りかかったとき、庭でベンチに腰掛けていた老婆と目があった。
「…ヨハン?ヨハン、おまえかい!」
驚いて立ち尽くしていると、老婆は立ち上がり、涙をぼろぼろとこぼしながら手を伸ばし、歩み寄ろうとする。「やっと戻ってきたんだね」
霊体化ができていなかったのか!
急いで通り過ぎようとしたが、ふるえる足取りで必死に自分に近づこうとする老婆を無視するのは酷だった。腹をくくって向きを変え、誤解を解こうとする。
「やあ、おばあさん。残念だけど僕はそのヨハンさんじゃありません」
「何を言うんだい。私がお前の顔を忘れるとでも?自分の腹を痛めた子なんだ、間違えもしないさ」

ようやく側にきた老婆は、手をぎゅっと握りしめてきた。「入っておいで。こうやって戻ってくるのは、ワルシャワの学校へ通わせるためにおじさんの所へ預けて以来だ。」
優しく温かい手は決して離すまいと固く結ばれていた。足取りもおぼつかない老婆にそんな力があったのかと驚く。振り払えず、そのまま家のほうへひっぱらわれた。


家の中は小ぎれいだったが、がらんとしていた。家具が少なく住んでいるのは彼女だけだろう。そのわりに家は大きく、そうじもきちんとされていた。食堂に入ると、大きなテーブル、二つしかないイスの片方に座らされる。

「駅からここまで歩いてきたのかい?ずいぶん遠かっただろう。待っておいで、お前の好きなキルバサ(ソーセージ)を用意するからね。お母さん、お前がいつ帰ってきてもいいようにいつも置いてあるんだよ」
「…ありがとう」

笑顔で自分に話しかけ、隠れて涙をぬぐう老婆。鍋を取り出したり、クッキーを並べたり忙しいが、目はずっと自分を見つめている。「いつも一人で居るの?」
「そうだよ。お前が行って、しばらくして犬も死んじまったからね。あれ、そんな前ではなかったっけ。ずいぶん長い間、お前に会ってなかった気がしちまう」
「そうだね…」

自分と同じぐらいの少年の写真を見つけた。そばかすの少年がこちらにはにかんでいた。
(…なんだ。ぜんぜん似て無いじゃないか)
似ているのは金髪ぐらいか。だが老婆に向かってもう正すのはやめようと思った。
学校やおじさんの家の話、老婆はいくつも質問してきた。適当に話にあわせて応えただけだったが、なんでも嬉しそうに頷いて聞くのだった。
食事を終え、老婆に何かあげたいと思った。
王の財宝のなかから質素で地味な櫛を選び、おみやげとして渡そうとする。取り出した瞬間に、とほうもない脱力感に襲われた。

…まずい。たったこれだけでほとんど持って行かれた。


「ヨハン!お前、具合がよくないんじゃないかい?」
みるみる青ざめた少年を老婆が心配する。「きっと疲れがでたんだね。上へ上がって、もう休みなさい。お前が居たときのままにしてあるからね」
言われるままに階段をのぼり、右手にあった部屋へ入った。ベットや机があり、飛行機のポスターが飾ってあった。
ベットサイドに年代物の時計が置かれており、わずかだが宝石が装飾に使われている。
…これで少しは補えるだろうか…。
時計に手をかざし、そのままベットに倒れ込む。暗転した。




明くる朝。
まだ体はだるかったが、気持ち悪さがなく起きることができた。老婆は朝食を用意してくれて、食べる姿を嬉しそうに見ている。
そうじを手伝い、昨日老婆と出会った庭をはいていると、村人らしい男性が話しかけてきた。

「やあ君、見かけない子だね」
「…はい。仲間とはぐれて迷っていたところを、こちらのおばあさんに親切になりまして」
「おおかた息子と間違われたんだろう。ばあさん、子供が通りかかるといつもそうなんだ」
いつもそうなんですか?と返すと、男性は事情を話し始めた。
「ここのばあさんの息子は、もうずっと昔に軍隊にあこがれて出て行ったきり帰ってこなくてな。でも従軍して15歳ぐらいで戦死したんだ。それ以来ずーっとベンチに座って、子供が通るたびに声をかけるんだ」
可哀想に、泣きすぎで目もやられちまってな。見分けなんかつかないのに息子をずっと待ってるのさ。

「だから、気にせずばあさんの所でしばらくやっかいになっても良いと思う。そっちのほうが喜ぶだろうからさ」



家に入る。老婆はすぐに自分に声をかけ、ご褒美にお菓子を振る舞おうとする。
「…おまえの好きなジンジャークッキーは切らしてしまったね。市場に行って、材料をそろえなくちゃ。事前に帰ってくるって教えてくれたら用意できただろうに。
 ねえヨハン、今度はいつまでここにいるんだい?」

顔はこちらを向いていた。うすぼんやり見える少年の姿を、自分の記憶と重ねて見ているのだろう。「お前がずっといたけりゃ、ここにいてもいいんだよ」
「…ううん、母さん。僕は、行かなきゃいけないところがあるから」

でも、ジンジャークッキーの材料を買って、一緒に食べるまでは。
せめて老婆の、記憶のなかのヨハンがクッキーをほおばって、笑顔になる記憶までは。
もう少しだけ居よう。


こんなところで道草をくっていたらマスターに怒られるかな、と考える。
思い浮かべたマスターは、「君が残らなきゃと思ったならそうすればいいよ」と笑っていた。

(「きっと私もそうする。」
 なんて、言いそうだーー…)


激戦を前に、穏やかな庭で蜃気楼にまどろむ。






参考にさせて頂いたのは グードルン・パウゼヴァング著『片手の郵便配達人』です。

あらすじ
第二次世界大戦末期、間に合わせの訓練を受けただけでロシア戦線に送り込まれた17歳のヨハンは、左手を失って故郷の山あいの村へ戻り、郵便配達人として働いている。
ヨハンは郵便配達員として村人から頼りにされ、仕事に充実感を覚えていた。しかし彼は戦地の夫や息子、兄弟からの手紙を届ける一方で、〈黒い手紙〉によって彼らの死を知らせなければいけない。彼からの手紙を待つのは、臨月のおなかをかかえて夫を待つ妻、意気揚々と出征していった十代の息子を案じる母、総統が最終勝利をもたらしてくれると熱狂的に信じる娘、戦争やヒトラーに批判的な者。ヨハンとおなじく傷病兵として帰郷した若者、ポーランドやウクライナからの強制労働者。そして、ヒトラー・ユーゲントのリーダーからSS隊員になった孫の戦死を受け入れられず、訪れてくるヨハンを孫オットーだと思い込むようになる老女……
恋人イルメラとのつかの間の幸福、ドイツ降伏に続くささやかな平和。その後にヨハンを待っていたものは……。

<読書感想>
最後のラストがめちゃくちゃ重いです。幸福を願う人々、理不尽な出来事、それに対するヨハンの心の動きや様々な人の心情描写が圧倒的です。ヨハンが戦争ですさむことなく最後まで純粋なまま物語が展開していくのも良い。心に深く残る良作です。







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