ときは平安時代中期。一条天皇の御代でございました。
平安京は二百年ほど前に、桓武天皇が「平らかで安らかなれ」という願いをこめて作られたもの。しかし今日の京は、光の中で活躍するものより、影で活躍するものが幅を利かせております。明るい陽の下でも、ほの暗い人間の一面を感じずにはいられませんでした。
「お父さま、ご安心くださいませ。呪いは去りました」
「しかしのう姫よ……」
「不安な顔はなさらないでください。道満どのが払ってくださいましたから」
この時代、もっとも恐ろしいものは呪いと怨霊でした。どちらも人間の怨みや恐怖がもとになったものです。人々は安寧を求め、頼りにした者がいました。それが陰陽師。私も藤原顕光(あきみつ)どのに雇われた陰陽師……蘆屋(あしや)道満と申します。
「道満、姫は本当に大丈夫か」
「大丈夫にございます。また呪いが近づくことのないように、建物のまわりに厄除けの札を置きましょう」
顕光どのは心配性でした。ですが、彼が不安になるのは仕方ないことかもしれません。
京で政治の実権をにぎっていたのは、天皇ではなく藤原一族でした。その藤原一族内でも激しい権力争いがあり、私を引き立ててくださった藤原顕光どのは右大臣の地位にありましたが、実際の政治は左大臣である藤原道長が動かしていました。
顕光どのはけっして無能というわけではないのです。ええ、道長がとくべつに狡猾で残忍な男というだけで──…。
地位とは持つだけで人の怨みを集めるものです。顕光どのには様々な呪いが降り注ぎました。彼が道長と対立するたび、道長にやり込められていたせいでしょう。貴族たちは顕光どのを嘲笑して日頃の憂さを晴らし、「かれに取って代われるかもしれない」と呪いを送り込みました。
実際の下手人が藤原道長でなくても関係なくは無いでしょう。道長が人々を煽っていたのですから。
姫さまに呪がくることも多くありました。
仕方ないことだと思います。あの顕光どのの娘とは思えない、教養深く美しい姫だと噂されていたのですから。
「さあお父さま……仕事がありますでしょう? 次こそは道長の鼻を明かすとおっしゃったではありませんか」
「しかし姫よ……」
「道満どのに身を守る方法をしかと聞きます。お父さまは安心して仕事にお戻りください」
姫さまの提案にしたがって、顕光どのはしぶしぶ仕事に戻られました。
道満どの、と姫さまが私を呼ばれます。
「いつも助けてくださってありがとうございます」
御簾(みす)の向こうにいる姫さまを見ることはできません。高貴な女性は他人に姿を晒さないのです。簾(すだれ)ごしにうっすら長い髪と雅やかな衣の輪郭がわかる程度でした。
ですが私は幸いにして、姫さまのお顔を拝見したことがありました。
あれは私が京に登ったばかりのころ。陰陽師としてまったく名の無かった私は、どこかに雇ってもらえないかと夜闇の京を歩き回っていました。
女性の悲鳴と牛車の軋む音がして、一目散に駆けつけると、異形の者どもに囲まれた女車がありました。
※女車……女性が外出の際に乗った牛車。すだれの下から地面に鮮やかな布を垂らす。
『どなたかこれへ!』
『助太刀を求めておられますかな』
意気揚々と声をかけ、私は太刀を振り回して異形の者どもを払いました。低級で相手をこわがらせる程度の怨霊に過ぎません。ですが、私は恩着せがましく口上を述べました。
『車にお乗りの方、もう大丈夫にございます。京で一番の実力者、蘆屋道満が怨霊を退散させましたからな』
『道満、どの……』
切り裂かれた簾のすき間から、月明かりに美しい少女のおもてが照らされました。
『わたくしは藤原顕光の娘です。あなたさまが救ってくださったおかげで、命拾いをいたしました。
明日、使いを送りましょう。これからもわたくしを守ってくださいませんか?』
これが私と姫さまの出会いです。一度見た美しいお顔を忘れませんでした。京の醜悪さに吐き気を催しながらも留まったのは、姫さまのため他なりません。
「もうご安心ください。幾重にも厄除けを置いておきましたから」
「ありがとう、道満どの」
御簾の奥で姫さまが私に微笑んでくださっている。そのお顔が見えるようでした。
「近頃、宮中では安倍晴明という陰陽師が活躍しているそうね」
ふと姫さまは私が最も気にしていることを口にしました。でも、と彼女は続けます。
「わたくしは名前しか聞かない者より、目の前にいらっしゃる道満どののほうが何倍も頼もしいわ」
「光栄の極みにございます」
姫さまの言葉で、私の胸にある醜いものはスッと消えてしまうのでした。
■□■□■
暑さがつづいたある夜、姫さまはとつぜん高熱でうつろとなり、顕光どのが私を呼ばれました。
「姫の熱が下がらんのだ。医者にみせて様々な薬を飲ませたがいっこうに効かぬ。
祈祷師をよんで今は静かになったが、先ほどまで胸をかきむしって苦しんでいた」
「なんとかいたしましょう」
いつも私たちを隔てていた御簾が上がり、月明かりにみた美しい瓜実顔が横たわっていました。長い髪を枕に敷いて、熱に浮かされた唇は赤く染まっています。
「姫さま……」
意識がないのか、私の声に反応しません。無骨な手でさわるのはためらわれましたが、姫さまの小さな手をとって自分の額に当てました。
『六根清浄(ろっこんしょうじょう)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)』
力のすべてを注ぎ『急いで六根である目や耳、鼻や舌、体と心を清めなさい』と念じました。
すると苦しみで歪んでいた表情がわずかに和らぎ、姫さまの呼吸がゆっくりになりました。しかし、すぐに胸をつかんで激しい痙攣をおこしました。
「道満どの、これはいかに──…」
「いったん祈祷師に押さえ込んでいただきましょう! 私は急ぎ怨霊退治に役立つ道具を揃えてまいります」
道満どの、と荒い息のなかから私をよぶ姫さまの声が聞こえました。
「姫さま!」
「道満どの……わたくしは助からなくてもいいのです。きっと、ここで死んでしまう定めなのでしょう。それも幸せな気がいたします。
もし生き延びてしまったら、死ぬより恐ろしい場所で過ごさなければならないのですから」
「いいえ、必ずお救いいたします……!」
夜が白んでいくうち、姫さまにかかった呪いを弱めることが出来ました。しかし払うことには至らず、一睡もできないまま数日が過ぎていきます。
倒れそうになりながら、さまざまな方法をかき集め、姫さまの元へ急ぎました。ところが建物の前で私が出会ったのは、安倍晴明でした。
「やや、これは道満どの」
「……晴明どの、なぜあなたが藤原顕光どのの館にいらっしゃるのだ」
「なあに、帝からのお達しでね。姫君を治すように仰せつかったのだ」
「帝が?」
私が訝しむと、晴明はととのった中性的な顔立ちに笑みを浮かべました。
「もう治してきたよ」
「……正体はなんだったのだ」
悔しく思いながらも尋ねると、晴明は「単純な呪いであったよ。誰の呪いでもなかったしね」と応えます。
「どういうことだ?」
「なあに、呪いをかけていたのは彼女自身ということさ。おおかた『親王の元に嫁ぎたくない』と思ったのではないかね」
「親王……?」
私の疑問を見透かして、晴明は言いました。
「君はどうも政に疎いようだ。顕光どのの姫君は近々、敦明(あつあき)親王の元に嫁ぐことが決まっている。だから帝が姫君を治すようにおっしゃったのだ」
呪いの原因については彼女の名誉のために黙っておくけれどね、と晴明は続けました。
「道満どの、君の才能はたしかだ。
しかしこんな簡単な呪いを見抜けないとは知識不足が過ぎる。その才能をいかすために、ぜひ朝廷に出仕して陰陽寮にきてはどうだ」
■□■□■
晴明が去った後、私は姫さまの建物に入りました。
「姫さま」
御簾は下がっていました。しかしご無事を確かめずにはいられませんでした。「道満にございます。お加減はいかがしょうか」
「……道満どの……」
掠れた声でしたが姫さまからの返事がありました。しかし、妙によそよそしい声でした。
「晴明どのからご無事だと聞きました」
「あの方と話されたのですね……。では、呪いの原因がわたくしであったこともお聞きでしょう」
「はい」隠さずに応えました。
「しかし私は信じませんよ、あやつの言葉など。姫さまほど心の清い方はいらっしゃいませんから」
私はこう言いました。
すると、御簾の向こうから静かなわらい声が聞こえ、やがて大きな声となって建物じゅうに響きわたりました。
「姫さま?」
「道満どのはわたくしの心がきれいだと、本気でおっしゃっているのですか?」
聞いたことのない声色でした。いつもの姫さまと違う。もしや怨霊が取り憑いているのではないかと思い九字を切りましたが、なんの反応もありませんでした。
ふふふ、と姫さまは高らかにわらいました。
「わたくしだって人を怨めしく思うことぐらいあります。道長の娘と比べられたり、悪い噂を流されたり。例えば、お父さまがわたくしを大切にするのは、出世の道具として使いたいからでしょう?
わたくしはこんな汚い世界に生きているのです。そんな人間のこころが綺麗なままでいられるかしら」
「………」
「挙げ句の果てに、お父さまは権力のいけにえとして、わたくしを宮中に差し出される。
お姉さまのときあれだけ人々から嘲笑されたのに、わたくしも同じ目にあうのかしら」
顕光どのの長女・元子さまは一条天皇に嫁いで懐妊し、人々の期待を集めました。しかし産み月になっても産気づかず、ようやく産気づいても胎からは水が流れ出るばかりで赤子は出てきませんでした。この騒ぎで、顕光どのと元子さまは世間からひどい嘲笑をうけたのです。
「怨めしい。妬ましい。恐ろしい。どんな人間の心も汚れているのです。
わたくしは病を治して欲しくなかったのに……宮中など行きとうありません。このまま、小さな世界の中で朽ち果ててしまいたい」
「………」
姫さまの言葉を聞いて、私の胸の中で覚悟が定まりました。これは昔、身に余る願いだと打ち消したものでした。
「では姫さま、私と一緒に京から出られますか?」
「……道満どのと共に?」
姫さまは驚いたようです。一瞬のとまどいがありました。しかし彼女は私の言葉を慰め≠セと受け取ったらしく、くすりと笑いました。
「道満どの、ありがとう。わたくしは大丈夫です。宮中に行っても、困ったらあなたに手紙を書いていいかしら。
あなたが無事を願っていてくれると思ったら、宮中も怖くない気がしてきました」
怨霊は人の恨みを糧にします。宮中は、人の恨みがより集まるところ。いま彼女が想像している呪いや怨霊より恐ろしいものが、彼女を襲うでしょう……。
でもこの方は覚悟されたのです。私が姫さまの決断を守らずして、何としましょう。
「左様でございますか。姫さまにそう言ってもらえるなら、この道満、光栄の極みにございます」
道満は顔を伏して言った。
立香は扇で口元を隠した。
──道満どのが本気で言ってくれているのは分かる。じぶんが頷けば、彼は私をおぶってでも京から連れ出すだろう。
だが父は必死なのだ。道長に出世をうばわれ、私を親王に嫁がせることでなんとか地位を取り戻そうとしている。道満どのも関われば罪人となり、せっかくの才能を生かす機会を失ってしまうだろう……。
■□■□■
藤原顕光の娘、立香は敦明(あつあき)親王とのあいだに男子をもうけた。
長和五年、敦明親王が皇太子に任命され、妻の父である顕光は左大臣になった。ところがそのとき政治の実権をにぎっていたのは藤原道長で、敦明親王は舅(しゅうと)である藤原顕光をあまり頼りに思わなかった。
敦明親王は道長の誘いにのり、道長のむすめ寛子と結婚。立香とおさない男子のもとを訪れなくなった。
立香は悲嘆してほどなく病死した。この事件で藤原顕光は一夜にして白髪になってしまったという。
道長をはげしく怨んだ顕光は、芦屋道満に道長への呪詛を頼んだ。道満は目を血走らせる顕光にニタリとわらいかけた。
「顕光どの、いい表情をしておられますな。人間の怨みは強ければ強いほどよい呪いになるのです」
「道満……貴様、狂っているのか?」
「ええ、おそらくずっと昔から。立香さまと出会ったころからでしょうか? まあ、そんなことはどうでも良いのです」
「顕光どの、一緒に呪いましょう。いつまでも、いつまでも永遠にね」
<おわり>
33333HIT企画 第一題目
「もし2部5.5章をクリアされていたら、蘆屋道満のお話を書いて頂けると嬉しいです。 道満に優しい女性で、道満が丁寧に扱う存在とかで書いて頂けると更に嬉しいです」
というリクエストをいただきました。すいません。実はまだ5.5章クリアしていないのです…お正月のお楽しみにとってあります。
ですが、「道満…書きたい!!」という欲望だけで書いてしまいました。クリアした後、いろいろ訂正した方があれば直します(本当すみません)。いちおう史実で書いたのですが、イメージとは違うかもしれません。少しでもご期待に応えられていたらいいのですが…。
リクエスト頂き本当にありがとうございました!!