疑い(前編)



(1)

 夜闇が空の半分を占めようとしていた。薄明かりのなか家路を急ぐ。こんなに遅く帰るつもりはなかったのだが、習い事からの帰り道で偶然幼なじみに再開したのだ。
「やあ立香、久しぶりだな」
「アキレウス…」
 幼なじみの彼に会ったのは実に2年ぶりだった。アキレウスは立香より1つ年下で、幼い頃は弟のように可愛かった。近所にすんでいて親同士の仲が良く、小・中・高校とおなじ学校に通い、一緒にいるのが当たり前の間柄だったが、立香が先に都内の大学に進んでからは会わなくなっていた。
「このあたりに住んでいたんだな。すっかり高級住宅街の奥様が板について、ぱっとみても分たなかったよ」
「ええ…」
 アキレウスに会うのは結婚式以来だった。
 立香は大学4年生でまわりが就職活動に忙しくしていたとき、親から見合い話を持ちかけられた。父の会社の取引相手で、若くして社長になった優秀な人物だという。現実感がないまま見合いを終え、先方が『いたく立香を気に入った』というので、特に将来のことが決まっていなかった立香は、周りに流されるまま付き合い、大学卒業後すぐに結婚したのだった。
 アキレウスも結婚式に参列してくれた。でもほとんど話せず、ゆっくり話したのは高校生ぶりと言ってもよかった。アキレウスは高校時代よりもたくましくなっており、長身の鍛えられた体に警察の制服がよく似合っていた。
「おめでとう。夢を叶えたんだね」
 アキレウスをみると、なんだか立香は彼がとてもまぶしく見えた。自分は結婚して2年。家から出るのは習い事ぐらいで、嫁ぎ先の高級住宅街に友達はいない。自分にくらべて、アキレウスはこれから輝かしい人生が待っているのだという気がする。
「制服がよく似合っている。さぞかしモテるんでしょう?」
そう聞く立香の心の中には、すこし妬ましい気持ちがあった。
「まあ、それなりには」
アキレウスは笑って言った。「同僚の紹介や、友達の紹介とかな。迷うぐらいにはいるぞ」
「もう。いい歳なんだから、真剣に考えなさいよ」
 そう言ってたしなめた立香は、不思議に浮き足立つような感覚を覚えていた。


 帰り道を急ぎながら、立香は、アキレウスと話してなぜあんなに気持ちが浮わついたのだろうと思った。まさか、私はアキレウスに未練があるのだろうか。昔はいつも一緒にいて周りに「付き合っているんじゃないか」とからかわれた。気恥ずかしさから否定したけれど嫌な気持ちではなかった。だが恋という感覚がよく分からないまま、大学に進むとお互い離れてしまった。
 でも立香には、久しぶりに出会った幼なじみとのときめきを楽しむ余裕もあった。もう20代も半ばで自分は人妻なのだ。幼なじみとの淡い恋を思い出して切なくなる人妻。自分を空想の主役にして立香は楽しんでいた。それが空想でしかない証拠に、家路にむかう足は急いでいる。

 立香が異変に気付いたのは、人気のない住宅街の十字路を曲がったときだった。
 前方の路地に停まっている車の向こうで口論が聞こえた。と、同時に短い悲鳴と重いものが倒れる音も。立香は本能的に行動した。いそいで身を翻し、走って逃げたのである。だが一瞬だけ、車の向こうに立っていた男が見えた。
――あれは、夫の部下だ。
 立香が驚いたのは、その男性が知っている人物だったからである。結婚式の時に紹介され、家にも2、3回ほど訪ねてきていた。夕闇の中でも見間違えるはずがなかった。


 高級住宅街にある我が家にたどりついたとき、立香は息を切らして一歩も動けなくなっていた。かろうじて手荷物を落とさずに帰ってこられたが、これから何事もなかったように料理する気にはなれない。
 夫は深夜まで仕事をしてまだ戻ってこないだろう。迎えでてきたお手伝いの女性に「気分がすぐれないから水を飲みたい」と言い、リビングのソファに座って、冷たい水を飲むといくらか気持ちが落ち着いてくるようだった。
 こんなとき、夫が早く帰って来てくれるといいけれど。いまにもさっきの男が玄関から入ってくるのではないかと思って、立香は生きた心地がしなかった。


 夫のギルガメッシュが帰ってきたのは、夜10時を過ぎた頃だった。遅くまで仕事をしていたらしく、疲れた表情に無口だった。だがギルガメッシュは精悍な顔立ちで、ほどよく鍛えた体にオーダーメイドのスーツを着こなし、疲れていても人を惹きつける魅力を放っていた。
「お食事はいかがですか」
「済ませてきた。風呂に入る」
 ギルガメッシュは簡潔な口調で言った。結婚して2年になるが普段から会話はない。上着を受け取ると、着替えを用意してバスルームの棚に置いた。かれが風呂から出てソファに座るのに合わせ、グラスに冷たいビールを注ぐ。
「今日は習い事に行ってきました。帰り道にたまたま幼なじみと会って…」
「ほう」
 と言ったが、ギルガメッシュはたいして興味を持っていなさそうだった。きっと頭の中は会社に残してきた書類でいっぱいなのだろう。そもそも、立香にかれの興味を惹く話ができるはずがない。
 立香は結婚するときに、子供ができるまでは働きたいと言ってみた。しかし「不自由ない生活を与えてやるのにどうしてだ?」と逆にギルガメッシュに聞かれ、「不要な交友は避けるように」とまで言われた。気の毒に思った彼の部下が「習い事ぐらい良いのでは」と提案して、ようやく外との繋がりを許されたのだ。
 そんなこともあって、立香には彼を楽しませる話題はない。だが、今日はすぐ話さなければならないことがあった。
「…そのあと、恐ろしい目にあいました」
 ギルガメッシュは酒を飲みながら、黙って本を読んでいた。
「殺傷事件が近くであったんです」
「………」
 彼は初めて表情をうごかした。「恐ろしい目にあっただと? まさか見たのか?」
「は、はい……」
 夫に聞かれて、立香はどう説明したらいいかわからず言葉に詰まった。だが、あのときの恐怖はまざまざと思い出された。
「路地に停まっていた車の向こうで、悲鳴と物の倒れる音を聞いたんです。まだ犯人がいたので慌てて逃げました」
「それで警察が集まっていたのか…」
 ギルガメッシュは呟いた。「窃盗か、知り合い同士の争いか。物騒なことだな」
「はい…」
 立香は、夕闇の中でみた人物の顔をはっきりと思い出していた。「私――おそらく犯人を見ました。あなたの部下の方でした」
「何」
 怪訝な顔をした彼に対し、立香はその人物の名前をつぶやいた。
「……本当か。曖昧なことは言うなよ」
「いいえ。はっきりと見たんです。怖くてまだ警察に言っていませんが、間違いありません」
 その言葉を聞いて、ギルガメッシュは少し考えたような表情をした。すこし気になることがあるらしい。
「まだ人には言っていないんだな?見たと言えば、面倒なことになるだろう。絶対に人には話すな」
「でも……」
 うろたえる立香にギルガメッシュは言った。「我が調べておく。お前は、黙っていろ」


(2)


 それから数日間、立香が安心するような瞬間はひと時もなかった。あの事件については新聞で小さく報道されていた。被害者は都内の大企業に勤める男性だという。このことは住宅街でも話題になったが、盗られた物はなく強盗目的でなかったと伝えられるだけで、犯人が誰かは警察にも見当がついていないようだった。
 夫のギルガメッシュに話してからしばらく経っている。夫は「被害者は重傷だそうだ」と言うだけで詳しいことは何も教えてくれない。だが、立香が目撃した男については調べているところだと言い、
「事情が混み合っているようだ。その場の口論から斬りつけたようではないから、調べが終わるまで誰にもいうな」
 と改めて釘をさしたのだった。

 ギルガメッシュに釘をさされたとき、立香は黙ってうなずいたが釈然としない気持ちだった。彼が、何かを隠して言っていない気がしたからである。ギルガメッシュにしてみたら、自分の部下を犯人として疑うのは難しいかもしれない。
 だが妻である立香が目撃したのだ。気遣って欲しいし、せめて話を聞かせて欲しい。たとえ親に勧められたお見合いだったとはいえ、自分の意思で「結婚する」と決めたのではないか。もっと私を信用してくれてもいいのに……不安と怒りが入り混じったが、彼の思考を読もうと思っても立香自身――ギルガメッシュのことをあまり知らないのだった。
 無口であまり自分のことを話さない夫が昼間に何をやっているか。実際のところ、立香は知らない。会社で働いているというのも憶測だ。
 そう考えると妙に心細くなるのだった。


 少しだけ風が強く、雲がちぎれて流されていく空模様だった。木陰のベンチに座りため息をつくと、足元に数輪咲いている秋桜のあざやかなピンク色が目に映った。風に揺られて可憐な花びらはたわんだが、風がやむと真っ直ぐに伸びる。
 健気な草花を見つめながら、立香はため息を重ねた。
――夫に内緒で男性に会いに行くのは、あってはならないことだろうか。
 アキレウスに話そうと思ったのは、彼なら自分の話を最後まで聞いてくれると思ったからだ。夫に内緒で話をうちあけるのは良くない。だが、黙っているのもいけないことだと思った。事件の被害者がいるのだ。住宅街にも緊張感がただよっている。
 それでも勤務中のアキレウスに話しに行けば、目撃証言として大ごとになってしまうだろう。夫にもごまかしきれない。できるだけ穏便に済ませたいというしたたかな思いから、立香は仕事終わりのアキレウスを待っていたのだった。警察署の近くに公園があって、ベンチに座りながら入り口を見ていた。
 アキレウスが建物からでてきたのは約束よりも早い時間だった。ベンチに座っていた立香をみつけて、風を切りながら走り寄ってくる。グレーのシャツに細身のボトムスを合わせて、仕事終わりのラフな服装だった。「すまない。待たせたな」
「ううん。仕事終わりなのにごめんね」
「いいや。…なにかあったんだろ? 静かなところで聞いたほうがよければ、近くの店に入ろうか?」
「ううん、ここで大丈夫」
 木陰のベンチに並んで座り、立香はこれまでにあったことを話した。アキレウスは立香が話す間、一言も口を挟まず黙っていた。話し終わると、アキレウスは口を開いた。
「この話を俺以外の誰かにしたか?」
「いいえ。夫にだけ」
 立香が首をふると、彼は「それでいい」と呟いて少し考え込んでいるようだった。やがて重い口調で言った。
「…例の事件の、重要な目撃証言だ。だが証拠もなく見た人物がいるというだけで検挙することはできない。おれがその男について調べてみるから、黙ったままでいてくれるか」
「分かった」
 と言ったが、立香は不服だった。アキレウスも夫と同じように調べると言って、何も教えてくれないのではないか。不服そうにした立香を見て、アキレウスはそっと彼女の頭に手を置いた。
「そうやってむくれていると子どもの頃のままだな。慎重に調べるのは、相手に逃げられないようにするためと、立香を危ない目にあわせないためだ。いいな」
 アキレウスはいつもの朗らかな口調で言いきかせた。立香は頷いたが、胸のうちはまだ暗いままだった。
 そしてアキレウスの言葉ははずれて、立香は帰り道で危ない目にあったのである。


(3)


 アキレウスとの話が意外に長引き、立香が帰り道についたのはまたしても夕刻だった。住宅街を歩きながら、先日と同じ状況に不安を感じざるを得なかった。左右に高い塀がそびえ、塀の向こうにある住宅は不気味なほど静かだ。人通りはまったくなく、自分の足音だけが反響して聞こえる。歩調を早める。
――家の近くまで送ってもらったほうが良かっただろうか?
 アキレウスは申し出てくれたのだ。断るべきではなかったかもしれない、と後悔が頭をかすめたとき、前方の曲がり角から青い乗用車があらわれた。住宅街なのにまったくスピードを落とさずこちらに走ってくる。
――通行人に気付いていないのだろうか?
 立香は道の端に避けたが、運転席の人物がしっかり自分を見て走ってくるのに気付いて、ぞくりとした。スピードは落ちない。
 ライトが顔を照らしたとき、ぐいと手を引かれて誰かの体にかばわれた。衝撃を予想して体を固くする。だが衝撃はなく、風圧だけを残して車は遠ざかっていった。立香が顔をあげると、自分に覆いかぶさっていたのは先刻わかれたアキレウスだった。
「大丈夫か、立香」
 聞き覚えのある声に力が抜け、地面に座り込んだ。
「心配だったから家に着くまで見守ろうと追ってきたらこの始末だ」
 座り込んだ立香をぐいと引いて立ち上がらせた。引き寄せられるままに、立香はアキレウスの胸によりかかった。ぶ厚い胸板から早い鼓動が聞こえる。足にまだ力が入らず、自力では立てなかった。
「さっきの車はスピードを一切落としていなかった。お前が見えなかったわけがないのに」
「………」
「さすがに車のナンバーまで覚えられなかった」
 アキレウスは顎に手をあてて考えながら、鋭い視線を向こうにやった。警察官としての表情だった。「立香――さっきの車に、心当たりはあるか?」
「いいえ」
 立香は震える声で返事した。見覚えのない車だ。運転席に座っていた人物の顔ははっきり見えなかったが、顔はこちらに向いていた。運転に迷いはなかった。
「不安にさせるつもりはないが……気をつけたほうがいいかもしれない」
 真っ青になった立香を、アキレウスは抱き上げた。「家まで送っていこう。嫌かもしれないがじっとしていてくれよ」

 幼なじみの力強い腕を背中と太腿に感じながら、立香はありがたく感じる一方で、罪悪感を強く感じていた。こんな姿を夫に見られたらどう思われるだろう。こんなことをしてはいけないと思い、一方で、いつまでもこうしていたいと思った。
 彼の胸に身を預けていると、夕闇のなかに灯った秘めやかな恍惚感が身体中を痺れさせた。罪の意識と恍惚感に目がくらみそうだった。

「そろそろ自分の足で歩けるか」
 家の前に着いたとき、アキレウスが優しく言った。立香が頷くと、かれはしゃがんで立香を下ろし、ぎこちなく立った彼女を見守った。
「当分は家の外に出ないほうがいいかもしれない。事件が落ち着くまで、できるだけ誰かと一緒にいたほうがいい」
「うん…」
「何かわかったらすぐに連絡する。確認だが……立香、この話は旦那にしかしていないんだよな?」
「………」
 厳しい顔つきに、かれが何を言わんとしているか察した。何か言おうと口をひらきかけた立香に、アキレウスは「いや」と首を横に振った。「はっきりしないことを口にするべきじゃない」
「そうだね」
「…あの男と結婚させたのは間違いだったみたいだな」
 最後の言葉は呟きに近かった。その言葉はまるで自分に対する想いを告げているように感じたが、立香は聞こえなかったふりをした。たとえ心に迷いが生じようと、自分は人妻なのだと一線を引いている。
 背を向けて去っていくアキレウスを、立香は呼び止めなかった。


 その日の深夜、仕事から帰ってきたギルガメッシュに車で轢かれそうになったことを話した。だがアキレウスと一緒だったことは隠した。そのことを話せば、自分の罪悪感まで伝わってしまう気がしたから。
 ごまかすために話がしどろもどろになったが、夫はそれを立香の気持ちが動揺しているせいだと取ったようだった。立香の話を聞き終えると、
「しばらく外出はするな」
 とギルガメッシュは言った。
「私の話を信じてもらえますか?」
「例の事件と関係があるかは分からん。我以外には話していないのなら、それはお前の思い込みだ。
 だが危険を感じたのだろう。以前から、お前には不要な交友も外出も控えてほしいと思っていた。良い機会だ」
「………」
「お前が言っていた男についてはもう少しで調査が終わる。事件の決着がつくまで、絶対に家から出るな」
 ギルガメッシュは立香を睨みつけるように言った。珍しく夫が怒りをあらわにしている。その顔を見ていると、立香の心に2つの疑念が湧き起こった。

――夫が怒っているのは、私のためだろうか。
 そうだとすれば、アキレウスに覚えてしまった感情は忘れるべきだ。不安から心が浮ついてしまったようなものなのだから。罪悪感がするどく心を苛んだ。
――でもアキレウスが言おうとしたように……夫が事件に関わっているとしたら?
 彼が今見せている怒りは、誰にむけられたものなのだろう。立香はぞくりと背中が寒くなるのを感じた。このまま私は夫を信じて、家にいても良いものだろうか。
 ギルガメッシュの怒りながらも美しい顔をみつめ、立香はごくりと唾を飲み込んだ。


 アキレウスから連絡がきたのは3日後だった。
 メールの文面は簡素だった。
――例の件について、分かったことがあるから話したい。
 どう返すべきか立香は迷った。



<続く・分岐ルートへ>

来週更新予定
(A)幼なじみ(アキレウス)ルートへ
(B)夫(ギルガメッシュ)ルートへ

※藤沢周平さんの短編『桃の木の下で』を下書きにしています。



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