幼なじみ



 アキレウスから連絡がきたのは3日後だった。メールの文面は簡素だった。
 ――例の件について、分かったことがあるから話したい。
 どう返すべきか立香は迷った。だが夫への疑念と真相を知りたいという思いから、『分かった』と返信する。すると、『先日会った公園に夕方来てもらいたい』と返ってきた。
 立香はやり取りをしながら、なぜ連絡先をRINEで交換したのにメールで送ってきたのだろうと思った。メールアドレスは学生時代に交換した覚えがある。彼のアドレスは登録したものと変わっていたが、変更したことが初めに書かれており、疑問を持たなかった。
 お手伝いの女性に暇を出し、彼女が帰ったのを確認して支度をする。帽子を深々とかぶって家を出た。曇り空の湿った風が頬をなぜる。あと数時間以内に雨が降るかもしれない。重い空模様にすっきりしない自分の心を重ねながら、立香は住宅街を歩いた。不安なはずなのに、心は微かに弾んでいた。この3日間に立香は夕闇の中で、アキレウスに言われた言葉を何度も思い返していた。
 ――アキレウスは、どうしてあんなことを言ったのだろうか。
 その答えは、立香には分かっている。だがはっきりと言葉にしてしまえば答えを出さなくてはいけなくなる。立香は同じ問いかけを何度も繰り返し、そのたびに感じてしまう心の揺らぎを押し殺した。

 住宅街を抜けて公園にたどり着いたころにはすっかり日も暮れていた。薄闇の中で足元には秋桜が揺れている。ベンチには誰もおらず、立香はアキレウスに電話をした。
 ――近くにいるなら、電話に気付くはずなのに。
 数コールしても出ない彼に、あとで折り返しかかってくるだろうと立香は電話を切った。周りに人影はない。少し離れた木の下に、長身の男性が立っているのが見えた。
「アキレウス?」
 立香は声をかけた。暗がりで男性の顔は見えなかったが、手招きしているのが見えて歩み寄った。男性は木立のほうへと歩いていく。周りに聞かれてはまずい話だから、人気のない方へ行くのだろうか? やがて相手が立ち止まり、顔が見える距離まで近寄ると、立香は息を呑んだ。
「あいにくだったな。その男ではない」
 迎えた男が言った。立香を見下ろしていたのは、夫のギルガメッシュだった。
 立香は困惑して立ち竦んだ。どうして、ここに夫がいるのだろう。アキレウスはどこにいるのだろうか。
「呼び出したのが我で残念だったな」
 立香を見下ろすギルガメッシュの視線は冷たく無表情だった。
「あの男の名前で連絡をしたのは我だ。だが貴様が来るかは半信半疑だったが、貴様はやってきた。覚悟はできているだろうな、立香」
「………」
「夫の言いつけに逆らって外出し、あまつさえ男に会いにいくとは。こんな時刻に暗がりで男に会うとはどういうつもりだ? 我のいない間に何度も会っていたようだな。不安を口実に、なぐさめて貰うつもりだったのか」
 ギルガメッシュは立香を厳しい口調で責めた。日頃は無口な男が別人のように捲し立てる。恐怖で体が萎縮した。と同時に、言い逃れるのは難しいと立香は思った。そして、そう疑われても仕方のない心の迷いが立香にはある。
「お前が男と話し込み、抱き上げられているところを見たものもいるのだ。大人しく貞淑な妻のふりをしながら、こっそり別の男をたらし込んでいたとは。呼び出せばすぐやってきて、この阿婆擦れめ!」
「ま、待ってください」
 立香は声を張り上げた。
「あなたに内緒で幼なじみに会ったのは悪いことでした。でも、理由があるんです。あなたに咎められるような後ろめたいことはしていません」
「口では何とでも言える」
 ギルガメッシュは噛み付くように言った。「ここにやってきたことで十分だ。今さら詫びても無駄だぞ」
 言い捨てて立ち去ろうとするギルガメッシュの腕に、夢中で立香はすがった。
「待ってください!話を、させて…そのあとで何でも言うことを聞きますから!」
「無駄だ、話など聞きたくない。貴様との関係はどうせ終わるのだから」
 軽々と振り解かれ、よろめいた立香にギルガメッシュは言った。「往生際が悪いな。お前の父親に言って引き取りに来てもらおうか」
「やめてください、どうか父には……!」
 立香には悲しげに謝る父の姿がおもい浮かんだ。娘の潔白を信じてくれたとしても、ギルガメッシュに対しては誠心誠意を込めて謝るだろう。詫びるために何でもするはずだ。そんな恥を父にかかせたくなかった。
 ギルガメッシュが皮肉な笑みを浮かべて言い放ったとき、薄闇の中に笑い声が響いた。
「誰だ」
 ギルガメッシュが声の方を振り向いた。暗がりから、ぬっと現れたのはアキレウスの長身だった。
「旦那さんよ、女を責めるときに父親を出すのはないんじゃないか」
 とアキレウスは言った。
「アキレウス…!」
 立香は彼の名を叫んだ。呼び出したのが夫だと言うのならなぜ彼がいるのだろう。アキレウスは目に涙が光っている立香を見て、言葉を続けた。
「それにしても、うまくお膳立てしたものだな。そうでもしなきゃ後腐れなく離婚しにくいってことか。こいつの父親は会社の取引相手だったな。ついでに慰謝料でも取るつもりだったか?」
「貴様っ…!」
「これ以上喋るな。立香を責める言葉を聞くのは耐えられない。
 お前の企みはすべて明らかになったぞ。お前の部下はさきほど検挙された。どうも詰めの甘い部下だったようだな。身辺調査をしたら、事件の証拠になるものが十分にでてきた。間もなく会社にも家宅捜索がはいるだろう」
「………」
「もう間もなくここにも警察が来る。諦めるんだな」
「貴様ごときに…!」
 不意にギルガメッシュは隣にいた立香の肩を掴んだ。そして立香の首に腕を回し、ぐいと力を込めて首を締め付ける。立香は何が起きたかわからなかったが、急に首を締め付けられ涙が目からこぼれた。
「っ……!」
「近づいてみろ。この女の首を、へし折ってやる」
 だがアキレウスは冷静だった。腰のホルターから拳銃を引き抜き、射殺すような眼差しで拳銃を構える。
「相手が悪かったな。少しでも動いたら、その顔に撃ち込んでやる」
「………」
「これ以上罪を重くするつもりか。逃げられないぞ」
「っ……」
 ギルガメッシュの腕から、立香は放たれた。
 立香は肺に入ってきた空気に咳き込みながら、恐ろしい夫の腕の中からのがれて、幼なじみの方へよろよろと歩み寄った。その身体を背後にかばいながら、アキレウスはなおも拳銃を下さなかった。
「調べれば、他にも余罪がありそうだな、あんたの会社」
「………」
「金輪際、おれの幼なじみには近づかないで貰おうか。こいつはお前が都合よく扱っていい女じゃない」


 パトカーが近くに止まって、警察の制服を着た男たちが夫のギルガメッシュをつれていくのを立香は呆然と見つめていた。何が起きたのか、立香にはまだ飲み込めていない。夫に不義を責められ離婚をつきつけられたのに、一転して夫が容疑者として検挙されてしまった。アキレウスの言葉を信じるなら、夫は立香の行動を利用して、目撃証言を口にできないよう封じて後腐れなく自分を捨てようとした。そんなことがあるものなのか。
 ――夫婦だったのに、私は何も知らなかった。
 そう思うと、まったく自分がみすぼらしく思えた。何も知らず、夫に何とか好かれようと努力していた。2年も。今まで守ろうとした夫婦関係が、夢のようにおぼつかないものに感じた。そして涙を拭ったとき、それは本当に夢だったようにすっきりと心の中から夫への情が消えていた。
 パトカーが去っていくのを見送って、アキレウスは立香のほうを振り返った。
「例の話を聞いた日から、警察が交代で家の周りを巡回していたんだ。外出した報告を聞いて嫌な予感がした。生きた心地がしなかったぞ」
「………」
「旦那のことは気の毒だったな。かなり巧妙に隠していたようだから、お前に分からなくても不思議じゃない。自分を責めるなよ」
「…あの人のことはもういい」
 立香は唇を噛みながら言った。「どんな罪で捕まったの?私にも教えて」
「ああ」
 とアキレウスは言い、ギルガメッシュにかけられた容疑について話した。
 急成長した会社は、表向きは健全な経営をおこなっていたが、裏では法律に反する裏取引も幾度となくおこなっていた。対立した会社の業績が急に悪化するのを怪しく思って、調べたのが例の事件の被害者だった。裏取引の一部証拠をつかんだ男を、ギルガメッシュの部下が処分しようとしたところに立香が遭遇したのだ。
「ずいぶん詰めの甘い男だったようでな。通り魔事件にみせかけたかったようだが、顔を知っている人物にみられる可能性を考えていなかった。だが、お前がすぐに警察に話さず夫にだけ打ち明けたことで事件が揉み消されそうになった」
 アキレウスは苦笑しながら言った。「ところが、お前がおれに頼ってくれたおかげで解決できたということだ。有能な幼なじみに感謝しろよ、立香」
「うん……感謝してる」
 自分が夫を見抜けなかったせいで、事件がもみ消されかけたのだ。アキレウスがいなかったら被害者だけでなく父親にも迷惑をかけていた。彼への感謝と、自分の不甲斐なさが混ぜこぜになって、立香は肩を落とした。
「ごめんなさい。アキレウス」
「どうして謝るんだ。俺はお前に頼ってもらえて嬉しかったんだぞ」
 ふと顔を上げると、アキレウスが優しい目で立香をみつめていた。自分はこんな目で見つめられて良いわけがない。2年も夫の悪事に気付かなかった愚かな人間なのだから。
「どうする?」
 とアキレウスは言った。
「裁判に時間がかかるかもしれないが有罪はまぬがれないだろう。それでも、お前はあの男についていくのか?」
「………」
「よく考えてみろ。あの男はお前に真実を話さず、あまつさえ都合よく捨てようとしたんだ。自分をもっと大事にするべきだ」
「…うん。でも、すぐには決められなくて……」
 アキレウスは立香の手をとった。大きくて温かい手だった。
「――その、もしよかったら、だが。俺をこれからも頼ってくれないか。紹介された女の子にいい子が居なくてな。ああ違う。 お前を、ずっと俺は……」
 
 しどろもどろになって言うアキレウスを、立香はおどろいて見上げた。闇の中でも鮮やかな色を放つ秋桜のように、彼の顔は赤くなっていた。


<おわり>




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