英雄



 コンラの死後、『アルスターの猛犬』には、暗い影がつきまとうようになった。同時にアルスターの国そのものにも、人知れず暗い影が差していた。
 そう、こんなふうに。
 戦いの後、コノートのメイヴ女王は、アルスターのコノール王とのあいだに、七年間の平和の取り決めを結んだ。だがメイヴの心の奥に棲む獰猛な闇が、クーフーリンを殺せと猛っていた。自分の舐めたあの屈辱と損失は、すべてあの男のせいではないか。
 メイヴはクーフーリンを憎んでいる者たちを呼び寄せた。その筆頭は三人の魔女たちで、コノート軍に参加した父のクランがクーフーリンに討たれていた。ほかにもターラの上王エルク、エウェルに求婚していたマンスターの王、クーロイ王の息子ルギーなど、集めるのに何の苦労もいらなかった。『アルスターの猛犬』のような生き方をしていれば、敵をつくらないはずがないからだ。
 メイヴは、アルスターの戦士たちは最大の力を必要とするときにかぎって、また『大衰弱』の呪いに襲われることを知っていた。そうなれば彼らが回復するまで、北峡谷を守るのは、今度もクーフーリンひとりだろう。「ただし」メイヴは言った。「今度は前回よりも、いっそう強力な軍勢を集めずにはおかぬ」。そこでマンスターやレンスターに使いをやって、族長たちに参戦を呼びかけた。
 こうして四王国連合軍は再び集結し、アルスターに向けて出発した。

 コノール王のところに、マンスター、コノート始め、全アイルランドの軍勢がアルスターの国境を襲撃中という知らせが届いた。だがすでに王は『大衰弱』にかかっており、アルスターの全戦士も自分と同じ状態であることを、痛いほど知っていた。ただひとり、ムルテムニーの自分の城にいるクーフーリンだけが例外だろう。そこで王はこう言った。「クーフーリンのところに行き、ここに連れてきてくれ。メイヴがまた軍勢を集めたのは、クーフーリンを打ち負かすためなのだ。あいつを守るためには、ここにかくまわねばならぬ。王たるコノールが、アルスターを救うためにクーフーリンの力を必要としていると言うんだ」
 そこでクーフーリンは戦支度を整え、エウェルと共に王の待つエウィン・ヴィハへと向かった。一行が王の城に着くと、女たちや詩人たちが出迎えた。みんなでクーフーリンとエウェルを歓迎し、赤枝の宿舎に連れていくと、宴を開き、甘い竪琴の調べでもてなした。彼らは王にこう言われていたのだった。「クーフーリンをなんとかして、メイヴ女王の憎しみと『魔女』たちの闇の力から守らねばならぬ」

 いっぽう、全アイルランド連合軍はすでにムルテムニーに達していたが、クーフーリンがいないことがわかると、ただちに次の手をとった。三人の魔女たちがエウィン・ヴィハに飛んできて、城の下の草原にしゃがみ込み、魔術で強力なまぼろしの軍勢を作りだしたのだ。そのためクーフーリンは、敵が押しよせ、四方八方から戦士たちの叫び声や城が炎上する煙が上がっていると思い込み、仰天して席を蹴たてて、表に飛びだそうとした。エウェルや側にいた者たちは必死の思いで引き留めた。
「あれは幻です!あと数日だけ、じっとがまんすれば消えますから。アルスターを留守にしていて大衰弱の呪いをのがれた戦士たちも数日で帰ってきます。それまで留まっていてください」
 するとクーフーリンは麻薬による眠りから覚めた者のように、あたりを見わたし、ふたたび席につき、額を両手で押さえた。だがふたたび錯乱に襲われ、席から飛びあがって剣を抜き、外に出て戦おうとした。これがくり返され、そのたびに引きとめるのは前よりいっそう困難になった。
 こうして三日が過ぎ、クーフーリンの頭はますます錯乱し、闇に呑みこまれていった。なにしろ戦の音がひっきりなしにとどろいており、アルスターの屋根という屋根は紅蓮の炎と煙に包まれ、エウェルの死体が防壁から外に放りだされる様子が、見えていたからだ。
 ついにクーフーリンはエウェルたちの静止を聞かず、ロイグに馬をつなぎ戦車の用意をしろと命じた。女たちは何とか引きとめようと力の限りをつくしたが、戦に出ることを決意したクーフーリンを止めるのは不可能だった。
 ロイグはできるだけ時間をかけて、クーフーリンの命令に従った。そしていつものように馬を呼ぼうとしたが、今度は馬が言うことを聞かない。とくに『灰色のマハ』は絶対に、ロイグを近づけようとしなかった。
「これは悪いことが起こる前兆だ」ロイグは独りごとを言い、クーフーリンのところに行った。
「今日、マハにくびきをつけたいなら、おまえが自分でやってくれ。これまであいつはおれに逆らったことなど一度もないが、今日のあの馬には、おれは触れることさえできない!」
 そこでクーフーリンは手綱を持って近づこうとしたが、マハはロイグの時と同じように、クーフーリンのことも寄せつけなかった。クーフーリンは頼んだ。
「おーい、兄弟。これまでそんなふうに気難しかったことなんか、なかったじゃないか。おれが好きなら、こっちへ来てくれ。おれたちはアルスターの敵をやっつけに行かねばならない。おれとおまえとでだ」
 そう言われて、ついに『灰色のマハ』はやってきたが、うなだれていた。立って手綱をつけられているあいだ、馬はぼろぼろと悲しみの血の涙を、主人の足元に落としていた。

――『炎の戦士クーフリン』より抜粋
   一部省略のため改変


 女たちの行動は速かった。クーフーリンが飛び出してしまった後、急ぎ、伝令でアルスターじゅうを駆けまわっていたナマエに急を知らせたのだ。ナマエは知らせを受け取ると、クーフーリンを止めにいこうとしたが、伝令の役を放り出すわけにいかなかった。すると女たちが言った。
「わたしたちに任せて。先の戦であなたを見ていた。あなたが伝えられないなら、私たちでなんとかするわ」
「ありがとう」
 そう言うが早いか、ナマエは馬の首を反転させ、煙があがるほう、血の匂いのするほうへ駆けた。


 いよいよ戦車の準備が整った。クーフーリンは速く、もっと速くと狂ったようにロイグを叱咤しつづけ、おかげで戦車は嵐のように疾駆した。通りすがりの木も草も、大風にあったように激しくなびいた。
 ほどなく浅瀬にさしかかると、クーフーリンはロイグに言った。「戦場に着いたら帰ってくれ。これはおまえの使命ではないのだから。ナマエが待っている。あいつはたった一人残された家族だろう」
「わざわざ言わなくても、ナマエは分かっているさ。おまえの運命は、ずっとおれの運命でもあった。いまさら変えることはできない」
 ロイグの言葉にクーフーリンは静かに頷いた。馬をなだめて川を渡ると、ロイグにひたすら速く走れと命じ、ミードホンとルアヘアを結ぶ道をまっしぐらに進んだ。七年前も駆け抜けた道だった。
 メイヴ軍の中にはクーフーリンの接近に気づいた者がいた。もうもうと土煙をあげて、クーフリンの戦車がやってきた。額から発する英雄光に照らされて、土煙は輝かしく紅に染まり、まるで夕焼け雲のようだった。手にした槍も紅く染まり、頭上には戦の神がみまもるように大ガラスが羽ばたいていた。「クーフーリンだ。クーフーリンがやってくるぞ!」
 連合軍は盾を構えた歩兵を並ばせて、盾の防壁のような陣を張り、鬨の声をあげた。歩兵の持つ槍の穂先が、夏の森の葉のようにびっしりと並んでいる。歩兵隊の間には戦車が配された。
 こうしてアイルランドの軍勢は、さながら武器でできた森のように、平野全体、山の斜面をおおいつくして待ち構えていた。クーフーリンはそれを見て、ロイグにさらに速く駆けろと叫んだ。戦車は神速で歩兵の上を走りぬけ、クーフーリンは早わざで鬼神もかくやの攻撃をくり返した。おかげで敵の死体は累々とどこまでも重なり、そのおびただしさといえば、浜の真砂か、降り積もったひょうの粒かというありさまだった。
 このとき軍勢についていた吟遊詩人のひとりが、クーフーリンの戦車の行く手に飛びでて、声を張り上げた。
「ホーレホーレ、『アルスターの猛犬』クーフーリンよ。汝の槍をわれに与えよ!」。
 吟遊詩人からなにかを求められたら、男たるものなんでも気前よく与えるべきで、断ることは恥とされていた。しかしクーフーリンは「今日はおれのほうが、この槍を必要としているんだ」と拒んだ。
「ホーレホーレ、拒むとあらば、汝の恥をば、我は歌わん。しからば汝の不名誉はとこしえに、人の口にのぼろうぞ」
「おれは贈り物をするのを拒んで、不名誉のそしりを受けたことなど一度もない。そんなに欲しければ、受け取るがいい!」
 クーフーリンはこう叫ぶと、大槍を詩人めがけて、力いっぱい投げつけた。おかげで槍は見事に詩人をつらぬき、そのうしろの男を九人刺し殺した。
 するとクーロイ王の息子ルギーがその槍をひろいあげ、クーフーリンめがけて投げつけた。ところが馬が突進してきたため、槍は代わりにロイグに当たった。ロイグは胸骨の下に深い傷を負って倒れた。意識が朦朧としながらも、ロイグは馬の手綱を離さなかった。「おれはもうだめだ。クーフーリン、わが愛する兄弟。御者なしで、どう戦う?」

「――私がいるわ」
 その声にクーフーリンとロイグが振り返ると、疾風のように馬を走らせて追いついたナマエがいた。ロイグは、肺に空気がはいりながらも言った。「ナマエ……どうしておまえがいるんだ。お前は伝令を…」
「喋らないで、ロイグ。しっかりと意識を保って」
「いいや、もうおれはだめだ」ロイグはクーフーリンを見やった。「ナマエを頼む」
「分かった」
 クーフーリンは言い、ロイグの上にしゃがんで槍を引きぬいた。ロイグは自分の手で、抜くのを手伝った。その瞬間、鮮血がほとばしって、ロイグの身体から命が飛び去っていった。クーフーリンはロイグにくちづけをすると、その体を戦車の床に横たえた。
 そして、親友の妹のほうを向いた。「ナマエ、なぜここに来た」
「あなたを止めるために」
 ナマエは兄の亡骸に顔をゆがませながらも言った。「戻って、クーフーリン。数日すれば呪いをのがれた戦士たちが帰ってくる。今回の大衰弱は浅いわ。しばらくすれば、戦士たち皆が戦えるようになる」
「では、そのあいだ誰がアルスターを守る?」
 クーフーリンはあたりに殺気をただよわせていた。「おれには見えるんだ。アルスターが炎と煙に包まれるさまが。エウェルやおまえが殺されるところも。そんなものを見せられて、じっとしていろというのか?」
「クーフーリン…」
「おれは穏やかな生活の中に生きることも、命をながらえることも望んでいない。戦士になった日に、自分で自分の運命をえらんだのだ。自分がどうなるか、とっくに承知している」
 それはクーフーリンがまだセタンタと呼ばれていたころ、神官からきいた言葉だった。ある神官が、「今日戦士になった者は、アイルランドでもっとも偉大な戦士となる。緑のアイルランドが海に呑まれぬ限り、彼の者を讃える歌が止むことはない。だがその者の命は短く、こめかみに白髪の一本すら数えることなく命を終える」と言った。これを聞いたセタンタは、「なんとしても今日戦士になりたい」とコノート王に申し出たのだ。
「でも、戦士たちが戻ってきてからでも遅くないわ」ナマエはなおも食い下がった。
 クーフーリンは首を振った。悲しげな目だった。「…いいや。おれがエウィン・ヴィハに戻れば、メイヴ軍はかならず追ってくるだろう。そのときまでに戦士がもどる保証はない。おれがここで戦えば1日は稼げる。あるいは、おれが死ねばメイヴの鬱憤は晴れ、アルスターへの侵攻は弱まるだろう」
「そんな……」
「もう無理なんだ」そのときナマエは、クーフーリンの左腕が重く下がっていることに気づいた。「クーフーリン、あなた左手が…」
「ああ。もうさほど長くは戦えない。どうか『アルスターの猛犬』として恐れられているあいだにおれを戦わせてくれないか」
 ナマエは言葉をうしなった。たくさんかれを呼び止めるための言葉を考えてきたはずだった。だがそのすべてが胸のなかで消え、クーフーリンの悲痛なすがたが胸を締めつけていた。戦士としての誇りを失うことをかれは何よりも恐れて生きてきたのだ。
「…では私を連れていって。その腕では手綱をあやつれない」
「だめだ」
 クーフーリンはきっぱりと言った。「だめだ、ナマエ。おれが何のために戦うか分かっているだろう。大切な者のなかに、おまえも入っているんだ。おまえまで失っては、どうやって英雄と言えようか」
 クーフーリンのかたわらには親友の体が横たわっていた。多くのものをクーフーリンは失い、そしてかれは失ったものを背負って生きてきた。親友の最期の願いも聞き届けるつもりだった。
「これはおれの運命なのだ」
 ナマエは歯をくいしばった。手は震え、全身がこわばっていたが、ゆっくりと馬をおりる。戦車に近づくと、兄の手から手綱をあずかり、クーフーリンが両手を自由に使えるよう、彼の腰に手綱を結んだ。結びおえたナマエに、クーフーリンは言った。
「マハを連れて行け」
「いいえ、マハは連れて行けない。あなたの戦車をひく馬が一頭になってしまう。
 そのかわりにマハを、私の代わりとして最後までそばに置いて欲しいの。灰色の馬がどこまでもあなたに付き添うわ」
 ナマエがそっと首に触れると、灰色の馬は彼女のほうに耳を向け、低い声でいなないた。まるで二人の会話に同意したようだった。優しい大きな目がじっとナマエをみつめている。
 かれの行く先に、ナマエは行けない。だが灰色の馬をつれて、最後の戦いへとクーフーリンは赴く。
「ナマエ、最後に一つだけ見せてほしいものがあるんだ」
 不意にクーフーリンは、戦車の上から、ナマエに向かって少しだけ照れくさそうに笑った。「かぶとをといて見せてくれ、ナマエ。おまえは本当に美しいんだ。スカサハの修練のあと、帰ってきたおれを迎え入れたお前に心を奪われた。その姿をずっと忘れていない」
 ナマエは驚いて目を見開いたが、やがて彼の望む通りかぶとを取った。かぶとからこぼれた髪は背中いっぱいに広がり、太陽のかがやくまぶしい光の中できらめいた。まばゆいばかりに美しくなった少女を、クーフーリンは何度も見つめた。
「ああ……じゃじゃ馬で、おれの後をいつもついてきたナマエが、こんなにも美しくなったんだな。
 ――どんなときも、おれの影にはナマエがいて、支えてくれた」
 視線がかちあい、二人は流れてきた歳月を思った。
 幼い頃に出会い、幾星霜を経て、別れを迎えた。だがクーフーリンがナマエに求めたのは別れの言葉ではなかった。

「おれを罵倒してくれ、ナマエ。おれが真の力を発揮できるように」
「ええ、セタンタ――クーフーリン」

 ずっと、そばにいたのだ。クーフーリンがセタンタだった頃から。そして彼も、ナマエが少女から大人に変わるときずっと側にいた。お互いのなかにいつも相手がいた。きっとナマエの中には永遠にクーフーリンがいる。

「全力で戦いなさい、クーフーリン。最後まで誇り高く。そうすれば、死んだ後も英雄としてアイルランドの人々に言い伝えられるわ」ナマエは言った。
 これがクーフーリンの最後の笑みになった。かれは槍を握りしめ、彼が失ったもの、残してきたものを思い浮かべた。「だったら、死ぬのは少しも怖くないな」



 クーフーリンは雄叫びとともに、メイヴ軍めがけてまっしぐらに突き進んだ。戦車は轟音をたて、嵐のように草花をなぎたおしながら突き進んでいく。クーフーリンの胸にくすぶっていた灼熱の闘争心が炸裂し、額から火のような英雄光が発した。そのクーフーリンに、灰色の馬が影のように付き添い、戦車は丘を越えていく。
 残されたナマエの赤髪を風がゆらした。吹き抜けていく風はちぎれた草、花を空へ巻きあげていく。
 静かに口を開いて唄った。

――空は晴れ 花は散る
  思い出は空のむこう 悲しみは空の果て
  どうか儚い夢が 終わりませんよう――…

 おそらくかれは戻らない。彼を待っているのはアルスターに戻れるような戦いではない。その戦いの末に待っているものは、 英雄としての死だ。
 ――それでも、私は生きていかねば。
 クーフーリンがいなくなってもナマエは生きていく。英雄の命は絶えても、その物語が残りつづけるように、かれの意志は私と、わたしの守るものが受け継いでいく。

 ナマエは馬に跨ると、燃えるような赤髪をひるがえし、クーフーリンとは真反対の方向へ走った。彼女は出会ったメイヴ軍の槍のまとになったが、そのすべてをかわし、戦いの向こう側へと去っていった。
 そのあとナマエがどうなったかは、わからない。だがクーフーリンが死んだのちもアルスターは長らえた。故郷の人々によって英雄クーフーリンの物語は伝えられ、いまなお人々の胸を揺さぶる。
 いまなお物語は受け継がれていく。



<fin>

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
もしよろしければ『あとがき』もお読みください。




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