8  汚濁を飲み込め


聖なる杯は英霊の魂によって満たされる。
ライダー、アーチャー、バーサーカー――捧げられた魂は未だ3つ。
奇跡の器の出現にはあと2つ魂が足りない。


3人は森の中を走っていた。1人は真っ直ぐ前を向いて走り、1人は背後を気にしながら、最後尾の1人は顔が赤らんで苦しそうに。
背後の城から聞こえた破壊音に、少年は足を止めた。
「遠坂、いまのアーチャーが…!」
「わかってる。私たちは絶対に逃げ切らなきゃいけないの。」
先頭の少女は振り返ることなく走り続ける。




教会から無事逃げ出し、安堵したのも束の間。名前は突如現れたランサーによって行き止まりに追いつめられていた。
「っ……」
「安心しろ。さっきは殺すつもりだったが、今は話をしに来たんだ」
「何を…」
名前は警戒心をむきだしにした。さっき命を奪われかけたのだ。話があると言われて、どうぞと大人しく聞けるわけがない。
ランサーは名前の様子をみてため息をつき、いつも離すことのない一心同体の長槍を地面に置いた。手も目の高さに上げ、戦意がないことをアピールする。「…この通り、嬢ちゃんを攻撃する気はねえ。さっき綺礼たちとの話を聞いてたんだ。アンタ聖杯戦争の参加者じゃないんだろ」
「………」
「オレからの話っていうのはマスター契約のことだ。嬢ちゃんはあのキャスターを従えてるんだよな。
 だったら、あの偽マスターとの契約を切ってくれないか。」
「…え?」
ランサーの申し出は名前を驚かせた。綺礼との契約を切ってほしい? 確かに正規のマスターではないが、彼に従っていたではないか。
「あいつはオレを喚んだマスターを騙し討ちして、まんまと令呪を奪いやがった。オレが従っているのは令呪のせいで、残りの令呪がある限りあいつを裏切れない。」
そう言うランサーの表情は苦々しげで、嘘を言っているようには見えなかった。「もし嬢ちゃんが契約を切ってくれたらオレは元マスターのために仇討ちするぜ。嬢ちゃんも結果的にアイツを裁けて、願ったりだろ?」
どうだ、とランサーは名前の反応をうかがう。彼女はランサーの言葉に首を振った。
「っ…いいえ、私は綺礼を救いたいの。」
――言峰綺礼を討つ。
ランサーの気持ちは分かるが、殺してしまっては駄目だ。名前は綺礼を救うためにルーラーになったのだから。
ランサーは腑に落ちないというように眉をしかめた。
「……どうも理解ができねえな。嬢ちゃんもあの神父の非道っぷりを見ただろう。
 あいつ、オレに他のマスターの偵察をさせて聖杯を手に入れようとしてるんだぜ。正々堂々と戦うことなく、監督役っていう役割を悪用して。」
どう考えても悪党じゃねえか。そうぼやいたランサーを彼女は黙って睨む。彼は「怖い顔するなよ」と残念そうに言った。
「仇討ちは手伝わないってことか。…分かったよ、気が変わったら言ってくれ。それまでオレは命じられたらアンタ達を襲うからな。」

彼は長槍を地面から拾ってニヤリと笑う。次の瞬間には残像しか見えなかった。まるで初めから誰もいなかったようだ。
取り残された名前は神隠しにあった気持ちになりながら、風圧ではらりと落ちた髪を耳にかける。
――このまま家や学校に戻るわけにはいかない。
キャスターが無事なら柳洞寺に戻っているだろう。名前は荷物を取りに家へ戻るなど悠長なことはせず、真っすぐ柳洞寺に向かった。

寺に向かう途中で、名前は考えた。
――もし、また綺礼と対峙したら。
どんな表情で彼と向き合えば良いのだろう。恐ろしく冷酷な笑み。あれが本来の彼だと言うのなら……



「名前!」
柳洞寺の山門にはキャスターと(前回来たとき挨拶した)アサシンが待ち構えていた。
「ごめんなさい、置いて逃げてしまって」
「いいえ、お互い無事でよかった…」
彼女は名前が無傷でたどり着いたことに驚いていた。キャスターはよく見ると霊器が弱っている。名前の心配をする前に、彼女自身が満身創痍だった。
「柳洞寺の中にいれば安全だわ。さあ、早く」
気丈に振るまう姿に名前の胸は痛んだ。キャスターにばかり頼ってはいけない。彼女にも守りたいものがあるのだから。

名前は寺の中にはいると、キャスターに座ってじっとするようお願いした。彼女の手を握り魔力をまわす。キャスターは戸惑ったようだが、徐々に安堵した表情になった。
「…やっぱり分かってしまうのね。貴方も疲れているようだし後でと思ったのだけれど。有難いわ」
「私は大丈夫よ。キャスター、教会で分かったことが色々あるの。」

名前は話した。実際に綺礼と話してどんな風だったか。アーチャーとのやりとり、そしてランサーが持ちかけられた取引のこと。
キャスターは魔力を受け取りながら、疑問に思ったことを確認しながら聞いていた。一通り話し終えると、「この先考えることがいくつもあるわ」と言った。
「その監督役に聖杯を手に入れさせてはいけないのでしょう。でも、アーチャーとランサーを私とアサシンで対応するのは分が悪すぎる。柳洞寺の外ではまず不可能ね。
他に残っているのはセイバーだけれど、傍観していれば負けるのはセイバーよ。だからもしランサーが仲間割れしてくれるなら……願ったりね」
「そうね…」
名前はうつむき、はっきりした方針を言わなかった。キャスターもそんな彼女の様子を見て黙る。自分から言わない限り、相手の意思を思いはかったりしないというように。
「もしランサーの契約を切るなら協力するわ。どうするかは貴方が決めなさい。
……とりあえずくつろいだら? 服が汚れてるわ。私のを貸してあげるからお風呂でも入ってきなさい。」
いいから早く。
名前はキャスターにうながされるまま、浴場に行った。



お風呂につかると強張っていた体の筋肉がほぐれる。少しだけ緊張がとけて落ち着いた気持ちになった。
風呂から出ると肩にフリルがあるニットとチュイール付きのスカートが用意されていた。キャスターの趣味なのだろうか。着替えてもじもじ出てくると、彼女は嬉しそうな声をあげた。

「やっぱり!よく似合うわ」
「こういうの…キャスターは着てたっけ?」
「わ、私は着ないわよ。貴方が着たら可愛いだろうと思って…」

うっかり言ってしまったらしく、たまたま持ってただけですからね!と彼女は言葉を濁した。少しだけ名前は笑顔になった。
そのあと夕食をご馳走になり、お礼に片付けを手伝った。




片付けが済むと、名前は庭に面した縁側に座った。夜空にうかぶ月をみつめる。
「…そんなところにいたら体を冷やすわよ」キャスターが言った。
「ええ。」
寺の池に美しい月が映り込んでいた。キャスターは名前の隣にゆっくりと座る。
「やっぱり教会での出来事はショックだったのね」
「…うん」
不安げに揺れた名前の瞳に、キャスターは言った。
「あのねえ……想像より男が最悪だったなんてことよくあるのよ」
「う……キャスターに言われると説得力あるね」
あら言うじゃない、とキャスターは返した。彼女も月をあおぎ、目は遠い場所を見ていた。
「私の場合は極端だけれど、“恋”って相手のことを勝手に思い込んでするものでしょ。期待と現実がちがうのは当たり前。それを乗り越えられないなら諦めちゃえばいいの。勘違いした自分を責めることはないわ。」
「…うん。」
「想像と違う相手をみて貴方はどう思ったの? やっぱり救いたいと思ったのかしら。」
「………」
キャスターの問いかけに名前は黙る。救いたいと思っているのに、返答できなかった。
――綺礼を討つ。
ランサーの申し出も有りなのかもしれないと迷い始めていた。もし自分が救えなかった場合、止めることができなかったらどうする。“救いたい”という自分の決意は無責任かもしれない。
名前の意思が揺れているのを感じ、キャスターは言った。
「貴方の気持ちを聞いているのよ。他の人からみたらどう考えても裁くべき人間だったとしても、自分が救いたいならそうすれば良いじゃない」
「………」
「私はイアソンみたいな男を好きになったことは後悔してるけど、彼のために必死で動いた自分はそこまで嫌いじゃないの。
 私には復讐しかなかったけれど、あなたの場合はまだ決めていないんでしょう。お得意の理想で戦ってみなさいよ。私をたきつけた時みたいに。」

およそキャスターらしくない言葉に名前は驚いた。返答を待たずに彼女は立ち上がり、縁側から去っていく。名前はその背中を目で追いながら思った。

――もし、ランサーの申し出を受け入れなかったら。
キャスターも危険にさらされる可能性が高くなるのに。





しばらく経ってから名前は部屋に戻った。すでにキャスターは床について隣に名前の布団も敷かれている。布団をめくって横になり、寝ているキャスターに恐る恐る話しかけた。
「キャスター…もう寝た?」
「……まだよ」
くぐもった声でキャスターが返事をした。月明かりが差し込んでいたが、彼女は背中を向けていて表情は見えない。
「ねえ、いいの? ランサーの申し出を断ったらキャスターも危険にさらされる可能性が高くなるのに」
「そのときはそのときよ。別の手段を考えて、なんとか勝ちにいきましょう。」
勝算を度外視した言葉。やはり今日の彼女はこれまでと違っているように思えた。名前は胸が熱くなり、思わず本音がこぼれた。
「ありがとう、キャスター。貴方がそう言ってくれなかったら諦めたかもしれない。」
名前は天井を真っ直ぐ見つめながら続けた。
「私……本当は気付いていたの。彼が自分の性格に蓋をして、自らをよそおっていることに」
「いつから?」
「小さい頃から気づいていた。本当は私みたいな子供にかまうのが嫌なのに、一生懸命相手をしようと頑張って接してくれる彼が好きだった」

――記憶の中で、ぎこちない表情をする彼。
握りかえした手も、笑顔も。すべて努力して作られていた。でも一生懸命相手をしてくれるのが嬉しくて、彼を大好きになった。

「へえ……勘違いしていたわ。貴方って好きな人に騙されている可哀想な女性じゃなかったのね。むしろ、相手の汚濁を飲み込んで、それでもなお救いたいって考えていたのね。」
キャスターはおかしそうに笑った。名前は返した。
「ええ、ちょっと変よね。私は理想を求める。でも、現実も否定しない。理想を叶えるために現実を直視しようとするの。
 私は幼い時から彼の性格の歪みに気付いていた。それでも彼を救おうと接してきたの。今回の件は、彼がそこまで歪み続けて悪事を重ねたことを知らず止められなかった私に責任がある。
――だから私は最後まで諦めない。彼を救うという理想のために、戦うわ。」

名前は言い切った。すると急にキャスターの反応が気になったのか、小さな声で付け足した。「…本当はこんな風だって知って、がっかりした?」
「いいえ。あなたって本当に……馬鹿だけど、面白い子だわ」
キャスターの声は驚くほど優しかった。
「殺すのなんて簡単よ。それで“終わり”にできるんだから。そうじゃない方法を見つける方が難しい。あなたは最後まで理想を追えばいいわ。」
その言葉は彼女の伝説を思い起こさせた。キャスターは愛のため大勢の人を葬ったが、イアソンだけは手にかけなかった。そこに、どんな思いがあったのか。

「キャスターは…どうしてイアソンのこと、殺さなかったの?」
「………。」

名前の問いに対する返事はなかった。眠ってしまったのだろうか。
名前はキャスターの背中をみつめた。
――あなたは最後まで理想を追えばいいわ。
キャスターはなぜこれだけ協力してくれるのだろう。聖杯戦争が終わったらゆっくり話してみたいと思った。素直に話してくれないだろうが。
……彼を救いたい理由は、私個人の思いでしかない。でも、私が救いたいならそうすれば良いと言ってくれた。たとえ彼がどんな正体であっても、私が諦めない限り、救おうとしても良いのだと。

「ありがとうキャスター…」
名前は心の底から彼女の存在をありがたく感じた。




翌朝。キャスターの拠点を知っていたのか、ランサーが柳洞寺の山門にあらわれた。知らせを受けて駆けつけると、彼はアサシンと打ち合っていた。
「ランサー…! 攻め込みにきたの?話しに来たの?」
「すまねえな、いい長物を持っていたからつい…」
名前の言葉でランサーは槍をおさめ、アサシンもやれやれという風に引く。しかし彼は本当に攻め込みにきたような油断ならない笑みを浮かべていた。
「それで、嬢ちゃん考えたかい。オレと協力するかどうかってな」
「……結論から言わせてもらうと協力はできない」
名前は言った。「貴方とマスターの契約を切ることはできる。でもそうすれば、貴方は必ず仇討ちをするでしょう。だから協力はできないわ。」
「なるほどな…」
ランサーは神妙な面持ちをした。
「嬢ちゃんはオレとほとんど関わってないのに、オレの本質をよく分かってるようだ。オレは口では何とも言おうが、一度立てた誓いは破らねえ。この様子じゃうまく丸め込むことも出来なさそうだな」
ランサーは槍を構え直した。と、アサシンが前へ躍り出て、キャスターが名前を背後に回す。
「…今の状況じゃ力づくで交渉もできなさそうだ。でもいいのか? そっちの戦力じゃ勝てる見込みは薄いと思うが。」
「それについても対策を考えているわ。残念だけれど、正々堂々と戦いましょう」
名前はキャスターの後ろから進み出て、勇ましい顔つきでランサーに言った。
ランサーは正々堂々という言葉が気に入ったらしく、自分の申し出が断られたのに、さわやかな表情で言葉を返した。

「おう。後悔するなよ!」







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