詩帆さん 第1集 〜 Killer Queen
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練馬春陽高等学校2年3組の生徒 鏑木 唯 Said
昨夏に別れた元カレは、鏑木唯の私物たちをいまだに借りたままでいる。ブルーレイやライトノベルやハンガーやマフラーのことだが、趣味に合わなかったのか漫画だけは被害ゼロ。
(格闘技系の漫画が好きだった)
面と向かって正々堂々と戦わず、容赦なく闇討ちをしかけてみたり、遠慮なく武器を使ってみたりするような非人道的な格闘技漫画が。いっぽうの鏑木はというと、その手のアウトローな世界を冒険することもなく、ごくごく平均的な少女漫画が専門。この絶望的な畑違いに対し、しかし彼女は、いつもかも彼の趣味に耳を傾けている側だった。
(内容はチンプンカンプンだった)
趣味にない情報や知識を拝聴する日々。彼の熱心に語る子供っぽさこそ愛してやまなかったが、耳たぶにぶらさがるタコは無慈悲にも重たかった。たまにはこちらの琴線に触れる話題で熱くなってほしいと思ったこともあるが、ついぞ叶わず、とうとう寝耳に水の別れ話を浴びせかけられた。
もう永遠にしないであろう土下座のような懇願で追いすがった。人目も憚らずに泣きわめき、迷子の2歳児のようなヒアリング不能の擬音を並べた。このときの鏑木の胸を満たしていたのは、彼の趣味に合わせたいとする真摯な改宗心だけだった。
『なんか合わないから』
いまにして思えば、よくもそんな戯れ言を別れの理由にあげたものである。あれだけ鏑木の趣味にない話題を捲し立てておいて、自己満足にひたっておいて、気づかいもしないでよくもまぁ。呆れると同時に、これからは絶対に合わせるから!──大声で宣誓していたあの日の自分にも猛烈に呆れる。恥だ。恥ずかしい。
別れて正解だったとみなが言う。鏑木もそう思う。別れの理由を回顧するにつけ如実に思う。なのに、なぜか彼のことを忘れられない。今日もまた、廊下のはしに立ち、両の肘を窓枠に乗せ、背伸びの格好で練馬の住宅地へと目を細めてしまっている。
(だって)
鏑木の楽しんだストーリーを知っている。酔い痴れたプロットを知っている。面倒くさがりなルーティンを知っている。寒がりなフィジカルを知っている。耳を傾ける側だったのに、すべてを知られている。これすなわち、借りていかれたままもう永遠に返ってこないであろう彼女の私物たちが、いまだに元カレとのリンクを司っているということ。
(あぁ。捨ててしまいたい)
しかし永遠に捨てられない。手もとにないものをどうして捨てられよう?
そう、鏑木がセンチメンタルなのも無理はない。
しわしわしわしわ──凪いだ住宅地のあちこちで強炭酸の音がしている。が、喉を開かせる爽快さはなく、むしろ固唾にして噎せさせるのみ。これがカフェならばクレームも通ろうが、なにしろ相手は油蝉である。聞き入れられる道理もなく、茹だったままであきらめるより他に方策はない。
3時間目と4時間目の谷間、玉響の憩いの廊下にも遠慮なく陽は射している。油照りの形容もふさわしい熾烈なる熱光線である。ところが、昏倒もやむなしの夏だというのに、鏑木の背後、左右を流れる長廊下は不感症の賑わいに沸いている。夜祭の出店のよう。
やれ数学のテストが鬼だった、やれ足が蒸れてヤバいような気がする、やれ新しいイチゴミルクは味に旨味がない──鬱憤を溜めるどころか開放的に活気づいている。誰も彼もが、練馬駅前のアルバイトから強奪したであろうおなじデザインの団扇で涼を取り、同時に惜しみなくカロリーを消費している。
(若いね……)
同輩たちの活気を尻目に、年寄りじみた嘆息をくゆらせる鏑木である。それもこれもがあの元カレのせい。3年間という恋愛期間のうちに、鏑木の寿命までもをごっそりと借りていったまま、いまだに返してくれないのだから。
(どうせいまごろ、さも自分のものであるかのように得意ぶってべつの女にひけらかしてるんだ)
初恋のひと──とかいうロマンチックな間柄ではないものの、しかし彼女にとってははじめてつきあった同中学校の彼。だから、個人情報を小出しにするような駆け引きのノウハウなどあるはずもなく、すべてを呆気なくさらけだしてしまった。いや、実際には彼のほうがさらけだしたのであり、鏑木はうながされるままに応じただけ。つきあって間もなくにキスをし、その1ケ月後には初H。味わう余地もないほどに硬いキス、警察を呼びたくなるほどに痛いHだったけれど、しかしそれもすぐに笑い種となるほどの頻度で応じつづけた。さらけだす彼に、さらけだしつづけた。
(あのゴムの数々、どこでどうやって手に入れたんだろ?)
どうせ親の箪笥預金をくすねて購入費用にあてたのだろう。中学生の財布がよもや週4の交渉資金に足るとも思えないし。
(週4ってハイペースなのかな?)
などとも考えてみる。もちろん学校行事の有無によって交渉頻度は増減したし、鏑木の生理現象によりもした。ただ、苦痛を感じるような頻度ではなかったと思う。
(週4を3年間……計626回!?)
じつにセンチメンタルな乗算である。
男子バスケ部に鍛えられた柔軟な大胸筋や腹直筋、上腕二頭筋に抱かれる日々を思いだし、いまやべつの女を抱いているのかと想像したとたんに怖気がした。借りていかれたまま彼の私物となり、あまつさえべつの女との性交渉に役立てられているのであろう鏑木唯という女が気持ち悪かった。元カレの参考基準として存在する、まるで人形のような鏑木唯が。
(あたしはここにいる。もう彼のところにはいないはずなのに)
窓枠に置かれる両腕が勝手に強張った。すると、どの神経が連動したのか背伸びのふくらはぎまで強張り、こむらがえりを予感。自然とミストの汗が湧く。図らずも涼を得る。
(あたし、ずっと彼のなかで生きつづけるのかな。経験という名目で借りていかれたまま、あたかも彼の私物であるかのように改竄されたまま、ずっとここには返ってこないのかな?)
固唾のため息を反吐す。背伸びの踵をおろすと、ぐるり、廊下のほうをふり向いた。それから、お尻を壁にもたれさせる。
お尻がひんやり。右の踵もひんやり。
長廊下の右手にまなざしを向ける。鏑木のマザーベースである2年3組を手前にし、4組、5組、6組──門扉が次第に小さくなっていく。それぞれの教室のまえでは男女が溌剌として入り乱れ、ほんのわずかな憩いの時間をたっぷりと満喫している。戯れる彼らの姿がワックスで磨かれたプラスチックタイルにも映りこみ、その盛況ぶりはやはり祝日の浅草寺にも引けを取らない。
そんななか、ひとり、異様な少女がいた。
6組の門前、業務用ワックスをもってしても映らせられないほど俊敏なステップワークで、それはそれは小柄な少女が、スカイブルーのスリッパを一心不乱にサッカードリブルしているのである。
と、やにわに彼女、こちらへとスリッパを蹴りだした。それはキラーパスのスピードで滑走し、間に立っているロングヘアの女学生、そのわずか20pの股間を颯爽とくぐり抜けた。
「ぬお!」
黒髪を躍動させて発作的にのけ反る女学生。しかしふりかえる暇もあたえられず、あっという間に左の脇を通過される。彼女はきっと、存在感の漲溢るカカオ豆の香りを嗅いだことだろう。
「なんだぁ。詩帆さんかぁ」
しかしカカオ豆の少女は非礼を詫びない。それどころか、すでにつぎなる股抜きを目論んでいる。スリッパを軽く蹴りだすと、ドリブルを3回、そして、28点の数学テスト用紙を友人に掲げながら「夭逝するとこでした」と謎の自慢をしているセミロングヘアの女学生を目掛け、ふたたびのキラーパス。
「ぬお!」
2連続股抜き、達成の瞬間である。
しかしやはり少女は満足しない。一瞬にして女学生を通過し、
「なんだぁ。詩帆さんかぁ」
さらなる獲物を貪欲にロックオン。相方を失って孤独なスリッパを巧みにトラップ。
その勇ましい様子を眺めながら、
(いいかげん)
腰の左右に手をあて、
(人のスリッパを)
鏑木、長い長いため息。
(勝手に借りていかないでほしいんですけど)
ひとりサッカーはまだ終わらない。今度は窓側の壁にぶつけられるスカイブルー、すぐに巾に跳ねかえされ、それはくるくると歯車を模倣しながら、校内随一のツインテールを誇る女学生の股間をくぐり抜けた。プロも顔負けの、ビリヤードの股抜きである。
「ぬお!」
どいつもこいつもおなじリアクションである。
「なんだぁ。詩帆さんかぁ」
相も変わらず無言のままにツインテールの脇をすり抜けるカカオ豆。そして左の足先でスリッパを捕らえんとする、まさにそのとき、
「詩帆さん」
不憫なソールをむずと踏み、彼女のまえに立ちはだかったのは、鏑木だった。
「これ、あたしのスリッパなんですけど」
そう、今朝から無かった。登校後、靴棚を開けたときにはすでに片方しかなく、つぎの瞬間には犯人も特定できていた。憶測だが正確な推理であり、やはり的中だった。
鏑木の登場に、毎度の真犯人であるこの少女、身体をぴたりと静止させてしばし目を丸めていたものだが、しかしふたたび重心を低くすると、
「……知っている」
ぼそりとつぶやき、彼女の右足に獰猛な視線を刺した。不敵な笑みさえも浮かべている。
たちまちのうちに静まりかえる長廊下。いましがたまで戯れあっていたはずのだれもが固唾を飲んでこちらを注視している。なぜか羨望の色を瞳に浮かべる者までいる。
凪の荒野に、一陣の凩。
「返してもらいますからね?」
努めて冷静に宣言し、紺色の靴下だけとなっている右足にスリッパを履かんとする、つぎの瞬間、
「しゃッ!」
待ってましたといわんばかりの咆哮をあげる少女。そして右足を目掛けて超特急のタックル。鏑木も負けじと体を入れ替え、背中を向けてガードをつくる。どッ──功の成っている圧力とともに少女のお腹がお尻に張りつく。その勢いで危うく弾け飛ばされそうになるも、鏑木、さらに腰を落として耐える。カカオ豆のサニーな香りを一身に浴びながら、己のスリッパを死守する。
「いい加減に返してよ、もう!」
湧出する汗が大願を帯びると、
「ならばあたしを乗り越えろ!」
愉悦の右足が獲物をかすめる。
おたがいのスリッパの底、スポンジ製なので摩擦係数は低いはずなのだが、なぜかバスケットシューズのような締まった音が散発。もはや試合ではない。立派な立ち合い。
「いいぞ、唯!」
なるほど、この曲者も認めるフットワークである。仲間とのストバスに興じる元カレに憧れ、なんとなくはじめたバスケットボール、それがいつの間にやら本気になってすでに4年目となり、小柄なポイントガードも板につき、いまでは特待生クラスの先輩方を押さえて主将さえも担っているのだから。すくなくとも、あのころの得意ぶった厚顔の彼なんかよりははるかに上手いはず。
憧れが実を結び、間もなくインターハイを迎える。だれがどう借りても返しきれないような、選ばれし者だけが見られる世界を。
「やはり唯はひと味もふた味も違うな!」
「何味でもいいからもう返してよおッ!」
しかし、それでもまだ鏑木は、返してほしいと切望している。ブルーレイもライトノベルもハンガーも、ふたりをひとつに結んだ茜色のマフラーも、幸せで幸せで死にそうだった鏑木唯という人間も、なにもかも。
だって、
(だって、だって、だって……!)
経験といえば聞こえはいいが、踏み台にされているかと思うと泣きたくなる。
どうせいつか別れると悟って手放したつもりはない。あげたつもりもない。捧げたつもりもない。踏み台だと嘆くいま、だから「貸し」と思っている。貸しであるのならば、いつか必ずや返ってくると信じられるのだから。
「もう返してッ!」
そう、鏑木はずっと、
「ホントにもう詩帆さん、あの、ホントに……」
あの日のふたりを彼の手で返してもらえる日を、ずっとずっとずっと、心待ちにしている。