偽りのカレンデュラ 



んごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをんごをん





尚 輝
Section 7
少 女ショウジョ





 なにかの音が、地を這っている。

 這うとは言っても、心を圧迫するような響きではない。むしろ、静謐せいひつの響き。

 ジェネレーターの音? 送風機の音? 近所の建築現場の音か。あるいは廊下の先のボイラー室の音か。隣の部屋から漏れてくる壊れかけの冷蔵庫の音と言えるかも知れない。

 ずっと遠くに聞こえるものの、骨振動を錯覚させる程度の質量がある。

 そう、なにかの音が、地を這っている。


ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 


「ん」

 目が醒めた。意識にロジックが宿った。

 うつぶせ。あたしまでもが這っている。

 掌に、頬に、細かく湿った感触がある。まるで毛羽立った砂のような感触。

 細く息を吐いてから、瞼を開く。

 暗い視界。漆黒に少量の褐色を溶かしたような色の視界。赤みがかった黒の視界。

「はぁ」

 もうひとつ吐息。地を這う音にまぎれながらも、瞭然としたエコーがかかってる。どうやら屋内であるらしい。狭い空間にいるらしい。

 腕立て伏せの要領で上半身を起こす。

……ここは?」

 音にならない疑問符クエスチョン。でも、エコーはかかり、微睡まどろみをイメージ。

 まだ目が慣れていないからほぼ暗黒ではあるものの、薄闇だとわかる。例えば、朧月夜の廃墟内のような印象。ただ、肝心の朧月はナリを潜めたまま。どうやら、窓がないらしい。密閉された空間にいるらしい。


さ り り 


 四つん這いの掌をなじる感触がどうにも気に入らない。新雪を踏んだような細かな摩擦を感じる。でも、冷たくはなく、だからか気持ちの着地点が見つからない。

「ばっちぃ」

 その場で正座の姿勢になって手を払う。粒子状のなにかが太ももに落ちて弾ける。なのに、簡単に払えるほどの粒子であるのにも関わらず、

「ネバい」

 サラダ油に触れたような後味が掌に染みついている。拭いきるまでに手間のかかりそうな不快。あたしは、臆するように、眉間に皺を寄せながらパンツになすりつけていた。

「あ」

 かすかな赤みの中で、ジャージパンツを穿いていることにすぐに気づいた。就寝の前に必ず穿き替える、部屋着と寝間着を兼ねる灰色のジャージ。

「しまった!」

 私物を汚してしまった迂闊うかつさに、擦りつけるのをすぐさまやめる。そして、今度は裏拳を使って頬のネバりを入念に落とす。それから、再び周囲に目を凝らした。

「板?」

 右、左、背後──およそ12畳の室内、その壁面には、隙間なく板が打ちつけられてあった。細長い板や幅広い板、厚そうな板や薄そうな板が、縦横無尽に、徹底的に、打ちつけられてある。

 板でできた壁なのかも知れない。でも板の目に規則性がないから、やっぱり独立した板が山ほど打ちつけられてある壁なのかも知れない。どっちでもいい。

 壁から50pほどの距離を置き、

「鉄格子?」

 およそ10pの等間隔に、鉄製らしき棒がびっしりと並んで包囲網を形成している。天井から床までおりる鉄格子は、まるで板を剥がして脱獄させないための心配性な下積みのよう。

 じゃあ天井は?──と見あげる。

「網?」

 七輪を思わせるあやの細かな金網が、天井一面に巡らされている。重みでたわんでいるふうにも見えないから、たぶん金属製。

 その金網の上は吹き抜けで、でも、終点のない完璧な暗黒が邪魔してる。はりさえも確認できない。

 かすかなエコーとともに固唾かたずを飲む。

 地面、右、左、背後、天井と、いちおう視界におさめるだけおさめた。つまり、確認していない面がまだひとつだけある。


同日 〜 2010/05/29[Sat]??:??
現在地不明


 視線をゆっくりとおろす。

 正面。

 鉄格子が、中央で途切れている。

 途切れた隙間には、扉が。

 ほんのわずかに手前へと開いている。密閉されているわけではなかった。

 紅のお裾分けが、そのわずかな開きから漏れている。

 血のような、紅の灯。

「なんなの?」

 再三度、きょろきょろと見渡してみる。だいぶ目は慣れたものの、安堵の確証を得られるようなイグジットなんてどこにも見当たらない。

 唯一の出口が、あの扉。

「どうなってんの?」

 朧気なりにも、夢じゃないことは景色の立体感でわかる。どう見ても現実の景色。なのに、あまりにも非現実的。

 づぐッ。はなを啜る。そういえばクサい。顎が外れそうなほどの気怠い臭いが、部屋の中に充満している。

 この臭いは確か……錆び?

 おもむろに立ちあがる。


し ゃ り 


 硬質のような、軟質のような、歯ブラシの毛先に似た感触が足の裏をくすぐる。

……裸足だ!」

 いちいち気づくのが遅すぎる。でも、もはや払拭する気力も湧かない。たぶん拭うだけ無駄な気がする。

 右、左、そして特に背後に注意しながら、忍び足で扉を目指す。そのたびに、爪先を硬質と軟質のコンビが不愉快にくすぐる。冷たいのか温かいのかさえもわからない、不愉快なだけの一元的感覚。いっそのこと癇癪かんしゃくでも起こし、その惰性で走り出したい衝動に駆られる。

 眩暈めまいにも似たストレスに襲われながら、ゆっくりと扉の前へ。

 赤く錆び、さらに黒く煤けたような色を持つ、頑丈そうな扉だった。一般のマンションにもありそうな、年季の入った鉄扉てっぴ

 上体を傾げ、目を細め、わずか数oの隙間から向こう側をうかがう。ところが、漏れてくる紅の光量は思ったよりも強く、まばゆいばかりで詳細が得られない。

 已むなく、中指と親指だけで内ノブを摘まんでみた。

「ぅえッ!」

 思わず叫んでしまった。冷たいだろうと想像していたノブが、まるで体温のように生ぬるい。とっさに右手を引っこめ、指先を素早く擦りあわせる。

 周囲を確認。

 人の気配は微塵も感じられない。

 ほぉ──深い吐息。じわっと汗を掻いている。室温によるものなのか恐怖心によるものなのかはわからないけど、呼吸の尾が蛇行しているということだけはわかる。

 もう1度だけ深呼吸し、ようやく覚悟を決める。数oの扉の脇へと右足の爪先を宛てがった。足で扉を引き寄せてみようと試みる。ところが、爪先が滑って空振り。斬新な怒りに震えが起こるも、かろうじて癇癪をこらえて再挑戦。爪先を扉の脇へ。

 さッと背後を振り返る。誰もいない。

 視線を戻し、爪先に全神経を集中。


い ぃ 


 さッと見あげる。金網と暗黒しかない。左右も確認。板と鉄格子と黒と紅。

 再び意識を爪先に注ぐ。内股のポーズで手前へ。


い ぃ ぃ ぃ 


 鉄扉のうめき声に釣られて奥歯を食い縛る。すると、広がった隙間からネバり気のある紅の津波がこちらへと流れこんできた。そのあまりのスピード、そのあまりのあかさに、さらに歯を食い縛って作業を急ぐ。

 急いだ甲斐あって、どうにか45度角にまで開いた。たったこれだけの運動で、すでに尋常ではない発汗。

 しかし、開けたはいいものの、

「あぁもうなんなのよここ……!」

 吐息で悶える。さらには地団駄。とたん、足の裏を不快感がくすぐって静まらざるを得なかった。未知なる不気味な世界である以上、扉なんて開けないに越したことはない。特にここは、開けてしまったら進むしか選択肢のない世界のようなのだから。地団駄ぐらい踏ませてくれればいいのに。

 眉間の圧力を高めながら視線を落とす。苛立ちの原因に目を凝らす。

 紅の、

「砂?」

 右手も落とす。掌にすくう。さらに目を凝らして精査。

「砂利じゃない」

 つぶやいている間にも、それは指の間から間断なくこぼれていく。ひと粒の大きさはスティックシュガーの粒子ぐらいだが、砂に間違いないとは今いち断言できない。

 試しに臭いを嗅いでみる。気怠い鉄分の臭い。錆の臭い。血の臭い。

 ……血?

「キモ!」

 掌を擦りあわせてすべて払う。それから、再び爪先立ちをし、鼻から細長い溜め息を吐く。さッと背後を振り返る。やっぱり無人。右手の小指で旋毛つむじ掻痒そうよう。そして、今度は右肘で90度角にまで扉を広げる。

 開かれた空間にゆっくりと頭を挿入。どんなに足掻いたところで、もう脱出しか手段がない。


ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 


 決意と躊躇が平行の波で満ち引きを繰り返す。この身体を打っているものが、鼓動なのか、機械音なのか、なんのリズムなのかがちっともわからず、戸惑うばかりの全細胞が有望なアイディアを閃く可能性を次々に排斥はいせきしていく。

 紅に染まった空気のせい。

 そこは、前室よりも格段と狭い、およそ4畳半の空間だった。

 頭を挿入して早々、素早く左右を確認。誰もいない。なにもない。そもそも、すぐ目の前を支配していたものは光沢のある冷徹な壁でしかなかった。

「ていうか」

 爪先立ちで進入する。左右を確認。上も確認。床から2mほどの天井。

「行き止まり?」

 今、あたしのいる場所以外に、出入口がどこにもなかった。鉄かアルミと思しい、頑丈そうな、滑らかな壁と天井しかない。本来は銀色なのだろう光沢のある素材によって、隙間なく5面が打たれている。

「いや。これってまさか……

 2歩、3歩と進入。そして振り返る。

 扉の備わる面、向かって右の内壁、その中段に、ドーム型の非常用ランプが明瞭な存在感で焚かれてあった。

 まばゆいほどに主張する色。

 なまめかしくも毒々しい鮮度。

 血のような紅。

 非常用ランプのすぐ下には、これは塗装されてあるだけなのだろう、拳大の赤いボタン。さらにその下には、縦に2つだけ並ぶ、小さくて丸い灰褐色のボタン。

 上に「1」とあり、下に「B1」とある。

「まさか、エレベーター?」

 小学校の社会見学で訪れたハム工場の、人荷用のエレベーターをふと思い出す。


も し ょ 


 前室ほどの量ではないが、この地面にも紅の粒が疎らに撒布さっぷされてある。いや、非常用ランプのせいで紅に見えているだけなのかも知れないけど、いずれにしてもストレスは計り知れない。ひと粒ひと粒がウネウネと踊って見えるのがただの錯覚であるとも断言できない。

 右足で粒子を払い除け、足場をキープ。

「なんでエレベーターが?」

 小声でつぶやきながら見あげる。

 中央に2本、縦長の蛍光灯がはめられてある。だけど、完全に黒ずんでいて、絶対に点灯しないということがわかる。

「どうしよう」

 灰褐色の丸いボタンを睨む。

 ムリ。もうムリ。触れるわけがない。とてもではないが押せるわけがない。これ以上に進む勇気が湧くわけがない。

 両手で頬を覆う。ネバついてる。原因がなんなのかは、もちろんどうでもいい。

 は、は、は──息が細かい。頭がクラクラする。過呼吸。

「どうしよう」

 典型的なほどに立ちすくんでいる。その間にも身体中の毛穴からはプツプツと汗が湧出ゆうしゅつ。湿度が高い。不快指数200%。

「どうしよう」

 いや、どうしようもない。

 どうすることもできない。

 2つのボタンを睨みつけたまま。

 でも、どうしようもない。

 どうすることもできない。

 ようやく泣きたくなる。

 だって、闇。

 だって、紅。

 だって、袋小路。

 だって、だって、だってだってだって、

「助けて……ナオ」

 その時だった。


し ゃ く 


 暗黒の前室から、かすかな音が聞こえた。

 一瞬、自分の立てた音かと思った。

 ゆっくりと見おろす。

 足は、震えるどころか固まってる。

 あたしじゃない。


も さ 


 また、聞こえた。

 機械音の隙間を縫って聞こえた。

 今度ははっきりと聞こえた。

 床の粒子を、踏む音。


さ り 


 鼓動がテンポをあげる。

 血の気が引く。

 背筋が凍える。

 だって、誰かの、足音。


さ く 


 誰かが、いる。

 いや、さっきまでいなかった。

 何度も何度も確認したんだ。

 誰も、なにもいなかったんだ。


も し ゃ 


 暗黒の前室。

 闇の出入口。

 足音が、近づいてくる。


こ し ゃ 


 こっちに。

 どんどん。

 だから、あたしはさがった。


し ゃ り 


 近づいてくる。

 だからさがる。

 どん。すぐに壁。


に さ 


 来る。

 来る。

 来る。


ぢ ゃ く 


 来る。

 来る。

 くるくるくるくる。


し ゃ く 


 すると、暗黒の中に、

 ぬぅ

 真っ白な左足が浮かびあがった。


ほ し ゃ 


「おぁ、あ」

 やっと声になった。

 自分のものとは思えない低い声。

 まるで、唸るような声。


じ ゃ く 


「あ、あ、あ」

 さがりたい。

 もっとさがりたい。

 ずっとさがりたい。

 もう逃げ出したい。

 でも、壁。

 頑丈な壁。


さ く 


 真紅の世界なのに、なぜか白い。

 真っ白な二の足。

 蛍光灯のような純白。


ね し ょ 


 ゆっくりと、少しずつ露になっていく。

 裸足の足首。

 そしてスネ。

 それから膝。

 その上に、紅。

 紅のスカート。

 シルクのような、滑らかなスカート。

 粘着質な、血のような紅のスカート。


の ぢ ゃ 


 スカートの太もも。

 スカートのお尻。

 スカートのくびれ。

 スカートのお腹。

 スカートの……髪。

 長い長い、髪の毛。

 真っ黒な、闇色の髪の毛。

 ケアされていない、ゴワついた髪の毛。


し ゃ ぬ 


 髪の毛の胸。

 髪の毛の鎖骨。

 髪の毛の首。

 髪の毛の……髪の毛。

 顔全体が、髪の毛。

「は、あぁ……!」

 顔が、ない。

 伸ばし放題の髪の毛が、頭を覆ってる。

 まるで、髪の毛でできた頭。


し ぐ 


 紅のワンピース。

 色白の少女だった。


ぢ ょ く 


 あたしの1歩の、3分の1歩ずつ。

 真っ白な二の足に真っ白な二の腕。

 真っなワンピースに真っ黒な頭。

 緊急を告げる鮮烈な紅の空間に、負けることのない生々しいカラーたちが、徐々に色調を強めながら迫ってくる。

 CGのようにも見える立体感。


し ぢ ゃ 


 150pとあるかないかの、簡単に折れてしまいそうなほどの華奢な肉体が、ついに、あたしのいるエレベーターの内部へと入りこんだ。

 あたしの背中は磁石のように壁面に貼りつけられ、もはや思うように動けない。

 過呼吸に乾き、口内が突っ張る。唾液も湧かない。水分が汗腺かんせんに強奪されている。酷暑を思わせる大量の脂汗あぶらあせ


の さ 


 なんにも考えつかない。

 なんにも思いつかない。

 ていうか意味がわかんない。

 混乱。混乱。混乱。

 疑念と困惑と苦痛と恐怖がごちゃ混ぜになって、頭が真っ白にもなってくれない。

 典型的なパニック状態。

 唯一、カタチになっているのが、

 ……なに、なに、なに!?

 何処とか、如何どうとか、何者とかではない。

 原初的な、

 すると、


ざ 


 ようやく、少女の歩みが止まった。

 エレベーターに入って、すぐのところ。

 止まった慣性で、髪がわずかに揺れる。

 次いで、血の気を失った純白の左腕が、すうっ──真横に伸びた。

 枯れ枝のように細い腕。

 人さし指も伸びている。

 1p、余分に飛び出た、荒れた爪。

 とてもではないが、ファッションのために伸ばされたものではないとわかる。


ぱ ち ゃ 


 灰褐色の「1」のボタンが押された。

 柔らかな音がしてすぐに光が灯った。

 乳白色の蛍光。

 そして少女の左手の先は、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、まるで眠るように拳となり、

「ヤ、ヤだ!」

 拳となり、

「いヤだッ!!」


ご ん 


 裏拳で、力強く、赤いボタンを叩いた。


ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら 
ご し ゃ ッ 


「きゃあぁああッ!」

 少女のすぐ背後、敷居の上から下へと、ギロチンのように鉄柵が落ちてきた。耳を裂かんばかりのけたたましい金属音。地を揺るがす獰猛どうもうな振動をあたしの骨に刻み、黒と紅に澱んだ錆びた鉄柵は、たちまちのうちに出入口を遮蔽しゃへい

 さらに、


ど を ん 


 厚みのある機械音と激しい縦揺れ。

「ぅあ、ぅあ!」

 膝の折れる遠心力を足の裏に貼りつけると、


ん お お お お お お お お 


 唸るような音で、

「ひ、ヤ、ヤ、ヤ!」

 みるみるうちにエレベーターは上昇した。鉄柵ごと、出入口はあっという間に大地の下へと飲みこまれ、煉瓦れんがを思わせる褐色の壁が上から下へとスクロール。


お お お お お お お お お 


「ヒ、い、イ!」

 ついに遠心力に負けると、あたしはその場に崩れ落ちた。

 でも、少女は微動だにしない。左手を横に伸ばして拳をつくったまま、長すぎる髪をわずかに揺らすだけでぴくりともしない。

「ヤ、あ、あ!」

 真っ黒な頭。

 どこを見ているのかがわからない。

 顔がない。

 表情がない。

 だって、髪の毛しかない。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 怖い怖い怖い怖い。

「あ、ぁ、ナオ、ナオ!」

 両足をMの字に折り、首をすくめ、顔の前で両腕をクロスさせると、全身を捻りながらあたしは泣いた。

「ヤぁ、もう助げでナオぉ!」

 なんで。

 なんであたしがこんな目に。

 あたしなんにもしてないよ。

 なんにも、してないんだよ。

 なんでよ。

 なんでよ。

 なんでよ。


お お お お お お お お お 


「ごめんなさい!」

 どこに連れてくの?

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 行きたくない。

 ホントに、ホントに行たくない。


お お お お お お お お お 


 死ぬの?

 あたし、殺されるの?

「止めてくだざい止゙めでぐださい!」

 助けて。

 ナオ。

 助けて。


お お お お お お お お お 


 耳がつまる。

 唾液を飲む。

 ちゃんと飲めない。

 強引に飲む。

 ぽ。耳が通る。

「ヒぃ」

 震えが酷い。

 気絶しそう。

 気絶したい。


お お お お お お お お お 


 そして、眉間に緩やかな遠心力。


お お お お お ぅ ん   


 止まっ、止、止まった?

「はッ、はッ、はッ」

 止まった。

 止まった?

 わかんない。

 見てらんない。

 止まった?

 止まっ


ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら 
ぅ わ し ゃ ん ッ 


「ぎゃあ!」

 つんざく金属音に、また悲鳴。

 耳が疲れる。

 顎が疲れる。

 胸が疲れる。

 脳が疲れる。

 全身の筋肉が硬直してる。

 でも、震えも酷い。

 吐きそう。

 吐きたい。

「はぁ、あぅ」

 クロスアームの隙間から恐る恐る前方をうかがう。

 汗と涙でよく見えない。

 紅しか見えない。

 右腕で瞼を拭う。

 改めて確認。


ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 


 出口の向こうに、またも部屋が広がっていた。ただし、下階とは違って手探りの暗黒ではなさそう。部屋全体がぼんやりと褐色を帯びている。それと、その右端に、また灰色の扉がうかがえた。

「はぁ、はぁ」

 ふと視線を前に戻すと、いつの間にか、ワンピースの少女は向かって右の壁を背にしていた。あたしに左側面を向け、ぴくりともせずに静かにたたずんでいる。まるで、呼吸器のないマネキン。

 非常用ランプのすぐ手前だというのに、その紅に負けないほど鮮明な白と黒と紅。相変わらずの不気味な立体感。

「は、ンぐ」

 固唾を飲む。本当に固い。たかが唾を飲みこむのに、これほど全力を傾けたことはない。そのせいで鼻息も騒ぐ。

 少女の横顔……いや、横頭の表情は当然ながらわからないが、なんだか、ここから去れと催促しているようにも思える。あるいは、無愛想な警備員が暗に導線を示唆しさしているようにも。

 ここから去れって?

 つまり、前を横切れって?

 少女の数10p、前を?

「ひィ、ヤ、ャ、む、ムリ」

 ポロポロと、また涙。

 逃げ場のないエレベーター内の最奥にM字開脚でへたりこみ、全身の筋肉を硬直させながらもガタガタと震える、なんの効果もないクロスアームディフェンス。

 怖いのか、情けないのか、苦しいのか、統括できないマイナスの重圧に敗れたあたしにできることは、ただ泣くことだけ。

「ぇ、ぇえぇぇ……


ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 


 5分か、10分か、短いようで意外と長い時間を、解かれない姿勢のままで号泣した。もちろん、少女の動向をチラチラとうかがいながら。

 彼女は微動だにしない。

 もはや髪も揺らがない。

 呼吸をしていない。

「い、ひ、ぃ」

 なんにも起きない。起きてほしくもないけれど、なにも起きないことが逆に怖い。起きるかも知れないという可能性ありきで言うのなら、起きないことと起きることはあまりにも等しい。

「い、ぐ、ぬ、づッ!」

 洟が異常。でも、拭う余力もないから力強く啜る。耳がきーんとハウる。

 涙、洟、震顫しんせん、悪臭、ハウリング──これが夢なら映画なんて要らない。CGも要らない。だって、寝てさえいればいつでもスリルを味わえる。

 ……あたしは味わいたくなかった!

 眉間の奥でなにかが着火した。

「ぁ、くッ!」

 クロスを解き、腰のあたりの壁に両手をぴたりと当てる。その摩擦と脚力でお尻を持ちあげた。

 あたしは急にムカついた。急にきた。

「い、行けってか……?」

 我が目を疑うほどに両足を戦慄わななかせつつも、腹筋も導入して壁沿いを立ちあがった。

「ひ、行ぃけば、いいんでしょ」

 マネキンは動かない。

 汗が目に染みる。そらしてもいられないから何度も瞬く。

「行、く、ふ、ぷぅ!」

 唇を尖らせると細くて強い息を吹いた。そしてまた唾を飲む。

「ん、ん、ん」

 荒れた呼気をぎょしようとするばかりに、滑稽こっけいな胸式呼吸。

 ようやく壁を離れる。とたん、じんわりと背中が熱くなっていく。そして、1歩、2歩、3歩──まちまちなリズムで前進。

「なん、だょ、ふえぇ、不衛生なカッコ、汚い爪、のん、伸ばしっ、ぱなしな、く、くくく、くせに、さ、へ、へぇん、変な、カッコ、しちゃってさ」

 鈍い触覚しか得られない爪先立ちの指が気持ち悪い。粒子に慣れない。慣れたくもないが、いっそのこと慣れてしまいたい。

「どぉ、ど、どちらさま、かは、し、しし知りません、けどぉ」

 わずか50pの右、謎の塊でしかない少女がいる。壊れたように動かず、してどこを見ているのかもわからない。生白い皮膚に暗黒の髪の毛、そして紅のワンピ、与えられた情報はたったのこれだけ。

「す、そんなに、ゆぅ、言うなら、行ってやれ、ろぅじゃ、ないのよ」

 台詞の数と比例するように涙も落ちる。視界がぼやける。ぼやけるのが怖い。でも、拭うアクションなんて取れない。出口を通過しようとする最小限の動きに集中するだけで手一杯。だから強く瞬く。

 黒目だけを少女に配ったまま、

「出れ、るよ、かん、簡単だよ、んなの、ぜんぜ、ぜん、へぇ、平気だから」

 彼女の30p、鼻先を、通過、通過、通過──気を急かしながら、よたよたっ、最大限のスピードを出すと、

「あぁぁあああ!」

 雄叫びをあげてエレベータを飛び出た。


ご ん 


「あ」


ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら 
ご し ゃ ッ 


「あごぁあッ!」

 出口を出てすぐのところ。

 踊るように、膝からくずおれた。

 即座に四つん這いの背後を振り返る。

 錆びた鉄柵がおりていた。


ど を ん 
ん お
 


 エレベーターは下降して行った。

 少女の姿はもう見えなかった。

 半開きの口から、だらっとよだれが垂れた。

 見映えを気にする余裕なんてなかった。

 とりあえず、去った。

 去った?

 本当に?

 わかんない。

 わかんないけど、次にあたしは、

「はぁ、はぁ、はぁ、あか、るい」

 ゆっくりと周囲を見渡した。暗いことに変わりはないが、下階よりはまだ明るく感じる。

 右の壁には大きな窓があった。とはいえ、窓ガラスははめられておらず、外側から板が打ちつけられてある。1本、板と板の隙間から茜色の光が細長くれ、頽れた拍子に舞ったほこりがモヤモヤと波打っている。

 たった1本でも光は光。

「は、くッ!」

 大笑する膝を押さえながら立ちあがる。掌をはたく。ここにも粒子は大量に落ちている。これだけはいまだに血の紅。

 ぢゅ。涎を吸う。づぐ。洟を啜る。顔のあらゆる液体を腕で払拭する。やることが多すぎる。

 左を見る。なにもない。物もない。

 見あげる。なにもない。灯もない。

 およそ20畳の、なにもない部屋。

 壁や天井は打ちっ放しのコンクリートらしく、特に装飾は見当たらないものの、あたしにはエントランスのように思えた。

 右斜め前方を見る。

 灰色の鉄扉。

 褐色を帯びてはいるが灰色だとわかる。ところどころのペンキが剥がれ落ちて茶色くなった、草臥くたびれた扉。大きさは下階のものと同じぐらいか。一般的なアパートにありそうな、ローコストなフォルム。

 生唾を飲みこむ。

 気配を感じた気がして、振り返った。

 エレベーターのスペースの敷居とを隔てる錆びた鉄柵。

 誰もいなかった。鉄柵の向こう、暗黒が奈落の底に続いているだけ。というか、呼び出しボタンすらも見当たらなかった。

「一方、通行」

 光があるぶんだけ下階ほどの不安感は抑えられた。エレベーターの中での恐怖心と比較したら──とも言う。


ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 


 照準を鉄扉に絞る。むろん、窓にも意識は伸びている。だけど、外から打ちつけられてある大量の板がネックに思えた。剥がして脱出する体力はさすがにない。

 じゅあ、開けるの?

 この扉を?

 触らなきゃダメなの?

 この塊を?

 得体の知れない物を?

「ムリだよもうぜったいム」

 泣き言を叫んだ瞬間だった。

 扉のすぐ右に視線が止まった。

「プレ……?」

 壁面に、小さな縦長の長方形が貼られてある。この暗中にあって、その長方形は純白の明るさを放っている。それこそ、自己発光でもしているかのよう。

 ネームプレートに見えた。

 例えば、病室の出入口に掲げられるネームプレート。おばあちゃんの入院中に幾度となく見た、白いネームプレート。あの時は、そこに『大城コウ様』と記されてあった。


ご ぢ ょ ご ぢ ょ ご ぢ ょ ご ぢ ょ 


 気持ちがそぞろになる。

 胸に両手を当て、近寄る。

 文字が記されてある。





 





 





……!?

 頭が凍結。静かな凝固。

 なんで、

「なんで、ナオの、名前?」

 もちろん、同姓同名の他人である可能性は否定できない。だけど、凍ったこの頭に、可能性の追求などというご大層な客観性が実るはずもなかった。

「ナオ……ナオ、ナオッ!」

 自分でもよく理解できない衝動。でも、明確な無我夢中でノブをつかんだ。

 ひんやりと冷たい。ただの物体。

 躊躇なく右へ。抵抗なく回せた。

 躊躇なく手前へ。抵抗なく引けた。

 重厚そうな見た目とは裏腹に、鉄扉は音もなく開いた。



 刹那。



 真っ白な光が。

 光の津波が。





    20    
 




Nanase Nio




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