無言電話
かつて、女と男は親密な関係にあった。むろん、キスやそれ以上の宗教的な互換を目撃したことはない。しかし、互いにパートナと認めあう仲であることぐらい、繭も知っていた。
ところが、女に血迷いの恋人ができ、その噂話が男の耳に入るや否や、たっぷりと罵声を浴びせられ、ついに彼女はこの部屋から追い出されてしまった。いや、もしかすると入念な議論は為されたのかも知れない。あるいは女のほうから進んで退去したのかも知れない。しかし、繭の目には彼女が追い出されたかのように見えた。これまでの親密な関係を、すべて否定されたかのように。
三ケ月前、繭はまだあの時の恐怖を憶えている。バカヤロウ、フザケンナ、ナメンジャネェ──リビングで無抵抗のままに女が罵倒されているのを、繭は最後まで聞いていた。
ベッドの中で。
今までにない緊急事態だと察しはしたが、だからといって繭にはどうすることもできない。微動だにできないまま、怯えるように、ブランケットに隠れながら耳をそばだてているしか術がなかった。
真実、怖かった。いつもは優しい男の、まるで人格が逆転したかのような地を這うガナり声が、繭の心をびりびりと震わせた。介入したが最後、粉々に砕け散り、修復不可能になると予感させるほど。
ひと言も反論できずにいる女の気配を、夜の闇と同化したまま、繭はじっと聞いていた。
『ねぇ』
女が部屋を追い出されてから、一度だけ、男の胡座を座椅子にして揺れながら、
『あたしって、二番目?』
そう尋ねたことがある。
別に、試すつもりの質問ではなかった。繭という女は、そういう表現しかできない女だった。
すると男は、
『そんなことないよ』
ひとりごちるように応え、繭の華奢な身体を背後から抱きしめると、
『そんなこと、ない』
ぼそり、耳たぶにまたひとりごちた。
この時、男の胸の内には、きっと繭の体温なんて宿っていなかっただろう。裏切った女との歴史で満たされていただろう。どれだけ一途を気取る両腕に抱かれていても、その程度のことは繭にもわかった。
言葉遊びもできない男──淋しいなと思った。
深夜になると、進んで繭の左隣で眠るようになった男。そのたびに淋しさが募り、同時に、男のことと女のこと、そして自分自身のことが絡まりあって胸が拗れてしまいそうになった。でも、自分にはどうすることもできない。だから、せめて男のほうから、右でも左でもなく、正面から向きあってくれることを望むようになっていた。
ひとりごちる無言なんかに添い寝をされたところで、繭にはなにも応えられない。落ち着かない心を抱え、静寂の助演をしながら夢を待つだけで手一杯。
そんな折りのことだ、女の電話番号を手に入れたのは。