その手で刻み付けて
その声を耳にした瞬間、他の全ての音が遠ざかった。
家路を急ぐ人の話し声も足音も何もかも、ほんの数メートル先の通りから聞こえていたはずなのに、スピーカーのコンセントを引き抜いたように音は一瞬で途絶えた。足は鉛みたいに重く、指先一つ動かない。自分の身体じゃないみたいだった。どくどくとうるさい鼓動だけがやけに耳について、ライムは息の仕方も忘れてただその場に立ち尽くした。
動けない。動きたくない。見るのが恐い。
だって、そんな、まさか。こんなところで。こんな所にいるはずが無いのに。
「ライム」
その声を、聴き間違えるはずが無い。
コツ、と石畳を叩く靴の音。ゆっくりとライムに近づいてくるそれは幻聴と切り捨てるにはあまりに明瞭な音だった。
「────っ」
口を開いた途端に苦しげな声が漏れ、喘ぐように息をする。頭はぐらぐらと揺れて吐き気がしたし、思考は凍り付いて何をしたらいいのかほんの少しも思い浮かばなかった。引き寄せられるようにゆっくりと、ライムは背後を振り返る。
振り返った先、墨で塗りつぶしたような暗闇に長身の男が佇んでいた。深く被ったローブの合間から覗くのは、深紅の双眸。闇より深い、紅い色。
呼吸が、止まった。
自分が目にしているものが信じられない。
「忘れたか? 」
問いかける声はしかし少しもそうは思っていないようだった。愉しげに言葉を投げかけ、ライムの様子を探る。
被ったフードが外れるのを、ライムは瞬きするのも忘れて見ていた。
蝋のようなのっぺりとした白い肌。削ぎ落とされた鼻。蛇のような瞳。その顔のどこにも過去の面影は無いのに、ライムはそれが彼だと確信していた。
忘れない。忘れられるわけが無い。ずっとずっと、あの日、離れた時から今まで忘れた日など一日も無かった。あまりに鮮烈で甘く、記憶は痛みを伴うのに思い返すことをやめられない。
棘のように深く、刺さって抜けない。
「────リドル」
「違う」
漸く口にした言葉を鋭い声が遮る。ライムが目を見開いて相手を見やれば、男は不快気に表情を歪めていた。
「今はヴォルデモート、だ。────その名はとうに捨てた」
わかっていた、はずだった。
こうなる事を。元の世界でも此方に来てからも、嫌という程、何度も何度も繰り返し聞いてきた事なのに。突き付けられた現実が、重い。
「……なら、私が、知っているのは……貴方じゃあない。私が知っているのは、トム・マールヴォロ・リドルよ」
震える身体を叱咤して気丈に睨み付ければ、目の前の男は値踏みするようにライムを見下ろしてくる。
「ライム」
「っ、」
宥めるように優しい声で名を呼ばれて、ライムは何故だか無性に泣きたくなった。どうして、と声にならない声が唇の合間から漏れる。会いたかった。けど会いたくなかった。頭も胸もぐちゃぐちゃだ。会えた喜びと変わってしまった事への絶望とが入り混じって言葉にならない
「ずっと、探していたぞ。……まさか、こんな所で見付けられるとは、な」
甘い声、とろけるようなその微笑。醒め切り凍て付いた瞳の奥で紅い闇が蠢く。クツクツと愉しげに喉を鳴らして笑う男。このひとを知っている。いや、知っていた。
この人はリドルじゃあない。リドルはもう何処にもいない。じゃあ私は、どうしたらいい?
「どう……して、私がここにいる、って」
「目印を、つけているだろう? 」
「目印? そんなもの、」
「気付いていなかったのか。……まあ、無理も無い。ほら、今もお前は後生大事に身に付けているではないか」
「身に付けて、って……まさか」
ライムは咄嗟に耳元に手をやる。指先に触れたのは、あの色を変えるピアス。
「ルシウスは目印を勘違いしたようだったがな……。まあどちらにしろ、こうして見付けられたのだから良しとしよう」
機嫌良くそう言うと、ヴォルデモートはライムに一歩近付いた。ライムは反射的に一歩下がる。背中に冷たい煉瓦がぶつかり背骨が鈍く痛む。
「これは、始めからそのために残したの……? 」
「さあな。そうだったらどうする?批難でもするつもりか? 」
「っ、私はっ……! 」
「期待していたか? 」
ククッと喉を鳴らして嗤うヴォルデモートを、意思の強い瞳が睨み上げる。
────そう、この瞳だ。
躯の芯がゾクリと震えて熱くなる。身の内から沸き上がる高揚感に、無意識にヴォルデモートの口元が吊り上がった。
「甘いな、お前は。甘過ぎる」
壁に追い詰められたライムが身を固くする。するりと、細く骨張ったヴォルデモートの指先がライムの輪郭を滑るようになぞり顎の下に添えられた。
「力を持ちながら行使せず、こんな状況に陥ってさえ、言葉で解決できると未だに甘い夢を見ている」
「私は、貴方とは違う」
「だろうな。私はお前のように馬鹿げた理想は抱かない。……知っていたか?お前が今までダンブルドアにどれ程厳重に匿われていたか」
「匿う……? 」
「知らされてはいないだろうな。何も。あれはそういう人間だ」
声は震えて、身体も震えて。なのに目は逸らせない。頭が上手く働かない。ヴォルデモートが何を言っているのか飲み込め無い。
「考えた事は無かったか? 何故長年一人での外出許可が下りなかったのか。本来ならば孤児であっても長期休暇中にホグワーツへ残る事は許されない。なのにお前は、今日この日まで一度も一人で外界に出ていない。おかしいとは思わないのか? 」
「それは……だって、きっと、何か理由が! 」
「満足に城の外にも出られず、あんな老いぼれの元で学んで、マグルの学生などと馴れ合って、一体何の意味がある?何故留まる理由がある? 」
「みんな大切だからよ…!もう、何も無くしたくないの! 」
「大切? 想いだけで何が守れる、何が得られる? 力を持たずにただ闇雲に叫んだ所で弱いお前は淘汰されるだけだ。無くしたくない? ……ッハ! 笑わせるな。選択を迫られて、結局どちらを選びもせずにずるずると先延ばしにして安寧に浸って逃げ続けていた結果がこれだろう。いい加減夢物語を語るのはよせ」
顎を掴む指に力が入る。痛みに顔を歪めるライムの耳元に囁きかける声はドロリと重い。
「本当に、反吐が出る程甘い」
ライムの顔が苦しげに歪んだ。噛み締めた唇が、眉間に寄った皺が、ヴォルデモートの加虐心を煽る。
「無くしたくないものの中には……貴方も入っていたんだよ、リドル」
「その名を呼ぶな」
ヴォルデモートはライムのつぶやきをピシャリと跳ね除けた。その声に滲む苛立ちに圧され、ライムはヴォルデモートの腕から抜け出しよろめくように下がって距離を取る。
ローブから杖を取り出し構えたヴォルデモートに応じるべくライムは叫ぶ。
「っ──エクスペリアームス! 」
「無駄だ」
ぱぁんと、光線が弾ける。
咄嗟に放った呪文はいとも容易く相殺され、ライムは驚きと戸惑いに目を見張る
「その程度か」
侮蔑と嘲笑。そして微かな嫌悪と苛立ちの含まれた声。口元に湛えられた笑み。長いローブが落とす影から覗く双眸が暗い愉悦に歪む。見下す事に慣れ切った少年は何時しか大人になり、息をするように容易く人の命さえ奪う。
隔たった時間の長さを、改めて突き付けられたように感じた。
「──そうだな……。目印は、しっかりと付けておかねばならない」
「な、にを……」
逃げなければと思うのに、体は震えて動かない。ゆっくりと歩み寄ってくる姿をライムはただ見ていることしか出来なかった。伸ばされた白い手が、ライムの手首を掴んで引き寄せる。仰向いて見上げた先には紅い瞳があった。
「お前は、私のものだ」
それは、独占欲という言葉すら、可愛らしく思える程の。
「今度こそ、何処にも、逃がさない」
呪縛。
「忘れるな」と睦言を囁くように甘やかに告げて、ヴォルデモートは杖をライムの左胸に突き付けた。
閃光、激痛。
肌は粟立ち、意識は白熱して焼き切れた。
────嗚呼、これが現実だなんて。
悪夢より、悪い。
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