本の森の奥深く
人も疎らな図書館の無数に並び立つ本棚の奥に、その空間はあった。
小さな机と二脚の椅子。窓にはシンプルなレースのカーテンが揺れていて、此方から外を眺める事は出来るが外からは伺い知れない様になっている。奥まった場所にある事と周囲に凡そ生徒の興味を惹かないマイナーな内容の本ばかりが並ぶ所為か 此処まで入ってくる生徒はほとんどいない。故に此処はリドルのお気に入りの場所だった。
一人で考え事をしたい時、煩わしい周囲の喧騒から逃れたい時、自然と足は此処へ向いた。今日もいつもの例に漏れず リドルは一人になる為此処へ来た。人目を避けるように足早に奥へと進みながら目ぼしい本を書架から引き出し、入り組んだ道を抜けてその空間へ入ると、誰も居ない机の端に積み上げる。思考の邪魔をされないようきっちりと目眩まし呪文をかける事も忘れずに。
ぱらり と、小さくページを捲る音が一定のペースで響く。その瞳は文字を辿り、時折考え込む様に細められる。それが数刻続いて、手を止めた。
「……」
目に掛かる長めの前髪を払い、嘆息した。ちらり と目線を手元の本から窓へと向ける。
窓の外には薄灰色の雲が広がり、分厚い雲の隙間から時折差し込む光が黒く沈黙した木々を淡く照らす世界が広がっていて、俗にそれは冬と呼ばれる季節だけれど、今のリドルはそれに興味が無い。
────ああ、苛々する。
本の内容が頭に入らない。幾ら文字を目で追ってみてもするすると思考に引っかかりもせずに抜けてゆく。思考を遮るのは あの不可解な編入生。
何故あの部屋にいたのか。
何を知っているのか。
何処まで知っているのか。
そして何より、あの少女は何者なのか。
疑問は幾度も泡の様に浮かんでは消えて、その度もやもやとした不快感が募る。
らしくない。
くしゃりと髪を掻き上げる。あの少女が来てから、妙に気に掛かる。この自分が、ダンブルドア以外で相手の考えを読めないだなんて ありえないことだ。
ライムはやけにホグワーツに詳しい。編入生ならば知らないはずの事を知っているだけで無く、彼女の一挙一動に慣れのようなものを感じる。
特に気に掛かるのは魔法薬学だ。リドルの知らない手順で調合を進め、通常では考えられない早さで完成させていた。不審に思い後でスラグホーン教授にそれと無く探りを入れてみたが納得のいく答えは得られず、後で専門書を探して調べてみてもライムが行った方法はどれも発見されていないものだった。どうしてその方法を取ったのか本人にも尋ねてみたが、ライムは逆に「何故知らないのか」と言わんばかりに首を傾げていた。
他にも不審な点を挙げればキリが無い。
ホグワーツの事にしろ調合の方法にしろ、ライムがどこでその知識を得たのか探ろうにも手がかりは無いに等しく、本人に聞いたところで適当にはぐらかされるのは目に見えている。
不審な編入生。掴み所が無い少女。
「君は、何者なんだ……」
答えの無い問いは、ふわりと空気を揺らして擦れて消えた。
****
どれくらい、そうしていただろう。
突然リドルの背後で カタン と小さく音がした。思いの外近い所からした音に、ぼんやりしていた意識が一気に現実へと引き戻される。
「あれ……?」
リドルが勢い良く振り返った先に見えたのは、驚いた様に目を見開いて佇むライムの姿。
「っ、」
思わず、息を飲む。まさか、何で、どうして。誰かが此処を見つける事自体がまず予想外なのに、よりにもよって、その相手がリドルを悩ませている当人だなんて。
「あー……ごめんなさい、先客がいたのね」
そんなリドルの胸中など知りもしないライムはまさか人がいるとは思わなかったのか、少し気まずそうに何度か瞬いて、言葉を濁す。不自然に落ちた沈黙に耐えかねて「邪魔してごめん」と小さく謝罪の言葉を述べると、そのまま踵を返して立ち去ろうとした。
その、背中に。
「待って」
反射的に、呼び掛けた。
****
──―─何で、こうなったんだろう。
目の前には、黙々と本を読むリドルが座っている。先程からずっとその視線は手元の本に落としたまま、ライムの方を向く事は無い。自分から呼び止めて、半ば無理やり席を勧めたくせに、リドルはそれ以上口を開かなかった。呼び止められた以上帰ることも出来ず、かといってリドルが相手では寛ぐことも出来ず、座り心地の良い椅子の上、ライムは居心地悪そうに身動いだ。
ようやく訪れた長期休暇。この時代に飛ばされてから約2か月。毎日神経をすり減らして日々を過ごして来たライムは待ちに待った休暇にほっと胸を撫で下ろした。
寮生活では常に他人の目がある。イレギュラーな自分を取り巻く周りの目は表面上は優しいものの、その実鋭く、常に探られているような気がする。単に自分が気にし過ぎているのかもしれないが、嫌がらせは続いているし ここにはあのリドルがいるのだ。警戒してしまうのも仕方の無いことだろう。
だから、久しぶりに、来てみようと思ったのだ。
悪戯仕掛人達から逃れ、セブルスが良く籠もっていた図書館の奥深くにある、ひみつの場所。あそこがこの時代にも存在しているのかはわからないけれど、もし在るのなら、誰にも邪魔される事無くゆっくり出来るだろう。せめてこの休暇くらい人目を気にせず過ごしたい。
……そう、思っていたのに。
まさかその場所に先客が居て、しかもそれが今一番会うのを避けたいリドルだ、なんて。
「何を考えているの?」
唐突に掛けられた声に、ライムは身体をびくりと震わせた。びっくりしてリドルを見れば、相変わらず目線は本に向けたまま。
「何って……別に」
咄嗟に出たのは、何とも間の抜けた答えだった。もっと上手い返しがあるだろう! と言い訳の下手さにライムは内心悲鳴を上げたが、言ってしまったものはもうどうしようもない。ライムが半ば自棄になりながら前を見ると、リドルはゆっくりと口を開いた。
「聞きたい事は山程あるけど」
一旦言葉を区切って、リドルは真っ直ぐ目を向ける。
「まずは、此処をどうやって見つけたか、かな」
鋭い。瞳の奥で揺らめく 鳩の血色の、紅色。
蛇に睨まれた蛙って、こんな気分なんだろうか。ぴしり と身体は固まり、無意識に、ごくりと唾を飲む。ものすごい勢いで、頭が回転する。下手なことは言えない。失言ひとつが命取りになる。直感的にそう思って、ライムは慎重に口を開いた。
「……人気の無い場所を探していたの。たまには一人になりたくて。休暇中だから人は少ないし 図書館で過ごしても平気だろうと思って。……そうしたら、此処を見付けた」
それだけよ、と言って肩を竦めたライムの表情は少し強ばって堅い。けれど嘘をついている様には見えなくて、リドルは暫し考え込んだ。
何かを隠しているのは明白だ。表情でわかる。しかし、開心術は使えない。以前試してみたけれど、異常なまでに閉ざされた心は揺らがなくて、ほんの少しも覗く事は出来なかった。ライムについては表情や声から察する事しか出来ない。
「此処には人除けの魔法をかけていたんだけどね」
君には効かないのか、と何かを確かめる様に呟く。
「あー、たまたまじゃないかな?それに私、前に一度此方に来た事があったから場所を知っていたし」
そのせいかしらね、とはぐらかす様にライムは笑う。別に嘘は言っていない。何で人除けの呪文が効かなかったかはわからないし、この場所に来たのも大した理由があった訳ではなく、ただ一人になりたかっただけだ。
ふぅん と声を漏らし、リドルは値踏みする様に目を細めた。
「君はいつもはぐらかすね」
「……嘘は言ってないわよ。リドルと違って」
「へえ……随分態度が大きくなったものだね。折角休暇に入って嫌がらせが沈静化してきた所なのに。誰かに聞かれていたら、また酷くなると思うけれど」
「人除けしてあるんでしょう?」
「ああ。だけど僕が誰かの前で“ついうっかり”口を滑らす可能性もあるだろう?」
「その心配は無いわね。そんなことしても貴方にメリットが無いもの」
「肝が据わっているじゃないか」
「そうじゃなきゃここでやっていけないわ」
「……君って本当に厄介だよね」
「リドルにだけは言われたくない」
ブスッとして言葉を返すとリドルは呆れ顔から一転して口元を緩めた。その表情は何処か楽しそうで 不可解で……何だか落ち着かない。
「猫を被るのはやめたのかい?」
「……人聞きの悪い言い方しないでよ。まあ…今更取り繕ったって意味が無いじゃない。私は目立たず平穏に学生生活を送りたいから大人しくしていたのよ。もう取り返しがつかない程目立っちゃったわ」
「それもそうだね。で、君は本当は何の目的でホグワーツに編入したんだい?」
「目的なんて無いわよ。言ったでしょう、“家庭の事情だ”って」
「僕がそれを信じると思う?」
「いいえ。でもそれ以外に説明する言葉は無いもの」
話は終わりとばかりに顔を背けると、それ以上追求するのを諦めたのかリドルは小さく息を吐いた。
「君はこれからどうしたいんだい?」
「どうって……私は…平穏無事に、ここで過ごせればいい。普通に暮らしたいの。前にも言ったでしょう?貴方の邪魔をするつもりは無いって」
緊張しながらもその瞳は揺らがない。リドルのこういう姿を目にしても、怯まずこうして意見を述べる。
本当に、ライム・モモカワは変わっている。
「────ひとつ、提案があるんだけど」
「なに?」
「僕の話し相手にならないかい?」
「…………はい?」
「そんなに難しく考えなくていい。ただたまにこうして話が出来たらな、と思っただけさ。人前でだとこんな風には話してくれないだろう?」
「……一体どういう風の吹きまわし?そういう煩わしい事は嫌いそうなのに」
「君と話すのは案外面白いんだよ。そこら辺にいる愚鈍な奴らと中身の無い会話をするより余程ね。お互い得る物も多いだろうし、君にとっても悪い話では無いと思うよ。ああそうだ、僕のわかる範囲で良ければ、勉強も教えてあげるよ」
「それはつまり……こうして貴方と二人きりで話すって事?」
「そういう事になるね」
「そんなことして誰かに知られたら、貴方の取り巻きに余計に目を付けられる気がするんだけど」
「そこは君の力次第だね。今は沈静化しているとはいえ、それは一時的なものだ。休暇が終われば状況は元に戻る。
ならいっそ、ただの勉強仲間だとでも公言して 何も無い事を印象付けた方がいいんじゃない?」
「そんなに上手く行くかな……」
「さあ。そればかりは試してみないとわからないね。どちらにしろ、このまま嫌がらせが無くなるなんて甘い考えは持たない方がいい」
原因を作り出しておきながら 随分と偉そうに言うものだ。…だが、リドルらしいと言えばリドルらしい。確かに今のままではいつまで経っても状況は好転しない。リスクの高い賭けだが、他に方法が浮かばないのも事実だ。ならばこれも、悪い話では無い。
「……わかったわ。よろしく、リドル」
「よろしく、ライム」
差し出された手を 覚悟を決めて握り返す。行き詰まったらまた、その時考えればいい。
こうしてライムとリドルの奇妙な交流が始まった。
[
back]