▼ ☆9-5
牙の預言者
9.落つ星 5
アルノーは、次第に落ち着きを取り戻していった。きちんと事態を受け入れて、ハリーが生きているんだとしっかり理解するには、それなりに時間がかかってしまったが、アルノーは自分の夢は無駄ではなかったのかもしれないと思うことにした。
グリフィンドール・チームの皆が、ずぶ濡れのままで医務室に入って来た。ハリーの様子を見に来たのだろう。その一団の中には、ロンもいた。
ロンはぐちゃぐちゃのどろどろになっている自分のローブを抱えている。アルノーは、それが何だかは理解していた。夢で、ロンたちが粉々になった星屑をローブに包んでいるのを見ていたからだ。その星屑は、本当は流れ星の欠片なんかじゃなくて、ハリーの持つ自慢の美人箒――「ニンバス二〇〇〇」なのだということは、明らかだった。
「なんてことなの」
ハーマイオニーは、ロンが悲し気に広げたローブの中身を見て言った。粉々のバキバキに壊れてしまった箒は、これは修理できるのかどうかすら定かではない。アルノーは自分が確かに“視ていた”はずだったのにと、後悔で胸をいっぱいにしてしまう。こんなにも落ち込むことはなかった。きっと、ハリーは目覚めたら悲しむだろう……。
誰しもが、しょんぼりと落ち込んだ様子で視線を床のほうへと落としていた。その時だった。
「ハリー!」
泥まみれで、決して血色がいいとは言い難い顔のまま、フレッドが声をかけた。皆はバタバタと駆けていき、ハリーのベッドを囲むように立った。アルノーもすぐにハリーのそばに駆け寄った。
「気分はどうだ?」
「……どうなったの?」
ハリーはぼんやりした視線のまま、皆に問いかける。しかし、次の瞬間には、ハリーは勢いよく起き上がっていた。皆は息を呑んだ。フレッドは、「落ちたんだよ」と答えた。
「ざっと……そう……二十メートルかな?」
「みんな、あなたが死んだと思ったわ」
アリシアは震えながら言う。ハリーはぐるりと皆を見渡す。
「でも、試合は……試合はどうなった? やりなおしなの?…………まさか、僕たち、負けた?」
ハリーは、嘘だろ、と言わんばかりの、驚きや悲嘆を混ぜこぜにした表情をしていた。
「ディゴリーがスニッチを取った」
ジョージが重たく言った。
「君が落ちた直後にね。何が起こったのか、あいつには分からなかった。気付かなかったんだ。振り返って、君が地面に落ちているのを見て、ディゴリーは試合を中止にしようとした。やり直しを望んだんだよ。でも、向こうが勝ったんだ。フェアにクリーンに……ウッドでさえ認めたよ」
「ウッドはどこ?」
ハリーは周囲の顔を見渡した。ウッドの姿はない。アルノーも今になって気付いた。どこにも、主将たるウッドの姿はない。
「シャワー室に真っ先に向かってった。まだ出て来ない」
ジョージが言った。ハリーは立てた膝をギュッと掴んで、頭を埋めた。髪をぎゅっと乱暴に握って、頭を抱えた。フレッドは、ハリーの肩を掴んで乱暴に揺すった。
「落ち込むなよ、ハリー。これまで一度だって、スニッチを逃したことはないんだ」
「一度ぐらい取れないことがあったって当然さ」
ジョージが続けた。フレッドは、すぐさまハリーのそばで声をかけ続ける――「これでおしまいってわけじゃない」と。
「俺たちは百点差で負けた。いいか? だから、ハッフルパフがレイブンクローに負けて、俺たちがレイブンクローとスリザリンを破れば……」
「ハッフルパフは、少なくとも二百点差で負けないといけない」
ジョージが注釈したが、フレッドはすぐにそんなジョージと顔を見合わせて、「例えば」と話しだす。
「ハッフルパフがレイブンクローを破るなんて日が来るか?」
「ありえない。レイブンクローが圧倒的に強いさ。しかし、スリザリンがハッフルパフに負けたら……」
「どっちにしても点差の問題だな。……百点差が決め手になる」
フレッドとジョージが会話する間も、ハリーは膝を抱えたまま、頭を埋めたまま、じっとしている。アルノーは、ハリーが初めて負けたことでショックを受けているのかもしれないと思った。今まで完全無欠のシーカーだったハリーにとって、きっと試練の時なのだろう。負けたことを認めなければいけないのだから。
しかし、そんなハリーの様子を気遣うよりも何よりも、皆はそれでも、「いいか、まだ完全に負けたわけじゃない」と言う。ハリーからすれば、今回は『完全に負け』なのだが……それでも、優勝杯の争奪戦から脱落したわけではないのだ。闘志を燃やし始めようとしている皆の顔には、冷たい雨で冷えた色ではなく、次第に紅がさしていく。心にも、グリフィンドールの象徴する赤のような火がともっていくのが、アルノーにはわかった。
それから、マダム・ポンフリーがずんずんと、威嚇するような足取りでやって来た。安静にしないといけません!――と、目を覚ましたばかりのハリーの体を案じていた。皆は「また見舞いに来るからな」と、立ち去った。
選手達は泥の後を引きずりながら立ち去ったが、ハーマイオニーとロンはまだ少しだけ、とハリーのそばにいた。アルノーもだった。
「ダンブルドアは、あなたが落ちた直後、本気で怒ってたわ」
ハーマイオニーはまだ青い唇で、震えた声で言った。
「あなたが落ちる時、ピッチに駆け込んで、杖を振って、そしたらあなた、地面にぶつかる前に少しだけスピードが遅くなったの。それから、ダンブルドアは杖を吸魂鬼に向けて回したの。あいつらに向かって、銀色のものが飛び出したわ。あいつら、すぐに競技場を出て行った……カンカンになったダンブルドアは、吸魂鬼が完全に姿を遠くにやるまで、ずっと杖を振っていたの――」
「それからダンブルドアは、魔法で担架を出して、きみを乗せた。浮かぶ担架に付き添って、学校までダンブルドアがきみを運んだんだよ」
ロンもハーマイオニーも気遣いながら、ハリーを見ていた。ハリーは埋めていた顔を上げた。そして、小さく、ぼんやりした声で問う。
「だれか、僕のニンバス、捕まえてくれた?」
アルノーは、ひゅっと息を飲んだ。ハーマイオニーとロンが顔を見合わせた。
「あの――」
ハーマイオニーが微妙な声を出して喋ろうとしたが、すぐに言葉に詰まった。
ハリーはみんなの顔を順番に見ていた。きっと、ハリーからすれば、何気ないありきたりな問いかけのつもりだったのだろう。しかし、アルノーたちは知っている。ハリーには、もうひとつ、乗り越えなければならない辛いことがあるのだと。
「あの……あなたが落ちたとき、ニンバスは吹き飛んでいったの」
実に言いにくい話だったが、ハーマイオニーは言った。ハリーは「それで?」と、目を瞬かせながら言う。
「それで、ぶつかったの。……ぶつかったのよ。…………ああ、ハリー、あのね、『暴れ柳』にぶつかったの」
途端、ハリーの目が大きく見開かれた。ハーマイオニーの言う『暴れ柳』というのは、校庭の真ん中にぽつんと一本だけ立っている、凶暴な木だ。それは、近付くものを攻撃する習性があるらしく――。
「……それで?」
ハリーの声は、落ち着き払っていた……というよりは、落ち込みきっているように聞こえた。
ロンはハリーの前に自分のローブをおずおずと出す。隙間から木の枝がぴょんぴょんと飛び出しているのが見えて、ハリーは眼鏡の奥で、目を大きく見開いていた。
「あの『暴れ柳』のことだから。あれって、ほら、ぶつかられるの、嫌いだろ」
「ロンたちが集めてくれたの」
ハーマイオニーは、ロンのどろどろのローブの中に包まれていた、ニンバスの亡骸をハリーの前に広げた。粉々になった木の切れ端や、小枝の欠片のようなものがばらばらと散らばり出た。ハリーのあの忠実な箒は、無残にも、亡骸となってしまったのだ。
- - - - - - - -
2016/10/30
- - - - - - - -
prev / next