長編3-6_従う者たち
──それはまるで、世界を丸ごと食い破るような朝焼けだった。
戦火は既に黒く燻り鎮まろうとしている。
おそらく後の歴史に刻まれるであろう、これまでで最も大きく苛烈な争い。
轟音が鼓膜を揺らし、煙の匂いが鼻をつき、血の色が網膜にこびりついて。それでも同族の誰もが敗北など予期していなかった。
──しかし、その朝焼けを目にした途端、不穏な予感が全身を侵した。
薄煙が漂う濁った空も、失われつつある敵の戦意も、滅びを迎えつつある世界も、魔族にとっての勝利の兆しだと信じて疑っていなかったのに。
あの朝焼けは、全ての夢が終わるかのように透き通ったもので。
胸騒ぎが収まらない、嫌な予感がする。
敵を迎え撃ちながら、視線は無意識にも決戦の地──聖地へと向けられて、
目にしたものに、全ての思考は消し飛ばされた。
巨大な女神像が佇んでいたはずの場所。
その大地が切り取られ、空に浮かんでいた。
*
──ギラヒム様がいる。
ここがどこなのかはわからない。周りの景色はもやもやしていて、ここに来るまでの記憶も曖昧だ。
でも、目の前に大好きな主人がいるという事実だけで、そんなことは些細な問題でしかないと思った。
だって、彼も笑ってる。端整で艶やかな、ずるいくらいに綺麗な笑みを浮かべている。だから私は何も考えなくていい。黙って彼にされるがままになればいい。
──けれど、その甘ったれた思い込みは、彼が一歩踏み出すと共に冷たい予感へと変貌する。
「……おい、お嬢」
すぐに長い腕が伸びてきて、逃げ出す前に私の首根っこは呆気なくひっ捕まえられる。
その後は問答無用で彼の元へと引き寄せられて、硬くてすべすべした指先がくすぐるように頬を撫でた。ゾワゾワと背筋が粟立ち、触れるか触れないかの位置にまで寄せられた唇に私は釘付けになる。
間近で濃厚な色香が脳を揺さぶり、視線が導かれた先にあったのは、彼のもう片方の手だ。次いでその中に握られているモノが何なのかを認識し、戦慄が私の全身に駆け巡る。
「う、うう……無理、ですよ……、そんな、お化けみたいな大きさ……!」
「おーい……お嬢?」
半泣きで拒絶を訴えても彼は絶対に解放してくれない。優しく愛おしげに頭を撫でられ、頬に口付けられながら、凶悪なそれが私の眼前へと突き付けられる。
温かで柔らかな感触に騙されそうになるけれど、こんなものを使われたら正気を失うどころの話じゃない。
「無理ですマスター……せめて、やるならソフトタッチで……っ!」
「お、おい、そこで暴れンな……!」
心から恐怖する私を無視し、彼はそれをその場所へじわじわと近づけてくる。そんなモノでそんなコトをされたら、私は人として大切な何かを失ってしまう。二度と立ち直れなくなってしまう。
でも、それでもマスターは、高揚した表情のまま手を止めることは無く、それを──、
「だめですそこは……そこは生物的にアウトですっ──!!」
「うるせェお嬢!! いい加減目ェ覚ませッ!!」
ついに上がった断末魔。
……と同時に、耳を劈く怒声が私を現実へと引き戻した。
瞬きを繰り返しながら視線を巡らせれば、目に映るのは埃っぽい岩壁に囲まれた薄暗い空間。
禍々しい凶器を手にした主人の姿はどこにもなくて、私の目は何か柔らかい感触がするお尻の下へ自然と導かれる。そして、
「……リザル?」
「人の上乗っかったままいかがわしい夢見てンじゃねェよ……」
私が乗っかっていたのは、呆れ混じりに冷ややかな視線を注ぐ大トカゲだった。
「わざわざ助けてやったのに呑気に夢見てやがッし、それ以前に脆いくせにすぐ死にに行こうとしやがッし、次は絶対に助けてやンねェ」
「ごめんなさいでした……」
ようやっと状況を理解した私は慌ててリザルの背から立ち退き、誠心誠意謝罪を述べていた。あれだけの無茶苦茶をした上、呑気に主人の夢を見ていたのだからその怒りも当然のものだ。
目にした彼の姿は全身砂まみれ。次いで私自身も同じような姿をしていると気づき、最後に私たちは地上の崩落に呑まれここへ落ちてきたのだと思い至る。
ここが砂漠の下に広がるという、件の地下遺跡なのだろう。
「火薬も油もさっき使い切っちまった。爆弾はいくつか残ってッケド……無駄遣いは出来ねェな」
「一歩間違えたら次は本当に生き埋めだろうしねぇ……」
降り注いだ砂が天井にまで満ちているため、落ちてきた穴からの脱出は不可能。下手な場所を壊せば地下空間全体が崩れ落ちる可能性もある。
地上に戻るためにはこの大広間から無数に伸びる地下通路を抜け、上層に至る道を見つけなければならないのだろう。
地図はあるものの、植物の根のように複雑に絡み合った道筋を見る限り、骨が折れる探索になることは間違いない。
しかし、あまりのんびりもしていられない。
今頃ギラヒム様は時の神殿へたどり着いている。彼一人でも敵に遅れを取ることはないはずだが、覚醒した巫女への警戒はしておくべきだ。
──それに、もし本当に時の扉が動いたとしたなら。
「────」
不穏な影のような予感を、奥歯を噛み締めて抑えつける。今は余計なことを考えている場合ではない。ここから脱出することを最優先に考えるべきだ。
傍らの大トカゲに数瞬の迷いを悟られていないことを確認し、私は最も気がかりなことを彼に尋ねた。
「……ラネールは?」
「少なくとも、周りに気配はねェな」
黄色の両眼は大広間の中心に聳えた砂山を見遣る。
地上での戦いの最後、時空珠に魔剣の一閃を食らったラネールは体の制御を失ったまま私たちと同様、地下へと沈んでいったはずだ。
けれど砂山の中に見受けられるのはロボットたちの残骸だけ。ラネールだと思しき姿はそこにはない。
それどころか、あの龍の生命線である時空珠の効果が発動しているようにも見えなかった。
「あの砂ン中に埋まッてりゃいいンだがな。時空珠も完全にぶっ壊せたわけじゃねェし、警戒はしとくべきだろ」
「……そうだね」
頷き、私は砂山を睨み続ける大トカゲに視線を移す。
口調や表情は普段と何ら変わりない。けれど黒い瞳孔は細まり、獣特有の鋭気がそこには存在していた。狙いを研ぎ澄ます、狩りの時の目だ。
その表情を横目で見ながら、私はおずおずと彼に問いかけた。
「ねぇ、リザル」
「ンあ?」
「その……ラネールと何か、因縁あったりする……よね?」
たどたどしい問いかけに返ってきたのは、珍しい素直な驚き顔だった。
彼は一度短いため息をつき、長い爪で顎をかく。
「……ド直球で聞くのな。しかも、大体の察しはついてンだろ」
「……たぶんだけど」
その答えは、言外に私が抱いている予想で正解だと告げていた。
砂漠に来てから何度か目にしたリザルの物思わしげな表情。ほんの些細な変化でしかなかったけれど、数年前に彼と初めてこの地に来た時のことを思い返せば自ずとその理由に察しがついた。
それを口にするのはあまりに無粋であるため、告げることはしなかったけれど。
「別に俺の手でトドメ刺したかったとかじゃねェから安心しろよ。こンなとこであの龍と戦うことになるなンて思ってもなかったしな」
「……うん」
普段通りの口調を保った返答には、それ以上の深掘りはするなという軽い拒絶が含まれていた。
懐の広いリザルがそんな意志を示すことは滅多にない。ここは素直に引き下がるべき場面なのだろう。
そう納得すると次は返す言葉を見失ってしまい、気まずい沈黙が訪れる。
が、それもたったの数秒。再び口を開いたリザルの声音にはいつも通りの飄々とした調子が戻ってきていた。
「とにかく、この湿気た墓場みてェなとこにいつまでもいンのはゴメンだ。とっとと出口見つけて脱出し──、」
そこまで告げ、彼が振り返った瞬間。
積もった砂山の中から強烈な青い光が漏れ出し、薄暗い空間が一気に照らし出された。それと同時に、
「逃がさねぇよ、魔族ども」
「──!!」
砂と瓦礫を跳ね上げ、出現した巨大な影。
顔を上げた私の目に真っ先に飛び込んできたのは、青色の光を放つひび割れた珠と襤褸を纏った大剣。
巨躯が放つ威圧感と、敵意を剥き出しにした眼光が魔族を串刺し、心臓を握り潰そうとして──、
「走るぞお嬢ッ!!」
「うえ……!」
動き出せずにいた私の首根っこを引っ掴み、背中に乗せたリザルが即座に駆け出す。
彼が飛び退いた地面は一瞬の後、大剣に斬り裂かれぱっくりとした断面を晒した。
「逃がさねぇっての!!」
リザルの背にしがみついたまま、唸り声が上がった背後へ視線を走らせる。
砂山の中から復活したそいつ──雷龍ラネールは、ひび割れた時空珠以外全くの無傷。
龍は円を描くように大剣を振り回し、逃げた私たちを猛追する。
「しつッけェな本当! 砂漠の奴らは皆こうなのかよッ!!」
「そうなのかも……」
ほぼ叫び声となった悪態を吐き捨てながら、大広間から無数に伸びる通路の一つへリザルが飛び込む。
飾り気のない通路の果てにはさらに幾重もの道が伸びていて、リザルは脇目も振らず奥へ奥へと突き進んでいく。当然、道を確認する暇なんてない。
「袋小路に行き当たったらオシマイだな、こりャ」
「……リザル、実は広域探査の能力とか持ってたりしない?」
「リザルフォスが出来ンのは火吹くこととどっかのお姫サマ乗せて死に物狂いで走ることくれェだよ」
「本心じゃなくても口説いてくれてありがとう! 出来れば別の場面で聞きたかった!!」
部下ズ漫才を繰り広げながら、私たちは本格的に地下迷宮へと迷い込んでいく。しかしどんな道をたどっても、ラネールの追跡が緩むことはない。
私はリザルの背に乗ったまま通路の奥へと目を凝らし、あることに気づいた。
「リザル、狭い通路に入ってみるっていうのは?」
「……確かに」
私の提案にリザルが顎を引き、彼の体がちょうど入る程度の高さの通路へ滑り込む。
やや狭苦しくなった通路でもリザルは速度を落とさず俊敏な動作で駆けていき、私は追いかけてくるラネールの元へと視線を寄越す。
私やリザルの何倍もあるラネールの体躯なら、入り口で立ち往生するか勢いのまま壁に衝突してしまうはずだと思った……が、
「…………」
私が目にしたのは、時空珠の効果範囲を操作し、現代の体──つまりは霊体になって進んでくるラネールの姿。
地道に障害物を避けながら走るこちらに対し、霊体のラネールはすいすいと壁をすり抜け私たちを追いかけてくる。
「あの石、嫌いになりそう……」
「同感ダナ」
なんで時空石は砂漠化が進行した時、遺跡と共に葬られてくれなかったんだろう。
どうしようもない恨み言を唇の内側で押し留めていると、前方からリザルの嘆息が聞こえてきた。
「なンでお嬢と戦う時は何かしらに追い回されてンだろーな、毎回」
「んー……足動かすのが部下のお仕事だからかな」
「全然笑えねェよ」
お仕事とは言え、魔物の中でも比較的主従に振り回されがちな大トカゲ。
魔族らしからぬ懐の広さを持つ限り、彼はこうして私たちの巻き添えになり続けるのだろう。
感謝の念を胸にしっかりと抱いたまま、ひんやりとした背中にしがみつき、半端者と大トカゲは砂にまみれた通路をひた走っていった。
* * *
砂漠の乾いた風が、金色の髪を柔らかく撫で付ける。
蒼色の瞳が見つめる先に佇むのは、巨大な歯車。時空石と同じ深い青色の壁面には幾何学的な紋様が幾重にも描かれており、音も立てず、規則的に時を刻み続けていた。
「──時の扉」
立ち尽くした少女は金色のハープをぎゅっと握りしめ、細い喉を震わせる。
響いた声音には、初めて目にしたはずの光景に対する驚嘆は一切滲んでいない。その光景も、存在も、意味さえも知り尽くした、既知の響きを宿していた。
「……本当に、良いのですね」
少女の背後から低い問いかけが向けられる。振り返り、蒼色の視線に重なったのは控えていた従者の思案げな眼差しだ。
主が今から為そうとしていることを止める権利は従者にない。どれほど説得しても、気丈に振る舞っても、従者の眼差しに滲む不安の色は薄れてくれないのだろう。
そう理解しながら、少女は薄赤く色づいた唇を静かに解く。
「構いません。こうなることは、自らの手で天地を切り離した瞬間から定められていたのです」
少女は──ゼルダは凛とした声音でそう言い切り、毅然とした表情で時の扉を見遣る。
その身が放つ神聖性は可憐な少女のものから、“女神”と呼ぶべき存在のものへと完全に花開いていた。
「私の身はこのためのもの。……ずっと、償いの時を待ち続けていました」
遠い過去の時代から積み上げられてきた宿業の因果。たとえ彼女が“神”と呼ばれるべき存在であったとしても、これから成されようとしている“清算”はあまりにも過酷すぎる道だ。
細身に課された宿命の重さが、今まさに少女を圧し潰そうとしている。
そしてその身を護ることを使命としているはずの自分には、運命から彼女を逃す術がない。
無力感に苛まれ、表情を歪める従者。その姿を再び蒼色が捉えて、
「……大丈夫よ、インパ」
「!」
鈴の声音が穏やかに名前を呼び、インパは息を詰めて小さく目を見開いた。
視線を上げ、そこにあったのはあどけない少女の微笑み。──ここまでの旅路を共にしてきた、空の少女の姿。
「もう弱音は吐かないわ。……わたしのやりたいこと、ちゃんと決めたから」
インパが案じていた少女は、透き通った声色で告げる。
運命を知り、膝を屈して泣いていたはずの少女は、ここにたどり着くまでのほんの短い時間の中でやるべきことを決めた。
その強かな姿に、インパは言葉を紡ぐことすら忘れて──、
「健気なものだね。無慈悲にも強いられた運命に、虚勢を張って立ち向かおうとする少女の姿は」
「!!」
──その静寂は、天に嘶く轟音と共に断ち切られた。
突如として破壊された遺跡の壁。破片が飛び散り、薄煙と砂埃が周囲の景色を覆い隠す。
そして、砂煙の向こうに人影を見たインパが咄嗟に薙刀を構えた瞬間、空気を裂く漆黒の刃が斬り下された。
「……それとも、女神の魂が目覚めた今、憐れな少女の感情は全て捨てられてしまう運命なのかな?」
「魔族長……!!」
魔剣の剣圧に耐え、鍔迫り合ったその相手をインパが目にする。そのまま突き崩されぬよう踏みとどまると、呼気を放って押し返し、一直線に刃を貫いた。
が、薙刀は空を虚しく穿つのみ。瞬間移動により距離を取ったギラヒムは、髪を撫でつけ悠然と嘆息をこぼした。
「火山であれだけ痛めつけてあげたのに、未だ実力の差が理解出来ていないとはね?」
「…………」
「遊んであげたいけれど今回は時間がないんだ。少々、本気で行かせてもらうよ」
低く言い捨て、魔剣の切っ先が掲げられる。その言葉の通り、火山での戦いで魔族長は実力の半分も発揮をせず自身を弄んでいたとインパは理解していた。
正面から戦えば、太刀打ちすら出来ない。加えギラヒムは今度こそ、自分を殺しにかかるであろうことも。
「────」
振り向かず、視線だけを背後の少女の元へと送る。顔が見えずとも、彼女が不安げに従者の背を見つめていることはわかる。
女神を護る。今が、その役割を果たす時。
それはインパにとって、一族にとって、何を犠牲にしてでも遂げなければならない使命だ。
そうわかっていながら胸の内を満たすのは、恐怖を振り払って見せられた微笑みと、出会ったばかりの従者にさえも傷ついてほしくないと涙した、一人の少女の姿で。
「……ゼルダ様」
その名を──今はただ、ずっと笑顔でいて欲しいその名前を、呼ぶ。
「貴女自身が貴女のすべきことを決めたというのなら、私はその道筋を護ります。……使命ではなく、自らの意志で」
「──!」
振り向き、視線を交わした少女はその表情を驚きで満たしながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
だから少しでも安心させられるように、柔らかな眼差しを彼女に送る。
「最後の時まで、貴女と共に」
宣言と共に、赤い魔力が薙刀に込められる。炎を纏い、陽光を乱反射させ燦然と輝く刃。
姿勢を低く取り、顔を上げて、迷いを捨てた戦士の眼が魔族長を真正面から見据えた。
「……鬱陶しい」
一歩も退こうとしないインパを前に、ギラヒムは表情を歪めて女神側への深い憎悪を露わにした。
怨嗟の声音を押し留める代わりにぐしゃりと白髪を掴み、掻き上げる。殺意に澱んだ眼光は女神の一族を睨め上げ、捕らえて離さない。
「……いいよ。それでもワタシの前を阻みたいと言うのなら全て全て斬り伏せてあげる。……あの時と、かつての聖戦と、同じように」
凶悪な光を宿す魔剣の刃が、赤き薙刀の輝きと交錯し合う。
双方の対峙を目の当たりにした少女の蒼色の瞳は不安に揺らぎ、一度伏せられた後──強い決意を漲らせ、時の扉へと向けられた。