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外伝2_鍵の少女のカレイドスコープ



 瞼の裏側に広がる暗闇。深く、どこまでも沈みゆくその世界ではちらちらと記憶の残滓が瞬いている。

 映し出されるのは護るべき存在を護りきった安堵と、今にも泣き出しそうな顔をさせてしまった後悔だった。
 それを目にして抱くのは、何度繰り返したなら彼女を穏やかな世界に連れ戻すことが出来るのだろうかという疑念。そしてその身を必ず護り切り、温かな世界を返さなければならないという使命感。
 今まで何度もその葛藤に苛まれては、足を奮い立たせてきた。

「────」

 しかしその時は初めて、見慣れた黒の世界に微かなさざ波が立った。
 波音は遠い哄笑にも似た残響を宿し、我が身に問いかける。

 ──連れ戻す?

 波の音と共に、闇の奥底で皮肉を孕んだ笑みが呟きを漏らす。

 ──連れ戻すも何も、ここまで連れてきてしまったのはお前自身だろう?

 押し寄せる波は勢いを増し、徐々に四肢を捕らえ始める。

 ──もう連れ戻せないとわかっていながら、“使命”という免罪符を盾にしたのはお前だろう?

 引いて、戻っては、ずるずると全身を呑み込んでいく。事実という抗いようのない波が、魂を揺さぶってくる。

 彼女の心がひび割れてしまったとしても、砕けてしまったとしても、天秤の片側にかかるのは世界で、未来で、希望だ。
 それ以前に、この身に“使命”を与えたのは他ならぬ彼女自身なのだ。

 頑なな意志を貫かなければ刃はすぐに折られる。腐食する。
 だから何も考えずに剣を取らなければならなかった。それはこの血筋に生まれ落ちた瞬間から、自らに課せられた生き方だったはずだ。

「────」

 そう、言い聞かせる。波に呑まれながら、記憶が映る泡沫に網膜を焼かれながら。
 肌に爪を立ててそれだけを念じる。繰り返し、繰り返す。それが、そのことだけが、

 ──世界を救うために、必要だったからだ。


 *


「……インパ?」

 泥濘に沈んでいた意識は、一つの透き通った声音により引き上げられた。

 酸素が気管を潜り抜け、脳に達する。思考は緩慢に巡りだし、朧げな視界に滲むのは煌めく金と純白。それだけで自身を見下ろす人物が誰なのか理解して、うつろな視線は蒼色と重なり合った。

「──ゼルダ、様?」
「よかった……目が覚めたのね……!」

 掠れ声で紡がれた名前に、ゼルダが安堵の吐息を落とす。
 その表情を見据えながら、インパはたった今まで自分が気絶していたことにようやく思い至った。

 ゼルダの眼差しに見守られながら、インパはゆっくりと辺りを見回す。
 天は無骨な岩肌に覆われていて、目線を下げればここが広くも狭くもない洞穴の内部だとすぐに理解した。
 空間のほとんどは中央から湧き出る透明な水に浸っており、水面へ目を凝らすと淡い光が尾を引き漂っているのが見て取れる。正体は泉に集まる小さな妖精たちだった。

「……ここは、」
「インパが言っていた、山の麓の泉よ」

 尋ねる前にゼルダが答えを口にする。
 それを耳にし、インパの脳裏には意識が途切れる直前の光景が蘇った。

 ──オルディン火山での決戦。乱入した魔族長に猛撃を仕掛けられる最後の最後の瞬間。
 切り札として取っておいた魔力を全て注ぎ起こした自爆により、インパは辛うじて魔族の手を退けることに成功した。

 だが大量の血を流しながら火山の麓まで逃げおおせたのち、保ち続けていた意識はついに途絶えてしまったらしい。
 意識が切れる直前に逃げるための道筋をゼルダへ教え示した記憶が朧げに残っていた。

 そうして彼女がたどり着いたのがこの場所──シーカー族にのみ伝えられる癒しの泉だった。
 魔族との争いに備え、このような場所は各地に点在する。付近に住み着いた妖精や精霊が肉体の治癒を施してくれる、秘匿された隠れ家のようなものだった。

 夢遊していた意識がようやく覚醒し、インパは彷徨わせていた視線をゼルダの元へと戻す。

「貴女が、私をここまで……?」
「テツさ……えっと、モグマ族の人にお願いしたら手伝ってくれたの」

 ゼルダが告げたのはこの地に住まう亜人の種族名だった。
 モグマ族とはたしか、鉱石の採掘のため山の隅々まで探索をしている一族だったはずだ。その過程でこの泉のことも把握していたのだろう。

「……っ、」

 ──と、巡らせていた思考を唐突に断絶するように、体中の傷が鈍い痛みを訴え始めた。

「無理しちゃだめ……! 血は流したけど、傷はまだ開いてるんだから」

 彼女が言う通り、よくよく見れば身に纏っていた防具は取り去られ、肌を染めていた血は綺麗に洗い流されている。
 それを目にしたインパは小さく息を詰まらせ、導かれるように視線を下ろす。やはり、ゼルダの白かったはずの両手は血と汚れに塗れていた。

「……申し訳ございません、ゼルダ様。貴女をお守りするのが私の使命であるにもかかわらず」
「ううん……インパはわたしのこと、守ってくれてばかりだった。……何も出来ていないのは、わたしだわ」

 そんなはずはない。首を横に振ったゼルダに対し、反射的な否定が浮かぶ。
 魔族を確実に討ち取るため、自ら囮をかって出たこと。魔族の手に落ち、何度も危機にさらされながらも禊を終えたこと。
 これ以上にない、むしろ危惧すら覚えてしまうほど、彼女は迷いなくその役割へ身を投げ打っている。

 だが、インパがそれを口にすることは出来なかった。──否、許されなかった。

「────」

 眼前の少女がたたえる神聖な美貌に、刹那インパは視線と呼吸の両方が奪われる感覚に陥る。
 見入ってしまった、という形容は正しくもあり間違いでもある。インパが見入られたのは少女の美しさではなく、その美しさが纏う神聖な空気に対してだった。

 薄い唇を引き結ぶ少女を見据え、インパの胸中には確信に近い可能性が浮かぶ。
 そしてそれは言葉として還元されずとも伝わり、ゼルダは答えを口にした。

「……ラネールまで、長い道のりになるわ。ここには魔族も入れない。ゆっくり怪我を治してから、向かいましょう」

 赤色の双眸が、驚愕に満ちて見開かれる。
 凛として響く鈴の声音と、真っ直ぐに自身を──従者を射抜く眼。
 何よりその唇が紡いだのは、彼女がまだ知らないはずの地名と次に進むべき道筋。

 インパは身を固くし、核心的な問いを向けた。

「──記憶が、戻られたのですね?」

 少女から返されたのは耳が痛くなるほどの沈黙、すなわち肯定だ。
 しかしその答えを与えられたインパよりも、ゼルダの蒼色の瞳は戸惑いに染まっていた。

 曇った蒼色は一度伏せられ、少女の華奢な両手は何かを抑え込むように握り締められる。
 やがてゼルダは唇を解き、奥底に蟠っていた感情をこぼし始めた。

「森で禊を終えた時は、まだはっきりしてなかった。でも……火山で禊を始めた時から少しずつ思い出してきたの。知らない光景、知らない人……知らない、私のこと」

 揺れる蒼色はその裏側で、インパすらも見たことのない景色を映し続けている。
 見慣れない、けれどよく知っている光景を。とっくの昔にこの世を去った過去の人物たちを。何百年も、何千年も、積み上がってきた歴史を。

 それは少女にとっての未知であり、彼女にとっての既知。つまり、

「今この瞬間も、声が聞こえる。景色が見える。知っている。私の──『女神』の記憶が、たしかに存在している」

 ゼルダの中で眠っていた、もう一つの記憶の復元。

 それは森で老婆と出会い、この大地で何をすべきか示された時には伝えられていた。
 フィローネとオルディン、それぞれの地で執り行う禊。それが女神として転生する以前の記憶を取り戻すためのものだということを。

 仮にそれを取り戻したとしても、もともと持っていた自身の記憶と同じように自然と受け入れられるものだとゼルダは思っていた。
 けれど、彼女の身を襲ったのは自身にとって全く身に覚えのない記憶が呼び覚まされる感覚。もっと言えば、一人の人間の中に二つの記憶が混在し、攪拌している状態だった。

 しかも、彼女の中にあるのはただの人間の記憶ではなく、万物を見届ける女神の記憶だ。
 本来なら、自我を保つことさえままならないほどの精神の混濁が起きてもおかしくなかったはずだ。

「……絶対にやりきらなきゃって、思ったわ。お役目を軽んじていた訳じゃない。それでも、ようやく実感したの。私がやらなければ、どんなに恐ろしいことが起こってしまうか」

 俯き、絞り出すような声音が紡がれる。彼女のその横顔は見ているだけでも痛々しい。

 ゼルダはそこで全ての感情を吐露したと自身に言い聞かせようとして、瞳を覆う長い睫毛を静かに震わせた。

「でも、ね」

 喘ぐように声音が落ちる。
 気丈な意志が、折れてはいけないと念じ続けていたはずの虚勢が、一つ、二つと剥がれていく。
 ひたすらに隠そうとされていた少女の本心は、堰を切ったようにこぼれていく。

「──こわい、の」

 それは森を発つ直前、彼女自身が口にした言葉と同じものだ。
 しかし、声音を満たす感情の色はその時とは明らかに異なったものだった。

「わたしの知らない私は……わたしの周りの人たちがどんな役目を背負っているのか、運命をたどるのか……知っているの」

 女神の目──過去と未来すら掌握した目が見た、周りの人々。
 一人の少女が何気なく生きてきた中で出会った人々が、世界においてどのような位置づけに立つのか、無慈悲にもその両眼には見えてしまう。わかってしまう。

「私はそれを、その運命を……世界が平和になるためには仕方のないことだって、思っている。それを受け入れて、乗り越えなきゃ世界が終わりを迎えてしまうって……納得、してるの」

 魔を打ち滅ぼす未来を実現するための道筋を全て理解した。
 終末は自分たちの知らぬ間にすぐそこまで迫っていた。
 自分がなんとかしなければ、大好きな人たちみんなが犠牲になってしまうと、思い知った。

 常人ならとっくに自我が崩壊してしまっているほどの記憶の波を、真実の重みを、すべてすべて受け止めた。

 でも、だからこそ、

「わかってる……わからなきゃいけないって、思ってる。でも……でもッ、わたしッ──!!」

 蒼色の大きな瞳が押し開かれ、こらえていたはずの涙があふれ出て、

「リシャナのことを、友達のことをッ! ──『魔族』だって思ってしまったッ!!」

「────、」

 少女の慟哭が、冷たい岩の世界へ響き渡った。

 泉を揺蕩う光の粒たちは少女の叫び声に驚き、宙へと舞い上がる。
 息を呑むほどに美しい光景だというのに、淡い光の洪水を反射させるのは少女の瞳を濡らす涙だけだ。

「ううん、もっと酷いわ! あの子のことを……『半端者』だって、思ってしまった! その言葉の意味も知って、その存在がどんな運命を辿るのかさえもわかってしまったッ!!」

 存在の意味を知って、理由を知って、それが向かう未来がどうにもならないものだということまで、知った。

 知っていなければならない。少女は、女神なのだから。
 それを自身の一方的な思いで変えてはならない。少女は──神様なのだから。

「それだけじゃないッ!! 私はこのままだと、リンクのことまでッ……!!」

 ついに、少女は膝を折って固い地面に崩れ落ちる。それでも俯いて瞼を伏せることに罪悪感を抱いてしまうのか、彼女が両手で顔を覆うことはない。
 ただただ、冷たい涙が地を濡らして染みをつくっていく。彼女が哀しみを訴えるために残された手段は、瞳から流れる雫だけだった。

「────」

 少女の中に吹き荒れる記憶と戸惑いの渦を目の当たりにし、インパは最後までかける言葉を見つけることが出来ずにいた。

 ──そうだ。記憶が戻ったから、なんだというのだ。
 蘇った記憶が世界にとって必要なものであろうと、それが重い重い意味を持つものだとしても、彼女が一人の空の少女として生きてきた年月を塗り潰していい理由などあるはずがない。
 なかったものとして、宿命にだけ向き合って生きろだなんて、言えるはずがない。

 その身を大地へ引き摺り下ろしたのは魔族だ。けれどそれ以前に、彼女が大地に降り立つことは最初から決まっていた。女神の転生体として、魔に立ち向かわなければならない運命は決まっていた。
 ──彼女が愛した人々は、愛した日々は。たった十数年で手放されなくてはならないと、決められていた。

 少女がどれほど懸命に思い出を抱え込もうと、役割が、使命が、上書きされる。女神の記憶に形作られたもう一人の自己が、その身を手放してくれはしないのだ。もう、二度と。

「……全部をなんとかするなんて難しいってことも、そんな考えが甘いってことも、わかってる。……でも、」

 彼女は頬を拭い、嗚咽を留めた涙声で自身を律する。
 本当なら、膝を抱えて蹲っても誰も責めはしない。そうするべきで、そうあるべきだった。

 そして同時に、女神として彼女が生きるとするならば。これは仕方のないことなのだと、彼女にとって大切な空の世界を守るためだけに役目を果たすと考えることも出来たはずだった。

 しかしそれは少女の──ゼルダ自身が持つ心根が、絶対に許すことはない。

「わたしを守って傷つくインパも、リシャナを魔族として見てしまう自分も……リンクが辛い思いをするところも。……本当は、見たくない」

 優しい、優しくて、守りたくて、神の運命から逃がしたくて。
 全てを見てしまえば、全ての安寧を願ってしまう。世界にとっての最善を手繰り寄せながら、その手に抱えきれない命の存在を彼女は見捨てることが出来ない。
 そうして彼女の透き通った優しさは、真綿で首を絞めるように彼女自身を追い込んでいく。

「ごめん……ごめん、なさい。少しだけ、今だけ。……わたしを、お役目と関係ないゼルダに、させて」

 冷たい岩に、少女が啜り泣く声が反響する。
 たった一人の従者は唇を噛みながら、白い頬を濡らす雫を見遣ることしか出来なくて。

『──どうして、』

『誰かの助けになることは、途方もなく難しいんだろう』

 その言葉は、来たる運命に従えばいつか必ず取りこぼされてしまう存在が紡いだ言葉。

 それを眺む蒼色を、あまりに哀しい涙を、
 いつまでも、いつまでも──見つめていた。