series


幕間_髪を撫でる余熱



「マスター、短刀貸してください」
「…………」

 束の間のぬるい安息に浸った、ある昼下がり。
 主人の私室に訪れ、唐突な要望をのたまった部下へ、ギラヒムは白けた視線を寄越した。

「……また何か下らない事を始めるつもりか?」
「そういうわけじゃないですけど……ちょうどいいサイズだと思って」

 要領を得ない返答に部下を見る目がさらに細まる。単純に、意味がわからない。
 が、追及するのも面倒だったので深く考えることはせず片手で指を鳴らす。快音に呼応し、リシャナの目の前には一本の短刀が召喚された。
 リシャナは両手でそれを受け止め、「ありがとうございます!」と頭を下げて部屋を後にする。

 思考回路が犬とほぼ同じに出来ていると言っても過言ではない部下の行動に対し、いちいち意味を熟考するほど暇ではない。
 あとで気が向いた時にでも吐かせようと、一旦は思考を頭の片隅に置いた。

 ──のだが、

「………………」

 部下の足音が遠のいてから数秒。
 ふと本能的な得体の知れない予感が伝い、ギラヒムは部下が去っていった扉をもう一度見遣る。

『ちょうどいいサイズ』──とは、何をするのに、だろうか。
 放っておいても何ら支障はない。関心を持つだけ時間の無駄だとわかっていた。だがそこから視線を引き剥がすことは何故か出来ない。

 一呼吸置いた後、おもむろに立ち上がり無意識な大股で部下の私室へと向かう。
 そして部屋の前にたどり着き、間髪入れず閉ざされた扉を解き放つと──、

「…………は」

 飛び込んできた光景に、思考が制止した。

 突拍子もなく部屋へ突入してきた主人に対し、目を見開きそのままの体勢で固まっているリシャナ。上半身を映せる大きさの鏡の前に立ち尽くし、短刀を握る片手は不自然な位置で止まっている。

「……何を、している」

 低く問い質す主人の声音とただならぬ空気に、リシャナが身動きせず困惑の表情を浮かべた。むしろその顔は恐怖にすら染められていて、おそるおそる返事をする。

「え、えと……オルディンの戦いで毛先が焦げちゃったので、整えようかなと思って……」

 言葉通り、彼女の足元には細かな毛の束が散らばっていた。まだ一房を切り落としただけのようだが、視線はそこへ縫い留められる。

「ま、マスター……?」

 動揺を隠しきれないリシャナが敬称を口にしたが、それすら耳に入ってこない。
 強張った眼差しで下から主人の顔を覗き込もうとするリシャナを無視し、ギラヒムの頭の中では一つの理解に至った。

 つまりこいつは、髪を切っていたと。
 ……主人の許可も、とらずに。

「──この、」

 やがて解かれた唇は小さく震え、リシャナの目が見開かれる。
 息を止め、一度区切った、後に──、

「馬鹿部下めッ!!」
「ひいッ!!?」

 湧きあがった罵倒の声は、口を衝いて放り出された。
 悲鳴を上げたリシャナの体を後ろから羽交締めにし、即行で短刀を取り上げる。

「な、な、なんでそんなに怒ってるんですか!? 別に首切ったりしないですよ!?」
「何故と言ったか? そんなことも理解が出来ないとはお前も愚昧を極めたものだね? いっそのことその空っぽな頭ごと首を切ってしまえば良かったのに!」
「今何に怒られてるんですか私!?」

 問答無用で短刀を取り上げられたためか、こいつにも生意気な反抗心が湧いたらしく奪還を試みる。が、開きった主従の身長差がそれを許しはしない。
 部下が飛び跳ね、手を伸ばしては主人がそれを躱すという攻防戦が数分間繰り広げられたが、当然部下ごときが勝利を得ることはない。
 リシャナは盛大に顔をしかめ、諦めとともに降参を示した。

「なんで私が私の髪切ってるだけなのにマスターが怒るんですか……」
「お前がこのワタシの部下で、部下であるお前の体は毛先までワタシに支配される運命にあるからに決まっているだろう?」
「暴論がすぎます……。そもそも私、今までも伸びてきたら自分で切ってましたけど……」

 そうこぼして唇を尖らせる顔を一睨みしてやれば、慌ててリシャナはその口を噤む。
 愚かな様を冷ややかに睥睨した後、ギラヒムは視線だけで狭い室内を見回した。

 過去、女神陣営の砦としてこの拠点が使われていた際にはおそらく司令室であった一室。
 殺風景だった室内に部下が無理矢理ベッドを詰め込み寝床としたため、他にあるのはわずかな隙間に詰め込まれた家具と立てかけられた数本の剣。あとは本人が隠せていると思い込んでいる、食料が備蓄された収納箱だけだ。

 ざっと一瞥したが、ちょうどよい高さの椅子の類はない。故に、身近なベッドを目で指し示す。

「いつまでもとぼけた顔を晒していないでとっととそこに座れ」
「座れって……」

 そう繰り返し、一拍置いて何を想像したのかリシャナの顔が青ざめた。

「……え、私、髪切ろうとしただけで拷問までされるんですか……?」
「……それもお望みなら、同時並行でしてあげるけれど?」
「お望みしてません!! 座ります!!」

 喚くリシャナが怯えながらベッドに座り──そして、その隣にギラヒムも腰掛ける。
 主人の行動に目を見張ったリシャナの肩を無理矢理捕まえ、背を向かせた。

「……!」

 固まるリシャナの髪を柔らかく梳くと、ぴくりした反応が伝わる。
 その反応に目を細めながら撫でつけるように指を通すと、たしかに何箇所かの毛先が焦げ付いているのがわかった。

 その箇所を見失わないよう視線を注いだまま、毛束を掬う。
 次いで、先ほど取り上げた短刀を片手で回しながらどう処理をするか黙考する。

 ──と、リシャナが不自然な音を立てて喉を鳴らした。

「……もしかして、今私、ものすごいことされようとしてません……?」
「そう思うのなら黙って恵まれた時間に浸っているんだね。当然、後で対価はいただくのだから」
「う……」

 呻き声をこぼしたが、リシャナは緊張した面持ちのまま背筋を伸ばして膝上で両手を握った。
 ようやく大人しくなった部下に何度目かの嘆息をこぼし、ギラヒムはもう一度その髪を梳く。

 そうして彼は、無言のまま部下の髪を切り整え始めた。


 *


「……こんなふうに整えてもらったら、砂漠に行くのが少しだけ憂鬱になっちゃいますね」

 毛先の焦げ付いた部分を切り終え、全体を整えにかかっていた時。微睡みに捉われかけていたリシャナが不意に口を開いた。
 気の抜けた部下の発言に鼻を鳴らし、ギラヒムはその襟足に指を通す。

「お前がどうしてもというのなら置いて行ってあげるよ。健気な主人を危険極まりない戦場に送り出して、一人寂しくここで待っていたいと言うのならね」
「……やです、行きます、行かせてください」

 もはや手慣れたものと言えてしまう天邪鬼の扱い。思った通りの反応が返ってきて呆れ混じりにため息がこぼれる。

 次の戦地が確定したのは今朝方だった。
 巫女の足取りは、意外にもオルディンからそう遠く離れていない地で見つかった。早々に他地方へ発ったと踏んでいたが、魔族の手を逃れた直後、火山のどこかにある聖域で身を潜めていたのだろう。
 そして、その大まかな進路から行き先は広大な砂漠が支配する地──ラネール地方だと推測された。

 しかしその推測は、同時に一つの疑問を生む。

「……なんで、巫女はラネールに向かったんでしょうか」

 主人の思考を準えるように、リシャナの声音がそれを引き継ぐ。巫女の行方について考えた時、至る疑問はやはり同じらしい。

 二つの地で禊を終え、女神の魂は目覚めの時を迎えている。
 そうなれば、女神陣営が次にすべきは魔王様の封印を強固なものにすること。もしくは、その存在を消し去ることだ。

 封印の地は今もなお女神の一族の監視下にある。封印が緩み始めていることはあちらも察しているだろう。
 故に、魔族の手からの逃亡を優先し、長く身を隠すということはしないはず。──ならば、

「いくつかの可能性は想定している。だが、お前はまだ知らなくていい。今は戦場で敵を斬り伏せることだけ考えていろ」
「……、……はい」

 不自然な間があったが、リシャナは短い返答だけを口にした。
 部下の表情に浮かぶものに肩を竦め、ギラヒムはリシャナの横髪を撫でつける。強張った頬に指先が触れればリシャナは小さく身を委ね、ゆっくりと瞼を閉じた。


 *


「おお……」

 数分後。主人の手から解放されたリシャナは自身の毛先をつまみ、腑抜けた顔で腑抜けた声を漏らした。
 その部下の頭を押し潰すように腕を乗せると、それは潰れた呻き声へと変わる。

「このワタシが、わざわざ、手間隙をかけて、整えてあげた髪に、何か文句でも?」
「ち、違いますよ! ……すごく丁寧に切ってもらえて、びっくりしてるだけです」

 主人のされるがままになりながらも、リシャナの大きく開いた瞳は心からの感嘆に震えている。
 最低限頭が潰されないよう抵抗し、リシャナは自身の髪を梳いてその唇を綻ばせた。

「あと、ずっと頭撫でてもらってたので幸せでした。タナボタってやつです」
「三日前にあれだけの啖呵を切ったというのに、随分能天気に甘えてくるものだね」
「……改めてその件言われると恥ずかしいんですけど……、……いつだって甘えられるなら甘えてたいですよ、私は」

 そうわかりやすく眉をひそめたリシャナを引き寄せ、ギラヒムはその体を膝の上に乗せる。
 そのままその首元に指を這わせ、塞がり始めた傷の感触を確かめる。

 オルディンからの帰還後のリシャナの行動は、ギラヒムが意図したものではなかった。
 というより、封印の地の光景を目の当たりにした直後は、部下の存在ごと頭から抜け落ちていたというのが実際のところだった。

 ──だが、この傷が刻まれた瞬間のリシャナの表情と、流れた赤色は鮮烈なまでにギラヒムの網膜へ焼きついていた。
 自らの行く末を全て主人に委ね、救いの道へ続く選択肢まで断ち切り、いとも容易く命を捧げる存在。

 空から引き摺り落とし、“主従”となり、聖戦の始まりとともに誓いを立てて──リシャナは、その命運ごと主人のためのモノとなりつつある。
 そのこと自体に何ら不満はない。本人がそれを望むなら、主人としてその身を使い果たしてやるまでだ。

 しかし、その一方で、

「マスター」
「……何」
「さすがに首のところずっと撫でられてたら、くすぐったいんですけど……」
「…………。……お前の感度が高すぎるだけだろう。暴れたらこのまま抱いて締めるよ」

 主人からの脅迫にリシャナは身を竦ませ、唇を噛んで柔らかな刺激を堪えようとする。
 それを見下ろしながら、ギラヒムは奥底で燻る予感の存在を感じていた。

 ──何故、巫女はラネールに向かったのか。
 先ほど部下が口にした疑問を胸中で反芻する。

 “いくつかの可能性”と濁しはしたが、既に確信に近い一つの推測は持っていた。それをリシャナに言って聞かせなかったのは面倒だったからという理由ではない。 
 もし、推測通りに巫女が動くとしたら。それはあまりにも現実味がなく、極めてリスクが高く、無謀な行動であるからだ。

 けれど万が一、目覚めた巫女──女神の転生体がそれを成せてしまえたとするならば。

「────」

 そこで束の間の思考を断ち切る。そのまま目先の部下の頭に自身の顎を載せ、膝元に散らばる切ったばかりの髪を見遣った。

 考えても仕方のないことだ。魔族がすべきは女神の兵隊を斬り伏せ、生贄である巫女を捕まえること。それに変わりはない。
 胸奥を疼かせる“可能性”も、戦地に赴き巫女と対峙をすれば、必ず答えは出るのだから。

「……マスター?」
「…………何」
「……何でも、ないです」

 なんらかの気配を感じたのか、リシャナはそれだけを呟き、思案げな面持ちで唇を結んだ。
 その表情に問いかけを向けることはなく、ギラヒムは部下の後頭部に頬を寄せる。

 緩みつつある封印。予定よりも早い巫女の目覚め。そして火山で過去の片鱗を見せた『勇者』。
 我々は既に、逆らえぬ運命の奔流に乗せられている。たどり着く果てすら定められているかもしれない、無慈悲で残酷な道筋を。

 その道を進む過程でどんな感情を持とうと、何が待ち受けようと、我々は進み続けなければならない。待ち望む結果だけが、自身の存在を証明できる手段。だから、最善の未来のために剣を振るい続ける。


 ──誰にとっても、『時』は戻れないものでしかないはずなのだから。