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make your garden grow_8.主



 悠久の時を氷の壁に阻まれていたその場所に、幾千年ぶりの光が外から差し込んでいた。

 少女が命懸けで歩いた白の世界には再び雪と風が吹き荒れ始めている。
 その内部で、水龍は女神から与えられた魔力と己の魔力の両方を注いで急ぎ封印の修復を図っていた。

 ……人の身でこの世界を歩き切っただけでなく、まさかここまで封印を破壊するとは。
 何の力も持たないはずの少女。その奥に潜む狂気じみた執念を思い、龍の双眸が歪む。
 予想以上に封印の損傷は激しく、修復には多少の時間が必要となる。その間に魔族長は取り逃がすこととなるだろうが、やむを得なかった。

 いずれにせよここで修復と安定を同時に済ませれば、此度の争いも終幕になるはずだ。水龍は胸中に警戒心を抱きながらも薄い安堵を滲ませた。

 ──その瞬間だった。

「──!?」

 耳を劈き、巨大なガラスを粉々に砕くような破壊音が白の世界に響き渡った。
 龍は瞠目し、すぐさま背後へと振り返る。

 目にしたのは、外からの逆光に照らされながら細かな氷の破片を踏みしめ、氷柱の中へと足を踏み入れる人影。

 そこに立っていたのは──大剣を手にし、全身に黒い亀裂を刻んだ魔族の長だった。


 *


「────」

 四肢と左頬。魔力を解放したことにより新たな亀裂が体に走った。
 加え、龍の氷槍が胸に刻んだ裂傷。通常、力を使い本体をさらけ出したとしても痛みは感じないはずなのに、今は焼け付くような傷の存在が全身を侵している。その上、魔の者を拒絶するこの場所は、リシャナが言っていた通り呼吸をすることもままならない。

 全ての条件が悪く、勝算のない戦場。だが、足を止めることはしなかった。
 手にした大剣は残った魔力を削り生み出したもの。鋼を握る手のひらだけが、熱い。

 進む先で待つ水龍は、黒い眼を見開いて低く唸る。

「……拾った命を自ら捨てに来るとは」

 静かな吃驚を見せ、龍は再び氷槍を生成して構えた。
 その表情は敵意に満ちているものの、決着の機会を得たという淡い僥倖が浮かんでいる。ワタシが血迷ったとでも思っているのだろう。
 それに対し嘲笑うことも無ければ虚勢を張ることもしない。返すのは、ただ冷えきった視線のみ。

「……捨てはしない」

 龍の目が細められる。低く落としたその一言で、そこには再び警戒が宿った。

「奪い返すだけだ。生きる理由と死ぬ理由、その全てを」

 ここに立つ理由を口にする。
 大剣を両手に、自身の命そのものを結晶化した刀身を掲げて。
 氷結したこの地における、最後の戦いの幕を下ろすために。

「──我が主へ、捧げるためにッ!!」


 地を蹴り、剣を振り上げ、うなる風が切り裂かれた。

 自重と踏み出した勢いを全て乗せて振り下ろされた刃は、甲高い金属音を響かせ氷槍に受け止められる。
 その剣戟の応酬は続く連撃の始まりに過ぎない。

 互いの命を切り裂くための白刃と黒刃が交わされ、弾かれ、閃く。氷槍が空を穿てば最小限の動きでそれを躱し、即座に間合いを詰めて剣を振るう。
 競り合う氷と鋼の強度は互角。拮抗した力に押し負けるか、一瞬でも隙を見せた方の生命が即座に断たれる。

 刃が退けられれば今度はその隙を縫って無数の氷弾が追い打ちを仕掛けてくる。それを認識すると同時に迎撃の短刀を召喚し全てを打ち砕く。氷弾が身を裂かずとも、魔力使用により傷が熱く存在を主張するが構うことはない。

 剣閃が走るたび、迎撃の粉砕音が響くたびに戦場に散らされるのは血と、氷と、命。
 それがどちらのもので、何故どうやって撒かれたのか。そこに興味を持つ者はいなかった。

「──ッ!!」

 何度も斬撃を与えながら、剣を振るいながら。
 自分が今鋼を打ち付けているのは氷でも龍の武器でもなく──長い長い時、願うことを阻んできた首枷そのものなのだと思った。

 だから、願うために。舞い、剣撃を繰り返し、命を削る。
 刺突する刃から身を翻し、避けきれなかった肌へ新たな傷が刻まれる。それを無視し、龍の腹を抉るように剣先を貫く。

「──ッァア!!」

 喊声。咆哮。唸り声。吠え猛るその声がどれに当てはまるのかわからない。
 少なくとも剣を振るって命を奪うために上げた声は美しさとは全く無縁のように思えて──それを美しいと称した少女の声音が頭の片隅で確かに残っている。

 弧を描いた大振りの刃は閃音を鳴らし、乱れのない軌跡と共に振り下ろされる。その太刀筋は一つで終わらない。何度も何度も走らせて、氷を砕く。そして、

「!!」

 一際大きく、高く響いた粉砕音。
 龍が息を呑んだと同時に、氷槍の柄と大剣の刀身──その双方がひび割れ、無限に煌めきを見せながら砕け散る。
 氷を砕いた大剣の一閃はそこまでで留まらず、一拍置いて龍の胸部からは鮮血が散った。

 それを後目に見遣り、地に足をついた、瞬間。

「──ッ、ぁ」

 背後から、肩と腕を断裂するような衝撃が襲いかかった。……何かに、肩を貫かれた。
 思考を強制停止させられる程の苦痛に神経が刈り取られ、その場に崩れ落ちてしまいそうになる。が、倒れ伏す前に踏みとどまり、痛みに叫び声を上げそうになる衝動を抑え付けた。

「っぐ、ぅ……」

 片手を伸ばして肩に深々と突き刺さった刃を引き抜くと、その正体は認識の範囲外で召喚されていた鋭利な氷弾。
 それを手で握りつぶし、歪んだ視線を持ち上げる。
 深く刻まれた傷に喘いでいるのは対峙する龍も同じだった。

「魔族めが……無駄な、足掻きを……」

 口から血の泡を吹きながら、水龍は自らの力を使って傷口を氷で塞ぐ。その様を目にし、見た目ほど攻撃が効いていないことを理解する。
 やはり女神が従える三龍の肉体は生身の動物とも精霊とも違うらしい。消耗戦での勝ち目は無く、再生が間に合わない程の一撃を与えなければ奴を屈服させることは不可能だ。

「ここまでの悪あがきは認めてやろうぞ。だが、これにて終焉じゃ。ボロ切れとなったその体で何が出来よう……!」
「……チッ」

 負傷した腕。折れた大剣。そして、龍の手の中に生成される新たな氷槍。龍の言葉通り、こちらの敗北を決定づける要因はこれ以上ない程に出揃っている。
 新たに大剣を召喚したところで先程と同じ剣圧をかけることはもはや不可能だ。扱いきれない刃は自身の首を斬ることにも繋がる。
 その一方で、鋼を持たなければあの槍の攻勢は防げない。……否、龍を仕留められない。

「…………」

 抗う意志を示しながらも視線を龍の元からわずかに逸らして、刹那その背後へと注ぐ。
 雪と風がつくる白く分厚い幕。その先に閉ざされた封印の中心。
 今まで遠く彼方にしか感じられなかった気配が──あの方の魔力が、そこにある。あと少しで、手が届く場所にある。

 そう実感を得た時だった。

「──?」

 白の幕から少し距離を置き、細身の何かが薄雪を纏って地に横たわっていることに気が付いた。龍に悟られないよう、それが何なのか視認し、

「…………フ、」

 次にこぼれたのは、あまりにも場違いな笑み。ほんの数瞬、龍の目には見えず自身の耳にすら届かないほど小さな笑みだった。
 意味するところは自嘲ではない。それは、こんな場所にまであの狂った部下が命を使った痕跡が残っていることに対する苦笑だった。

「────」

 数秒瞑目し、腕に抱いた部下の温度を思い出す。

 幸せになれ、なんて。
 永遠に生き足掻けと言っているようなものじゃないか。

 部下のくせに主人にそんなことを強いるなんて、やはり生意気だ。

 生意気で。狂っていて。

 わからせてやりたくなる。


「──馬鹿部下め」

 口に馴染んだ罵りと共に、瞼を開く。その目で龍の姿を捉えながら指を鳴らし、頭上に現れたのは膨大な数の短刀。
 複数の層となり龍へ切っ先を向けるそれらは、今残っている魔力で召喚できる最大数のものだった。

「ハッ!!」

 短い呼吸音と共に刃は豪雨となって、龍へ降り注ぐ。しかし龍が氷槍を一振りすればそれは呆気なく吹き飛ばされた。
 それでも構うことはない。跳ね除けられたのならその分新たな刃を飛ばす。突き刺す。穿つ。
 龍の身に届くものが召喚した刃の一割に満たずともやめはしない。時が来るまでは。

「たわけめがァッ!!」

 龍が怒りに満ちた声を上げ、氷槍を横へ薙ぎ払う。巻き起こされる風圧に放たれていない短刀までもが一掃され、龍への攻勢は完全に絶たれた。次なる弾幕が召喚されることはない。

「!?」

 しかし刃を散らした龍が再び獲物を目で捉えようとした時、その姿は元の場所になかった。
 視線を巡らせればすぐに見つかる。封印を覆う吹雪の渦がつくる幕、その側だ。

「逃がさぬ!!」

 水龍の視界から何秒獲物が見失われようと結果は同じ。即座に追いつき、氷槍の餌食となる。
 龍は氷槍を片手に一秒も経たせず距離を詰め、その身を両断すべく刃を振り下ろす。獲物、すなわち武器の全てを失い、隙を見せた魔族長へと。

「!!」

 そして、振り下ろされた氷槍は──その手に無かったはずの黒い刃に、受け止められた。

 白の幕から距離を置いた地面。
 ワタシが見つけたのは、持ち手が血に濡れた細身の魔剣だった。
 それはおそらく、部下が氷の封印を壊した直後に手から離れて落ちていたものだ。

 部下の身体に合わせられた細く軽い刀身は、間一髪氷の刃を受け止めはしたものの、重圧は全て柄を持つ腕にのし掛かってくる。黒の刃は小さく悲鳴をあげ、今にも折れてしまいそうだ。

 だが依然優勢であるはずの龍の表情には驚きが走っていた。それは攻撃を止められたことに対してではなく、この細い魔剣でワタシが対抗しようとしていることに対してだ。

「往生際の悪いことよ……! 抗えば抗うほど、地獄の門は大きく開かれるというのにッ!」

 怨言を吐き捨て、龍の剣撃は体ごと地を抉るように斬り下される。地面に残る爪痕はその言葉を体現しているかのように深い。一撃でも食らえば体は二つに切り離されるだろう。
 故に襲いかかる剣撃の最も負荷がかかる箇所を見切り、そこへ刃を走らせて受け止める。それがわずかにでも逸れてしまったのなら、この細身の剣は重圧に負けて弾き飛ばされてしまう。
 ──それでも、龍に一瞬でも隙が出来たなら。

「──!!」

 その刹那、呼吸が止まった。氷槍の一挙一動を捉えて離さなかった目が、見開かれる。
 繰り返し防がれる追撃。動かぬ戦況を文字通り突き動かすために、龍が氷槍を一度引いて構え直した。
 無論、時間にしてみればほんの一瞬のこと。どのように防ごうが、次の一振りでこの魔剣は必ず折られてしまう。その動作は龍が取り得る最善手だったと言えるだろう。

 そう理解していたからこそ──ワタシは先に動くことが出来た。

「────ッ!」

 止まっていた呼吸が、再開する。
 それは龍が見せた一瞬の間隙を縫い、その背後へと切り抜けた自身のものであり、

「──ご、ぁ」

 ワタシが背後へ抜けたと同時に、その腹へ深々と魔剣を突き刺された龍のものでもあった。

 青い鱗と白い地面が鮮血で濡れ、憎悪を孕んだ黒目がこちらへ振り向く。
 大気を揺るがす程の憤怒を向けられるものの、細身の魔剣が貫き与えた傷は、大剣の剣撃に比べれば浅いものにすぎない。
 龍はすぐさま小さな魔剣の柄を手に取って引き抜こうとし、違和感に気づく。

「貴様……!!」

 龍の腹部に突き刺さる魔剣は、龍がどんなに力を加えても引き抜くことが出来なかった。
 深く打ち込まれた杭のように、何をしても動かない。
 その魔剣に結ばれた──血の色をした魔力の糸が、ワタシの片手と繋がり引き抜くことを阻止していたからだ。

「終わりにしよう。水龍フィローネ」

 龍への宣告と共に魔剣に込めた魔力が鳴く。
 その姿に背を向けながら、視線だけを寄越し空いた片手を持ち上げた。

「呪われた氷の地は崩れ落ちる。我らの妄執の結実として」

 あの魔剣を振るった部下と主人の盲目的な執念が、龍を縛って逃さない。
 ──願いを叶えることを、諦めてやらない。

「黒き鋼の存在を、その眼に刻み付けるがいい」

 指を弾く。龍の腹部に突き刺さる部下の魔剣を道標に、残された全ての魔力が渦巻く。
 黒の火花が散り、赤色の糸が震え、空気が鳴動し、

 そして、

「──ッッ!!!」

 ──召喚された巨大な黒刃が、龍の胴体を真っ二つに貫いた。


 魔力で形作られた刃は龍の肉体を物理的に分かつことはしない。貫かれたのはその体を強化していた女神の魔力だ。それは黒き刃によって完全に引き裂かれ、龍にとっての致命傷となった。
 魔力の供給が途絶えたことを表すかのように氷槍は細かな粒となって砕け散り、龍の巨躯は白き大地へと倒れ伏した。

「────」

 その身の元へ近づく。地に堕ちた龍の傍らには最後の瞬間に引き抜かれたであろう細身の魔剣が落ちていて、ゆっくりとそれを拾い上げる。
 やがてその側に立てば、龍の恨めしげな視線が自身を睨め上げた。

「魔族、などに……!」

 憎悪に塗れた呻き声を上げながら、地に爪を立てて龍は起き上がろうとする。力を失った身でも、存在に刻まれた役割を果たそうと足掻いているのだ。
 ワタシはその姿を見下ろしながら、視線を歪める。そうして一度吐息をこぼし、

「引き際を誤るな、水龍フィローネ」
「……!」

 手にした魔剣を、頭部へと掲げた。
 黒の眼は突きつけられた刃を映し、やがてこちらへ向けられる。

「次に我らの崇高なる存在へ手を出してみろ」

 交差した視線に対し、ワタシは殺気を孕んだ声を落として、

「その首を掻き切って、供物として捧げてやる」

 長としての警告と共に──長年に渡る戦いの幕引きを告げた。

 龍は大きく顔を歪める。だが数秒憎々しげに牙を見せた後、全身を水に包み、その中へ溶けるように消えていった。


「────」

 そうして、白の世界から支配者が去った。
 戦いが終わり、訪れるのは静寂ではなく崩壊の足音。空間を維持する魔力が途絶えたことにより、氷の世界は終焉を迎える。

 ワタシは真っ白な天を仰いだまま、立ち尽くしていた。
 天上を覆う分厚い氷には亀裂が走り、巨大な破片が地へ落ちる。崩壊する世界にこのままいて、無事で済むのか否かはわからない。
 いずれにせよ、魔力も体力も尽きた状態でここから逃げ出すことは不可能だ。……だったら、あの方の魔力を感じられる場所に一秒でも長くいたかった。

 白の世界は外から差し込む光に引き裂かれるように焼き切れていく。
 視界の全てが明転して、感覚の全てが呑み込まれていく。

 ゆっくりと瞼を下ろして、その身に残るのは、


 長い長い時、求め続けていた存在のもとにようやくたどり着けたという、幸福感に満たされた安息だけだった。


 *

 *

 *


『──忘れるな』

 ……声。
 懐かしい、声だ。

『忘れるな』

 ずっと、聞きたかった。
 ずっと、聞いていたかった。

 ずっと、耳の奥で響いていた声だった。

『忘れるな』

 同時にそれは、続きを耳にしたくない声でもあった。
 これが自身の奥底に残り、再生された声音だとわかっているからだ。 

『忘れるな』

 耳にしたのは、気が遠くなるほど昔。
 あの時も今と同じように、全てを焼き切る光の洪水の中だった。

 その声は自身がそう理解するのを待っていたのか、数秒間を置く。
 やがて紡がれたのは一段低くなった音色の、

 耳を塞ぐことを赦さない、命令だった。

『──我の憎悪を忘れるな』

 忘れていない。一時も、一瞬も。
 自身の生が、その憎悪が確かに存在していたという証左なのだから。

『我の野望を忘れるな』

 忘れていない。何百年も、何千年も。
 希望であり呪いであるその言葉。それを耳にした瞬間も。守るべき存在と自身の繋がりが絶たれた感触も。

 その言葉を魂に刻まなければならないという使命感と、絶望を自覚させる言葉を聞きたくないという拒絶心に頭をかき混ぜられながら。
 自分の意志とは関係なく声が続けられる。

 ──そのはず、だった。

『──お前が──なら、』

 その声はどういうわけか、一気に遠のき何を伝えているのか聞こえなくなってしまった。
 それは間違いなく自身に向けられたものなのに、意図的に言葉を掻き消すように途切れ途切れにしか届かなくて。

『お前が──で──なら、』

 聞こえない。
 聞くべきなのに、聞こえない。
 聞いていたかったのに、聞こえない。

 声が、命令が、聞こえない。

『我が──を──まで、お前は──』

 聞きたくないと、一度でも思ってしまった罰なのだろうか。
 心を無にして、ただただその声に耳を傾けなかった罰なのだろうか。

 もしそうなのだとしたら。
 それを聞くことが出来るのは……もう一度その姿を見られた時なのだろうか。

 それなら、そうであるなら。

 その声を再び聞く時まで、抗い続ける。足掻き続ける。生き続ける。

 だから、

『──に、────な』

 再び会えることを、いつまでも願っている。

 願い続けている。

 貴方の助けになれる──その日まで。


 *

 *

 *


 最初に感じたのは、耳を撫でる暖かな風の温度だった。次いで足の裏に感じるざらついた地の感触と、遠くでざわめく木々の音。体の至る所で疼く痛み。
 そして最後に、目の前の光景に焦点が合った。

「────」

 自身が立ち尽くしていたのは、仄かに明るくなった世界だった。
 高く聳え立つ氷柱も、岩壁や地面に薄く張った氷も、そこには無い。降り積もった雪は身を寄せるように視界の片隅に残っているものの、天から注ぐ光に照らされて少しずつ溶け始めている。

 自身の立つ場所──つまり封印の地、螺旋の最下層は空から差す淡い光に照らされていて。

 その中心にはたった一つ、古びた石柱が佇んでいた。

「────」

 小さい。──それはあまりにも、小さな杭だった。

 長年風雨に曝され、柱の表面は朽ち果て黒ずんでいる。触れれば容易く崩れてしまうだろうし、衝撃を加えたなら簡単に折れてしまいそうだ。
 だが、そうしたところでその下に眠る魂は解放されないのだろう。そのことは杭の周囲に造り出された圧倒的な無の空気が伝えていた。

 ワタシはそれを目にしたまま触れることも、ましてや近づくことすらも出来ず、唇を噛む。

 こんなにも古びていて、脆く砕けそうな石柱が。こんなにも小さく何の変哲も無い杭が。
 目にした光景はずっと求めていたはずのものなのに。胸の内を満たすのはその感情を上書きするような不条理と、後悔で。

 ──それでも、

「…………ぁ、」

 目の前の古びた杭に、ふと一筋の光が差した。
 白く濁っていた雪の雲が晴れ、森に暖かな空気が戻ってきたのだ。

 天上を覆う雲はその姿を変えてはくれない。しかし永年氷結した空気に覆われていたこの地に差す雪解けの陽光は、目の前の存在を一際明るく照らす。

 たったそれだけなのに。まだ始まりに過ぎないのに。身勝手な祝福の念を、抱かずにはいられなくて。

 震える唇は、ずっと口にしたかったその言葉を紡ぐ。


「──マスター」


 長い長い時を経て。
 ワタシはようやく、その敬称を口にした。

 そこにその存在があるという安息に満たされながら。万感の想いに全身を支配されながら。
 無意識に握り締めていた手を、緩く解く。唇を結び直し、背筋を伸ばして胸に片手を添える。

 そのままゆっくりと頭を下げ、目の前の主へ、今も変わらぬ忠誠を示した。


 低頭して伏せられたその表情は、誰の目にも──主の目にすら、映されることはなかった。