series


make your garden grow_7.命の使い方



 三度目の雪が、降り始めていた。

 吹き荒れていたはずの風はいつのまにか止んでいて、ただ雪だけが全ての音を呑み込む静かな時間が訪れていた。
 この安穏とした静寂は龍が去ったせいなのか、もしくは神から最期の時とやらを与えられているのか。いずれにせよ、残された時間はそう長くはない。

「────」

 抱えた部下の横顔を目に映す。封印の外に出て多少凍結の進行は緩やかになっているものの、数分命が延びただけにすぎない。
 眠りにつく前の虚ろな表情は今まで何度も目にしたことがあるものだ。しかしそれももう見ることがないのだと思えば、形容しがたい感慨に今更捉われる。

 加え、同時に抱くのは……存外、ほんの数瞬の時間だったという何とも呆気ない実感だ。
 女神の血を持った存在を失うのは惜しいが、これを使った二年間で随分各地の封印も壊すことが出来た。徒労に終わった訳ではない、と言えるだろう。

 ふわりと雪が舞って、リシャナの頬に落ちる。微かに温もりの残るそこで、それは小さな水滴となった。

「……ここまでのようだ、リシャナ」

 教え示すように呼びかければ、彼女の瞼が薄く開かれる。その表情に驚きはなく、ぼんやりと主人の声に耳を傾けていた。

 そう、無駄ではなかった。むしろ充分役には立った。
 しかし──失う命の数だけ無為な時間が刻まれたという空虚な諦念は、胸中に居座り続けている。

 部下や同族の命が消える瞬間は、失敗と絶望の軌跡そのものだ。
 何度も命が去っていく。弔いなんて高潔な行為は出来もしない。特に人間なんて、精霊に比べあまりにも短すぎる寿命しか持ち得ない。こうなることは最初からわかっていたのだ。

 ……だからこそ、だ。
 こんなに脆くて弱い身であの封印の中心にまでたどり着けたご褒美くらいは、くれてやってもいいと思った。

「願いを、聞いてあげるよ」

 一つ告げるとリシャナの睫毛が小さく揺れ、朧気な光を宿した目がこちらに向けられた。
 そして戸惑うように唇が震え、声を絞り出す。

「……おねがい、ですか?」
「ああ、そうだ」

 笑みと共に問いに対する肯定を与えても、彼女の困惑が晴れることはなかった。
 疑問の声すら出せずその意味を飲み込めていない双眸を見遣りながら、言い聞かせるように告げる。

「お前が最期に残したい言葉を聞いてあげる」

 小さく、息を呑む音がした。
 そのまま彼女の理解を促すべく言葉を続ける。

「何だって構わない。言葉を残したいのなら聞いてあげる。願いか望みを残すなら、叶うように尽くしてあげる。……たとえば、」

 口を噤んだままのリシャナの耳へ、唇を近づけ声を注ぐ。……慈愛を与えられているのだと、こいつが思い込むような音色で。

「かつてお前を虐げた空の世界の住人を皆殺しにしたいのならそうしてやる。逆に一人を生かしたいというのなら生かしてやる。もしくは魔族……ワタシへの呪詛でも、聞いてあげよう」
「────、」

 そこまでを伝えリシャナの顔を見据えると、ようやくその意味を理解したのか彼女の目が見開かれていた。だが、強張った表情はこんなことを聞かれる理由がまだわからないと告げている。
 ……無理もないことだ。最期の言葉を自ら部下へ促したことに、自身ですら驚いているのだから。

 死に往く部下の最期の言葉を聞かされること自体は、これまで何度もあった。
 大抵は死を悟った部下の方から勝手に言葉は紡がれる。痛みに喘ぎながら潰れた喉を震わせて、生ある限り演説のように自己を語るのだ。

 ──『死にたくない』『魔族に栄光あれ』『我が一族に永遠の安寧を』『私の愛をどうか忘れないで』『憎い』『我が名を刻んでくれ』『愛していたのに』『無意味な世界に終焉を』『許さない』『愛を』『栄光を』『赦さない』『名誉を』『ユルサナイ』──と。
 滂沱の感情を吐いて、捨てて、遺していく。

 死という逃れられない運命に直面した時、誰もが生きた痕跡を残すため足掻こうとするらしい。それほどに自身の生が無価値だと称されることは、耐えがたい恐怖なのだろう。
 そうして地位や名誉を願う者も、呪いを吐き捨てる者も、尽きぬ愛を嘯く者も、運命を嘆きこの世の全てを恨んだ者も……最期には物言わぬ屍となった。

 こいつが迎える結末も、今まで失った者と同じだ。だから言葉を紡がせ、安息を抱かせながら、眠らせる。
 命懸けでここまでのことをしてみせた人間へ与える対価としては、妥当だろう。

「望みでも、願いでも、呪いでも。残したいものを残せばいい。……最後のご褒美なのだから」

 そして、その言葉を聞いてこいつの命が尽きた後にワタシ自身がすべきことも──きっと、いつもと変わらないはずなのだから。
 何度も繰り返した、死に往く部下を見送る儀式と何ら変わらない。

 同じ轍を、また踏んでいくだけだ。

「願え。──リシャナ」

 冷たい体を抱え直して。もう一度だけ、そう命じた。

 リシャナは唇を開きかけて、途中でそれをやめる。雪が落ちた頬を手のひらで撫でてやれば、そこから熱が奪われ始めているのがわかった。
 束の間視線を彷徨わせた後、彼女の目は何かを受け止めたかのように伏せられる。

 ……紡がれるのは自身をこんな運命に貶めた女神への憎悪か、自由を奪い身も心も蔑ろにした魔族への怨嗟か、あるいは盲目的に狂った結末としての愛か。予想を立てながら、その時を待つ。

 数秒、瞼を閉じたまま音にせず何度か息を吸い、リシャナは小さく唇を震わせた。

「それ、なら……」

 か細く声を鳴らし再び彼女の目は開かれ、瞳の中に主人の姿が映る。結んだ唇は緩やかに解ける。
 やがて、迷いのない微笑と濁りのない眼差しをたたえて……彼女は、願った。


「──しあわせに、なってください」


「…………は?」


 ただ、それだけを願った。


 *


「なに、を……」

 訳が、わからない。
 こいつは今、何と言ったのか。 何を望んだのか。何を……願ったのか。

「貴方に、幸せになってほしいです。おねがいは……それがいいです」

 脳内を占める疑問に答えるようにリシャナはもう一度告げる。穏やかに繰り返された声音は、消えそうながらも毅然としたものだった。

 だが、何度同じ事を言われてもこいつの言葉の意味を理解することは出来ない。
 何故、今そんなことを願う。自身の生が尽きようとしている時に。自身の命が他人の手によって消費されようとしている瞬間に。
 目の前の少女が自身の最期を悟っていないとは到底思えない。自分がもうじき死ぬことくらい、こいつにもわかっているはずだ。
 そこまで理解しているからこそ、こいつが何を言っているのか……わからない。

「こんな時に嘘を……いや、戯言を言って……どうなる」
「……嘘でも、戯言でもないです」

 喘ぐように口からこぼれる困惑を、リシャナは弱々しくも鮮明な声音で否定する。
 彼女の網膜には明らかな動揺を見せる自身がいて、その目で柔らかな視線を彼女は返す。

「魔王様の幸福を願う貴方を見て……私も貴方の幸せを願いたいって、そう思ったんです」

 普段と変わらない、得意げにも見える笑顔を浮かべながら。「順番通り、ですよね」とリシャナが付け加える。
 それに対してこちらが笑うことなど出来ない。湧き上がるのはさらなる戸惑いと──苛立ちだ。

「ふざけるな……馬鹿に、しているのか……」

 何も信じられない。戯言だと一蹴して、耳を塞いでしまいたい。尽きようとしている時間の中で、その願いの理解などあまりに無駄なことだとわかっている。
 わかっているのに……止められない。

「お前はもう、死ぬんだよ。死ねば何も残らない。お前のその願いは……無意味だ」

 全てを否定してしまいたい。どれだけ馬鹿なことを嘯いているのかこいつに思い知らせたい。その目で、その口で、呪いでも吐き捨てられたなら……いっそ楽だったのに。

「そうして……献身を示す言葉を吐けば、ワタシの記憶に刻まれるとでも思ったのか? お前が生きた爪痕を残せるとでも、思ったか?」

 深い愛を口にすれば、尽きぬ忠誠を示せば、自身の存在が主人の中に残ると思っているのなら。それごと踏みにじってしまいたかった。
 その行為の虚しさは──誰よりも長い間それをして、今も声すら返らぬ空虚な忠誠を掲げ続けている自分が誰よりも知っている。

「だとしたらそれは無駄な努力だ。お前がそう願ったところで絶対に報われはしない。何も返されない。何も、得られない」

 双眸を歪めて、ようやく嘲りの笑みが浮かぶ。
 そうだ。笑って、妄言など聞き流して、そうしてわからせてやればいい。

 冷え切った感情を宿した目でリシャナと視線を重ねる。びくりと身を竦めた姿を見下ろしたまま、怨言じみた言葉を彼女へと吐き捨てる。

「──剣の精霊は、主のための存在でしかない」

 低い声で紡いだのは、自分という存在の真理。

「この身も心も、全ては魔王様のためのものだ」

 渇いた声で続けたのは、自分という存在の意味。

「だから今まで失った部下に、同族に! 悲しみも同情も何も抱いてこなかった! 積もるのは虚しさだけだ! どれだけ役に立ったとしても、いくら命を使ったとしても、結局あの場所に手が届かなければ……全部意味の無いものにしかならない!!」

 どれだけ死体を重ねても願いに手が届くことはなかった。朽ちた死体は腐っていき、いつしかそれが何だったのかすら思い出せない汚れとなって、消えていった。
 長い命を持つ精霊は百を、千を超える死を見送り続けなければならない。その死生の差を超え永遠に残る想いなど、存在しなかった。……何故なら、

「そうして使った命のことを……ワタシがどうしてきたか、教えてあげるよ」

 皮肉を込めた笑みを向け、リシャナの双眸を覗き込む。小さく怯え震える瞳を逃してやらずに、囁いてやる。愚かな考えナシに、“本当のこと”を。

「──全部、忘れてきた」

 雪に埋もれた屍も、氷に閉じ込められた魂も。これまで主の復活を求める戦いの中で散った命の全てを。残された最期の言葉と共に……忘れてきた。

「最期の言葉は吐き捨てられた瞬間にそいつの自尊心だけを満たして……やがて消える。何も残らない。誰の記憶にも、刻まれない」

 何日も、何ヶ月も、何年も、何百年も、何千年も。一つの存在を求める過程で費やした命を全て覚えていられるはずがない。降った雪が万物を埋め尽くすように。傷跡が薄れていくように。記憶も想いも何もかも、消えていく。

 そうして余計なものを捨て続けて、一つの目的のためだけに生きる存在にならなければ。悲願を叶えるための永遠の砂漠を生き抜くことなど到底出来なかった。
 そのことに気づいてから、部下から遺される死に際の言葉を聞くことは──忘れるための儀式となった。

「お前は最期まで愚かだったね、リシャナ。復讐でも愛でも、お前にとって都合の良い言葉を残せば。何も知らずに、何も聞かずに、安らかに終わることが出来たのにね……?」
「────、」
「だがお前はそれを願わなかった。無駄な願いを口にした。お前が何を望もうと、たとえ命すら使ったとしても、ワタシはお前を忘れる。……絶対に」

 それが、主のためにしか生きられない剣の精霊の末路だ。

 主に絶対を誓いその身を捧げることを至上命題としている存在は、主以外を想うことなどあり得ない。……あっては、ならない。
 それがこの存在の生きる意味だからだ。その生き方を裏切ることは、自身の全てを否定することに他ならない。

「願える訳がないッ! 何の対価も得られないというのに! お前が報われることなどないのに! お前の命も、願いも、全て無に帰すしかないというのにッ!!」

 主のための存在は、主以外を愛さない。尽きぬ忠誠だけを抱えて生きていく。
 それで良い。永遠の所有物なんて、なくていい。

 目的のために使い果たした哀れな命の存在など、最初から無かったと思い込んで。
 ──そうすれば結局、自分のモノなど残らなかったと納得出来るのだから。

「そんな願いは後悔しか生まない……! 絶対にお前は、ワタシを! この瞬間を! 今ここで願ったことを! 永遠に呪うことになるんだッ!!」

 リシャナは唇を噛んだまま、悲しげに瞳を曇らせていた。そこに差した影が何に対するものなのかはわからない。その目はふと、力が抜けたかのように伏せられる。
 こいつの頭の中は、失望に満たされているだろうか。自身の生への虚無感が溢れているだろうか。深い深い絶望の渦に堕ちているだろうか。

 ……それでいい。
 そうして押し黙ったまま、自分の願いがどんなに無意味なものか理解して。後は呪いの言葉だけを喚いて、投げ捨てて、終わればいい。

 それで終わりだ。

 それで終わるはずだった──のに。

「──貴方が、」

「────」

 リシャナの唇は静かに震えて、

「いつか幸せになれたなら、」

 顔を上げて、視線を注いで、はっきりとした声音で。

「私がここで死んで、貴方に忘れられたとしても。そう願ったことは、絶対に後悔しません」

 ──願うことを、やめはしなかった。


 これだけの言葉を浴びせたというのに。何もかも否定したのに。それでも、リシャナの答えは何も変わらない。変えようとしない。
 その声音は、今までこいつを従えてきた時間の中で聞いたことがないほどに揺るぎなく響いた。

「……意味が、わからない……」

 全てを包み隠さずぶつけた怨嗟。それに返された現実味のない答え。
 狂っているとしか思えない、狂っていると思いたい。こいつの意志に、呆気に取られながら無理解を示す言葉しか紡げなかった。

「そんなことに命を使って、何になる……!? お前がそう願っても得られるものはない! 愛されることすらない!! 全て無に帰すだけなのに……!」

 脆弱な体とわずかな寿命しか持たない人間が。誰かのために何の見返りもなく命を費やして死ぬことなんて、出来るはずがないのに。

 それでも、続かなかったその言葉すら聞こえているかのようにリシャナは再び笑う。
 嘲笑でも、苦笑でもない。死の淵に立たされた者とは思えないほど自然に。人差し指を唇にあてて……屈託なく、笑う。

「女の子は、“そんなこと”にだって命を懸けられるんですよ」

 普段主人に生意気な態度を取る時と同じように、悪戯な表情を見せて。
 その手は緩く握られて、透き通った眼差しが改めて真っ直ぐに向けられる。そして、

「そう願う理由をくれたのは、貴方です。ギラヒム様」
「──!」

 心からそうだと信じて疑わない声音で、名を呼んだ。
 言葉に詰まる主人へ柔らかく笑いかけ、彼女は一度視線を逸らす。そこに怯えの影はもう無くて、胸奥で大切に仕舞われた記憶を眺めるような慈しみが滲んでいる。

「私が空から落ちて初めて見た景色も、名前も、感情も」

 彼女の脳裏に映るのは、空からその身を引き摺り下ろされ、分厚い雲を抜けて目にした世界。

「何もなかった私が生きて、戦おうと思った理由も」

 彼女の仄かに赤く染まる耳に聞こえているのは、命を捧げる存在に出会い初めて説かれた生存理由。

「──誰かの助けになるために生きる、美しさも」

 彼女の心にいるのは、彼女の主人である自身だけ。

「全部、全部。貴方が……くれたんです」

 既に限界を迎えたはずの体を起こし、リシャナが両手を伸ばす。
 その指先が辿り着いたのは主人の右耳。柔らかな感触が伝って、淡い温かさが纏う。拒否感は全く抱かない。

「たった、二年。私にとっても……当然、貴方にとっても。すごくすごく短くて、未来には価値なんて残らない時間だったかもしれません」

 穏やかに紡がれる言葉を聞きながら、耳にほんの一瞬だけひやりとした感触が走る。その手に握られているのが彼女に持たせていた青色の石だとすぐに気付いて、冷たさは再び指の熱に温められ霧散する。

「でもその時間の中で、魔王様のために生きる貴方がかっこよくて、強くて……とても綺麗で。だからその姿に憧れて。……私も願いたいって、そう思ったんです」

 元の場所に石を返したリシャナは手を離し、体を引いて視線を重ねる。
 その両眼に映るのは、ただ一人。微笑みを向け、彼女は口にした。

「──幸せになりたいから願うんじゃなくて、幸せになってほしいから願うんですよ」

 願う者の在り方──主人の生き方そのものを。心の底から受け入れて、憧れて、信じて。

「そのためなら命だって使います。貴方が魔王様の未来を望むように、私も貴方の最高の終わり方を絶対に諦めません」

 ──自身の命の使い方を、一欠片の迷いもなく結論づけた。

「……だって、私は」

 そこまでで一度区切ったリシャナの瞳は、太陽の無い世界だというのに光を反射させ潤んで見えた。もしかしたら涙を堪えているのかもしれない。それでも決然とした声音で、甘やかな笑みをたたえ告げる。

「そんな貴方のことを世界一かっこいいって思ってる、部下ですから」

「────、」

 リシャナは主人の胸に身を預けて瞼を下ろす。その体は温度が失われ冷たくなりつつあるのに、触れた箇所にはたしかに二人分の体温が存在していた。

「……そうしていつか、誰よりも誰かのために生きてきた貴方の願いが叶ったとしたら。私にとってそれ以上のハッピーエンドはないです」

 抱える腕の中で落とされた呟きは、眠りにつく前のように安らかな響きをしている。
 彼女が謳う終末に、彼女自身の姿と存在の痕跡すら無かったとしても。きっと同じように語るのだろう。

「だから……しあわせに、なってください」

 もう一度だけ願って、やがてリシャナの唇は音もなく閉じられた。

 その頬に落ちた雪は、溶けずに残る。
 落ちた白を目にし、彼女がごくわずかに残った生きるための力を主人へ願いを伝えるために使い果たしたのだと知った。

 もしこいつがここで死んだのなら、これは呪いと呼ばれるべき願いなのかもしれない。
 呪いのように深い想いであり、この部下がここまで生きた希望だった。

 ……全てを取りこぼさずに願いを叶えることなんて、出来やしない。
 だから、主人が取りこぼさぬよう部下は手を伸ばした。自身の命すら投げ出して手を伸ばした。命を、使った。
 それは劇的なものではなく、未来を揺るがす力などなく。ひたすらに些末で力のない、長すぎる時間の中に埋もれてしまうほど小さな願いだった。

 それでも──その願いを、他でもない自身に向けられたのは初めてで。
 狂っている。だまされている。そうとすら、思うのに。

「……馬鹿な、やつ」

 俯き唇が触れそうな距離で呟けたのはそれだけだった。
 終に何も返事をしなくなったリシャナは、自身の願いがいつか必ず叶うという希望に満ちた、穏やかな表情で眠っていた。

「────」

 自分は、誰のための存在か。
 ──忠誠を掲げる主のため。他の誰のための存在でもない。

 全てを失わずに欲しいものだけを得るなんて無理に決まっている。
 ──だから主以外を捨ててきた。有限の所有物だけを手にして、それを失った後は時と共に忘れてきた。

 主のための存在が、自分だけのモノを得るなんてことがあってはならない。
 ──そんなことは、わかっている。そうして生きなければならない定めだと、理解している。

 でも。

「────」

 ここで膝を折れば。
 生意気にも自身と同じ命の使い方をしてみせたこの部下に、願われた自分までも殺してしまう気がした。

 部下の体をゆっくりと地に寝かせ、立ち上がる。
 顔を上げて振り返り、背後に聳える氷の壁を見遣る。

 もう一度だけ、悪あがきをしてみせよう。未来は明るくなるなんて甘ったれた確証はどこにもないけれど。抗い続けて報われる祈りなんてほんの一握りだけれど。


 ──ここにいるのは、「わたしたち」ではなく「あなた」の願いを叶えるための存在なのだから。