series


長編2-1_トカゲと半端者と、長



 朝の澄み切った空気に鮮やかな風切音が響き渡った。
 虚空を裂く甲高い音が森の果てまで木霊しては消えていき、応えるように爽やかな風を運んでくる。それが薄く汗をかいた体にはこの上なく心地良い。
 しかし気を緩めることはせず、両手の鋼を握りなおして再び刃による軌跡を閃かせる。

 縦に横にと払う腕に乗せる重みはごくわずか。鋼を交わす相手がいないからというのもあるけれど、一連の動作の中での意識が今だけは足に集中しているからだ。

 剣技の基本は足の運び方から始まる。下手な歩法で体の中央を走る軸がブレてしまえば、一瞬にして隙は生まれ一撃を受けてしまうこととなる。
 騎士学校で最初に習う基礎ではあるが、当時の私は愚かにも悪知恵と勢いに任せそれをおざなりにしてきた。且つ大地へ落ちてからは主人による命懸けのスパルタ指導が始まり基本を身に着ける時間は与えられなかった。……死なないための剣技はそれで身につけられたけれど。

 そうありながら今更基本を振り返ろうと思ったのは、戦うべき相手を知ったという面が大きい。
 この先、女神側の敵と渡り合い確実な勝利を得るためには正統派の剣術も磨かなければならないと、私は先の天望の神殿の戦いで思い知ったのだ。

 力と悪知恵だけじゃ足りない。あらゆる土俵で勝てなければならない。
 絶対に後悔をしないために……と。

「──ッ」

 頭の片隅で回る思考と、体全体を使い走らせる剣閃の連鎖に終止符を打つように、縦一文字に魔剣を振り下ろす。
 一際大きく音を鳴らし裂かれた空気が後に残すのは、透き通った森の静寂だけだった。

「──朝ッぱらから精が出るなァ、お嬢」
「!」

 その終わりを待っていたのか、二呼吸ほど置いて背後から声をかけられる。
 数日ぶりに聞いた声と呼ばれ方に、私は剣も収めないまま振り返った。

「リザル、お帰り」
「おう」

 半獣特有の鋭い爪が伸びた手をヒラリと振ったのは、大きなトカゲの魔物──リザルフォスのリザルだった。
 数日前フィローネの森での戦いが幕を閉じたその日から各地の偵察と魔族の統率に出ていた彼だけれど、その任務からたった今帰ってきたところらしい。

「偵察ッてのも楽じゃねェな。肩が凝る」
「お疲れ様。マスターのところ、もう行ってきたの?」
「ああ、報告してきた。……やっぱり巫女が向かう先はオルディンだったッてな」
「……そっか」

 リザルがこぼした任務の結果は拠点で待っていた私や主人の耳には先んじて伝えられていた。
 羽を持つ魔物からその報告が入ったのは昨日の夜。後に取り纏め役のリザルが帰還して主人に報告をしたことにより、それは確定された情報となる。
 予想通り、次の目的地は火と溶岩の土地、オルディンになるらしい。

 リザルの先導によって、既に現地では魔物たちの監視体制が出来上がっている。巫女の一行がそこに辿り着くには少し時間がかかりそうだが、後追いの時間を考えると準備に充てられるのは今日までだろう。

 慌ただしい一日になりそうだと後々の予定を頭で巡らせていると、リザルの大きな目の中に私の顔が映り込んだ。

「ンでお嬢。お前にも用事」
「私?」
「頼まれてたモンが出来たッつってたぜ」
「あ」

 そう告げられて思い出したのは、数日前にトカゲ族の手先が器用な子へ個人的にしていたある依頼だった。
 剣技の練習もちょうど終えていい頃だろう。ついでだから付き添うと言ってくれたリザルと共に、私は拠点へと引き返すことにした。


 * * *


「おおー……職人の腕……!」

 両手で広げた厚手の布に、私は目を輝かせながら感嘆に震えた声をこぼす。

 つい数分前にリザルの仲間から受け取ったのは、火の土地への対策用に新調した防火コートであった。
 形状は普段羽織っているケープと同じだけれど、外と内には火の土地に住む動物の皮を使った防火素材が縫い込まれており、生身の体を火と熱から守ってくれるそうだ。
 当然全身を覆うほど丸焼きにされればアウトだ。それでも火山での生存率は大いに上がることだろう。

 そんな具合で新しい装備を手に入れテンションがあがる私。それを横目にリザルが口を開く。

「人間の体は脆いからなァ。……本来なら」
「何で目逸らしたの」
「俺が一番よく知ってる人間は脆いどころか何回死にかけてもピンピンしてンなッて思ってよ」
「語弊あるなー……。私だって回復兵の子に手伝ってもらった後は生き物としての過程を経ながら丁寧に丁寧に時間をかけて元の健康体に戻してるってば」
「少なくともそれを健康体とは言わねェよ」

 リザルの的確な指摘に更なる反論は出来なかった。
 たしかに毎回とまでは言わずとも大きな戦いがあった際は大抵死にかけているし、死の淵に立たされた回数は私の二十倍長く生きているリザルとタメを張れると呆れられたことすらある。

 もちろん人間の体とほぼ同じに出来ている私は自己再生能力なんて都合の良い力は持っていたりしないため、怪我をすればせっせと治療に励むことしか出来ない。
 だからといって命惜しさに戦線へ出ない訳にはいかず、窮地を救う万能アイテムや新しい力が手に入ればいいのだが現実そうはいかない。

 ……結局、死にたくないのなら、強くなって勝つしかないのだ。

「……つーかお嬢、オルディン行くの初めてじゃねェよな? 防熱の装備持ってなかッたのかよ?」

 手にした防火コートを眺めながらある意味達観した感慨に耽っていると、リザルがおもむろに問いかける。私は大きな目に向き直ってそれに答えた。

「ううん、持ってたけどボロボロになっちゃって。後は炎の攻撃にも耐えられるようにしておきたかったから」
「あー……成程な」

 リザルの言う通り、この装備は土地そのものが放つ熱気への対策というのもある。
 しかし一番の目的は──例の薙刀による火炎攻撃を見越したものだった。

 天望の神殿において、二度遭遇した何者かによる襲撃。
 襲撃者本人の姿は確認出来なかったけれど、あの薙刀が起こす爆炎は普通の装備では防ぎ切ることが出来ないだろう。そのために多少無理を言って、防熱に加え防火性能のある装備を準備した次第であった。
 もっとも、火炎攻撃を防ぐだけでは恐らく勝てない相手だ。直接対決となった場合の情報があまりにも足りていないのが不安要素ではある。

 私は俯き少し悩んで、リザルに再び目を向けた。

「ねぇリザル」
「ンあ?」
「薙刀……それか槍って、どう戦えばいいの?」

 ということで、私は早速身近にいる経験豊富な人(トカゲ)材に知識を借りることにした。
 薙刀についてはリザルも初耳だったらしく、その特徴を拙いながらも説明する。私自身も本の受け売りで辛うじて名称を知っていた程度ではあったけれど。

「俺も聞いたことねェ武器だな。東の果てで使われてる武器に似てる気はすッケド」
「東の果て……森を抜けたずっと先ってこと?」
「俺も行ったことはねェがな。そっから入ってきたッつう武器は何回か見たことがある」
「へー……」

 森を抜けた先。
 歩き慣れた場所だからこそ実感が湧かないが、フィローネは高台に上がっても果てが見えないほどの広大な森だ。その先は女神や魔王様の統治下から外れるということもあり、私にとっては未知の世界だった。
 いつか全ての責務から解放されたなら、主人と共にその世界を見てみたいとも思う。
 きっと、空から落ちて初めて大地を目にした時以上の感動が待っているのだろう。

 ──という夢の話はさておき。今は来たる戦いに向けた対策を練らなければならない。
 傍らのリザルは長い爪で頭をかいた後、顎に手を当て「そーだな」と呟く。

「参考になるかは知らねェが、槍との戦い方なら教えてやれンぞ」
「ほんと!?」

 気のいいトカゲ族の返事に自然と私の声音が高くなる。

 ……つくづく、リザルは本当にいい先輩だ。
 優しいなんて言葉を使って茶化してしまえば気色悪いと怒られるので口にはしない。けれど胸中でそう思っておくことくらいは許してくれるだろう。
 同族から受け取る仄温かい感情を胸に抱きながら、私はリザルの指南に耳を傾けるのであった。


 * * *


 小一時間リザルの指南を受けた後は、何気ない会話を交わしながら遠征の準備をするため拠点中を歩き回っていた。
 先のことを見越し今回も大規模な軍は動かせないが、準備はそれなりに手間がかかる。ようやく一息つけたのは、昼下がりの時間も過ぎて陽が落ち始めた頃だった。

「ンで、お嬢は腹の傷、完全に塞がったのかよ」

 外から入る涼やかな風を浴びながら廊下の一角で休憩をしていると、不意にリザルが視線だけを寄越し問いかけた。
 初陣で早々に負傷した私へ呆れかえっていた彼だが、やはり心配してくれていたらしい。

「うん、もう大丈夫。回復兵の子が頑張ってくれたから痛くないししっかりくっついたし、完全回復」

 私は服の上から傷の箇所を撫でつけながら返す。
 もともとそこまで深い傷ではなかったが、数日で治しきれたのは幸いだった。
 回復兵の手を毎度煩わせてしまい心苦しく思う反面、この先何度もお世話になってしまうという確信はある。もちろん、無傷で帰ってこられるに越したことはないけれど。

 私のその予感をリザルも同じく抱いているのだろう。薄い訝しさを滲ませながらも、彼はその内心を口には出さず目だけを離す。

「そりャよかッた……な……」

 ──と、不自然に言葉が途切れたリザルの視線が、私の後方へ泳いで留まった。
 それに釣られて私が振り返るその前に、両の脇腹に何かが添えられる。そして、

「完全回復、ねぇ」
「ッぎゃあ!!?」

 嫌な気配を察して防御体勢をとるより速く、背後から添えられた手は私の服を一気に捲り上げる。
 胸の下まで容赦なく肌を露出させられ情けない悲鳴をあげた私は、咄嗟に背後へ振り向き諸悪の根源を睨み付けた。
 しかし返って来るのはそんな訴えなど全く意に介さず、嘲りを含んで細められた視線だった。

「見事なまでに不格好な残り方をしているというのに」
「マスターは毎日見てるじゃないですかッ! あと何で毎回そう派手に捲り上げるんですか!!」

 生々しい傷跡を露見させたその人物は、考えるまでもなく我が主人であるギラヒム様だった。
 目の前にやや引き気味のリザルがいるにも関わらず、部下の服を大胆に捲ってじっくりと傷跡を眺め、抗議に耳を貸そうとしない。

「主人の務めとして部下の状態を随時確認してあげているんだよ。平伏して感謝しろ」
「……尊厳削られてなお感謝捧げてたらいろいろ末期だと思うんですよね、私」

 恩着せがましく嘯く主人ではあるが、たしかに言葉の通りほぼ毎日確認はされている。最初は珍しく心配しているのかと思ったが、実際は服を捲って部下を弄りたいだけなのだろう。

「……まだ痛かった時も労るどころか容赦なく捕まえて捲ってくるし」
「もとをたどればお前が不躾にも主人の厚意を拒絶したせいだろう。……それとも、今ここで懇切丁寧に足を舐めるというならその分甘やかしてあげてもいいけれど?」
「────」
「いや迷うなよ。邪心に正直すぎンだろ、お嬢」

 言葉が途切れた私の横からリザルの冷静な突っ込みが入り、危うく失いかけた人として大切な何かを持ち直す。
 が、私の体そのものは伸びてきた主人の手にいとも容易く捕縛され、粗雑な扱いのまま肩に担がれる。このまま自室へ連行するつもりらしい。

「そういうわけでリザル。これはワタシがもらっていくけれど構わないね?」
「あ、ああ……全く問題ねッす……」
「ドン引きしつつ見捨てないで!!」

 面倒見の良い彼も、一族の長にそう告げられてしまえば手を貸すための術はない。
 悲鳴をあげる私へ哀れなものを見る視線を向けながら、リザルはいつもの如く騒がしい主従を見送ったのであった。


 * * *


「──傷跡が多い体の美しさなんて、ワタシには理解出来ないけどね」

 そうして部屋に連れ込まれベッドの上に座らされた私の脇腹を、主人の指先がするりと撫でる。
 傷跡に沿って伝う細い指の感覚にぞわぞわと背筋が騒めき、私は唇を噛みながら顔を背けることしか出来なかった。

「……今更ですし、それ以前にマスターがつけたのもいくつかあるじゃないですか」
「それは傷跡ではなくマーキングと言うんだよ」
「…………、」

 ……だからと言って傷をつけていい理由にはならないと思うけれど。
 主人から返されたのは猟奇的とも言える反論だったが、それでも私は何も言い返せなくなってしまう。リザルに呆れられるのもやむなしだろう。

「それで?」

 数分間思うまま弄られた後にようやく解放され、乱れた衣服を直していると艶やかな流し目を向けられた。
 その視線に瞬きのみを返す私に、呆れ口調の主人が続ける。

「数日与えてあげたんだ。準備が出来ていないとは言わせないよ」
「……装備も体も充分です。心は毎日弄られてるので一向に生傷が癒えませんけど」
「それはお前が勝手に何とかするんだね。ワタシの与り知るところではない」

 皮肉をこぼしつつも、些細な主従間の応酬は口で答えるよりも簡潔に彼の問いへの答えを示していた。

 明日には、明後日には、もしかしたら死んでしまっているかもしれないというのに、何とも平和で何気ない一日を過ごしたものだと今さらになって思う。
 だがそこにあるのはそんな安寧を貪った後悔ではなく、明日を迎えるための覚悟だ。

 穏やかな日を過ごすだけでは、彼の願いは叶わないのだから。

 ──願いの果てにかける命は二つ分。
 しかしそれは戦って、勝って、生き延びなければ意味がない。

「……まあいい、主人の慈悲を蔑ろにしてまで矯正されなかったお前の無鉄砲がどこまで通用するのか見物だね」
「さすがに次はちゃんと考えて行動します。痛いのは嫌ですし……」

 どことなく満たされた笑みを浮かべる主人に引き寄せられ、抵抗なく収まった場所の温もりをありったけ享受する。深呼吸をして、全身で噛み締めるように。


 ──そして、その夜。
 オルディン地方の上空に広がる分厚い雲の層を赤い光の柱が貫いて、

 二つ目の地での争いが、静かに幕を開けた。