外伝1_ユウシャ・ルーテージ
「って……!」
ひんやりとした薄緑色の液体を患部に塗り込んで、染み込む痛みにリンクの口から苦鳴が漏れた。
これをあと何か所にも塗らなくてはならないと思うと眉間に皺が寄る。けれどその分効果は覿面だと太鼓判を押してくれた薬屋のおばちゃんを信じて、唇を噛みながら治療に専念する。
「……はぁ、」
焼けるような痛みを堪えてなんとか薬を塗り終えると、小さくため息がこぼれた。
後はしばらく休んで体の疲れをとってから、一度スカイロフトに戻らなければならない。
──幼馴染、ゼルダが向かった次なる地へ、足を運ぶために。
「────」
大木に身を預け、暖かな木漏れ日の温度を肌で感じ取る。森の合唱が耳へと届き、束の間の穏やかな心地に包まれた。
……そういえば、大地に降りてきてからこんなに静かな時間を過ごすのは初めてだ。
長く、緩やかな息を吐き出せば、泥濘のような思考がいくらか和らいでくれる気がした。しかしそれは仮初めの安息でしかない。
瞼の裏に大地に下りてからたどった足取りを映せば、再び胸の内には焦りと戸惑いが渦巻き始める。
──最初は、巨大な竜巻に飲まれた幼馴染の少女の姿だ。
それを皮切りとして、様々な光景が寄せては返す波のように浮かんでくる。
突然告げられた『勇者』としての使命。ずっと神話の世界だと思っていた大地。自身を導く白銀の剣の精霊。森で待ち受けていた魔物たち。そしてこの傷をつけた元凶である、魔族長と名乗る存在。
現実味がない、と一言で切り捨ててしまいたくなるほど深い煩悶は、ただただ重く心の内側に居座っている。
唯一の安心材料はゼルダは無事だと聞かされていたことだ。
しかし同時に、その身を追う敵の存在を知った今、悠長にはしていられない──はずだった。
「────、」
逸る気持ちは当然ある。
けれど、現状に頭が追いついていないのも事実だった。
本当は治療を済ませたならすぐにでも準備を整えて出発しなければならないのに。
ジリジリとした焦燥はいつまでも胸の内側で燻っていた。
「……?」
──と、思考の迷路を彷徨っていると、小さな足音が耳に届いてリンクは上半身を持ち上げる。
音がした方へ目を遣ると、地に張り巡られた太い木の根の向こうから、積み上げられた草の塊が近づいてきていた。
「兄ちゃん、持ってきたキュー」
たどたどしい口調と共に、草の塊の下から丸い頭がひょこりと覗く。それは小さな体をふわふわとした体毛に覆われた亜人だった。
その亜人は短い両手で頭上の草の山を支えながら、器用に木の根を踏み越えてリンクの元へとやってくる。
彼は『キュイ族』という草食の亜人で、名前はマチャーというらしい。
ゼルダの行方を追う道中、魔物から救い出したことをきっかけに、彼とその仲間たちは神殿へ進むリンクの手助けをしていた。
そして偶然再会した今も、負傷したリンクの代わりに薬草摘みを手伝ってくれていたのだった。
「ありがとう、助かるよ」
「キュー、オイラたちの寝ぐらの近くに生えてたから、お安い御用キュ」
どさりと地に置かれた薬草の山を前に、リンクは腰のポーチから小型ナイフを取り出す。
次いで草の山から数本をまとめて手に取り、薬の材料となる箇所を残して不要な部分を削ぎ落としていく。後々薬屋に持ち込んで薬を作るための下準備だった。
「何に使うんだキュ?」
丸い瞳がその作業を興味深げに覗き込む。彼らにとって薬草は食料にならない草でしかなく、こうして加工を施す光景を見るのは初めてなのだろう。
小首を傾げるマチャーを横目にリンクは口元を緩めて、
「リカバオール、って薬の材料になるんだ」
「りばかお……?」
聞き慣れない言葉にマチャーが体ごと首を傾げたので、リンクはストックとして持っていた完成品を取り出す。
ビンの中でとろりとした紫色の液体が波打ち、マチャーの瞳がぱちぱちと不思議そうに瞬いた。
「……よくわからないキュ」
マチャーは先ほどとは反対側に体ごと傾き、その行動が愛らしくて、リンクは再び笑みをこぼした。
「魔物に見つからないようにな」
「キュー、兄ちゃんも“りばかおー”、頑張って作るキュー」
切り取った薬草を全てビンに詰め終えた後、仲間たちの元へ帰るマチャーをリンクは見送った。
短い手を何度も振って、マチャーは森の奥へと走り去っていく。
足音が遠ざかれば、風の音がやけに大きく木霊し、耳を撫でた。
視線を宙に放すと陽光に照らされた地面が様々な彩りを見せている。
「……ファイ」
虚空を眺めたまま、小さく唇を震わせて一つの名を呼ぶ。
それに応えるかのように、鞘に収めて傍に立てていた剣が光り、その人物は姿を現した。
「──お呼びですか。マスター」
地に足をつけず現れた剣の精霊ファイは、平板な口調と無感情な視線を己の主へ向ける。彼女が纏う青色は木漏れ日を受けて何色にも煌めいて見えた。
リンクは透明な眼差しに対して顎を引き、視線を重ねる。
「……あの魔族長って言ってたやつのこと、改めて聞かせて欲しい」
そう口にした言葉の裏で、刻まれた傷口が存在を訴えかけてくる。
それは直接的な痛み以上に、惨めな敗北の味を啜った慙愧の念によるものだった。
もう同じ辛酸を嘗めたくはない。だからこそ情報が必要だった。大地について教え示してきた彼女なら知っているはずだ。
「イエス、マスターリンク」
ファイはその問いかけにすんなりと応え、一度宙を舞ったと思えばリンクの目の前にその身を下ろした。
そうして透明な視線に真正面から見据えられながら、彼女の言葉に耳を傾ける。
「魔族長──ギラヒムは地上の魔族を統べる現在の長であり、過去封印された魔王の直属の配下にあたります」
リンクからの言葉がないことを一呼吸分確認し、彼女は続ける。
「我が創造主が残した記録によると、天地分離の聖戦の際にもギラヒムに近しき存在が確認されています。なお、同一人物の可能性は現段階では不明。判断に必要な情報が不足しています。いずれにせよ、現在も魔王の命により行動をしている確率89パーセント」
「……魔王、か」
その名を舌に乗せるのは奇妙な感覚だった。
彼女が語る存在は、空の住人にとっては神話の中の登場人物でしかなかった。
しかし神話は過去の現実で、大地は雲の下に在り続けて、女神と魔王の争いの時代は確かに刻まれた歴史だったのだ。
「マスターとの戦闘における魔力反応を分析した結果、スカイロフトで発生した竜巻はギラヒムの魔術によるものと確認。ただし、大地からゼルダ様の存在を知り得た手段については不明。こちらも必要な情報が不足しています」
ファイの澄んだ声音を聞きながら頭の中で整理をする。
封印によって閉ざされた後の世界で生まれたゼルダのことをギラヒムはどこで知ったのか。そして、長年手出し出来なかったはずの空に何故干渉出来るまでに至ったのか。
ファイの言う通り、わかっていることは何もない。
疑問だけが堆く積み上がる感覚を抱きながら、ファイの言葉の続きに聞き入る。
「加え、天望の神殿におけるマスターとの戦闘を分析した結果、剣術・魔術共にギラヒムにはまだ力が隠されていると推測されます」
淡々とした口調でそう付け足したファイの分析結果に、顔の強張りは隠しきれなかった。
たしかに、あの戦闘は一方的なものだった。端的に、終始遊ばれて終わったと言えてしまうだろう。奴がその気になれば、呆気なく殺されていた可能性すらある。
「──以上です」
ファイが静かに締めくくり、訪れた沈黙を縫うような薄い耳鳴りが聞こえる。
数秒唇を引き結び、吐息とともにリンクは呟いた。
「……強くならなきゃいけないな」
佇む剣の精霊からの返事はない。
曇りのない眼差しは、ただただ真っ直ぐに主を見つめ返していた。
一度に多くの情報を詰め込んだ頭を落ち着かせるため、静かに瞑目する。
そうして再び対峙するであろう脅威を瞼の裏に映し──同時に脳裏を掠めた一つの姿に目を開いた。
「もう一つ、聞かせてほしい」
ファイからの返答はなかったが、向けられたままの視線を肯定と見なし、続ける。
「……泉で見た、あの女の子」
口にしたのは、神殿の最奥に隠されていた泉で最後に邂逅を果たした人物のことだった。
フードを目深に被っていて口元しか見ることが出来なかったけれど、直感的に自分と同じ人間であると確信を抱いていた。
そして一度だけ発した──「君の敵だ」と告げた声質から、その人物がおそらく女性であり、なんとなく自分と同じくらいの歳であると予想していた。
「あの子のこと、ファイは知らないんだよな?」
あの少女がこの先の旅路で実際の脅威となるか否かはまだわからない。
だがあの泉で赤い血を流しながら立ち尽くし、神から与えられた御言葉に静かな動揺を見せていた彼女のことがどうしても気になっていた。
「イエス、マスター。ファイのデータベースに該当の情報は存在しません」
ファイの回答は半ば予想していたものだった。
少女に御言葉を告げたのはファイの口からだが、それはあくまでも伝達の役割に則っただけだ。その言葉の真意は、それこそ神にしかわからないものなのだろう。
「過去の聖戦における魔王の傘下にも該当なし。分析の結果、ギラヒムの直属の配下である可能性79パーセント」
「……捕らわれているってことは、ないのか?」
リンクは視線を下ろし、仄かに否定をしてほしい気持ちを抱きながら問いかける。
しかしその希望は敢え無く散らされて、
「分析の結果、魔族長の魔力を色濃く纏っていたことを確認。魔族の中でも非常に近しい配下である確率91パーセント」
「……そうか」
潰えた期待に肩を落とし、押し黙る。
あの少女が何者なのか知らないはずなのに、どうして深い失意を感じてしまうのかはわからなかった。
リンクは一度深呼吸をし、視線を空へと持ち上げる。
木々の隙間から覗くのはどこまでも続く白い雲。故郷と違って、大地から見える空模様はそれだけだ。
「──『勇者』って、難しいな」
呟いた呼称に言霊として宿る響きはあまりにも重い。今はまだ、その肩書きに実感を持つのは途方もなく難しいことのように思える。
課せられた使命と与えられた呼称を噛み締め、それに対する自分のきまりの悪さに小さく歯噛みした──その時だった。
「──悠遠の昔」
耳に心地良い声音が、静かに語り出した。
何度か瞬きをしてリンクがその声の持ち主である精霊を見遣ると、清かな声音は継がれ、
「女神様を守り、魔王と剣を交えた『勇者』は、天地を隔てた聖戦において圧倒的な強さと太刀筋の美しさを持ち、戦場を駆けたとされています」
「…………、」
「しかし、彼が『勇者』に選ばれたのは、その剣技の強さが理由ではありません」
ファイはそこで区切り、リンクと視線を交わす。
森の騒めきはもはや耳に届かず、ただただ彼女の言葉を待った。そして、
「女神様が其の者を選んだ理由はただ一つ──魂の強さです」
主を導く白銀の剣の精霊は、揺るぎない声音でそう告げた。
「血によって継がれたものではなく、神から与えられたものではなく、根底に刻まれた強さが『勇者』たり得るものだった。……よって其の者は選ばれました」
「根底に刻まれた、強さ……」
それは、女神が『運命の子』を選ぶ理由としてはあまりにもありふれた耳触りのする言葉に聞こえた。
特別な才能ではない、人知を超えた力でもない。古の時代の騎士で喩えるなら、皆がそれを得るために研鑽し、剣を振る礎としたことだろう。
──しかしその強さは、誰もが遍く持ち得る訳ではない。高みにたどり着けず、膝を折る者も少なからずいる。
それを極限まで磨き上げたのが、過去の『勇者』だった。
ファイはその存在を夢想する訳でもなく、他ならぬ自身の主を真っ直ぐに射抜いて、
「マスターリンク。貴方が女神様に選ばれた理由も同様です。貴方の魂の強さは『勇者』に必要なもの」
「────」
「だから女神様は貴方を選び、ファイは貴方を待ち続けました」
初めてファイに会った時、謳われた言葉を思い返す。
想像も及ばないほど長い時、まだ見ぬ主を彼女は待ち続けた。その手に取られ、共に戦う瞬間まで。
脳裏に残るあの時の声音は、刹那、悦びに彩られていた。
そして今、交わす透明な視線に滲むのは純粋な信頼だ。
リンクはその目を見つめ返し、やがて小さく顎を引いた。
「……負けられない、よな。魔族にも、昔の『勇者』にも」
──己を待ち続けた剣が、信じてくれているのだから。
続きが言葉で紡がれずとも、出会って間もない主従でも、互いの胸の内に伝わる。
意図せずともそれは、かつての女神と勇者の間に結ばれた信頼と同じ形をしていた。
「イエス、マスター。過去の統計を元に分析を重ねた結果、貴方がその域に達することが出来る確率62パーセント。なお、今後の研鑽により更なる確率の上昇を見込めます」
「はは……うん、頑張るよ」
普段通りの機械的な口調でそう付け加えた彼女に苦笑をこぼし、一つ伸びをしてリンクは立ち上がる。
そのまま空を仰ぎ、広大な雲海の先にある空を想って──再び、歩き出した。