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長編5-1_クジラの空と龍の庭



 ──古の時代。空がまだ遠いものであった人々は、鳥とはなんて自由な存在なのだろうかと思っていたことだろう。
 天地隔てなく縦横無尽に飛び回り、自然の壁や国境にとらわれず、どこまでも行くことが出来る。一族を問わず、地に生きる者の憧れの存在として彼らは生きていた。
 故に、そんな存在に一歩でも近づくため、人々は文明の力を駆使せざるを得なかった。
 そしてそれは人々が鳥と共に空へ移り住んだ今。大地に置き去りにされ、忘れられた技術となっていて──。

「せえ、の──ッ!!」

 自身を奮い立たせる掛け声と共に、一歩大きく踏み出す。
 踏み出した足は空気を蹴り、私の体は重力に従って真っ逆さまに落ちていく。未だにこの瞬間は肝が冷えてしまう。

 だが、これは始まりにすぎない。崖から飛び降りたというのになおも追いかけてくる気配。私は身を翻してロープを放り、その先端である三又のかぎ爪を突き出た木の幹へと引っ掛ける。
 そのまま遠心力を駆使してぐんと勢いをつけて、一番高度が高くなった瞬間、かぎ爪を放して空へと飛び上がる。
 同時に真上から襲い掛かる風切音。私はすかさず魔剣を抜き、空中で振り下ろされた刃を受け止めた。

 交差する視線。追跡者──大切な主人はにやりと笑い、身を翻して追い討ちの一撃を仕掛けてくる。
 その苛烈な攻撃は、踏ん張る地面がない私を谷底へ真っ逆さまに叩き落とす。それで放っておけばいいのに、彼は追撃のため瞬間移動で私の身を追いかけてきた。
 その姿を両目で捉えた私は空中で身を裂かれないよう、体を旋回して凶悪な刃を受け止める。足のバネが使えない今、鍵となるのは遠心力だ。

 叩きつけられる剣撃。私は近づいてくる地面に視線を走らせ、谷底でぺしゃんこになる前にかぎ爪ロープを岩肌に生えている木へと引っ掛ける。
 追いかけてくる短刀を魔剣で弾き落とし、再び宙へ。身を捻り、勢いのまま主人へと斬り掛かる。

 空中での鍔迫り合い。刃が弾かれ、すぐさま身を翻して二撃目へなだれ込んだ、その時。

「──あ、」

 振り下ろした剣を往なされ、私の体勢が大きく崩れた。
 途端、張り詰めていた集中の糸がぷつりと途切れ、意識までもが一緒に奈落へ引き込まれていく。
 どこかにかぎ爪を引っ掛けなきゃ、と視線を走らせるけれど、流れ行く視界に映るのは無骨な岩肌だけだ。

 そうこうしているうちに思考が回らなくなって、今度こそ死んだかも、という他人事のような実感が芽生える。そして──、

「っわ!」

 待っていたのは固い地面でなく、柔らかな腕だった。
 恐る恐る顔を上げると、そこあるのは美しく整った顔。彼が私を谷底へ見送らずに受け止めてくれたようで、ホッと胸を撫で下ろす。
 そんな能天気な感慨に浸っていたのも束の間、

「マスター、ありがとうござぃぎゃぃッ!!」
「撃墜三。……仮想だとは言え、敵に救われて礼まで言うなんて、やはりお前は馬鹿部下だね」

 ──スパルタ訓練の締めは、お決まりのデコピンだった。
 脳髄を揺らす強烈な一撃。悶絶している間にもギラヒム様は崖から飛び降りる前の地点に瞬間移動で戻ってきて、私は早々に地へと降ろされた。思わずへたり込んだ地面の感触は、なんだかとてもありがたいもののように感じる。
 そんな私を、主人はぴらりと前髪を流してドヤ顔で見下ろした。

「それにしても、やはりワタシの戦舞の美しさは留まるところを知らないようだね? 空中でもあれだけ優雅に舞えてしまうなんて、なんとも業が深い」
「ううー、くーやーしーいー」

 瞬間移動があるとはいえ、空中での華麗な剣舞は流石の一言に尽きた。必死に技を盗もうとするけれど、なかなか上手くはいかない。
 汚れどころか髪の乱れ一つもない主人は、見えない観衆へとポーズを決めた後、その指先をびしりと部下へ突き出して、

「十二分に我が身の力不足を悔いるがいい。ワタシの気が向いていたからこそ、お前は四人目の馬鹿部下にならずに済んだのだから」
「気が向いてなかったら、三人とも谷底行きだったんですね……」

 なんとまあ、おいたわしや。平行世界の自分に想いを馳せつつ、私はすぐそこで口を開けて待つ谷底をもう一度見遣る。

 さっきは特訓ということもあり無我夢中だったけれど、改めてその深さを見るとあんなところで戦っていたのかと身震いしてしまう。
 とは言え、あの谷底はかぎ爪を引っ掛けるための木々が壁面に生えていたからまだマシだった。
 大空での戦いは、もっともっと過酷なものになるはずなのだから。

 ──空の大精霊との戦いに向けた、空中での模擬戦。
 もともとはリザルの協力を得て行っていた特訓だけれど、ギラヒム様が手綱を握ったことにより、一気にスパルタ化……もとい、より本番に近い形で戦うことが出来ている。

 かぎ爪ロープという新武器を駆使しつつ、全身を使った剣の技術が求められる空中での戦いは私にとって未知の領域ではあったけれど、ようやく慣れてきたところだ。
 それでもまだ、翼を持たない人間にとって圧倒的に不利な戦場である空で充分に戦える自信はない。

 嘆息を崖の下に落とした私は両膝を抱えて縮こまり、主人の戦い方を思い返す。

「やっぱり、私も瞬間移動が使えたらもう少し違うのにと思っちゃいます」
「そこまで言うのなら教えてあげてもいいよ。今のお前の状態で使えば、出来上がるのは干物どころか消し炭だけれど」
「……謹んで辞退いたします」

 ぴしゃりと言い切られ、自身の体を顧みない発想を素直に反省した。咎める主人も心なしか真顔だ。

 ギラヒム様の言う通り、今の私の体は少しでも無茶な魔力の使い方をすれば何が起こるかわからない状態だ。
 度重なる酷使を続けたせいで、本来なら時間をかけて回復するはずの魔力量が常に枯渇をしてしまっているらしい。
 言うなれば、魔力という水を溜めるための器にヒビが入っている状態だ。……そして器が砕けたなら、待つのは封印の地で経験した死の危険以上の何かだろう。

 主人の願いが叶う前に、しかもただの特訓中にそんなことになってしまっては敵わない。
 ないものねだりを胸の奥に押し込み、私はうーんと伸びをした。

 午後一杯訓練に明け暮れてしまったので、曇り空の向こうでは日が沈みかけている。普段ならばここで練習を切り上げるところだ。
 深呼吸をした私は立ち上がり、次いで傍らのギラヒム様に向き直る。その行動に怪訝な目を返す主人。
 彼の視線を受け止めた私はぺこりと頭を下げて、

「もっかい、お願いします。マスター」
「…………、」
「四人目の私……じゃなくて、空で戦う私が、ちゃんと大精霊に勝ってマスターのところに帰って来られるよう。まだまだ特訓、頑張りたいです」

 その申し出に、主人が目を見開いたのが顔を見ずともわかった。天邪鬼の部下が、自ら特訓の継続を言い出したことに驚いているのだろう。
 一拍置いて、ギラヒム様は「フ、」と短く吐息すると、

「いいよ。……どこにいようがワタシの元へ帰ってくる従順な部下に、躾けてあげる」

 艶やかな笑みをたたえ、部下の目を見つめ返したのだった。


 * * *


 あと何回かの特訓を終えて、くたくたの状態で拠点へと戻る。
 以前までの特訓とは違い、魔力を使わないだけに体に残るのは純粋な肉体的疲労のみだ。だからこそ極限まで体力を使い果たしてしまい、ベッドに倒れこんだならすぐにでも眠りの世界に引きずり込まれてしまいそうだった。

 そんな誘惑を振り払い、私は椅子に座って“部下としてのお務め”に向き合う。

「……も少し頑張れ、私」

 自分に小さく言い聞かせて、私は机上にバラまかれた報告書とメモ書きの山に手を伸ばした。
 そこに書かれているのは乱雑に書き殴られた文字と、歪な記号が記された地図、などなど。
 これらは各地の魔物たちから集約した、調査の報告書だった。

 現在、魔物による調査部隊は三大拠点であるフィローネ、オルディン、ラネールの至る場所に配置されている。
 役割を大まかに分けると、勇者を探す部隊、巫女や時を遡る手がかりを探す部隊、そして各地の魔物たちの統率を図る部隊で構成されている。
 私が手にしたのはそのうちの勇者を探す部隊からの情報を集約させた資料だ。

 ──魔族側から見て、『勇者』の現状は危惧すべきものだった。

 ラネール地方での衝突以降も、『勇者』は着実に力をつけてきている。
 事実、勇者の成長を加味して魔族側も各地の配備の強化をしているが、中位の魔物では歯が立たなくなってきている。上位の魔物は数が限られているため、武力の確保が追い付いていない状況だ。
 各地に散らばる魔物たちを勇者の目的地に集結させようとはしているものの、この先は私やギラヒム様が彼と直接剣を交える機会も増えてくるのだろう。
 故に、『勇者』──リンク君の行き先を早期に断定することは、非常に重要な事項であるのだ。

 リンク君の次の目的地はフィローネ地方のどこか。それはわかっている。
 故に魔物たちから聞いた足取りを地図に書き記し、私は彼の目的地を推測する。
 しばらくは大きな動きがなかったけれど、ここ最近は新たな目的地へ向かい始めているように見えた。

 襲いかかる眠気を振り払い、夜風を浴びながら、資料を読み込んで自分なりに情報をまとめる。
 魔物たちの情報伝達手段は種族の数だけ多種多様であるため、まとめるのも一苦労だ。字が書ける魔物の報告書だけならまだしも、片言の言葉しか話せない魔物からは直接情報を聞きだしてまとめなければならない。

 根気のいる作業だし、疲労困憊の体で取り組むには正直骨が折れる。
 けれど、今の『勇者』の状況を知れば知るほど、焦りに体が突き動かされてしまう。

 そうして地図に情報を書き加えつつ、何気なく視線を走らせると、ふと一つの地名に目が留まった。

「……げ」

 思わず上がった呻き声。
 リンク君の足取りをたどるように書き記した道筋はぐるぐるとフィローネの森を彷徨いながらも、最終的にある場所へと導かれていた。
 彼は何度も道に迷いながら、苦労の末に次なる目的地にたどり着いたのだろう。
 問題は、その目的地の地名で──、

「主人の世話を放ってまで、仕事熱心なことだね?」
「ひょわいッ!?」

 瞬間。背後からうなじへ息を吹きかけられ、奇声が上がる。
 犯人は誰だかわかっている。わかっているからこそ、私は背後へ振り返ると同時に──たった今眺めていた地図を、反射的に背中へ隠してしまった。

「あ、え、う、マスター、こんばんは、お日柄も良く……」
「ふぅん。昼間あれだけ額を撃ち抜かれて、日柄が良いなんて。お前の被虐体質も極まったものだね」
「そ、そうなんです……極まっちゃったんです……」

 語弊しかないお言葉に反論も出来ず、私は主人、ギラヒム様へ引き攣った笑顔を返す。
 当然、そんな不審極まりない行動をとれば誰よりも部下の行動に目敏い主人は見透かすようにその目を細めて、

「で?」
「は、はい?」
「見せろ」
「やですッ、これだけは死守します!!」

 案の定、私が隠したものを見破っていた主人は綺麗な手を差し出してきた。
 反射的に拒絶をすれば、つかつかとにじり寄られ、後ろから羽交締めにされる。甘い匂いにくらりと自我が溶けかけたけれど、奥歯を噛み締めなんとか耐えた。
 どうせのちのち知られてしまうのに隠してしまったのは、私の勝手な意地だ。

 が、主人は私よりも何枚も上手だった。
 両腕を捕らえたままの彼はぐっと私の顔に自身の顔を寄せ、低い笑い声をこぼす。
 次いで、柔らかい唇が私の耳朶を食んで、ぺろりと生温かい舌が縁をなぞった。と思えば、軽く歯を立てて甘噛みされ、ちゅっと吸われて、極めつけには吐息混じりに「リシャナ」と名前を囁かれて──、

「みせて?」
「!!」

 濡れた声音に、私の腰が砕けた。

 同時に長い腕が私の背中に回り、隠していた書類の束を呆気なく奪い取られる。
 必死に奪い返そうとする私の頭を片手で制し、書類に目を通したギラヒム様は、私がそれを隠していた理由を察したのか呆れ顔で吐息した。

「隠したところで意味なんてないのにね?」
「……わかってますけど、気持ちの問題です」

 私がたどって導き出した、リンク君の目的地。
 その到達地点に記された地名こそ、まさに──、

「フロリア湖。……水龍フィローネの庭、ですもん」

 因縁の地。そう言えてしまう場所だった。