series


長編4-9_武人



 ──その一族の役割は『詩』を語り継ぎ、いずれ来たる『勇者』へと聞かせることだった。

 女神信仰。当時の人間を支配していた思想を一言で表すならばそれ以外の言葉は見つからないだろう。
 天地分離以前、地の底から魔族が出現し、侵略と略奪により人々の生活に影が落ちた頃。それは人々が最も強く女神という存在に縋っていた時代だった。
 女神の言葉は絶対。そして女神を擁立し、メッセンジャーとしての役割を持つ王家の命令もまた絶対。王家は知恵を出し合い、女神が与える導きの言葉を彼らなりに解釈し、国を築き上げた。

 その女神信仰の一端としてとある一族に与えられた役割が、遥か昔から語り継がれた『詩』を次世代にまで伝え、『勇者』が耳にするその時まで守り抜くことだった。

 王家の監視下の元、一族はオルディンとラネールの境目に横たわる渓谷にて秘匿されるように生かされた。
 彼らが唄い継ぐ『詩』が『勇者』に何をもたらすのか、『勇者』に会ったことのない一族の人間たちは当然知らない。
 知っているのは、遠い祖先が女神を守護する大精霊からこの『詩』を授かったという、嘘か真かわからない御伽噺じみた言い伝えだけだ。

 しかし女神は、いずれ来たる聖戦にて『勇者』がその『詩』を耳にしなければならないという啓示を人々へ授けた。
 故に王家はその『詩』を──つまりはその一族を、魔族の手が届かない辺境の地へ隠すことに決めたのだ。

 危険な土地での狩り。数年単位で起きる火山の噴火。人間が住まうには地形的にも資源的にも過酷な環境にいながら、一族の人間は幼子の時から『詩』を聞き、『勇者』との邂逅を心待ちにしていた。
 彼ら一族にとって、いつしか『勇者』が来たる時とは使命を果たし、女神に報いる時と理解されていたのだ。

 生まれた時から課せられた役目を教え聞かされ、疑うことなく生き、いつかの日を夢見ながら死んでいく。彼らにとって、安らかなる死とはすなわち、女神から与えられる慈愛。
 たとえ自分の生の間に『勇者』が現れなくても、『詩』を語り継いだことで女神に愛されながら死に、解放された魂が天界へ導かれる。それが彼らの共通認識だった。

 一族の人間たちは願いを『詩』として口ずさみ、声を合わせて、時には叫びのように、唄い続ける。
 男たちが狩りに出かける時は無事の帰還を願う勇ましき詩を。小火山が噴火し、火の雨が降り注いだ時には恵みの雨を迎えるための祈りの詩を。

 女神から与えられた唯一の役割──『勇者の詩』を唄う、その日のために。
 ただ、ひたむきに。愚直に。運命の日を信じ続けた。

 信じ続けて、いた。


 ◆◇◆◇◆◇


「──るァッ!!」

 黒閃が描く三日月は目先の鋼とかち合い、赤い火花が散り弾ける。その数、二つや三つにとどまらず、甲高い金属音を鳴らしては至るところで炸裂する。

 魔剣の一閃により長剣をへし折った先で待ち構えていたのは、振り上げられた大剣。
 私は真正面から鍔迫り合いをすることはなく、刃を弾いて生まれた間隙に押し入り柄を跳ね上げる。
 硬い鎧に細身の魔剣の斬撃は通用しない。だから手元を狙って武器を弾き飛ばし、物理的な戦闘不能を狙い、そして──、

「マスター!」
「ッフン!」

 部下が身を翻し、敵の死角から現れた主人の重い斬撃が打ち込まれる。
 そうして一体ずつ、確実にタートナックたちの戦力を削っていく。
 主従の連携は上々。今のところ、追い風に乗った攻勢はタートナックたちを圧倒し、数の不利を覆していた。

 とは言えこの闘技場を抜けた先で何が待ち構えているのかわからない。出来る限りギラヒム様の魔力消費を抑えるため、前線には私が立たなければならない。──のだけれど。

「遅すぎるよ、武人ども!!」

 くるりと旋回し、指先まで洗練させた所作で宙を舞い、ギラヒム様の剣風がタートナックたちを突き穿つ。
 荒々しく突きつけられる無数の刃をものともせず、自身の肉体を存分にひけらかし、剣撃の雨を降らせる。

 今の彼に加減だなんて無粋は似合わない。感情の赴くままに剣舞を披露し、時には部下の手を取って、心からこの剣戟に陶酔している。

 ……こんなに楽しそうに闘うギラヒム様を見るのは、久しぶりかもしれない。

 一瞬でも気を抜けば命を奪われかねない戦場だと言うのに、私の口元は無意識にも綻んでしまっていた。
 見えない枷から解き放たれたように、彼の剣捌きは軽快で、鮮やかで。争いの場で無ければいつまでも見ていたいと思うほどに、劇的だ。
 自惚れかもしれないけれど、その理由の一端が自分にあると思うだけで、私の剣も自然と軽くなる。

「さあ、次はこちらをこじ開けようか、リシャナ!!」
「御意に……!」

 破竹の勢いで敵陣を貫く主人。その波に乗り遅れないよう、私も全力で彼の後を追う。
 主人が振るう剣の閃きは見る者の網膜に焼き付き、私の心をひどく震わせた。


 ◆◇◆◇◆◇


 ──“彼”自身、『勇者』への期待がいつ憧れへと変貌したのか、記憶にない。
 ただ、彼の『勇者』への憧れの根幹に、彼の両親の存在があったことは間違いないだろう。

 彼の父親は一族の中でもごく限られた戦士だった。彼は狩りに出かける父親の背中を見て育ち、母親から語られる『勇者』の逸話を聞いて夢を膨らませた。
 そうするうちに彼が『勇者』に抱いたのは役目を果たすための存在という以上に、自分を外の世界へ連れて行ってくれるという強い強い憧憬だった。

 彼の父親は命懸けの狩りに出掛ける前に、必ず彼に言って聞かせた。
 ──いつか、『勇者』が自分たちを広い世界へ連れて行ってくれる。『詩』を聞いた『勇者』が、自分たちを新しい世界へと連れて行ってくれる。きっと顔も名前も知らない『勇者』は一族にとっての未来になるのだ、と。
 根拠なんてない、ただの信仰。それでもその言葉は辺境の地で生きる彼にとっての道標だった。

 彼は戦士である父親に教えを乞い、剣の技術を磨いた。
『勇者』が連れ出してくれる大地はあらゆる危険に満ちている。故に剣技は広大な大地へと踏み出すために必要な力であると諭されたからだ。

 彼は剣の技を磨き、やがて村一番の剣豪となった。
 彼の父親が森の獣に食われて死んだ後も、彼は一心不乱に剣を振り続けた。大地を旅する『勇者』が『詩』を求めてこの地に訪れる日を、心待ちにして。この辺境の地から解き放たれる日を、夢に見て。


 彼が十八の時に、その日はやってきた。
 王家の使者が封書を持ち、一族の元へと訪れたのだ。

 一族の者は皆、心から使者を歓迎し、長旅の苦労を労った。しかし一族がどれだけ丁重な扱いでもてなしても、歓迎の詩を唄っても、王家の使者は無味乾燥とした表情を貫き通したままだった。

 彼らはその表情に薄ら寒さを覚えながら、使者に問うた。その封書に、何が書かれているのか。
 彼らの問いに、使者は静かに封書を広げ、淡々とそれを読み上げた。


 ──『勇者』が魔族と暗躍し、王家への謀反を企てた罪で幽閉されたという事実を。


 ◆◇◆◇◆◇


 乱戦は続く。
 タートナックたちは当初、たった二人きりがこれだけの軍勢に立ち向かえるはずがないと高を括っていたのだろう。
 しかしどれだけ攻め込もうと攻勢を緩めない主従に対し、彼らは異なる攻撃を仕掛け始めていた。

「リシャナ、三秒以内に背後に飛ばなければ蜂の巣になるよ」
「ひ!?」

 主人の遠回しな警告を受け、私は反射的に背後へ大きく飛び退く。一拍遅れて立っていた地面に突き刺さる無数の矢。ギラヒム様の元にもそれは及んだが、全て空中で迎撃される。
 眼球だけで視線を巡らせれば、戦場を見下ろす観客席に投射攻撃兵たちが並んでいた。どうやらこの武人たちは剣の他に飛び道具の扱いにも長けているらしい。

 私がそちらに意識を奪われている隙を狙い、振り下ろされる大太刀の刃。それを避け、地面を蹴りつけ武器ごと弾き飛ばす。
 目先の戦いに集中しなければすぐにジ・エンド。けれど視界の隅では次なる矢を構えた投射攻撃兵たちが切っ先を私の方へと向けている。

「女の子相手に容赦ない……!」

 悪態をつくと同時に左手の魔剣を腰に収め、その流れで魔銃を手に取り銃口を構える。
 放たれる矢を撃ち落とすため、魔力を込めようと意識の糸を一本に束ねた──その時。

「──ッ、」

 呼吸が詰まり、指先に込めようとした力が急激に霧散した。

 何が起きたのか。それを考える前に、私の目の前には巨大な大剣を振り上げた武人が割り込んできて──、

「肝心なところで格好がつかないね。馬鹿犬」
「!!」

 部下の窮地をせせら笑うギラヒム様の一撃がタートナックの大剣を真っ二つに分かち、同時に放たれた短刀が投射攻撃兵を狙い撃つ。
 音もなく地面に降り立った主人の背に駆け寄ると、彼は「フン」と短く鼻を鳴らした。

「マスター、ありがとうござ、」
「お前が言うべきは礼ではないよね?」
「マスター、無敵かっこいいです!!」
「ハッ!! 知っている!!」

 ノリノリな主人に投げかけるべきは賞賛一択だ。髪をかき上げポーズを決めて、その隙を狙って猛撃を仕掛けるタートナックを軽く往なす。
 多々危険な状況はあるものの、現状奇跡的に無傷だ。この勢いのままなら、この地の突破は容易いだろう。

 ──そう。このまま、なら。

「なんだか、様子がおかしくないですか……?」
「……フム」

 辺りを見回し、その異様な光景に私は唾を呑み込んだ。
 ふらり、ふらりと。地面に倒れ伏していたはずのタートナックが一人、五人、十人と上体を起こし始めたのだ。

 それは彼らの精神力故の光景というわけではない。倒したはずのタートナックたちが、見えない糸に吊り上げられたかのように再び立ち上がり、武器を手に取る。

 やがて戦場は、振り出しへと戻されたのであった。


 ◆◇◆◇◆◇


 ──『勇者』の投獄。その噂は数日にして大地中へと広まった。

『勇者』と言うが、正確に言えば投獄されたのは未来の『勇者』となるはずの男だった。その男は王家直属の騎士団に属し、戦いの場では一騎当千の活躍を見せていた。

 しかしその裏で男は魔族と共謀し、王家の転覆を計っていた。
 その一端として男は王家が持つ情報を魔族へと流し、ある村を襲撃させ、村人を皆殺しにしたという。
『勇者』の信徒は男の容疑を否定したそうだが、王家が早々にその男を見限り地下牢へと閉じ込めたことで、それは歴然たる“事実”となった。

 当然、一族の者は使者の話を信じはしなかった。だがそれを嘘だと跳ね除けるための根拠を、辺境の地で生きる彼らは持ち合わせていない。
 一方で使者は封書に押された王家の紋章を見せるだけでそれが事実だと証明出来た。

 彼らが待った『勇者』は、たった一夜にして大罪人へと成り替わる。
 否、『勇者』なんて最初からいなかった。世論はそうわかりやすく、一色に染まっていった。
 何が事実だろうが、嘘だろうが。彼ら一族に残されたのは、王家の政治的運動に使われただけの間抜けな田舎者という不名誉な称号だけだった。

 やがて『勇者』という存在そのものが世のタブーとなり、彼らが守り抜いた『詩』が意味のない言葉へと成り下がる。
『勇者』を信仰していた彼らの社会的地位は、最下層へと突き落とされたのだった。


 ──しかし、彼らにとっての地獄はここからだった。

『勇者』が投獄されて数ヶ月が経った頃。外の世界の人間たちが一族の元へとやって来た。
 訪れたのは、王家の監視下にある城下町で金に飢えた商人たち。彼らは好奇の目を隠そうともせず、下卑た笑みを浮かべ、一族の人間を物色した。

 彼らの目的はただ一つ。──社会的地位を失ったこの地の人間たちを、“商売道具”にすることだった。

 王家の擁護を失った一族に、抵抗する術は残っていなかった。女子供を人質にとられ、戦士が手を出すことも出来ぬまま、彼らは一人残らず“商品”として捕らわれた。

 商品である彼らに対し、商人たちの扱いは苛烈なものだった。
 反抗的な口を聞けば鞭で皮膚を裂かれ、食事は手足を動かす最低限の量だけを与えられる。男は渓谷を越えるための労働力とされ、女は商人たちの肉欲を満たすための玩具となる。
 結果的に彼らの心身が壊れて商品価値が失われようと、下位の人間を貶めることによって得られる満足感が商人たちを満たしたのだった。

 もともとは魔族が手を触れられぬよう、秘境の地に押し込められた身。それが、魔族以上の悪魔によって貶められ、踏み躙られる。
 そして彼らは故郷から離れ、売られるための“市場”へ連れ出されることを余儀なくされたのだった。

 ──“彼”もまた、一族の他の者と同様、故郷からその身を無理矢理引き剥がされ、商人たちの貨物車に乗せられていた。

 彼に与えられた役割は商人たちの食料を得るための狩りだ。彼の剣の技術を評価した商人たちは渓谷を抜けるまでの間、彼に命懸けの狩場で戦うことを命じた。
 狩りを成功させたとて、一族の者に与えられる食料はごくわずかだ。商人たちは自分たちの食料を獲って戻った彼を犬と罵り、砂の地面に彼のための食料を放った。

 憧れのためにつけた力が、自身を飼う鬼畜のために酷使される。憧れが、夢が、未来が、腐り落ちていく感触が彼の手に生々しく残っていく。


 そうして故郷を連れ出されてから何日経ったのかわからなくなった頃。
 彼は商人同士の会話から、そろそろ一行が渓谷を抜けるという話を漏れ聞いた。

 彼にとって、生まれて初めての外の世界のはずだった。
 しかしその話を聞いた彼の心が動かされることはなかった。

 こんなにも呆気なく訪れた外の世界への脱出の時。そこには夢も憧れも、何もなかった。
 あったのは、地獄だけだ。自らの足でその場所に立つ時、自分はもう、“人”ですらなくなっている。

 ……ならばいっそのこと、最期にその景色だけを拝んで死んでしまえばいい。
 自暴自棄の末にたどり着いた答えでも、それは救いのように甘い結末のように思えた。

 やがて複数の馬が牽引する貨物車は左右に立ちはだかる岩の壁を抜け、緑色の平原へと踏み出して──、

「────」

 そこにあった世界に、彼の全ては奪われた。

 世界を知らないただの商品が夢見た、期待など抱くに値しない些末な光景が待っている。そのはず、だったのに。
 あんなに遠く、灰に淀んでいた空が、その全貌を見せてはくれなかった山々が、与えられたものでしかなかった地面が。何もかもが異なり、何もかもが予想を、世界を塗り替えて。

「……なんて、うつくしい」

 外の世界は広く、残酷なまでに美しく、眩しくて。
 そして、

「…………しに、たくない」

 哀れで、惨めで、泥に塗れた嘆きがこぼれ落ちる。
 自分が人ではない何かに成り下がっても、彼の口からは止め処ない言葉が、生に縋り付く意志が、溢れてくる。

 彼は気づいた。あの日使者に『勇者』の幽閉を知らされてから。否、父を亡くしたその時から。一度も流していなかった涙が、今まさに自分の頬を濡らしていることに。

「うるせぇよ」
「……ッが、」

 涙を流す彼が嗚咽を上げていたのか、それとも外の世界に意識を奪われた彼が癪に障ったのか、大柄な商人は涙を流す彼の頬を殴り、倒れ伏した体を何度も蹴り付けた。
 商人は彼の髪を掴んで頭を持ち上げ、嘲りの笑みが「どうしたよ」と覗き込み、

「『勇者』サマに助けを乞う『詩』でも唄うか?」
「────ッ」

 朦朧とした意識の中、鮮明に聞こえた呪いの言葉。
 頭が割れそうなほどの耳鳴りが襲い、口内に広がる粘着質な液体が甘く甘く変質し、全身を焼き焦がす激しい憎悪の炎が燃え上がる。

『勇者』は現れない。『詩』に意味などない。

 だったら。

「…………す」
「あん……?」

 力を、使えばいい。

「ころす」

 生きる──ただそのためだけに、使えばいい。


「ぁ」


 気づけば、彼の前には頭を二つに叩き割られた商人が横たわっていて、赤──否、緋色の塗料に濡れた斧が彼の手の中でぬらぬらと光っていた。
 深く探らずとも、記憶の引き出しは容易に開く。彼は無我夢中で商人を突き飛ばし、側にあった斧を拾い上げ、振り下ろしたのだ。

 むせ返る鉄錆の匂い。耳が痛くなるほどの静寂。苦悶の表情を浮かべたまま絶命している人だったもの。口は乾き、指先は凍ったかのように冷たい。
 五感に刻まれる、死の証拠。頭を満たした滂沱の憎しみの声は、それに塗り潰されて。
 その果てに、彼はこう思った。

 ──なんて、簡単なことだったのだろう。

 そう、それは命を奪うという最適解。
『勇者』なんていなくても、自分はこの足で大地に立ったじゃないか。
 誰もかれも、愚かだ。王家も、一族も、父も、母も、自分も。力こそが、すべてだったのだ。


 彼は、声を上げた。かつては『詩』を唄うために震わせた喉から血が出るまで叫び、手にした力で商人たちを皆殺しにした。
 商人たちは死に際に彼を『魔物』と呼んだが、彼はそんな妄言ごと叩き割り、断末魔へと変えていく。

 その果てに、血に塗れた彼は一族の者たちへと告げた。

 ──言葉が、声が、何になる。『詩』が、何になる。力がなかったから、我々は世界に見捨てられた。
 英雄は、理想は、『勇者』は現れなかった。
 力こそが、我々が服従すべき礎だ。

 そうしてその一族は呪いを身に纏い、武器という名の力を手にして、自らを蔑んできた人間を殺し、殺し、殺した。

 それこそが、タートナック──力に隷属する魔の一族の始まり。

 彼はその頂点に立つ。彼をそこまで導いたのは憧れのために使われるはずだった力で、その頃にはこの力が何のためのものだったのか忘れてしまった。

 彼の姿は、未来を潰した人間たちの血で緋色に染まっていた。


 ◆◇◆◇◆◇


 主従がこの闘技場に乱入した当初。鉄の仮面の上から読み取れるほどに、タートナック一族の感情は侵入者に対する怒り一色に染まっていたはずだった。
 しかし、今の彼らにそれは見えない。無だけが彼らを支配している。

 さらに怒りに任せ乱雑に振り下ろされていたはずの剣は、今や一つ一つが統制されたかのように鋭く、あっという間に主従を劣勢へと追い込んでいた。

「こ、これ、操られてるってことですか? それか呪い……!?」
「どちらでもいいよ。問題は、根元を断つか武人どもの体を八つ裂きにでもしない限りこの争いが終わらないということだ」

 振り下ろされる刃を最小限の動作で躱しながら考察を述べるギラヒム様。
 彼の言う後者の方法はタートナックを魔王軍に引き入れることを考えると出来るだけ避けたい選択肢だ。
 しかし、そうだと言っても断つべき“根元”の手がかりは現状見当たらない。探ろうとして思考を巡らせるも、再び襲いかかってくる軍勢を捌くことに気を削がれてしまう。さらに、

「マスター、こっちで……ッひぃ!?」
「──!」

 主人の死角から襲いかかるタートナックに斬り込もうと私が一歩踏み出した瞬間、その進路を別のタートナックが遮り、魔剣を弾かれた。
 まるで主従の連携を見抜いたような、否、俯瞰したかのような動き。
 タートナック同士で合図を送り合っている気配はない。ならば、彼らは“何か一つの意志に”動かされている可能性が高い。
 その意志が戦場を俯瞰しているとするなら、それは──、

「観覧席……?」

 円形の砂地をぐるりと囲む、争いを見物するための観覧席。矢をつがえた投射攻撃兵が並ぶその先に、ヒントがないか私は視線を走らせる。
 一見、この争いを見物する統率者らしき人物はいない。だが、視界の隅にあるものが留まり私は小さく息を呑んで、

「……ようやく気づいたようだね、馬鹿部下」
「!」

 その答えにたどり着くと同時に、背後に立った主人が唇を震わせる。
 どうやらタートナックたちの攻撃を捌きながら、彼も同じ思考を巡らせていたらしい。

「私かマスターのどっちかが“あれ”にたどり着けたら、いいんですよね……!?」
「ああそうだ。つまり……やるべきはわかっているよね?」
「もちろんですとも……!!」

 タートナックたちの猛攻を防ぎながら、最小限の言葉を交わし、お互いのすべきことを共有する。
 この武人たちを操っている意識の主が神聖な打ち合いを邪魔したことに腹を立てているのか、もっと別の目的があって武人たちの意識に干渉しているのか私にはわからない。
 しかしいずれにせよ、“あれ”の元までたどり着きこの争いを止めなければここを通ることは出来ない。ならばやるしかないと、私は覚悟を決める。
 ──と、その時。

「ああそれから。……リシャナ」
「はい!」
「その可愛らしい髪。……怪我でもして崩したなら、お仕置きだよ」
「は……、…………、………………え」

 それだけを言い残し、主人は私の体を捕まえ、一度地を蹴り軽々と観覧席へと跳び上がる。
 その姿を見て一斉に腰の剣を抜いて襲いかかる投射攻撃兵たち。“あれ”に向かって駆ける主人を援護するのが私の役割で。
 聞くだけならその役割と矛盾する彼の命令。意図するところはつまり、『無茶するな』と言ったところか。

「……マスターのばか」

 こんな状況でそんなふうに口説いて戦いに集中出来なくなったらどうするんだと思う。けれど彼の言葉一つで無限に戦えてしまう単純な自分にその反論は出来やしない。

 だから小声でささやかな文句を口にして、主人の前に躍り出る。
 そう、今の主従の前に立ち塞がるのなら、それが何であったとしても──。

「──全治百年」
「ってやつです!!」

 部下の剣が敵を切り裂き、開かれた道。
 そこを駆け抜けた主人の剣が貫くのは、観覧席の最奥に置かれていた、緋色の鎧だった。


 ◆◇◆◇◆◇


『闇に堕ちた狂人』──タートナック。それが彼ら一族につけられた種族名だった。

 憎悪という名の呪いを身に纏い、魔物の体を手に入れた彼らは近くの村を襲い、人間たちを殺して武器と防具を得た。そうして彼らは人間だけでなく魔物さえも殺しながら、貪欲に力を求めて生き続ける。

 彼らを統率したのは緋色の鎧とマントを纏った一体のタートナック。
 彼は一族の中でも飛び抜けて強く、軍師としての才を持ち、一族の地位を最上位へと押し上げたのだ。

 しかし数年をかけて人間と魔物の集落を襲い続けた後、緋色のタートナックは唐突に人間だった頃に棲んでいた渓谷に戻ることを一族へ命じた。
 彼はこう考えた。魔物となった一族が更なる力を得るには、当時の人間と魔物たちではあまりにも脆弱すぎる。真の力──真の武を我が物にするには、武の奴隷である一族の者同士で競い、殺し合い、技を磨くべきだと。

 渓谷に戻ってきた彼らは廃墟の一部を切り崩し、瓦礫を積み重ねて巨大な闘技場を作り上げ、日夜争いに没頭した。
 力の優劣をつける争いの中、一族の中でも階級が生まれた。下位の者には粗末な鎧と奴隷のような扱いを与えられる未来しか待っておらず、冷遇された者の中には自死を選んだ者も少なくなかった。
 かつて自分たちを虐げた商人たちと同じ行為を行っていると気づいたのは、その頂点に君臨する緋色のタートナックだけ。だが、死を選んだ弱き者に対する同情心は一欠片も湧きはしなかった。

「────」

 時折、彼の耳には渓谷の奥から響く歌声が届いていた。
 低く、水の中に浸透するように響く、言葉なき旋律。おそらくこれは、この地に昔から住まう大精霊のものなのだと彼は理解していた。
 そしてその歌が、かつてこの地で人間として生きていた頃に自分たちが唄っていた『詩』であるということも。

 その『詩』を聞くたびに思う。魔物と人間の境界なんて、とてもとても希薄なものだ。きっかけ一つで全てが変わってしまう。
 二度と最下層へ落ちないために力を求め続けていたはずなのに。頂点に君臨しても消えないこの飢えは、いつになったら満たされるのだろうか──と。


 そんな最中。魔王を名乗る男と剣の精霊がやってきた。
 彼らはどこからかタートナック族の噂を聞きつけ、一族を魔王軍に迎え入れるためはるばるこの地へ訪れたという。

 緋色のタートナックは──好機だと思った。
 魔王と剣の精霊。たった二人で交渉に来たことには驚いたが、魔王を殺せば自分たちは魔物の中で最も強くなれる。力の神に最も近しい存在になれる。やっと満たされる、と。

 故に彼は魔王へと告げた。

「武の奴隷を従えたければ武で証明しろ。真の武に至った者が、長として認められる」

 その条件を、魔王は表情を変えることなく承諾した。しかも、百体の武の奴隷を一度に一人で相手にするとさえ言い切った。
 この時、緋色のタートナックは初めての感覚を抱く。それは怒りではなかった。言葉として形容するなら、驚きと──期待、と言ったところか。

 言葉を交わすだけで、否、その存在を目の前にするだけでわかる。
 眼前のこの男こそが、魔族の頂点に立つ者。自身の中に巡る魔物の血が、本能が、服従することを強いられる感覚。この男を殺したなら、ようやく自分は頂点に立てる。
 その実感に、緋色のタートナックは内なる歓喜に満ち溢れた。

 ──だが、

「──取るに足らない有象無象に、剣を振ってくれる理由などない」

 魔王の実力は彼の予想をはるかに上回るほど圧倒的で、一方的だった。
 魔王は武器を使うこともなく、己の肉体のみを使い、百体のタートナックを打ち倒す。そして数多なる争いの中、一度も頂点を譲らなかった緋色のタートナックの剣は黒く美しい一閃に叩き折られたのだった。

 彼は思い知らされた。この存在こそが、頂点であるべきだと。長く、満たされなかった飢餓が満たされる感覚。
 呪われた一族が、たった一度の打ち合いで全て全て壊される。

 さらにその男は、

「その命を使い、我の血肉となれ。“武人”ども」

 争いに敗れ、死ぬつもりだった彼に、こうも容易く生きる意味を授けてしまった。
 彼の中の最適解であり、唯一運命から逃れる方法だった“殺人”。それを魔の王は、いとも容易く書き換えたのだ。

 彼はやっと、気づけた。彼が求めていたものは力でも、決して覆らない地位でもない。
 彼はただ、証明したかったのだ。自身が、この大地に二本の足で立つ“人”であったという事実を。

 だから、大精霊の風の刃から魔王と剣の精霊を守ることを迷いはしなかった。
 命を捨てたとしても、誰の記憶に残らないとしても、あまりに呆気ない終わり方だったとしても、

 初めて、誰かのために力を使うことが出来たのだから。


 ◆◇◆◇◆◇


 観覧席の頂点で戦場を見下ろしていた意識の主──緋色のタートナック。
 ギラヒム様が手にした漆黒の刃は、その鎧の中心に深々と突き立てられていた。

 瞬間、戦場を満たしていた戦意が霧散し、急激に温度が下がっていく感覚を抱いた。
 周囲を見回せば、私を取り囲んでいたタートナックたちは糸が切れたかのように地面に倒れ伏していく。
 彼らの意識を奪っていた主の魂を、主人が貫いた影響だろう。

 ギラヒム様は緋色の鎧からゆっくりと魔剣を引き抜き、虚空を切り裂く。静寂の闘技場に風切音が高鳴り、主人は静かに唇を解いた。

「お前が何を無念に思おうが、何を呪おうが知ったことではない。……けれど」

 それは紛れもなく、声なく眠る緋色の鎧の主へ向けられた言葉だった。
 数千年の時を越えて手向けられる言葉に、返ってくるのは柔らかな風のみ。それでもギラヒム様は緋色の鎧を見つめたまま続ける。

「お前が“人”になった瞬間はこのワタシが覚えている。だからせいぜい、待っていればいい」

 誰も受け継ぐことの出来なかった緋色の意志。それを読み取ることが出来るのは、今や世界でたった一人だけ。

「あの方は、我“ら”が必ず復活させる」

 主人は体を失いし武人の魂を見遣り、言葉を継いだ。


 ◆◇◆◇◆◇


 吹き抜ける風にのって、何かが聞こえる。
 ──詩だ。詩が聞こえる。

 世界にどれだけ貶められようと、人でなかろうと、己を見失おうとも、その旋律は耳に届き続けていた。
 勇ましき者の調べ。──『勇者の詩』。

 かつてはその詩のために使われていて、最期の瞬間は魔の王のために使われた、この命。
 耳に届く旋律は、自分が何者になっても変わりやしない。

 結局、『勇者』が彼の目の前に現れることはかった。
 結局、彼の復讐が果たされることはなかった。
 結局、彼が頂点に立つことは出来なかった。

 何も成せていない生の果てで、何も残さない死の始まり。きっと、こんな生き方をした後悔は尽きることがないだろう。

 それでも、

『その命を使い、我の血肉となれ。“武人”ども』

 こんな結末でも、最期の最後に“人”になれた。

『お前が“人”に変わった瞬間はこのワタシが覚えている。だからせいぜい、待っていればいい』

 こんな生の果てでも、“人”になれた自分を覚えている存在がいた。

 それだけで、彼は彼の生を受け入れることが出来た。


 この世界で生きていて良かったと、そう思えた。


 ◆◇◆◇◆◇


「緋色のタートナック……」

 持ち主を守り、一族の頂点であることを示す役割を与えられていた緋色の鎧。それは誰に受け継がれるわけでもなく、闘技場を見下ろすための観覧席に置かれていた。

 風雨に曝されところどころ朽ちているのに、燃えるような緋色は今なお燻むことなく煌めいている。私はその鎧の前に屈み、手を合わせた。
 出会ったことのない、遠い過去の魔物。命を落とした後もなお、力に呪われる一族を見守っていたのだろう。

 私は黙祷を捧げ終え、斜め後ろで待つ主人の方へと振り返る。

「……そういえばここを守ってた大精霊って、もういないんでしょうか?」
「気配はない。天地分離で置き去りにされた廃墟に用はないのだろう」
「その精霊って、やっぱり三龍の仲間ですか?」
「……いや、あれとは異なる姿をしていた」

 そこで区切り、ギラヒム様は唇に指を当てしばらく考え込む素振りを見せる。
 乱闘の後だというのに髪の乱れすらない美しい佇まいにしばし魅入られていた後、主人がおもむろに口を開いて、

「あれらの姿形になんて興味はないけれど……たしか、クジラとかいう生き物に似た姿をしていたね」
「……へ?」

 その答えは、浮かれた私の思考を止めるには端的ながらも効力があった。
 だって、その生き物は──、

「クジラって……あの、魚みたいな見た目の、おっきい動物ですよね?」
「それが何」
「たぶん、知ってます。その精霊」
「……は?」

 今度は私の発言に主人が驚く番だった。主従の間に疑問符が飛び交い、私は慌てて記憶を整理する。
 そう。その生き物の名前を聞いたのは、たしか。

「空にいたんです。クジラって生き物に似た大精霊。私は見たこと無いんですけど、せんせ……スカイロフトの限られた鳥乗りがその大精霊に会えるんです」

 気流が乱れ、熟練した鳥乗りでないとたどり着けない孤島。人々は定期的にその島にお供えをし、神聖な存在──大精霊を祀っていた。

 スカイロフトと同じく、その島も過去の天地分離の際に地上から空へと逃がされた地。
 だとするなら、かつてこの地の大穴にあったのは──。


「もしかして……詩島?」