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長編3-15_世界一かっこいい貴方へ



 ──彼は数千年前の聖戦の時代を生き抜いた、数少ない魔物のうち一人だった。

 繰り返し反芻されるのは、彼にとっての最期となった大きな戦。
 ラネール、フィローネの戦線を突破され、既に虫の息だと思われていた女神軍と、世界が手中に落ちると信じて侵略を押し進めた魔王軍の争いの記憶。

 魔王軍における遊撃兵として、彼は聖地侵攻に加わっていた。
 まずは聖地を囲む城下町の制圧。そして女神を亡き者にした後、聖地に隠された神の遺産の奪取。それが魔物たちに与えられた使命であり、最終的な目的だった。

 城下町は呆気ないほどに容易く魔族の手に落ちた。猛然と魔物たちに挑んだ騎士たちは次々と剣を折られ、倒れ伏していった。

 ──状況が塗り替えられたのは一つの爆発音を聞いた時だ。

 見渡す限りの赤。赤。赤。灼熱の炎が魔物たちの全身を炙り、黒焦げの死体が積み上がっていく。気づけば城下町は、赤い炎の海と化していた。

 彼は炎の中から命からがら逃げ出し、やがて理解した。女神軍は最初から故郷を捨てる覚悟で火薬を仕掛け、魔物たちごと街を焼き尽くすつもりだったのだと。

 多くの同族が火に喰われて、灰になった屍を踏み越えながら、彼は生き残った。
 聖地に踏み入るはずだった魔物たちは壊滅状態。街の外で指示を待っていた残党はいるものの、中核を担った者が全滅し、再び軍を成すことはもはや不可能だった。

 それでも彼が剣を手放さず戦い続けたのは、一族の王とその魔剣が聖地にたどり着いたとわかったからだ。聖地を中心に周囲一帯を包んだ激しい魔力の波が、魔王と女神の衝突を知らせたのだ。

 そして生き残りの魔物たちを迎え撃ったのは女神の一族を守るために奮い立った亜人たち。同族の亡骸を背に、魔物たちは一族の王が世界を手にする瞬間をひたすらに待ち続けた。

 ──だがその果てに彼が目にしたのは、大地と切り離され、天へと向かう聖地の姿だった。

 それまで忙しなく戦場を駆け巡っていた伝令兵が伝えたのは『魔王様が封印された』という事実だけ。
 結果、王を失った魔王軍は総崩れとなり、生き残った魔物たちのほとんどが亜人に殺され、屍は地下墓地へと葬られた。彼も、同様だった。

 葬送などという言葉とは無縁な、亡骸を捨て置くための穴。そこはいつしか“カタコンベ”と呼ばれる場所となる。

 ──それから数千年。
 亡者の吹き溜まりとなった穴の底で、朽ち果てた魔物たちの魂は沈黙の時間をひたすらに過ごしていた。
 意志も、感情も、祈りも消え失せ、無限の静寂が支配する地獄。彼もまた、冷え切った地獄の底で茫洋とした意識の海を揺蕩っていた。

 その時だった。

『──私たち魔族は、ものすごーく諦めが悪いんですよ』

 声が、聞こえた。
 魔族を語る、魔物らしからぬ声音。それは呪いの渦中にあった穴の底へと響き渡る。
 彼の意志はその声音に揺り起こされ、同時に声の持ち主の姿を垣間見た。

 それは、人間の少女だった。
 魔物の魂によってカタコンベへと導かれた少女は女神の遣いである雷龍を前に、言葉を紡ぐ。

『生き続けるって目的を失って、生きることに貪欲であるという誇りを失って……魔王様が封印されて、膝を屈した。そんな心の“死”を、彼らは悔い続けている』

 数千、数万の亡骸の前に立った人間の少女。魔物からかけ離れた存在が語る、魔族の在り方。
 たった数年生きた小娘に何がわかるのか。それはあまりにも滑稽で、笑い飛ばしてしまいたくなる言説のはずだった。

 しかし、

『救いなんて求めてかっこ悪いところを見せるなら、生きて、生きて、生き続けるために戦う一族です』

 毅然と言い張る少女の言葉を、浅はかな妄言だと一蹴することは出来なかった。
 何故なら、それはこの地獄に落ちる前に魔物たちが抱いていた矜持そのものだったから。

 そして地上での争いが幕を閉じ、カタコンベから遠く離れた地で懐かしき魔力が姿を現した時。
 少女が魔力を使い果たし、地獄へ近づいてきたと彼は悟った。

 その瞬間。

「──まだだ」

 魂だけの存在だったはず彼が、意志を持ち、そう口にした。

「まだ、死なせてやらない」

 少女はまだ、地獄に落ちるべきではない。
 幾千もの亡骸の前でそんな言葉を吐いたのだから、死んで楽になることは許さない。
 魔物たちの在り方を証明させるために、まだ、地獄へ受け入れてやらない。

 そうして落ちかけた少女の魂を、地獄の住人であった彼は引き戻したのだ。

 地獄よりも過酷な、現実へと。


 * * *


 ──残響。

『貴女自身が貴女のすべきことを決めたというのなら、私はその道筋を護ります。……使命ではなく、自らの意志で』

 耳を震わせ、胸を焼き、嘘の奥にある本物の願いが引き摺り出される。
 そんなものを見せるなと、そんなものは不必要だと。首を振って、耳を塞いで、叫び声を上げて。

『大切なものを、運命だって言葉で諦めたくない』

 それでも響き、残り続ける、残響。残響。残響。

『どれだけ敗れたって、助けになりたい人がいる限り、何度だって立ち上がる。どんな運命だって、必ず切り拓いてみせる』

 残響。残響。残響。残響。残響。
 黙れ、黙ってくれ。触れるな。覗くな。
 頑なに隠していたはずの感情を引っ掻き回す手を、見透かすような目を、全て全て拒絶したい。しなくてはならない。

 それでも、拒絶に埋め尽くされた心の隙間に入り込んでくるのは、

『……がぃ、……ぇ……て、』

 ──耳から離れない、あの声音。
 自分のためだけに願った、命の果てに聞こえた残響がいつまでもいつまでも、離れない。離れてくれない。

 離れては、くれない。


 *


「────」

 数度目の、寝覚めの悪い朝だった。

 鉛が詰められたように重い頭を揺り起こす。白銀の髪は乱れ、朧気な心地のまま室内を眺める。無造作に視線を彷徨わせ、最後にたどり着いたのはすぐ隣りの空虚な空間だ。
 広いベッドに横たわるのは一人だけ。普段傍らにあるはずの存在はそこにない。

 嘆息なのか、皮肉なのか、どちらともつかない吐息を落として再び上体を投げ出す。
 二度、眠りに落ちることはない。腐爛した泥濘のように混沌とした思考に、ただ沈んでいくだけだった。

 ──あの日以来、ギラヒムはただの一度も封印の地へ赴いてはいなかった。

『勇者』の剣により石柱の下へと引き戻された主の魂は再び地の底で眠りにつき、以来何の変化も見せていない。
 あの怪物が何故出現したのか、主の封印に何が起きていたのか。それらを考えようにも不明瞭な状況に思考は散らばってばかりだった。──何より、

「……リシャナ」

 傍らの寒々しい空間を片手で握りしめ、ギラヒムは無意識にその名をこぼす。
 主人に魔力を渡し、大量の血に溺れたリシャナは、未だ眠ったままだった。

 人間としての生命活動に必要な呼吸も脈拍も途絶えていない。足りないのは彼女が限界まで使い果たした魔力だけだった。
 どうやら、半端者が故に魔力が尽きても命が失われることはなかったらしい。その分回復には長い時間がかかる。彼女の意識が戻らなければ、ギラヒムから魔力を与えることも不可能だった。

 こうして煩悶に囚われるくらいなら彼女のそばにいればいい。そのはずなのに、物言わぬ部下の姿を見れば何かを糾弾されているような錯覚に陥り、それは叶わなかった。

 ──感情に収拾がつかない。
 巫女を探す手立てが失われたこと、魔王様があんな姿で蘇ったこと、勇者に再び封印されたこと、リシャナが死にかけたこと。
 こんなことをしている場合でないとわかっている。すぐにでも次なる策を考えなければ、今度こそ魔王様の魂は完全に消滅させられる。

「────」

 感情の置き所がわからないまま身を起こし、ギラヒムは自室を出る。自然と、足はリシャナが眠る寝室へと導かれていた。
 部屋には入らず扉の前で彼女の魔力に変化がないことを確認する。数日間、それだけを繰り返していた。

 そうして今日も変わらぬ結末を迎えようとした、瞬間。

「──!」

 慣れ親しんだ魔力の波を感じて、ギラヒムは大きく目を見開く。
 勢いに任せ、荒々しく音を立てながら扉を開いて──、

「…………マスター」

 主従の視線が、交わった。

 リシャナは唐突に部屋へ押し入った主人に驚き、閉じられていたはずの瞼を一杯に開いている。つい先ほど目が覚めたばかりなのか、ベッドの上で上体を起こし、髪は乱れていた。

 呼吸すら継げずにいるギラヒムを前に、やがて彼女は唇を緩めて、

「ちゃんと、戻ってきました」
「────」

 へらりと笑ってみせたリシャナに、ギラヒムは数瞬呆気に取られる。
 そのまま何も言い出さずにつかつかとにじり寄ると、次はたじろぎ身構えたリシャナ。何を勘違いしたのか、それを問い出す間も無く彼女の元へと手は伸びて、

「マスター……?」

 リシャナの体を、強く強く抱き締めた。
 彼女の唇からはどうしたのかと戸惑いの敬称がこぼれ落ちる。だが、説明をする余裕はとっくに失われていた。

 柔らかい体。嗅ぎ慣れた匂い。あたたかな体温。
 あの時触れた冷たい血液の感触が反芻されて、抱き締める力がさらに強くなる。

 胸の中のリシャナからはしばらく困惑の気配が伝わってきたが、数秒を置いて背中に彼女の手のひらが乗せられる。
 そうしてその体を抱き締めている間、リシャナはずっと主人の背を撫で続けていた。


「……リシャナ」

 束の間の抱擁を終えて、息を継ぐようにわずかに身を離して部下の名前を呼ぶ。
 視線で疑問符を投げかける部下に、喉元まで出掛かった言葉を本当に聞かせるべきか逡巡し、それでもギラヒムは口火を切った。

「『忘れるな』と、命じられたんだ」
「──?」

 そう切り出した主人の言葉を聞き、リシャナが無言で瞬きを返す。ギラヒムはその眼差しを受け止め、彼女の頭を撫でながら続ける。

「あの方が封印される瞬間、ワタシに残した最後の命令だよ」
「……!」

 ──それはギラヒムを縛る、永年の頸木である言葉だった。
 リシャナにとって、初めて語られた事実。それどころか、数千年前の出来事は今まで一度もギラヒムの口から語られたことがなかった。

 リシャナはその告白に不穏な何かを感じ取ったのか表情を凍らせ押し黙る。しかし一度も視線を逸らすことはなく、主人の言葉に耳を傾けていた。

「聖戦の果て……あの方と共に女神の庭へたどり着き、女神と過去の『勇者』に対峙した時。ワタシは、あの方の剣として最後を迎えられることを心から喜んだ。……幸せだと、思った」

 数千年前のことだというのに、今なおはっきりと記憶に焼き付いている争いの終わり。否、全ての始まり。
 向かう果てに何が待っていようと、いつまでも幸せな記憶を持ったまま最後を迎えられると信じていた頃。
 そこから刻まれた生々しい傷跡のような記憶は、今の自身を形作る原点だと言える。

「だが、『勇者』に敗れ、あの方が封印された瞬間。ワタシはその感情が罪深きものだったと思い知った」
「────」
「だから、あの方はワタシに命じたんだ。使命に反して勝手な感情を持ち、あの方を失った罪を……『忘れるな』と」
「……そんな、」

 その結論に、リシャナの口から否定の言葉が溢れかける。
 しかし諭すように視線を重ねれば、彼女は唇を結んで反論を噛み殺した。

 リシャナも、わかっているのだ。使命のために、主のために生きなければならない剣の精霊。その姿に憧れを抱き、命を使うと誓った部下。そんな存在が自らの幸せを願うべきではないということを。
 だからこそ、この結論を否定する術を持たないということを。

「命令に背けば、存在意義は消えていく。使命を果たせなかったならば──今度こそ自分は、自分でなくなる」

 剣の精霊は忠誠の擬人化でなければならない。魔王様を失ったのは、自分があの対峙の瞬間に余計な感情を抱いたからだ。
 そう、無理やり納得しなければ、次にまた大切な人を失った時、二度と立ち上がれなくなる。立ち上がる理由が、なくなってしまう。

 ──だが、

「そのはずなのに、封印の地でお前が魔力を託したあの瞬間。……ワタシが望んだのは、魔王様の復活ではなかった」

 リシャナの瞳が揺れる。彼女が憧れた、誰かのための存在という虚像が剥がれ落ちているのだろう。
 それは他ならぬ主人の言葉により、粉々に打ち砕かれる。何故なら──、

「──ワタシは、魔王様の側で、もう一度生きたいと思ってしまったんだ」
「────」

 再び、同じ過ちを犯したのだから。
 本来ならばあの時、自分は心から主の復活を望み、全ての魔力を注いで死ぬべきだったのだ。魔王様の魂は消滅せずに済んだが、それは結果論に過ぎない。

「そしてあの方はまた石柱に封印されて……お前を失いかけた」

 何故、こんなことを今さらこいつに話しているのか。ふとした疑問符が浮かぶ。
 自分がこの部下に何を求めているのかわからない。それでも止め処なく言葉が溢れてくる。答えが返ってこずとも、呪詛のように、祈りのように、ただただ言葉を吐き出したい。

 そんな自身の姿を客観視すれば、フッと皮肉に塗れた笑みが浮かんだ。

「けれど、お前は目覚めてくれた。……リシャナ」
「────」

 向けられた微笑みに、リシャナの頬が強張る。
 心からの慈愛を持って注いだ言葉だった。だからこそリシャナは何かを察し、主人がたどり着こうとしている結論に警戒を示している。

「……考えていたんだ。お前が目を覚ましたなら、この地獄のような輪廻を自ら断ち切ってしまってもいいのではないかと、ね」
「え……」

 愛おしげに頭を撫でて告げた結論に、リシャナが掠れた声を漏らす。そのまま体を捕まえると、彼女は小さく震えて身を竦ませた。
 怯える必要はないとわからせるため間近で視線を交えるが、彼女の瞳の中は曇ったままだ。

「ワタシのための存在であるお前がいる。ならば、あの方のいない明日に臆することはないと気づいたんだ」
「────」

 それはまるで、希望に満ちた耳触りのする言葉だった。そしてこの言葉に対し、この部下が出来るのは肯定だけだとわかっていた。
 あまりにも卑怯な憶測だ。リシャナという主人のために命を使うただ一人の部下が、主人の言葉を否定する術を持たないことを知っている。こいつはいかなる時でも主人の意志を後押しして、肯定すると知っている。

 だから、その誘いは自身にとっての結論と相違ないのだ。それを彼女の口から紡がせようとしている。あまりに卑怯で、傲慢で、切実な嘘をつかせようとしている。それでも、

「このまま、お前と──」

 そんな願いを持ってもいいのだという答えを期待した。
 主のためにしか生きられない亡霊に、終止符を打ってほしかった。

 きっとこの部下は縋っていいのだと、全てを投げ打っていいのだと口にするはずで──、

「……マスター」

 馴染んだ敬称が、耳朶を震わせた。
 穏やかな眼差しが主人を真正面から見つめ、薄く色づいた唇がゆっくりと解かれる。そうして彼女から返されたのは、

「私、貴方に一つだけ、嘘をついていたんです」
「……?」

 肯定でも否定でもなく、罪の告白だった。
 部下が騙った嘘。それが何を意味するのかわからず、ギラヒムは視線で疑問符を投げかける。
 リシャナは主人のその反応を予想していたのか、微笑みを絶やさずに続ける。

「“でぇと”をした時、私に聞きましたよね。『過去に戻れるとしたらどうする?』って」

 赤く染まった砂漠で、遠景に浮かぶ時の神殿を見つめながら部下に向けた問いかけ。
 彼女は少しの間を置き、過去でも未来でも主人のために生きるだけだと答えていた。──しかし、

「本当は、全てをやり直したいと思ったんです。貴方が求めてくれる、貴方を護ることが出来る、強い自分になりたいって思った。……貴方を救える自分になりたいと思った」

 それは今まさしく縋ろうとしていた部下の姿だった。今の自分は彼女にそう在ることを望んでいる。
 だが、リシャナは首を横に振って、

「でも、それじゃ……いけないんです」

 息を呑む。主従が望むものは同じであるはずなのに、返されたのは拒絶だ。
 そうわかっていながら、リシャナは甘やかで、泣き出しそうな笑みをたたえて、

「貴方を救うのは──私じゃ、だめなんです」

 主人の意志を、真っ向から否定した。


 *


「……どういう、意味だ」

 ようやく動いた舌は乾き切っていた。
 こいつは、自分のための存在は、主人の意志を否定することなどないと、そう思っていたはずなのに。
 さざ波のように押し寄せる動揺。リシャナの瞳の中に映る自身の表情は混迷を極めている。

「ここで貴方を救うと胸を張って言えたなら良かった。寄り添って、一緒に悩んで、貴方にとっての最善策を示すことが出来たなら良かった」
「────」
「でも、そんなことが出来たとしても、貴方を救うのは私じゃない。きっとそれが出来る人は、世界でたった一人だけなんです」

 自分を、数千年生きた亡霊のような存在を、救うことが出来るたった一人の人物。
 彼女が答えを告げずとも、その存在が誰なのかはわかっている。わかっている、けれど──、

「それ、なら……なぜ……」

 疑問が口を衝いて出る。譫言のように成り果てようとする言葉を懸命に押し出し、部下へとぶつける。

「何故お前は、俺のために命を使い続けられるんだ」

 その問いに、気丈に視線を注ぎ続けていたリシャナの瞳が初めて揺れた。気づいていないのかと、何故わからないのかと、痛切に責めているようにも思える目だ。

 理由はわからない。……わかるわけがなかった。
 わかってしまえば、何かが変わってしまうという予感が存在していた。

「お前が剣の精霊である俺の生き方に憧憬を抱いているのは知っている。主従として生きると、誓いを立てた日のことは全て覚えている。お前の首に残る傷が、目に焼き付いている。……なのにお前は、ここで裏切ると言うのか」

 願いの果てに、二つ分の命を懸ける主従。
 そんな関係性であるならば、何故今ここで縋らせてくれないのか。

「ここで手を振り払っておきながら、俺に魔力を委ねた理由は、何なんだ……?」

 巫女を失った。時の扉は壊された。蘇った主は不完全な獣でしかなく、再び封印された。
 それらを解決させる方法が見出せない今、救いなんてないと言っているようなものじゃないか。

 身勝手な暴論だと思う。望んだものに手が届かなくて、道が閉ざされて、わけのわからない状況に掻き乱された。それら全てに対する八つ当たりにすぎない。部下の答えを裏切りだと罵る道理はないのだ。──そのはずなのに、

「俺を憐れんでいるのか? 生き続けていれば、必ず希望が生まれるとでも? 数千年、生かされてきた果てが今のこの結末だと言うのに?」

 こいつが主人の姿から目を離さない理由がわからない。
 縋ろうとする手を振りほどきながらも主人を見離さないこの眼差しの理由が、わからない。
 困惑と拒絶。そう呼ぶべき感情がひたすらに溢れ出てきて、

「救う気がないなら、俺が『運命』に敗れて膝を折る瞬間を前にするくらいならッ……何故お前は、そんな目で俺を見つめ続けるんだ──!!」
「────」

 びくりと体を震わせながらも、リシャナは目を逸らそうとしない。
 そのあまりにも強く、圧倒される瞳の輝きは、主人を真っ直ぐに射抜いて、

「もし、私があのまま目を覚まさなかったとしても……貴方は願いを捨てることなんて出来なかったはずです」
「……!」

 それは確信だった。必ずそうすると言い切る、毅然とした言葉だった。
 何も返せずにいるギラヒムに、リシャナは口元を緩めて続ける。

「……とっても、嬉しいんです。今ここで貴方が私を選びたいと思ってくれていること。貴方が縋りたいと思う選択肢に、私がいること。とても勝手で、部下として抱いちゃいけない感情なのに……すごくすごく、嬉しいです」

 ほのかに頬を赤らめて、リシャナは心の底からの喜びを口にする。胸に手を当てて、その想いを大切に大切に仕舞うように抱え込む。けれど、

「本当なら、ここで貴方に逃げていいって、私と二人で生きていきましょうって、手を伸ばしたかった」

 そうしたかった、と言葉を継いで、彼女は彼女自身の喜びに繋がる道を否定する。

「きっと、それは貴方にとって最善じゃない。貴方は──救いを求めて、誇りを手放せる人じゃない」

 それが主人にとって選ぶ道ではないと、彼女は断言した。
 数千年のうち、たった数年。瞬き一つで消えてしまうほど短い時間しか傍らにいなかった部下が、確信を持ってそう告げたのだ。

「何故、お前は……そんなことを、言い切れる……」

 それでもわからなかった。何故、その目の光を失わないのか。何故、諦めていいと言わないのか。何故、こいつは──、


「──ギラヒム様が大切な人の助けになれるって、信じているからです」


 無限の「何故」を、彼女の声音はたった一度で打ち払った。
 それは、かつての聖戦の果てに抱いたものと同じ。

 ──いつまでも、あの方の助けになれる自分であることを、信じている。

 長く、長く失っていた感情を、ギラヒムはリシャナの言葉によってようやく思い出したのだ。

「いろんなこと、考えました。……でも、たどり着いたのはそんな理由だったんです。世界で一番かっこいい貴方が、貴方らしくいられる理由」

 リシャナはギラヒムを、主のために戦い続ける存在を見限ってはくれない。どれだけの言葉をぶつけても、抱いた憧れを砕かせようとしなかったのだ。
 そしてリシャナが命を懸けた分、ギラヒムは絶対に願いを叶えなければならない。そうさせたのは自分で、そのための主従でいることを選んだのは自分たちだ。

「だから私は、せめて一番大好きな場所で、そんなマスターを見ていたいです。大切な人のためにもう一度立ち上がる貴方を、一番近くで」

 リシャナは「部下の特権です」と舌を出す。おどけた態度と柔らかな眼差しを与えながらも、その言葉は厳しく、非情だ。
 一度は求めかけた救いの手を取らず、再び立ち上がれと言い切った。救いなど求めない、誇りを捨てない存在であれと彼女の理想を押し付けた。

 非情で、無責任で、残酷で。
 それでいて──誰よりも、主人のことを信じている。

「おまえ、は……」

 目の前にある部下の存在がひどく心を灼いて、その体を強く強く抱き締める。
 失いかけた自分のための存在を。唯一無二の、自分のためだけの命を。いつかは手放さなければならない体温を。

「……お前は、馬鹿だ」
「そうですよ。考えナシで、いつだってかっこいいマスターに夢中な、馬鹿部下です」

 抱き締め返した彼女の手が背中を撫でる。開き直った口調が生意気で、少しだけ力を込めてやったらくぐもった呻き声がこぼれて、けれど彼女は幸せそうに微笑を描き、

「だから、貴方がこうして無事でいてくれただけで、頑張ってよかったって思えるんですよ」
「──っ、」

 呼吸が留まり、言葉が消える。
 今度はこの腕の中にある命が壊れてしまわないよう、額同士を合わせて抱き締め直した。

 ──そして、

「……リシャナ」
「はい、マスター」

 万感の想いを込めた敬称が紡がれる。そこにあるのは敬愛と、期待。秘められているのは、名前など知りようのない、今はまだ知ることすら許されない感情。
 その正体はわからないけれど、それは確かに主人の背中を押す。

「俺は……もう一度戦う。あの方の、助けになるために」

 宣言する。甘えたくなる手を断ち切って。立ち上がるために、部下が隠した気持ちに気づかないふりをする。

「……だから、」

 彼を諦めてくれなかった彼のための存在が、取り戻させた誇りを再び握り締めて。
 その眼差しに、声音に、魂に、歩み出すことへの祝福をされながら、

「──背中を、預けさせてくれ」

 きっと、部下として選ばれたリシャナの本当の願いは叶わなくなるのだろう。
 それでも彼女は主人の手を取り、頭を垂れて短く告げた。


「イエス、マイマスター」