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長編3-14_冷たい赤



 ──待ち焦がれていた再会が劇的なものであることを望んでいたわけではない。

 しかし、唐突に訪れたその瞬間はあまりにも奇怪で、不明瞭で、おぞましいとすら言える光景だった。

「──魔王、様?」

 黒き影の水面から出現した、巨大な口を持つ“怪物”。
 鎧に似た硬質な鱗はその巨躯が身を捩れば波のごとく脈動し、二本の足が大地を踏み躙りながら螺旋の上層に向かって歩みを進め出す。
 何もかもが理解出来ない状況で唯一わかるのは、あれが他でもない主の魂を宿しているということだけだった。

「何故、あんな姿に……!?」

 怪物が地を踏み鳴らすたび竦む足を何とか奮い立たせ、ギラヒムは目を凝らして状況を分析する。

 ──魔王様の魂が封印の石柱の外へと解き放たれた。
 事実だけを客観視するなら、悲願が叶ったとも言えてしまえる状況だ。主の魂の存在を感じ取ったのは剣の精霊としての本能だが、あの怪物の額に突き立てられた封印の石柱がそれを裏付けている。

 しかし、長年付き従ってきた自身ですら主のあんな姿は一度も見たことがなかった。
 あれが本当に“魔王様の復活した姿”なのか。判断をする材料があまりにも不足している。

 さらに、再会を手放しに喜ぶことが出来ない理由がもう一つある。それは──、

「魔力を、吸収している……?」

 怪物が出現してから両肩にのしかかり続けている重圧。それはあの巨躯が放つ覇気によるものだと思い込んでいたが、そうではない。
 指先が麻痺し、両足から力が抜けていき、じわじわと生気が失われていく感覚が周辺一帯を支配している。──あの怪物が、周囲の魔力を吸収しているのだ。

「──!」

 その時、螺旋の底で何かが光った。
 怪物から視線を逸らし、目に留まったのは見覚えのある緑衣だ。

「あの小僧……!」

 螺旋の底にいたのは『勇者』──リンクだった。
 ギラヒムがたどり着く前からこの地にいたのか、彼は黒き怪物を足元から見上げ、圧倒されながらも立ち向かおうとしている。

 あの怪物を野放しにして良いのか否か、その答えは出ていない。が、いずれにせよあの勇者を自由にさせるわけにはいかない。
 悪態をつき、ギラヒムは魔剣を片手に螺旋の底へ飛び降りようとする。だが、

「────ッッ!!」
「!?」

 すぐさまその足は森中に轟く凄まじい咆哮に阻まれた。
 黒き怪物は大きな口を開き、大気そのものの唸りのような叫び声を上げている。
 同時に全身の黒い鱗が波打ち、背中の尾鰭が千切れた影のように溶け消えていく。

「体を維持出来ていないのか……?」

 怪物は空を目指して覚束ない足取りを進めるが、一歩一歩を踏みしめるたび、その体は不安定に揺らいでいるように見えた。

 言葉を持たず、生物として多くの器官が欠落した体。食事をするかのように周囲の魔力を掻き集め、女神の魂という生贄を与えられず顕現した歪な存在。
 それらの符号が示す結論。それは──、

「あれがもし、不完全な復活なのだとしたら……」

 器を得ず、魂だけが具現化している姿ならば。あの体を完全なものとして昇華させるための糧──すなわち魔力を注がなければならない。

 じわじわと奪われ続けている魔力だけでは到底足りない。
 もう一度あの方に会うためには、命すらも捧げなければ、足りない。

「────」

 ギラヒムは片手の魔剣を消し、真っ直ぐに螺旋へと向き直る。
 途端、さざ波のように押し寄せる懐かしき感覚。それは紛れもない、世界でただ一人の主のために命を使う、ずっとずっと待ち焦がれていた瞬間。
 今からすることが正解なのか、不正解なのか、それすらもわからない。けれど、

「……魔王様」

 大切な人の名前を紡ぎ、体の奥底が熱を帯びる感覚は、かつて抱いたものとひどく似ていて。

 静謐なる決意をたたえた魔剣は、ゆっくりと片手を上げた。


 * * *


『──今は回復に注力していろ。許可無く外へ出たら、わかっているね? リシャナ』

「……はぁ」

 ──その時。私は一人、拠点の廊下をふらついていた。

 特に行く宛がある訳ではない。ここ数日引き篭もりっぱなしで沈んだ気を紛らわせるための、単なる息抜きのつもりだった。
 ……はずなのに、広い拠点をぐるりと一周し、まだまだ現れない待ち人に仄暗い気持ちは膨らんでいくばかりだ。

 主人から下された指示はひどく簡潔で単純だった。
 命令の裏側にさまざまな思惑を読み取ったけれど、今の私は素直にそれを飲み下し、静養に努めることしか出来ない。
 拠点に帰還した日から見送り続けている主人の後ろ姿は、とてもとても遠いもののように思えた。

 一方、逸る気持ちに反して、失われた魔力はなかなか戻ってきてくれない。たとえ自分に嘘をついても体は正直なもので、蟠る倦怠感は空元気に振る舞うことすら許してくれなかった。
 それでも未練たらしく、意識は常に彼がいる方向へと向いてしまう。

 そうして癖のように主人の姿を探して、封印の地の方角へ視線を移した時だった。

「──?」

 普段とは違う異様な光景に、私は目を見開く。
 視線を注いだ先──封印の地の上空が、暗く鬱々とした灰色に淀んでいた。

 ただの悪天候に過ぎないのかもしれない。けれど今あそこに広がっている光景は、体が締め付けられるような、胸を内側から掻き毟られるような不安を掻き立てるものだった。

「あれ、何……?」

 何気なく手をついた石壁はやけに冷たく、胸中に渦巻く不安はさらに色濃いものとなる。

 私は足早に階下へと降り、脳裏に過る主人の命令を振り切って外へと飛び出る。
 途端、肌に纏わりつく生温い空気。暖かな昼間だというのに、森から生命の気配が一切感じられない。
 普段は拠点周りで警備をしているボコブリンやキースまでもが不穏な気配を察知し、姿を消していた。

 私は森に漂う不気味な静寂に気圧され、縋るような気持ちで人影を探す。
 数分彷徨い、やがて慣れ親しんだ姿を見つけてその人の元へと走り寄った。

「リザル……!」
「……!」

 リザルは拠点に隣接された魔物部屋の前に佇んでいた。
 トカゲ族の仲間へ指示を出した直後なのか、だだっ広い部屋の中を下位のリザルフォスたちが忙しなく行き来している。

 リザルは大きな目を見張った後、ほんの少しだけ安堵したように表情を緩めた。

「お嬢……は、なンともねェみてェだな……」
「何とも……? リザル、今何が起きてるの?」

 その問いかけに数瞬逡巡する気配が返ってきた。
 しかしはぐらかしても無駄だと判断したらしく、彼は一度長い息を吐き出し口を開く。

「封印の地で何かがあったらしい。報告によると、魔王様の封印の中から見たこともねェ化けモンが出てきたンだと」
「え……」
「その化けモンが周辺の魔物たちの魔力を食ってやがるらしい。しかも、封印の地から離れてるここでも影響が出てる。……よっぽど腹ペコなのか知らねェが、魔力なンざほとンど持ってねェ俺ですら気分が悪ィ」

 そう吐き捨てたリザルは言葉以上に苦しそうな表情で顔をしかめた。彼は魔力と言ったが、彼の様子を見る限り、実際は魔物たちの生命そのものを食らっているのだろう。
 故にリザルはいち早く危険を察し、魔力も生命力もない下位の魔物たちへ封印の地から極力離れるよう命じたそうだ。

 ほとんど魔力を持たないリザルたちに影響があり、微々たる魔力を持つ私に何の影響も出ていないのは私が半端者だからが故なのかどうかはわからない。

 だが、いずれにせよその話を聞き意志は固まった。
 私は黒い空をもう一度見遣り、彼に問う。

「マスターは、あの場所にいるんだよね……?」
「……だろーな」

 封印の地で異変が起きているのなら、十中八九彼はあの場所にいる。
 おそらくここにいる魔物たち以上に魔力を奪われながら、異変の根幹を探り──その“化け物”と直面しているはずだ。

 そして私の抱いた予想に、リザルもたどり着いていたらしい。
 彼は私が言葉を継ぐ前に牽制するように鋭い視線を投げ、

「先に言っておくが、お前が行ってやれることは何もねェぞ」

 低く言い放たれたリザルの言葉に頬が強張る。
 その反応は想定済みだったのか、変わらない口調で彼は私を睨む。

「ただでさえお前の魔力はまだ回復途中なンだ。その状態であそこに飛び込ンだら、何が起きるかわからねェ」
「……うん」

 彼の言葉は正しかった。未曾有の天災とも言えるこの状況で、ただの人間である私が取れる手段なんてあまりに限られている。
 しかし、それでも「何か方法があるのか」と問いかける眼差しに私は顎を引く。

「たぶん、一個だけあるの。……今の私が出来ること」
「────」

 頼れる先輩の失われた右腕を見るたび、心臓に杭を打ち込まれるような罪悪感が襲い掛かる。
 いつだって無茶ばかりする主従で、彼には申し訳ないと思う。彼がいくら否定しても、私たちの選択と彼の欠損の因果関係は切れやしないのだろう。

 けれど、今私がすべきは彼への贖罪ではなくて、

「……絶対に、マスターの助けになる」

 ──たとえ客席が屍に満たされようと、主人が舞台に立ち続けるために足掻くことだけだ。


 * * *


 ぼろぼろと、命が剥がれ落ちていく。
 冷たい、暗い水の底へ落ちていく。

「────」

 主の魂を持つ怪物へ己の魔力を注ぎ、注ぎ、注ぐ。今為すべきはたったそれだけだ。
 戦術も、思考する理由も、剣を手にする必要もない。──そのはずなのに。

「──っ、」

 魔術を使う時とは違う、自分の意志に反して生命ごと貪られ、気を抜けば精神すらも食われてしまうような感覚。
 あの怪物に魔力を注ぎ始めてから今まで、ギラヒムはその感覚に襲われ続けている。

 いつまで続くのか、どれだけこうしているのか、それすらも曖昧になって。
 自ら覚悟を決めたというのに生き地獄と呼ぶべき痛苦に呑まれ、狂ってしまいかけていた。

「ッは……!!」

 喘ぐように呼吸をこぼして意識の糸を手繰り寄せる。それでも視界は朦朧としたまま、ごくわずかな安寧すらも生まれてくれない。

 純粋に魔力を注ぐだけならばまだ堪えられたはずだった。与えた魔力は無尽蔵に食われ、消化され、怪物の飢餓は一向に満たされる気配がない。何故なら──、

「────ッッ!!」
「ぐッ……ぅ!!」

 耳を劈く怪物の咆哮が響き渡った瞬間、体を真っ二つに引き裂かれるような痛みがギラヒムの全身を駆け巡った。
 勇者に足先を斬りつけられた怪物が、魔力を大量に吸い上げたからだ。

 勇者はあの巨躯を止めるには鱗に守られていない足先を狙えばいいと判断したらしい。事実、その判断は間違っていなかった。
 白銀の剣に足先を斬りつけられるたび、黒い巨体がのたうち回るたび、体の中心から食い破られるようにギラヒムの魔力は失われていく。

「──ッく、」

 苦痛の波が凪ぎ、ふらつく足を踏み締める。こんな状態で立ち続けているのはもはや奇跡としか言いようがなかった。

 魔力は既に尽きかけている。が、ここで供給を止めれば、あの不安定な存在は一気に弱体化してしまう確信があった。
 そしてその瞬間を勇者に攻め込まれれば、魔王様の魂ごと討ち滅ぼされるということも。

 ──止めるわけにはいかない。

 痛みを噛み締め、深く呼吸をして魔力を絞り出す。自身の命をも削り取るように、耐えて、耐えて、耐え忍んで。

「──!」

 その瞬間、足先の損傷を重ねた怪物の巨体が大きくバランスを崩し、凄まじい音を立てて地面へと倒れ伏した。
 腕を持たない体のためすぐに起き上がる術がないのか、倒れた怪物はずるずると地を這いずり回っている。巨躯が螺旋の壁面に頭を打ち付けるたび、大地は大きく震撼し、

「──ッ!!」

 視界に光が弾け飛び、頭蓋を直接爪で裂かれるような衝撃がギラヒムを襲った。
 ──怪物の額に突き立てられた封印の石柱へ、『勇者』の一閃が届いたのだ。

 杭に繋ぎ止められた魂自体が斬り裂かれ、共鳴するようにギラヒムの肉体へ激しい痛みが叩きつけられる。
 終に魔力と肉体、双方の限界を迎えた彼は地面に片膝をついた。

「たりない……なにも、かも…………」

 勇者への呪いの言葉を吐き捨てるわけでもなく、歯を食いしばって対抗心を燃やすわけでもない。
 状況を悟るその言葉が示すのは、ただの諦めに他ならない。

 ぼろぼろと、命が剥がれ落ちていく。
 冷たい、暗い水の底へ落ちていく。
 封印の地の底と同じ、暗闇に落ちていく。

 痛苦に苛まれ、攪拌していた思考が一つの場所に行き着く感覚。

 その先に見えてきたのは──死だ。

「……まおう、さま」

 それは聖戦の時ですら感じたことのない、初めての感覚だった。永遠の時を変わらぬ姿で生き続ける精霊の体。もし訪れるなら、精神の死が先なのだと思っていたはずだった。

 ……ここが、終わりなのか。
 遠く遠くで客観視していたもう一人の自分が、足掻けなくなった己の姿にまざまざとした実感を覚える。

 魔物を束ね、壊滅した一族を再興しようとも。数千年、悲願の存在を片時も忘れず奔走し続けたとしても。こうも、呆気なく、突然に。

 ──それでも、ワタシは。

「────、」

 思考の回廊の果て。たどりついた答えに、ギラヒムは小さく息を呑んだ。
 それは、本来ならば自分が持ち得るはずがなく、あまりにも現実味のない結論だった。

 そんな感情なんて、抱くはずがないと思っていた。想うことすら許されないと思っていたし、今だってそれは変わらない。

 だが、命が失われれば失われるほどその感情の輪郭が浮かび上がる。逃れようのないほどはっきりと、その想いが──願いがそこにある。
 聖戦の時も、時の扉を前にした時も抱かなかった想いが、胸の中に。

「ワタシ、は……」

 もし、この願いを嘘と称して投げ出しても許されるのなら。そんな嘘ですら、一秒でも長く戦うための理由となってくれるなら。
 壊れかけた器が、荒れ狂う魂が、ちっぽけな存在の瑣末な嘘に今だけ耳を傾けずにいてくれるのなら。

「──あなたに、もう一度会いたい」

 こんな終わり方でなくて、こんな再会の形じゃなくて。
 叶うことなら、貴方の手で戦いたい。

 ──もう一度、貴方の傍らで生きたい。

 そう、思ってしまった。

「────」

 やがて、掲げていた手は糸が切れたように地に落ちる。
 無機質な砂の感触が手のひらに伝い、魔力の供給が途絶えた魔王様の絶叫が虚しく響き渡る。

 やはり、無様な願いは届きはしない。……嘘として紡いだのだから当然か。
 もういいと、諦めの声音すらもあまりにも弱々しい。けたたましく響き渡っていたはずの咆哮が遠く遠くに遠ざかっていく。

 こぼれ落ちた戯言は、荒れ狂う風にいとも容易く吹き飛ばされてしまって──、


「────ぇ、」

 その背中を、何かが支えた。

 それは仄かな体温の感触に過ぎなかったのに、深層へと沈み行く意識をわずかに浮上させて──、

「リシャナ……?」

 振り返って目にしたのは、紛れもない部下の姿だった。
 彼女は俯き、呼吸を荒げながらも主人の背に顔を埋めて懸命に体を支えている。

 その姿は本来、ここにあるはずのないものだ。魔力を食らう怪物の目の前に立って、普通の魔族が無事でいられるはずがない。そうでなくても、何の力も持たない人間の体は渦巻く魔力に呑まれて歩くこともままならないはずなのに。

「…………す……た、」

 吹き荒ぶ暴風の中、リシャナの掠れた声が耳に届く。次いで、既に力の入らなくなった左手に彼女の手が重なった。
 冷たい指先は震えながら主人の手を包んで、

「──!!」

 生まれたのは、淡い温もり。熱は四肢を巡り、流動する。
 それは触れ合った肌の体温であり──リシャナ自身の魔力であった。

 同時に思い出す、ラネール砂漠で雷龍と初めて遭遇した時に自分自身が彼女に施したこと。
 雷龍の被膜を魔銃で貫くために、リシャナへ微々たる魔力を注いだ──その逆を、彼女はしてみせたのだ。

 魔銃という変換装置のないリシャナがそれを成せたのは無意識なのか、それとも自身の生存本能が彼女の魔力を奪い取ってしまったのかはわからない。
 だが、呆気に取られている間にもリシャナの魔力は止め処なく主人の中へと注ぎ込まれていく。気を抜けば消えてしまうほどに淡い熱を細く長く、注ぎ、注いで──その果てに。

「……がぃ……ぇ…………て……」

 囁くように呟き、彼女の体はずるりと崩れ落ちた。
 両腕で抱えた体は魂が抜けたように軽い。繋がれたままの手から伝わる微かな脈拍がなければ、命の灯火ごと消えてしまったと思えるほどに。

 彼女から与えられた魔力はこれまでに食われた魔力の半分にも満たない。この魔力を使ったとて、起死回生の手段を講じることも出来ない。

 それでも、その熱は冷たい暗闇に沈んだ意識を掴んで引き寄せる。
 ──『願いを叶えて』という、言葉と共に。

「……なんで、」

 こぼれ落ちた疑問符に答える声音はない。もし今彼女が言葉を発せたとしても、その答えを教えようとはしないのだろう。
 こいつはいつだって、主人がすべきことを見守り続けるだけなのだ。──自らの命を使って。

「────」

 リシャナの体を抱え直し、もう一度手を結ぶ。
 彼女の命はまだそこにある。その感触を手放さないように、手のひらに残る体温ごと閉じ込めるように、指を絡めて握り締める。

 そして、空いたもう片方の手はゆっくりと黒き怪物の元へと掲げられて──、

「────ッ!!」

 再び魔力を得て、天に向かって吠え猛る黒き獣。
 対する空色の目の『勇者』も白銀の剣を構え直し、その存在の前に立ちはだかる。
 口を開いた怪物の喉奥には、永遠の奈落のような暗闇が広がっていて。その暗闇を切り裂くべく、白銀の剣が光を宿す。

 ──そして、


 *

 *

 *


『──忘れるな』

 覚えている。覚えている。
 記憶の淵で自身を繋ぐ、頸木の存在を。

『──忘れるな』

 声音も、声調も、音程も、そこに込められた意志も。
 全て全て、覚えている。

『──忘れるな』

 何度でもこの体を奮い立たせる呪文のように。
 何千年の時を経ても色褪せることなく、繰り返し述べられる罪状のように。

『──忘れるな』

 覚えている。忘れはしない。

 忘れていない。忘れたくない。

 ──だから、

『──に、──されるな』

 立ち上がるために、もう一度、“嘘”をつく。


 *

 *

 *

「────、」

 白い光に満たされていた視界が、じわじわと色彩を取り戻していく。
 小さくこぼれた吐息は、頬を撫でるそよ風に攫われ、静寂の螺旋へと運ばれる。

「────」

 視線を巡らせ辺りを見回せば、そこに広がるのは暖かな森の風景だ。
 天上を覆う灰色の空も、吹き荒れていた暴風も、螺旋の底を満たす黒い水面も、まるで泡沫の夢であったかのように消え去っている。──あの黒き怪物の姿までも。

「おわった、のか……?」

 問いに答える者はいない。
 だが、封印の石柱とその前に佇む『勇者』の姿が、何よりも明白な答えとなった。

 彼の力によって、魔王様の魂は再び石柱の下へと封印されたらしい。だが、下層へ降りずともそれが悲観的な結末でないと理解が出来た。
 ──主の魂の気配が、以前よりも色濃く存在しているからだ。

「…………」

 ギラヒムはしばらく物思わしい表情でその光景を見遣り──ハッと息を呑んで背後へ振り返った。

「リシャナッ……!」

 探した部下は真後ろの地面でうつ伏せに倒れていた。気を失っているのか、呼びかけには何の反応も返ってこない。
 一刻も早く尽きた魔力を回復させなければならない。ギラヒムは彼女を連れ帰るため、体を抱きかかえようとして──、

「……え」

 ぬるりと、湿った感触が手のひらに伝わった。
 異質な感触に目を見開き、彼女を抱えたまま自らの片手を眼前に運ぶ。

 彼女に触れた手のひらは、深い深い赤色に染まっていた。

「…………血?」

 ……これは、誰の血だ?
 咄嗟の疑問に、ギラヒムの時間が凍りつく。

 あまりにも現実味がない眼前の光景。精霊の体は血が流れないのだから、これは血の通う誰かのものに決まっている。しかし、こんなに大量の血を流した体が生きていられるはずがない。

 それは夢、否、悪夢のようだった。そうして現実逃避をしようとする思考を、鉄臭さと網膜に焼き付く赤色が強く強く戒める。

 魔族長としての体裁も保てず、目先の“絶望”にただ、溺れて。

「リシャナ……?」

 ──リシャナの体は、赤い血にまみれていた。

 部下の返事はない。その代わりに流れ出るのは赤い液体だ。彼女の鼻と目、耳、口、その全てから溢れて、溢れて、あふれてくる。
 体から流れたばかりの血液なのに、それは氷のように冷たい。まるでこれが、この命を無下に扱った罪の証だと知らしめるかのように。

 血、血が、赤くて、冷たくて──止まらない。

「…………た、」
「ぁ…………」

 その時、生気の乏しい声音がギラヒムの意識を急激に引き戻した。
 思わずこぼれたひどく弱々しい声に気付かないまま、ギラヒムは部下が生きているという確証を得たいがためにその体を引き寄せる。

 だが、声を出せたところで彼女が重篤な状態であることには変わりなかった。
 治癒魔法を使うための魔力はもはや残されていない。けれど早く、早く、助けなければ、リシャナが死んでしまう。
 方法を考えるにも幼子のように思考は迷走し、散り散りになり、そして──、

「──ごぶ、」
「!!」

 次なる言葉の代わりにリシャナの口から溢れ出したのは新たなる血だった。
 酸素を求めて呼吸をするはずが、喉奥から溢れる血液が気管を塞ぎ、自らの血で溺れかけているのだ。

「──ッ、」

 ギラヒムは反射的に彼女の唇へ自らの唇を重ね、彼女の口内に満たされた血を吸い出した。
 粘着質な液体。鼻をつく鉄錆の匂い。口に含んだそれを吐き出し、また唇を重ねる。

 数瞬、いつかどこかでその味を舌に乗せたという既視感が過ぎって──それが魔物としての生に根付いた本能なのだと自覚し、それごとかなぐり捨てるように血を吐き出す。

 何度かそれを繰り返すうちにヒュウと風の抜けるような音が耳に届き、唐突に肺へ到達した酸素にリシャナが咳き込んだ。
 ようやく呼吸が確保出来たらしい。それでも彼女の体中から流れる血は止まろうとしなかった。

 手段が潰え、絶望が胸の内を巣食う。
 いっそのことこのまま、命を削ってでも治癒魔法を使って──、

「ギラヒム様!!」
「──!」

 その時、思考の外側から誰かの声音が飛び込んできて我に返る。
 こちらへ駆けてくるのはリザルフォスの群れ。その先頭に立っていた個体が真っ先に走り寄って、

「お嬢ッ……!?」

 ギラヒムの腕に抱えられた部下の姿を見て、リザルは驚愕に息を呑んだ。
 ギラヒムはリシャナの元へ視線を戻し、低く彼に命じる。

「……回復兵を呼べ。こいつの治療に当てる魔力はもう残っていない」
「……、……わかりました」

 リザルは数瞬逡巡するかのように口を噤んだが、何も聞かずに顎を引いた。

 下位のリザルフォスたちに被害状況の確認を任せ、リザルは回復兵の手配のために走り去っていく。
 その姿を見送ることなく、ギラヒムはただただ手の中の部下を見つめる。

「────」 

 朦朧とするリシャナの瞳の中に映り込むのは、彼女と同じように唇を血の色で染めた自身の姿だ。

 赤い生命の色。冷たい死の温度。
 今にも消えてしまいそうな灯火を抱き、彼女が首元に傷をつけた理由と、死の間際に立った自身が抱いた願いがない混ぜになり、胸中を掻き乱す。

「……リシャナ」

 血に溺れたリシャナに、この声が届いているのかわからない。
 小さく唇を震わせ続いた言葉は、誰の耳にも、自分の耳にすら聞こえていなかったのかもしれない。

 だが、再び主人を見つめた後にゆっくりと瞼を閉じた彼女は、きっとその言葉の意味を受け止めていたのだろう。



「──すまない」