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天廻編5話_Revival



 ──砂を掴む、その感触だ。

「────」

 投げ出されていた指先が、固く無機質な地を撫でた。
 その次に得たのは全身を苛む痛みの感覚だ。瞼を閉じたまま疼痛に揺られ、四肢も胴体も、体の内側さえもひどく損傷しているのだと遅れた認識が告げる。
 さらに言うのなら、たった今までこの体は死の淵を彷徨っていたのかもしれない。

 瞼を持ち上げて地に手をつき、緩慢な動作で上体を起こす。痛みを紛らわせるように浅く吐息をこぼしながら、辺りに視線を巡らせる。
 見慣れた森の木々に囲まれたその下。何の変哲もない景色に、柔らかな風が吹けば鼻を掠める土と微かな火薬の匂い。
 そうして鈍く疼く頭を働かせて──自分がここで気絶していたことを、ギラヒムは最後に知った。

 だが、理解はそこまでに留まった。
 何故自分はこんなところで倒れていて、いつからここにいたのか。何があったのか。その疑問の答えが出てこない。──否、

「──ッ、」

 記憶の欠片を探ろうとすれば、それに反するように頭が痛む。
 同時にその痛みが思い出すことに対する強い強い拒絶心によるものだと、自覚する。

 しかし、そこで思考を放棄することは出来なかった。奥底に根付く使命感が、一刻も早く状況を把握しなければならないと促したからだ。

 瞼をきつく閉じ、一つ吐息をこぼす。
 一度覚悟さえ決めてしまえば、記憶はあまりにも容易く導き出すことが出来た。

 倒れてしまう前。自身が訪れたのは、女神が守る聖地。
 魔物たちを集め、軍を率いて、七日七晩に及ぶ争いを経て、同族の亡骸を越えながら、ようやく女神の元へとたどり着いて、

「────、」

 巡る記憶の変遷はやがて一つの疑問に行き着き、止まる。
 そしてその疑問の意味を理解した途端、息が詰まり、全身は冷たい予感に侵された。
 自分の記憶を覗いて導き出したはずの疑問だったのに、底の見えない薄気味悪さを直感的に抱いてしまう。

 それはあまりにも単純明快で、何とも無慈悲な問いだった。

 ──ワタシは何故、生き残っている?

「ぅ……ッぐ、」

 頭が、痛い。割れそうな程に。鋭い爪が頭の内側にまで食い込み、捕らえて離さないかのように。片手で頭を抱え痛苦を堪えようとするが、そうすれば今度は這い寄る不穏な予感に身体中の傷が疼く。
 滂沱の疑問を抱え込みながら、それでも使命感に突き動かされるまま記憶の欠片を探り続けた。

 何があったのか。いつからこうしているのか。どうしてここにいるのか。その記憶は、失われた訳ではない。

 記憶は、ある。思い出せる。覚えている。目に、脳裏に、魂に焼き付いている。
 けれど思い出したくない、見たくない。そんなことは許されないとわかっているのに、全身が現実を受け入れることを拒絶している。それだけだ。

「……ッは、」

 使命感と拒絶心がない混ぜになった吐き気に侵され、頭の中が明滅を繰り返す。庇うように両手で頭を抱え、蹲っても何も変わらない。
 冷え切った指先も、浅く繰り返される呼吸も、刺すような動悸も、全ては何が起きたのか自分が理解していることの証左でしかないのに。
 最後に残った何かを守るため。拒絶心が理解することを阻もうとする。

 しかしそれでも、自覚せずにはいられない事実は心臓に手をかけた。

 自分は。ワタシは。主の元で主の力そのものとなる、剣の精霊は。
 “一人”になることなど、あり得ないはずなのに。

 ──何故ワタシは、“主が傍らにいないのに”生き残っている?


「……?」

 その時だった。
 冷たい風に頬を撫でられ、誘われるように顔を上げた。
 吹き抜けた風にはやはり土と火薬と、血の匂いが混じっている。風上では生き残りの者たちが未だ争っているのか、もしくは終戦した直後なのだろう。

 木々が立ち並ぶ森の景色へ視線を巡らせ、やけに尾を引き響く風の音に耳を貸す。
 森で風が吹けば葉が揺れて、ざわめく合唱だけが聞こえるはずなのに。耳に届いた風の音は何故か寒々しく、低く唸って聞こえる。

 そうして数秒見つめ続けた森の光景に薄く違和感を覚え、答えはすぐに導き出された。

「……崖?」

 見遣る視線の先。緑が囲む道は不自然に途切れ、その先に無骨な岩肌が覗いていた。
 立ち上がり目を凝らすと、森を抜けた先の地は深い谷が横たわっているかのようにぱっくりと裂けている。切り口は遠目に見ても大きく、おそらくその層は深い。

 そこまでを認識し、胸中で渦巻いていた疑問はさらに深まった。
 自身が倒れていたのは見慣れた森の中だと思っていたはずなのに、その光景は見慣れないものだったからだ。
 既視感を覚えるだけの未知なる場所で行き倒れていたのかと刹那思ったが、何かが違う。

 疑問に促されるまま、ギラヒムは一歩ずつ足を進める。
 足取りがひどく重かったのは怪我だけが原因ではない。不穏な予感が、頭の内を掻き乱す警鐘が、確信を持ち始めているからだ。
 あれは崖でも谷でもない。さらにここは、間違いなく見知った森の中なのだと。

 だから行き着く先に広がる光景も、本来自分が見知ったものであるはずで、
 最初から疑問に思うべきは──“ここはどこなのか”ではなく、“ここにはなにがあったのか”ということだった。

「──!」

 ──穴だ。
 木々の屋根を抜け、視界が開けたその先。
 そこには巨大な穴が、神の手で抉り取られたような奈落が。大きな口を開けて待ち受けていた。

 一目見て、その地形がもともと存在していたものではないと見て取れる。
 森を抜け草原が続いていたはずの地面は鋭利な刃で切断されたかのように唐突に終わりを迎えていて、その先には掘り返された土と石が無造作に肌を露出している。

 螺旋のようにくり貫き形作られた穿孔は、もともとの景色を知らなければ巨大な墓穴にも見える。
 だがそれは亡骸を埋めるために穿たれた穴ではない。かつてここにあった景色を、切り抜き取り去るために出来たものだ。

「なに、が……」

 思考の何もかもが混迷に溺れるまま、戸惑いだけが口を衝いて出る。現実味がないと言い捨てるには、あまりに凄絶すぎる光景だった。

 そしてその光景──現実は、両眼を覆わずここまで出向いてしまった彼を、逃してはくれなかった。

「…………、」

 呆気に取られながらも引き寄せられるように足を進め、穴の下層部が視界へ映り込む。
 奈落の底は暗闇に紛れている訳ではなく、陽光に照らされ無情なまでにその全貌を露わにしていた。

 無理矢理世界を切り出して、大地が断絶された跡。
 そこは土や岩が剥き出しになり、取り去られた地からこぼれた城壁の破片や持ち主を失った武器が無造作に転がっている。
 螺旋の底は、まるで取り残されたモノの残骸が集められた地獄に見えて。

「────ぁ」

 やがて、その中に佇むある存在が目に入り、
 何故その地獄から目を離せずにいたのか、ここで何が起きたのか、全て全て理解する。

「……うそだ」

 螺旋の底。無機質な地の中央に、一つ。

 小さな石柱が、立っていた。

 それだけで、わかった。わかってしまった。わかりたくなんて、なかったのに。
 それを理解させたのは自身の存在の根底であり、生きる理由であり、本能。

 つまり、唯一無二の主との繋がり。
 ──いや、繋がりが断ち切られた後の、断面。


「──マスター」


 全てを、思い出す。

 戦場を駆け、終に女神の元へたどり着いた、その果て。
 たった一振りの剣で聖地を切り離し、その地を空へと浮かべた女神。そして──勇者が持つ白銀の剣に斬り裂かれた、主の姿。

 絶望に侵された苦鳴を聞きながら、主の憎悪の全てをその身で受け止めながら。
 網膜を焼き切る光が襲い、何もかもが終わると悟り、主と共に眠ることを決意したその時だった。

 魔剣の精霊は、主の元から引き剥がされて。
 主はそのまま、あの杭の下へ封印された。

「……あ、あ」

 一人倒れ伏していた理由も、この穴が存在する理由も、傷だらけの体の理由も、自身が一人だけでここにいる理由も、全て、すべてすべてすべて理解した。
 だがそれと同時に、生きる意味がわからなくて、存在の意味を見失って。

 憎悪も絶望も、希望が断ち切れる感触も、あった。
 ただそれらの激情を怨嗟として口にする前に、

 ──自分がどんな存在になってしまったのかという一つの揺るぎない事実が、真っ黒な澱のように落ちてきて。


 たった一人になった存在の、誰の耳にも届かない慟哭が──冷たい穴の底にまで響き渡った。


 *


「────、──」

 本能だけを曝け出した獣のように咆哮と絶叫を繰り返し、後は掠れ、擦り切れ、乾いた空気だけが喉からこぼれた。
 尽きぬ号哭に身を委ねた後は、地に膝をつき呆然と視線を地へ放すのみだった。

 これが人の体であったなら、長く吐いた息には血が混じっていたのだろう。精霊の体ならば命が、あるいは心が削れるだけだ。

 どれだけの間そうしていたのかはわからない。
 だが絶望の時を経て、皮肉にも冷静さを取り戻し始めた彼の頭は、いつしかここに長くいてはならないと悟っていた。

 最初のきっかけは、ずっと鼻を掠めていた火薬と血の匂いの正体を察したことだ。それらが漂ってきた方角から、生き残った同族と女神の兵隊が今もなお衝突している気配を感じたのだ。
 大地に残った亜人たちが統率を失った魔族を掃討し、石柱の封印を完全なものにするため動き始めているのだろう。

 奴等の手はいずれこの場所にまで伸びてくる。
 見つかれば、力を使い果たした彼は抵抗する術もなく殺されてしまう。

「────」

 そう、わかっていながら。
 彼はもう、立ち上がることは出来なかった。

 立つ意味が、見出せなかった。
 命令がない。声が聞こえない。姿が見えない。存在の根底にあった主との繋がりは、完全に断絶されてしまっている。生きる理由は既に失われているのだ。
 それならばせめて、形だけでも主の側で終わらせたいと、ギラヒムは願った。

「────」

 剣を振るい何かを護る者を、騎士という。
 騎士、つまり主に振るわれ力そのものになる存在を剣という。

 故に剣の精霊は、主の力の化身だ。
 主の願いを、希望を、欲望を叶えるために彼らはその身を捧げる。
 忠誠心は奈落の底より深く、命を賭して主を護り、主が朽ちる最期の時まで傍らに。
 主は、存在理由そのものなのだから。

 では、

「……ワタシ、は」

 ──持ち主のいない剣は、何というのだろうか。

 この存在の真理は何なのだろうか。
 この存在の意味は何なのだろうか。
 命令がなければ一人で死ぬことも出来ないこの存在は、一体。

 答えを示す者はいない。深い深い忠誠を、狂おしいほどの思慕を。幾度吐き出しても、幾度嘆いても。返されるものは何もない。
 そう、空虚な認識が体の奥底にすんなりと落ちた瞬間。

「…………、」

 俯き視線が投げ出されていた地面が陰りを見せて、世界が仄暗く染まった。
 そこでようやく、空から大地に降り注いでいたはずの陽光が徐々に失われ始めていることをギラヒムは知った。
 重い頭を持ち上げれば、そこで待つのはもはや四方に広がる蒼穹ではない。どこまでも続く灰色の分厚い雲が、空を覆い始めていた。

 空と大地が、隔絶されようとしている。
 女神の祝福を受けた者たちの、魔に侵されぬ楽園が空へ。
 敗北を喫し、統率者を失い、折れた牙となった者たちが大地へ。
 そうして調和をとった世界で、主の居場所が失われたことを表すかのように。

 ──ならば、

「もう、いい」

 ここが主の居場所のない世界なら、こんなところに用はない。
 生きるということを選ぶ訳でも、死ぬということを選ぶ訳でもない。
 あの杭の側で眠りについて、来たる運命に身を任せる。それでいいと思った。

「…………」

 故に、眼下で口を開けて待つ穴の中へ、小さな石柱が立つ奈落の底へ。自ら身を投じるべきなのだ。
 底が見えるはずの穴は落ちてしまえばきっと這い上がることは出来ないのだろうと、根拠もない確信が過る。それでも、もう他の選択肢は無かった。

 ふらりと立ち上がり、眼前の奈落を見下ろす。
 唇を結んだまま瞼を伏せ、冷たい空気に誘われるままゆっくりと踏み出す。

 そうして、螺旋の底で待つ主の元へ進もうとした──最後の瞬間だった。



『──忘れるな』


 声が、した。

 耳朶に届き、鼓膜を震わせる声ではない。
 思考することをやめようとしたその身を内側から引き留めるように、または許さないと断ずるように、脳内で清かに響いた声だった。

 声の主の姿は目に見えない。目の前にあるのは深い深い穴だけだ。
 だけど、輪郭がある。はっきりと見える。体の内側で、記憶の中で。哀しくなるくらいに鮮明に、その姿が。

 御影が、命じている。

『──忘れるな』

「────」

 それが決して絶望した自分の幻聴でないと裏付けるように、声が響いた。
 繰り返された意志は、徐々に記憶を色鮮やかなものへと変えていく。

「ちが、う。……ちがった」

 震える唇が紡いだ否定は、たどり着いた結論の内一つを改めるためのもの。

『──忘れるな』

 その理解を肯定するかのように、再び声音が響く。
 同時にこの声を実際に耳にしたのが、主との繋がりが絶たれる瞬間だったことを思い出す。

 そう、自分は残ってしまったのではない。
 主自らの手で、ワタシは残されたのだ。

 何故か。そんなものは決まっている。

 ──封印によって眠りについた主を復活させる、ただそれだけのために。

 それは主から残された、最後の生きる意味だった。

「──マス、ター」

 熱が、巡る。胸の内に、四肢に、指先に。込み上げてくる。存在が、魂が、揺さぶられる。
 敬称を紡ぐ。それだけの行為が傷だらけの体を奮い立たせる。

 とても、とても残酷な命令だと思った。
 方法も手段もわからない。きっと魔族は自分だけを残し壊滅状態となる。どれだけ時間がかかるのか、どれほど抗えば報われる時が来るのか。先は何も見えない。見ることは出来ない。絶望だけが見えている。でも、それでも、

 ──大切な人の助けになりたいと、
 確かにこの瞬間、魔剣の精霊は“願い”を持った。

「────」

 穴へと踏み出そうとした足は、地に踏みとどまる。朧気だった視界は色彩を取り戻し、一つに定まる。

 地の底の、小さな杭。
 それを網膜に、脳裏に焼き付けて──ギラヒムは振り返り、歩き始めた。

『──忘れるな』

 存在に刻まれた、主が残した声。

 その命令を介して与えられたのがこれから始まる永劫の時を生き続けるための呪いだったとしても、そんなものを希望と称するのだとしても。
 最後に手繰り寄せた存在理由に、彼は縋り付く。


 ──砂を掴む、その感触だった。

 ザラつき、数えきれない何かが手からこぼれ落ちながらも、その中で手繰り寄せたたった一本の糸。
 細く、白く、再び落としたのならすぐにでも見失う、あまりにも脆い命綱。

 次にそれを失ったのなら、今度こそ自身の存在は終わる。
 砂を掴むその感触が、自身の内に傷を刻み眠りから目を覚まさせる。

「──ワタシの、命は、」

 分厚い雲が覆う空を仰ぎ、その先にある聖地で束の間の安寧に浸る存在を睨む。

 空の色に、興味はない。あの方が存在する空にしか、興味はない。

 報われる時が来るのか。赦される時が来るのか。わからない。
 一度、失った。それが罪。それだけが事実。
 赦しを乞うために喉を震わせるならば、生き足掻くために爪を立てろ。

「ワタシの命は──貴方と共に」

 温度のない声音が空へ一つ、投げ出されて、


 ──主無き剣の精霊は、大地へと再臨した。



(210228/空剣HD発表記念)
(211028/天廻編5話として加筆修正)