天廻編4話_Nirvana
魔に食い荒らされた世界は、終に薄明の時を迎えた。
雲の隙間から幾筋かの白刃が降り立ち、慈愛の微笑みを浮かべた女神像が淡く照らされる。足元に広がる小さな箱庭では、草木が風に撫でられ音もなく揺れていた。
吹き抜けの白い壁が囲むその場所は、一切の異端の介入を許さぬ静寂に満たされている。城下で起きている争いの音は本来その場所に届くはずがなかった。──だが、
「────、」
蒼色の瞳を覆う睫毛がぴくりと揺れ、神聖な美をたたえた顔貌が悲痛に歪められた。
その目に映る新緑の光景に何一つ変化はない。しかし、彼女──女神の耳には、数多の声無き叫びが今なお響き渡っていた。
それは、戦場で掻き消された命の叫び。
玉砕覚悟で城下町での作戦を完遂した兵士たち。身を挺して人間を逃がした騎士と亜人の戦士たち。それ以前の戦場で、国や市民を守るために散ったたくさんの生命の灯火。
地の底から這い出た魔の者に、人々は為す術なく食い潰されてきた。一方的な蹂躙を許してしまったのは、長年の温い安寧に浸り切っていた女神の一族の過ちだ。
突如として叩きつけられた無力感と絶望感。
神の命一つで償えるものならばまだ良かった。支払った犠牲に対して自身の魂を捧げ、償い続けることで報いになるならそれで良かった。
だが、これ以上魔の者の侵攻を許せば世界が終わる。償いの前に、戦わなければならない。
だから、魔族が最も欲している力が眠るこの地で決着をつけることを決めた。そのために可能な限り城下町で敵戦力を削ぎ落とし、ここに至るまでの守りを固め、決戦の舞台を整えた。
──けれどその過程で、あまりにも多くの命が失われてしまった。
彼らは自ら希望の礎となることを買って出た。それでも今となってはその意志に甘えてしまっていたのではないかと、深い深い後悔の念が女神を襲う。
彼女は罪深きその身の重さに圧され、白い手を握りしめ──、
「──大丈夫」
「……!」
その細身を、背後から伸びた手が力強く支えた。
微かに震えた蒼色の瞳が背後へと振り向き、交わされたのは濁りない光を宿した空色の視線。彼女と共にこの地に立ち、最後の時を迎えることを決めた『勇者』の目だった。
彼は人の身でありながら女神を信じ抜き、最後までその側にいることを誓った。女神が胸に抱く罪悪感さえも、彼は穏やかな眼差しで受け止めようとしている。
軋む胸の痛みがわずかに和らぐ感覚を抱きながら、女神は小さな微笑みを返し、決然とした表情で眼前を見遣る。
そしてその瞳はある存在を目にし、大きく見開かれた。
「────」
それは、聖地に向けてゆっくりと歩を進める一人の男だった。
たったそれだけの存在が、透き通った聖地の空気を一瞬にして凍り付かせた。
この世界で彼一人だけが動くことを許されたような、底知れぬ威容。常人ならば瞬きの一つどころか呼吸すらも許されぬ強制力を持つ覇気。そこに顕現されているだけで、姿形は問わず見る者全てに恐怖と畏怖が与えられる。
規格外、異質、超常的。およそ人の言葉でその存在感を形容することは不可能。
女神と勇者はじっと身を凍らせたまま、男──魔王を見据えていた。
一歩、また一歩と足が進められるたび、重い気迫に体が圧し潰されそうになる。
息を詰めて立ち続け、魔王の足が女神の庭へ到達しようとした──瞬間。
「──ッ!!」
凄まじい咆哮のごとき放射音が、空を劈いた。
そこにいた者たちの認識の範囲外。息を殺し、ひたすらに来たる時を待ち受けていた光が、一直線に魔王の身を襲った。
女神の庭を守る最後の壁として潜んでいた、賢者による不意打ちだった。
その瞬間を狙って最大限の質量で放たれた光は、万物を焼き切り灰すらも残さず魔王を消し去る。
故に鮮烈な光が通り抜けた後に残るのは無、それのみ。──そのはずだった。
「……間に、合った」
「!!」
光の洪水が魔王の身を焼く寸前。
黒の一閃が、光を二つに斬り裂いていた。
息を呑んだ賢者が次に目にしたのは、魔王を庇うようにして立つ黒き魔剣の精霊。
その胸に痛々しい裂傷を刻み、光に体の半分を焼かれながらも──ギラヒムは魔王の身を守り切っていた。
安堵の吐息をこぼしたのもつかの間、彼は即座に召喚した短刀を放ち、潜んでいた賢者の脳天を貫く。
間近で起きた数瞬の命の奪い合いに、魔王は一瞥もくれることはない。留めていた足を再び動かし、ついに女神の庭へと踏み入った。
ギラヒムは胸の傷を抑えながらその背を追い、足を止めた主の背後に控える。
そして彼の視線の先では、女神と魔王が対峙の時を迎えていた。
「……やはりお前は、この場所にたどり着いてしまうのですね」
意図せずとも作り出された厳粛な静寂。その中で先に口火を切ったのは、女神だった。
張り詰めた緊張感を孕みながらも、鈴の声音は勇ましい響きを持ち、蒼色の目は真っ向から魔王を睨みつける。
美しき女性の姿を象りながらも己と同等の気迫を見せる女神に、魔王は口角を上げ、
「──哀れなる女神よ」
低く、その存在を呼んだ。
たったそれだけで、周囲の空気は掌握される。
魂が屈することを強いられる、圧倒的な重圧が支配権を握った。
「貴様は我がこの地にたどり着くとわかっていながら無駄な足掻きを繰り返し、千を超える亡骸の山を積んだ。希望などという幻想にかまけ、あまりに愚かな振る舞いをしたものよ」
反論はない。それは歴然たる事実であり、女神の罪そのものだからだ。
無慈悲なる断罪の刃を、魔王は女神に突き付け続ける。
「深淵より魔が出でた時から、世界の行く末は決まっていた。光が打ち消され、この地に眠る万能の力を我らが手にすることまでも」
「…………」
「聖地はこの瞬間に落ち、世界は魔族のものとなる。神が敷いた運命などに身を委ねる弱き存在は、喰らい尽くされ蹂躙される定め」
王が紡ぐ、絶対の道筋。
謳われた行く末は、今から起こり得る未来。あるいはこれから始まる決戦も、戴冠を前にした王の饗宴に過ぎないのかもしれない。
そう思い込んでしまうほどの圧倒的な断定の響きが、聞く者の意志を挫く。
「世界は、ここで終わる」
否定も反駁も、許されない。
誰もが思う、これが“王”の御前なのだと。
この存在こそが、世界を手に入れるべきで、万能の力を手にするべき存在なのだと、膝を屈して──。
「……あれは、お前たち魔族に扱えるものではありません。身に余る力を求めれば、一族ごとその身を滅ぼすでしょう」
「────」
清かな声音が、魔王に支配された空気を断ち切った。
無粋なる反駁の意志に魔王の眼光がわずかに歪む。しかし女神が怯むことはなく、凛とした声音は毅然として言葉を継いだ。
「お前たちにあの力を渡し、世界の均衡を崩すわけにはいきません。身命を賭し、魂を懸けて、我ら女神の一族が全てを守り抜きます。──あの力も、世界も、未来さえも」
その宣告に、数秒の静寂が訪れる。
やがてそれを破ったのは、短く浅い笑みで、
「……魂を懸ける、だと?」
険しい目つきで自身と対峙する女神に、魔王は肩を竦めてみせた。
その双眸には、ここに来て初めて見せる感情らしい感情が浮かんでいる。そこにあったのは、
「笑わせるな」
──落ちぶれた存在へ送る、嘲弄の笑みだった。
「だから人間だけをこの地へ逃したとでも言うのか? 愚かな騎士と亜人たちを利用し、幾千もの命を費やして」
「────、」
吐き捨てられたその言葉に、女神の表情が引き歪んだ。
魔王はその身を逃さず、いたぶるように呪詛を紡ぎ続ける。
「貴様も理解しているはずだ。我ら魔族の根源は、浅はかな人間どもの憎悪にある。憎悪の感情が生まれる限り、人間が存在している限り、魔族は決して滅びることはない。戦争の輪廻は、未来永劫途絶えぬ宿命よ」
人の憎しみが、嫉妬が、赫怒が。
魔を形作り、地から這い出し、大地を襲って生き血を啜った。
女神が守ろうとしているのは、その根源である人間だ。
世界を守ると嘯きながら、彼女の決意はあまりにも多くの矛盾を抱えていた。
「憎悪という甘い果実を人間どもが手放すことは不可能だ。そのような弱き一族を残して何になる。希望などという幻想に溺れた者たちが迎えるのは、破滅のみだ」
「──ッ、」
言葉の苛烈さなど存在せずとも、事実だけが女神の心を凌辱し、貶める。
命と世界を天秤にかけるなんて、神の手であったとしても許されぬ行為だったのだと、苦い後悔が圧し掛かる。
故に女神がそこで一度目を伏せたのは、最初から全てわかっていたのだと、冷たい納得を抱いたからだった。
不確定な未来のために今を犠牲にする。罪業を重ねる。
神でありながら、神であるからこそ。
命を冒涜し続けて。何の救いにもならない涙を流して。
心を持つ者は、かくも弱く、脆いものなのかと思い知らされる。
──しかし、
「……人間も、私たちも、弱き存在です」
白い手のひらを胸に当て、鈴の声音が静かに紡がれた。
神の身でありながらそこに存在する、人の心。
こんなものがなければ、胸が二つに裂かれるほどの絶望に屈さず、淡々と抗うことが出来たのかもしれない。
もしくは、犠牲を払い続ける神であることへの罰として、女神の中には心が存在するのか。それは誰にもわからない。
「……でも、」
彼女は呼吸を落として一度区切り、蒼色の眼差しで再び前を見据える。
「たとえ罪に塗れていて、弱き存在であったとしても──誰かのために願い続けることは出来ます」
「────」
女神が告げた結論に、魔王が微かに眉根を寄せた。
口にした反駁の言葉以上に、その蒼色には決然とした意志が宿っていたからだ。
「弱き存在が願い、育んだのがこの美しい大地です。完全ではない、あまりにも儚く、すぐに崩れ去ってしまう世界かもしれません。──それでも、誰かが誰かのために願い続けるこの世界を、私は守りたい」
透き通った蒼穹は、もはやいかなる呪詛にも屈することはない。勇壮な姿で立ち、真正面から魔の王と向き合う。
身勝手な結論だと、彼女自身もわかっていた。
後悔は尽きない。絶望は逃がしてくれない。
──それでも、願いは消えてくれなかった。
「……神である身を捨て、私は責任をとります。永劫に続く咎をこの血に刻み、背負い続けるために」
「……何?」
女神の言葉に、初めて魔王の余裕が陰る。
彼女が平然と口にしたそれは、命を燃やすなんて生易しいものではなかった。
その魂に輪廻を背負い、生き続けるということ。因果は巡り、償いの時は必ず訪れる。何度でも、彼女は魔と対峙し命を賭すこととなる。
女神はその身を、永遠の監獄に陥れることを自ら決めたのだ。
「お前たち魔の者は、いずれ消え行く『運命』です。私たちが最後まで希望を捨てない限り、『運命』は、何者にも変えられはしない」
「──!」
女神の手には、いつのまにか一振りの剣が握られていた。
女神が濃紺の鞘から抜き去るは、白銀に輝く刀身。美しく、曇りなき鋼が白光を纏い、魔王の両眼が驚愕に見開かれる。
その場にいた全ての者の視線を集めて──同じ剣であるギラヒムまでもが、眼前の鋼に意識の全てを奪われていた。
「────」
女神の剣は天に向かって乱れのない軌跡を描く。
次いで刹那の間を置いて、撫で斬るような一閃が走った。
斬られたのは魔王ではない。その威圧感に支配されていた大気と、彼らが足を着ける──大地だ。
「なに、が……!?」
何が起きているのか、ギラヒムは理解をすることが出来なかった。
剣閃に分かたれた大地は鮮やかな切り口を地表に生み出す。同時に凄まじい轟音と激しい振動がその地に襲い掛かり、足元の自由が奪われた。
まさに天変地異と言うべき状況の中、今起きていることを見届けようと、ギラヒムは顔を上げて目を凝らす。
そして視界に飛び込んできたこの世のものとは思えない光景に、続く思考の全てを失った。
「大地が、浮いている──?」
──女神の剣により切り離された聖地は、魔族が立つ片割れを残し、空に浮かんでいた。
遅まきにして、ギラヒムは全てを理解する。女神が城下町を捨てるような作戦に出た理由と、逃げた人間たちの行く末を。
女神は、最初から大地を捨てるつもりだったのだ。聖地にその身と人間を乗せ、天空へ逃がすことを決めていた。
「馬鹿な真似をッ!!」
魔王が憎悪に塗れた怨言を吐き、浮かび上がる聖地を追おうと一歩踏み出した。
切り離された聖地には魔王が求めていた万能の力がある。このままかの地を手放してしまえば、野望は絶対に果たされない。──だが、
「そこまでだ」
「!!」
その進路を、一人の人間が断った。
瞳の中に青空を抱き、精悍な顔つきで王を見据える青年──女神の横に控えていた、『勇者』。
彼の手には、女神が天地を切り離すために使った白銀の剣が添えられていた。
魔王は射殺そうとするばかりに勇者を睥睨するが、空色の目には一切の迷いも滲まない。
ここに立つことで、天空へ向かう聖地からその身がこぼれてしまうことすら厭わず、彼は魔王と対峙していた。
「人間の分際で我の前に立つとは。……命を失うだけでは済まぬ。女神同様、貴様はここで生まれた呪いに永久に捕らわれ続けることとなるだろう」
「……それでも希望を信じると決めた。女神も、人間も」
蒼穹に見届けられ、空を手放して、彼は大地に立ち続ける。
最後の最後まで、女神を守るための騎士として、勇者はその手に剣を取った。
「願いを継ぐために、お前をここで討つ」
勇者の宣言を聞き届け、魔王は一切の呪詛を返さず、一度両の
腕を下ろした。
そして無言のまま、神聖な舞台へ上がるようにゆっくりと足を進める。
──その手には、未だ何も握られていない。
「──っ、」
最後の時が、来る。
一刻も早く勇者と女神を討たなければ、主が求めていた地は空に奪われてしまう。
これが最後の剣戟になるのだと、わかりきっていたはずなのに。
ギラヒムは、一歩たりともその場から動くことが出来なかった。
情けなく主を呼び止める声を押し留めた。それで精一杯だった。
願いの果ては、何度も描いたはずだった。
確固たる信念を持って、一度は屈しかけながらも、主のための自身である意味を信じ抜いて。
胸を抉った傷の痛みは全身を侵している。それでも、自身を引き留めたのはその痛みではない。
今まさに目の前で起きている超常的な光景は、精霊として悠久の時を生きてきた中でも見たことがなかった。
──それでも今この瞬間は、神に認められた者しか動き出すことを許されない時なのだと、ギラヒムは本能的な理解を得ていた。
故に、彼の口から共に戦いたいと申し出ることは許されない。
魔王が、戦いの場に向かう主が、自らギラヒムを使うことを決めて命じなければ、彼は戦場に立つことが出来ないのだ。
四肢は地に縫い留められたかのように動かない。焦りが胸を掻き立てて、耳鳴りが止んでくれない。命令を紡がれたなら、絶対に聞き逃してはならないのに。
迷いを断ち切り、戦い抜いて、探し求めてきた自分という存在の答えがここにあるはずなのに。
魔王は勇者と向き合ったまま、従者に背を見せ続けている。その口から命令が告げられる気配は一切ない。
やがて魔王は勇者と剣を交わすことが出来る地にまで歩み出て、足を止める。そして、
──その光景を目にし、ギラヒムは全ての言葉を失い、全ての思考を奪われた。
「────」
魔王は無言のまま、振り返らず、持ち上げた片手を真横に差し出していた。
無造作に開かれ、何かを求める手のひら。
──それは、ずっとずっと見たかった、主が自身という剣を求め、手を伸ばしている光景。
今まで当たり前の光景だったのに。この方にとってはほんの些末な、意味などない行為であるというのに。
それだけの行為が、ギラヒムの全てを白に塗り替え、熱を巡らせる。これまで生きてきた中で最も鮮烈で、焦がれていた瞬間。
奇跡でも、夢でも、最後でも、何でもいい。
自分は、この瞬間のために生きていた。最後の最後、主の願いが叶うこの瞬間に必要とされること、それだけのための存在だった。
ここが願いの果てだと言うのなら、この幸福な記憶を何度でも思い出して、幸せなまま自分は終われるのだとわかった。
──だから、声無き命令に返すべきはたった一つ。
「──イエス、マイマスター」
最も大切な敬称を紡ぎ、最も愛おしい瞬間を、その身に抱く。
「──戦え、『勇者』」
二つに分かたれた女神の庭は、一瞬にして燎原の炎に包まれる。それだけでなく、怪物が口を開くように、地面は巨大な亀裂を生み続けていた。
そう、終焉を迎えた世界の中で、魔王と勇者は真っ直ぐに向き合い剣を掲げ──神すらも至れぬ最頂の剣戟を繰り広げる。
主の手に握られ振るわれた魔剣は、ただただ幸福に満たされていて。
いつまでも、いつまでも、この剣戟が続くことを願っていて。
そして最後に、彼の耳へ届いたのは、
「────」
主従を繋ぎ止めていた糸が、“希望”に断ち切られた、音だった。