■ 独占できるものは
どうにか壁外調査から帰還して少し経ったその日。
私たち104期は戦闘服を身に付けることなく、ウォール・ローゼ南区にて待機を命じられていた。
「イリス。お前はよくこんな、やることが何もない時間にそうやってにこにこ笑っていられるな」
「うん、だって――」
「ベルトルトが隣にいるからだろ。言われなくたってわかる」
コニーの言葉にわたしは大きくうなずいた。
まるで理由のわからない待機命令。無益な時間だが、わたしにとってはベルトルトの隣に陣取っていられるのでとても有益な時間だった。この時が永遠に続けばいいのにと心から思う。
ベルトルトはライナーとチェスに興じている。いや、どちらかといえば他にすることがないので、といった様子だ。
ルールはわからないけれど、眺めているとわたしは楽しかった。
まじまじと見つめていると、戸惑うようなまなざしが向けられる。
「イリス、楽しい?」
「うん!」
ベルトルトが話しかけてくれた。そのことが嬉しくて、私はにっこりと応じる。
すると呆れたようにライナーが私を見た。
「お前はベルトルトがいればそれでいいのかよ。おかしいと思わねえのか、この状況」
「ベルトルトがいるだけで充分だよ」
それ以外には、何もいらない。
しかしあまり見つめていたらベルトルトが集中できないだろうと気を使って、わたしは前に広げた紙にペンを走らせる。
「ところでイリスはさっきから何を書いているんです?」
「ああ、将来子供に付けたい名前のリスト」
サシャの問いかけに答えればコニーが言った。
「誰との子供かということは近くで真剣にチェスしてる誰かさんのために聞かないでおいてやるよ」
「ベルトルトだよ!」
「聞いてねえし」
わたしがペンを走らせていると、サシャが言った。
「私の村に『男は胃袋をつかめ』って言葉があります。イリスは知っていましたか?」
「何それ、本当?」
しばらくそんな会話で盛り上がっていたが、そのうちサシャが「ん…?」と声を上げ、ぱたりと机に耳をつけた。
どうしたのだろうと思っていると、彼女は突然大きな声を上げた。
「あれ!? 足音みたいな地鳴りが聞こえます!」
「はあ?」
そんな風にサシャが両手を振りかざして騒いでいると、窓から先輩兵士が入って来た。
その人と面識があるらしいクリスタが「ナナバさん」と呼ぶ。
何事だろうと根拠のない不安に襲われれば、その嫌な予感は見事に当たった。
「500m南方より巨人が多数接近。こっちに向かって歩いてきてる」
それを聞いて、わたしたち全員が一瞬で顔色を失った。
嘘。何で。ここは、壁の中のはずなのに――。
まさか。壁が、壊された……?
「君達に戦闘服を着せている暇はない」
これからわたしたちがすべきことを一気に命じると、ナナバさんは強い口調で言う。
「さあ! 動いて!」
ばたばたと全員が席を立ち、外へ出る。それに対してわたしは――わずかに躊躇った。
『君達に戦闘服を着せている暇はない』
ナナバさんの声がよみがえる。
確かに全身を巡らせるベルトと精密な立体機動装置を整備するには、それなりの手間と時間がかかるものだ。
でも、わたしには人の半分以下の時間でそれが出来る。
唯一とも呼べる、わたしの――
「よし」
わたしは一瞬で決意して立ち上がる。そして外へ出る皆と逆方向へ駆けた。
何をしようとしているのか気づいたのだろうサシャが声を上げる。
「イリス! 時間が――」
立ち止まることなくわたしは言った。
「わたしの速さ、舐めないで」
荷物を置いていた部屋へ飛び込むように戻り、服を脱ぎ捨てながら立体機動を保管している箱を開け放った。
戦闘服を身に付けてベルトを引っ張り出し、過去最速に立体機動装置を身に付ける。
『正確なだけじゃなく速度があるのは、自慢できることだと思うよ』
ありがとう、アニ。その通りだ。
何の意味もないと思っていたことを今は強みだと思えるから。
これだけは、きっと、わたしにしか出来ないこと――!
完璧にすべての準備を整えて、わたしは外へ飛び出した。
同期の皆はやっと馬舎から馬を出し、整列しようとしていたところだった。
「イリス、お前……!」
「まじかよ……何分も経ってねえぞ……」
立体機動装置を身に帯びたわたしの姿を見て、信じられないという顔の104期面々。先輩兵士も呆気に取られている。
大好きな彼――ベルトルトも驚いたような表情をしていた。
そんな彼らを前にわたしは告げる。
「さあ、行こう!」
(2013/11/09)
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