Novel
形勢逆転から形勢逆転へ
夕焼けに染まる部屋の中で一人、私は座ったまま目を閉じていた。
もう限界。自分のものとは思えないくらいに身体が重い。疲労が最高潮だとわかる。
「…………」
兵長たちに冤罪が晴れたことを伝えに行きたいけれど分隊長たちが動いているに違いないから任せよう。今すべきことは休息だ。この一週間分の疲労と寝不足、昨日の戦闘続きから徹夜、今日の大半は馬で駆けて動いて――思い出したら余計に疲れた。鍛えている体力と気力にも限りがある。私は超人じゃないんだから。一刻も早く眠りたい。横になるなら自室に戻ろうか。一瞬で意識が飛ぶに違いない。
ふと思い出したのは訓練兵時代に催された『東方訓練兵団限定168時間耐久不眠訓練』だった。結局誰も完遂出来なくて一体何のためにやったのかと思ったら『精神の限界は計り知れなくても身体の限界は知っておくべき』と教官が話していたのを覚えている。
私が訓練兵団へ入団した頃はウォール・マリアが陥落する前だったし、訓練課程に自由が利いたんだろう。
だから今思えば兵士らしからぬ訓練や鍛錬も多かった気がする。
例えば教官監視の下で、お酒を初めて飲んだりもしたし――
「師団長補佐のリーベ・ファルケさんですか?」
通路から声をかけられて瞼を押し上げる。顔を向ければ見知らぬ兵士の男の子がいた。初々しい様子で新兵だとわかる。
「……そうだけど……何か言付け?」
「はい、あの、面会に来ている方がいて……」
面会希望者の名前を告げられたけれど全く聞き覚えがない。そこで昨日のマルロの言葉を思い出した。
『先日の少女の件ですが、彼女の親戚が見つかり保護されました。今度お礼がしたいとこちらへ訪問予定がありますので、その際はまた連絡があるかと思います』
今こんなに王都が荒れている時にわざわざ来たのかと思っていたら、朝からずっと面会室で待っていたとのことだった。ならば知らないのだろう。これまで台頭していた王政が倒れたことも今は兵団が秩序を握っていることも。
「…………わかった、すぐに行く」
とにかく、そんなに待たせているなら会わないわけにはいかない。最後の力を振り絞って面会室へ足を踏み入れた。憲兵団の設備だからあちこち豪奢だ。
かすかな風の流れに気づいて見れば、窓が開いていた。夕焼けが眩しい。
そんなことを考えながら遅くなったことを詫びて、対面したのは金髪の女の子。アニ捕獲作戦でストヘス区が崩壊する中で彷徨っていたあの子だ。彼女を引き取ることになったらしい女性の隣で隠れるようにうつむいていた。
「こんにちは」
挨拶しても女の子は恥じらっていて微笑ましい。
とにかくこの子が無事で良かった。
私にも守れたものがあったことに心が満たされる。
女の子の前に膝をつけば、やっと顔を上げてくれて嬉しかった。
思わず身体の力を抜いて、ほっとした次の瞬間。
目の前にあった小さな頭が吹き飛んだ。
「!」
ばしゃっと血や肉片が大量にかかる。全身に、顔にも、髪にも。
女の子を引き取ることになっていた女性も同じように絶命していた。
濃い血の臭いの中、何が起きたのか理解するより先に思い出す。同じものを昨日も見た。無惨なニファさんの姿がよみがえる。
「――全兵団が寝返ってクーデターは大成功だってな。おめでとさん。めでてえ状況じゃねえか」
窓辺に長い影が立っていた。
「ケニー……」
茫然としてしまって、私は相手の名前を呼ぶことしか出来ない。
「そんな時に俺が何しに来てやったと思う?」
問いかけに考える猶予は与えられなかった。
「っ!」
次の瞬間には身体が壁に叩き付けられていて、そのまま床に倒れる。
全身へ走る激痛を堪え、追撃から逃れるために起き上がろうとすれば床に流れる血で滑った。
歯を食いしばってケニーを仰ぐ。
「どうして、こんな……」
「試してえことがあったからな」
試す? 何を?
逆光でケニーの顔が見えなくて表情がわからなかった。
でも、そんなことはどうでもいい。
私の手はやっと銃を抜いて、瞬時に照準を定めていた。
今までのように避けられる気配は微塵もない。しかもこの距離だ。外すのはありえない。不発だったら弾は当然届かないけれど昨日に続いてそう何度もあるわけない。
命中しないはずがなかった。
だから、ケニーの心臓めがけて引き金を――
「え?」
引けなかった。人差し指が動かない。
頭の中が真っ白になる。
わけがわからなかった。
ケニーが口を開く。
「やっぱりそうか。――お前に俺は殺せねえよ」
部屋へ射し込む夕陽が血と同じ色になる。
相手が近づいて来たのに私の身体はまだ思うように動かない。自分のものではないみたいだった。
「入隊試験や昨日の戦闘、この一週間もよく考えてみりゃそうだったな。お前が殺せるのは――」
頭に強い衝撃が走って、意識はそこで完全に途切れる。ケニーの言葉を最後まで聞くことは出来なかった。
(2016/08/04)