Novel
斯く語られる幼年期

「『リーベさんの料理は味の深みも香りも段違いだ』ってサシャが泣きやまないんですけど」
「……アルミン、どうすればいいかな」
「僕に言われても……」

 現在、夕食を終えて片付けの最中である。私が食器を洗い、アルミンがそれを拭いて最後にエレンが棚へ戻していた。ちなみに兵長は食事をしたテーブルとその周辺をひたすら綺麗にしている。

「でも、泣くことは思考や身体のバランスを保つために必要だと父が昔言ってました。悪いことじゃないって」
「あ、僕もイェーガー先生からそれ聞いたことあるよ」

 その言葉に私は感嘆して、エレンへ顔を向けた。

「先生ってことはエレンのお父さんって教師の人なんだね。すごい」
「いえ、教師ではなく――」

 すると私を見ながら話していたエレンがなぜか怪訝な表情になって頭を押さえた。

「エレン? どうしたの?」
「いえ……今、変なものが……」
「変なもの?」
「何か……何だ、これ……」

 次の瞬間、エレンの身体がぐらりと傾く。アルミンが皿を置いてから慌てて支えた時、ミカサが扉から顔を出した。

「リーベさん、お湯の用意が――エレン!?」
「解散式の夜と同じみたいだ。ミカサ、手伝って」
「わかった」

 どうやらこうなるのは初めてではないらしい。
 ミカサとアルミンが手際良く両脇から支えるようにエレンを運んでいった。

「大丈夫、かな……」

 何が起きたのかわからないまま、私は泡だらけの手で見守るしかなかった。




 順番にお風呂へ入る時間になって、私も使用することにした。左肩の傷はほとんど治っているので今はもう普通に浸かることが出来る。立体機動の訓練も数日前から身体を慣らしていた。
 まだ女子の入浴時間であることを確認してから脱衣所に立ち、服の中へしまっていた細い金の鎖を首から外す。そこには指輪が通してあった。ゲデヒトニス家の紋章が刻まれている、身分を示す証だ。ため息を漏らしながら指輪を服のポケットに入れてから全部脱ぐ。

 先客がいることはわかっていたので軽く扉を叩いてから浴室を開けた。

 こちらに背を向けて、一人でお湯に浸かっていたのは綺麗な金髪の女の子――ヒストリアだ。
 月明かりがうまく差し込んで明るいその空間で、身体を洗ってから私も浴槽に入る。ヒストリアの隣に腰を下ろした。私たちはどちらも小柄なので別に狭いとは思わない。熱湯を水でいくらか緩めた湯船はまだ熱かった。

「…………」
「…………」

 以前、旧本部のお風呂へ入った時と違って湯着を身に付けていないので全裸だが、同性同士なので別に気にならない。しかしこの空間は気まずく思える。彼女はクリスタと呼ばれていた頃と雰囲気が随分と違うのだ。ここに来てから最低限のやり取りしかしていないし。
 私は少し考えて、

「あの、ヒストリア」
「……はい」
「髪、洗ってあげるよ」
「はい?」

 返事を聞くより早く、私はもこもこと泡を作る。そして頭を出すように指示した。ヒストリアは怪訝そうに、それでも言った通りに動いてくれた。

 泡を絡ませた指先で、頭皮を揉むように丁寧に指を動かす。強すぎず、弱すぎない力加減を意識しながら綺麗な金髪に指を滑らせた。旧本部で兵長にやってもらった感覚を思い出しながら。

『俺は……いつも……』

 そういえばあの時のように、今日の兵長はずっと何か言いかけてはやめているような気がする。らしくない。一体どうしたんだろう。

 記憶を遡って、さらに思い出す。

 そうだ。壁外調査前に旧本部を離れる時もそうだった。血のような夕陽の中で抱きしめられたあの時。

『俺は……』

 兵長はずっと、何を言葉にしようとして止めているのだろう。

「リーベさん」

 ヒストリアの呼びかけで我に返る。

「あ、痒い場所ある?」
「……班の全員にはここへ来た最初の日に話したのですが」
「え?」

 ヒストリアは話し始めた。ウォール・シーナ北部の牧場で生まれたこと。祖父や祖母などその土地に暮らす人から疎まれて育ったこと。845年にウォール・マリアが突破された数日後、レイス家の当主――父親が名乗り出て現れたこと。妾腹の子として生まれたことで複雑な家庭環境と政治的に難があったこと。それ故に母親が殺されたこと。母親の最期の言葉が「お前さえ産まなければ」だったこと。自分も殺されかけたが、名を変え慎ましく生きることを条件に生き延びたこと。
 そうして――二年間の開拓地生活を経て訓練兵団に入ったこと。

「…………」

 私は綺麗な金髪から泡を丁寧に流しながら、黙って聞いていた。

 伝わるのはこんな自分はいなければと否定する気持ち。
 感じるのはこんな自分でも認めてもらいたい気持ち。

 わからない感情とは思えない。
 だけど、あの冬の夜に感じた苦痛と絶望、恐怖や孤独が私のものでしかないように、それはヒストリアのものでしかないはずだ。
 だから、わかるとは簡単に言わない。言えない。言いたくない。
 そもそも共感や慰めなど彼女は求めていないとわかっている。

 でも、何も言わないことしか私には出来ないのだろうか。

 そう考えるうちに話は進む。

「ユミルを追った壁外で『これからは自分たちのために生きよう』って言ったのに……ユミルは私を置いて行ってしまった。私が、必要ないから」

 そこでヒストリアは一度黙り込んでから、

「……リーベさんはユミルと同じですね。私以外の皆もそうです」
「え?」
「命を懸けられるくらいに、やろうと思えることがあるでしょう?」

 ヒストリアがうつむいた。

「私は……自分がどうすればいいかわからない。何がしたいのかも。私の中には何もない。レイス家の事情とか、それだけで……」
「ヒストリア……」
「空っぽです、私は」
「…………」

 きっと、自分で気づき、認識することでしかその空洞は埋められないのだろう。

 何となくそう感じて、私は口を開く。

「いつか、ちゃんと見つかるよ。今はわからないものが、きっと」
「そんなこと――」
「わからないよね。でも、ヒストリアは望んでいるんでしょう? それなら根拠がなくても言うよ、何度でも」
「…………」
「だからその時は教えてね」

 私は手についた泡を軽く吹いて宙へ飛ばす。思ったよりもたくさん、それは生まれてふわふわと浴室を漂う。洗濯をしている時のような気持ちになって、和んだ。

 ヒストリアもシャボン玉をぼんやりと眺めてから、こちらを見た。

 私は微笑む。

「ヒストリアが決めたこと、やりたいことがどんなものであっても力になるから」




 誰もいない大部屋で髪を乾かしていると毛布と枕を手にしたジャンが来た。

「リーベさん、予備のベッドなんですけれど」
「あ、もしかして出してくれたの? ありがとう」
「実はサシャが泣き暴れて壊したので使えなくなりました」
「……ベッドって簡単に壊れるものだっけ?」
「それで、今日はどうされますか? 女子の誰かと一緒に寝てもらうしか……」

 私は少し考えてから首を振る。

「それはやめておくよ。大丈夫、心配しないで」
「でも……」

 ジャンは言い淀んでからなぜか真っ赤になって、

「あ、はい、ですよね! 失礼しました! お休みなさいっ」

 毛布と枕を私に渡すなり、あたふたと部屋へ戻ってしまった。

「お、おやすみ……」

 今の反応は何だろうと考えて、わかった。私が兵長と一緒に眠ると思ったらしい。そんなこと出来るはずないのに。ここは隠れ家とはいえ最悪の事態に備えなければならない環境だし、15歳そこらの彼らの教育に良くないだろうし、何より年長者として示しを見せなければならないんじゃないかと思うし。

 そもそも私は誰かと同じベッドで眠ることが苦手だし。

「……それでも、兵長となら少しは大丈夫だったけれど」

 旧本部の一夜を思い出しながら、私はソファへ腰を下ろした。話し合う際にハンジ班面々が座っていた場所だ。寝心地はともかく私の背丈なら不自由はない。
 部屋を照らしていた蝋燭を吹き消してから私は毛布へくるまり、枕の下に拳銃を入れて横になることにする。

「さて……」

 眠れるかな。

 わからないけれど。

 目を閉じてみることにした。




『良い名前だね、リーベって何度でも呼びたくなるよ』
『どうして私の名前を……?』
『妹の婚約者があなたのことを話していたから』
『アルト様ですか?』
『そうだよ』
『あの、あなた様は……』
『あ、突然話しかけられてびっくりしたよね。私は――』


(2015/06/08)
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