Novel
終わりなき残酷な世界

 はっと気がつけば、私は路地裏の隅に膝をついてうずくまっていた。

 そうだ、ここは――ストヘス区。

 今は850年だ。

「う、っ……」

 息がうまく出来ない。込み上げるのは凄まじい吐き気だった。
 体内からせり上がってくるのに出てくるのは苦しげな呼吸だけ。

 吐いてしまいたいのに吐けない。苦しい。苦しい。

 指を喉の奥へ突っ込んで嘔吐を促しても無駄だった。まるで体内から出ることを拒んでいるように。

 結局諦めて、荒い呼吸を少しずつ落ち着かせるしかなかった。
 思わず心臓の上を強く握る。

 痛い。痛い。
 何もかも、ずっと痛いままだ。
 どうして慣れることが出来ないのだろう。

 もう十二歳の子供じゃないのに。
 あれから強くなったはずなのに。

「っ」

 握った拳を石畳へ叩き付けた時、意識が研ぎ澄まされる。私は素早く振り返った。

 誰かがいる。
 姿は見えない。
 壁に潜んでいるのだ。

 私は即座に太腿のホルスターから拳銃を抜いた。そして構える。

『さあな。ところで《硝煙の悪魔》? 何だそれ』
『ん? ああ、何年か前に憲兵団で話題になったんだよ、銃を持たせれば敵なしの訓練兵が』

 気配は一人、さっきの憲兵のどちらかだと直感する。

「出て来い! そこに隠れているのはわかっている!」

 私は叫んだ。だが相手は現れない。

 ゆっくりと立ち上がり、銃を構えたまま私は続けた。

「ああ、そうだよ! その通りだ! 私が《硝煙の悪魔》! まったく良い名前だよ、《ストヘス区の悪魔》――まるであの殺人鬼を殺したのは私だと知っているように冠されたこの呼び名!」

 思わず唇を噛みしめる。

 さっき、無理にでも吐いておけば良かった。だからこんなにも言葉が溢れ出てしまう。止められない。

「お前はあの《悪魔》の信念を知っているか? ただの強姦殺人鬼じゃない、死を望まれた子供を殺し尽くすことだ! 生まれて来たことを否定して生きていることを赦さない――心も身体も何もかもをすべて痛めつけることがあの男の正義だった!」

 だから私は十二歳の時に戦う意味を自覚した。

『愛も名前も与えられずに生まれた、それがお前の真実だ!』

「確かに私は! 私を殺すために私を産んだ母親を死なせて……私を殺し損ねた父親を死に追いやって……生まれる前から生きる価値も意味も何も持っていない!」

 まるで自分のものではないような声が狭い路地裏に響く。

『最初からお前が死ねば良かったんだ!』

「与えられたのは殺意だけで、名前さえもらえなくて……どこにでもいるような、死んでしまった方が良い人間だとわかってる!」

 自分が今、どんな顔をしているのかわからない。

『お前は――人間を殺す力を身に付けるために兵士になったんだろう?』

「だから戦う力を手に入れたんだ! 同期が立体機動に時間を割く中で銃を握って……私を殺そうとする人間を殺せる力を!」

 立体機動が巨人を殺す手段なら、銃器は人を殺すための道具だ。
 わかっているのに、捨てられなかった。

 だって――

「私はただ、生きて……愛されて、みたかった……」

 意味がなくても生きていたい。
 価値がなくても愛されたい。

 それが、私の守りたい、私の自由。

 だから悪意も害意も殺意も、すべて退けてしまえる力が欲しかった。

 私を殺したい人間を殺せるように。
 私の死を望む誰かを殺せるように。

 そうでなければ私は私でいられない。
 そうしなければ私は私を守れない。

 生まれてきたことを否定される私を。
 生きていることが赦されない私を。

 こんな人間は大人しく死んでいれば良いとわかっているのに。
 こんな人間が他の誰かを死なせてまで生きてはならないのに。

 それなのに――想いが止められない。

「こんな人間だから、たとえあの男と同じ《悪魔》と呼ばれる存在になり果てたとしても……それで構わなかった! そう呼ばれても仕方ない!」

 涙は出ない。それでも嗚咽に声が震えて、歯を食いしばる。

「生まれ方を間違えて、生き方を間違えて――でも、その間違いを甘んじて受け入れて! それで良い! それが私の正しさだ! たとえ世界の正しさでないとわかっていても!」

 私だけが、私を認めてみせる。
 だから誰にも知られなくて構わない。
 いや、誰にも知られてはならないことだ。

 本当の私を知られたら、誰もそばにいなくなるのは当然だから。

 命も心も身体もすべて蔑ろにされて――たったひとりで冬空の下に放り出されるような感覚が私は恐ろしくてたまらないのに。

 こんな人間が誰にも顧みられない孤独を嫌うなんて、どうかしているのに。

 だからあの夜。ナイルさんに多くを見抜かれて、私は逃げた。それだけじゃない。その現実から目を背けるように、戦いへ逃げた。翌日、勧誘式の直前、壁上の固定砲整備業務中に――壁外から帰還直前の調査兵団を迎える援護班の戦力がどんどん減っているのを見たと同時に、壁から立体機動で飛び出したのだ。

『お前の前にいるのは誰だ』

 そして、あの人と出会えた。

 それからずっと、欺いていた。

 こんな人間に声をかけてくれた、あの人を。

 本当のことは何も言わない、狡い人間であることに躊躇いはなかった。

 だって――

 愛されること。
 慈しまれること。
 大切にされること。

 それはとても心地良くて幸せで。
 手放すことなんて出来なくて。

 宝物のように扱う手のひらが。
 真摯に向けられるまなざしが。
 優しすぎる夢にも似た言葉が。

 それは私が――私なんかが手に入れて良いものじゃないのに。

 それでも欲しいと望んでしまった。
 そばで生きたいと思ってしまった。

 ああ、いつから私は、この願いを胸に懐くようになったんだろう。

 想うことも想われることも間違っているのに。

「人類へ捧げた心臓が、巨人よりも人間を殺すために力を付けていたなんて、矛盾ばっかりで……! それがわかっていても……!」

 拳銃を握る手に力が入った。

 命と身体と心を蔑ろにされることが嫌で。
 殺すよりも殺されることが嫌で。

「自分のことしか考えずに躊躇なく人間を殺せるんだ私は! 調査兵になると決めていたのも三兵団で最も戦闘に特化していることがわかりきっていたから、それだけで……!」

 調査兵団――巨人殺しの達人集団。

 壁の外にいる脅威を殺せたら、内側にいるどんな敵でも殺すことは難しくないと思えた。

 死ぬのは嫌だ。それでも、人間の殺意より本能と習性のままに殺しに来る巨人の方がずっと良い。
 巨人に対する恐怖はある。それでも、十二歳の夜に向けられた圧倒的な殺意の絶望には及ばない。

 壁の外へ出ると、生まれた瞬間から殺されかけた自分自身の在り方をいつも強く自覚させられて、私が私でいられて――その意味でも都合が良かった。

 本当に、自分のことしか考えていない。

「本当に、矛盾ばっかり……ひとりでいたくないのに、誰かを殺すのを厭わないなんて――でも、それが私で……」

 私は自分のために、殺せる。
 多くの人間が忌み嫌う巨人のように、人間を殺せる。

『お前が欲しくなった』

 あの人が求めてくれた私は、どこにもいない奇跡みたいな存在でしかなくて――そこで我に返る。

 こんなことを知らない憲兵に話して馬鹿みたい。相変わらず反応も返事もないというのに。まあ、それも当然か。

 吐き気は治まったし、言葉を撒き散らすのはもうやめよう。
 さっさと終わりにしてしまおう。

「――さあ、私の相手になるなら来い! お前たちが望むなら憲兵団2000人でも受けて立つ!」

 弾倉から非致死性の弾をばらばらと地面へ落とし、代わりに実弾を装填する。

「一発撃って同期100人を地へ伏せた話の通りに片付けてやる! やってやるよそれくらい! この私――《硝煙の悪魔》が!」

 そして拳銃を構え直す。
 もういつでも撃てる状態だ。

 もうあの夜のように『まぐれ』で命中させることはしない。
 たとえどれだけ遠くても狙い通りに撃ち抜いてみせる。

 それが十二歳の頃からずっと培ってきた、私の力だ。

「さっさとしろ! 出て来い憲兵! お前はそれでも兵士か!?」
「確かに俺は兵士だが――」

 聞こえた声に私は目を見開く。心臓が止まるかと思った。いや、間違いなく一瞬止まった。

「憲兵じゃねえよ、リーベ」

 現れたのは、兵長だった。


(2014/08/06)
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