Novel
約束と日常
壁外調査の日は本部が朝から騒がしくなる。誰もが最後の調整、最後の会議、最後の確認に追われているからだ。どれも怠れば命取りになる。
もちろん一兵士である私も例外ではない。ミケ班の打ち合わせを終え、これからひとりで自分の馬の様子を見に行くつもりだった。
時間を確かめて少しだけ余裕があるなと考えていると、向かいから歩いてくる人物に気づいた。思わず足を止める。
「兵長、おはようございます」
「ああ」
「いい天気ですね」
折よく窓から風が吹き込んできて、私たちの髪を揺らした。
その心地良さに、私は思わず目を細める。
「――お前の」
「え?」
「その顔が見たいと今、思っていた」
兵長の腕が伸ばされて、その手のひらで頬をそっと包まれる。力強い、兵士の手だ。
「兵長の手は大きいですね」
「……お前が小せえんだよ」
私は兵長の手に、自分の手を重ねた。
この人が、欲しい。
それはまだ言葉に出来ないけれど。せめて行動で少しでも伝えたい。
だって、いつ喪ってもおかしくない命なのだから。
私はこんな人間だけれど、それでも。
そんな強い想いが胸いっぱいに込み上げて、私は周りに人がいないことを確認し――背伸びをする。
そして兵長の頬にそっとキスを落とした。
顔を離せば、兵長の表情がわずかに変わっていた。まるで不思議な生き物でも見るようだ。
「……これは何だ」
「壁外で怪我をしないおまじないですよ。それでは失礼しますね」
今さら恥ずかしくなって、私は逃げるように兵長に背を向ける。そのまま離れようとすれば、強く腕を引かれた。
「あ」
言葉は奪われる。兵長の唇が重ねられたからだ。思わず後ろへ動こうとすれば、後頭部に手を回されて逃げられない。
戸惑っている舌に兵長の舌が触れてやさしく絡め取られる。うまく呼吸できずにいるとようやく離れた。最後にぺろりと軽く唇を舐められる。
「――俺にはこの方が効果ある」
それから私を優しく抱きしめて、兵長は耳元で囁く。
「約束をしよう、リーベ」
「やく、そく?」
「いつか、壁の外をどこでも自由に見に行くことだ。――だからそれまで、死ぬんじゃねえぞ」
「兵長……」
どうしてそんなことを言ってくれるの?
胸が締め付けられるようで、言葉に詰まる。
「…………」
私が望みは自由を守る強さ。そしてもう孤独に埋め尽くされないことだ。
だから本当はあなたより先に死ねることを望んでいるのに。
それなのに、あなたは私と共に生きることを願ってくれる。
こんな、私に。
「リーベ、返事はどうした」
促されて、私はうつむいていた顔を上げる。
目の前にあるのはまっすぐで鋭いのに、それでいてやさしいまなざしだった。
「兵長」
ひとつ呼吸をしてから、私は声にする。
ありったけの想いを込めて。
「――はい、喜んで」
「それでいい」
最後に私の頬へ唇を落とし、兵長は背を向けて外へ出て行く。
その背中に揺れる自由の翼を、私は時間の許す限り眺めていた。
翼のサクリファイス 了
(2013/09/23)
(2013/09/23)