あべこべ
 スポーツジムのシャワー室の前で待っていて欲しい。
 奇妙なことを頼まれて、僕はあくびをかみ殺しつつ女子シャワー室の前に突っ立つ。なんとなく理由に想像がつかないでもなかった。彼女は美しいから、幾度となく盗撮や痴漢、犯罪まがいの何かをされたのだろう。更衣室の前で震える背中。スポーツジムに通い詰めトレーニングを欠かさない熱心な会員の爽やかなイメージとはかけ離れて、小さく、怯えていた。僕が声をかけた日も、嫌なことを経験したのかも知れない。
 壁に背中を預けて心の中で秒を数えていると、恰幅のいい男が近づいてきて声をかけられた。彼は視界の中でさっきから細い廊下を何度も往復していた。体型はがっしりとした肩幅、厚みのある胸板。腰にも固い筋肉がついているのが、ジャージ素材の短パンの上から容易にわかった。浅黒い顔をしているが引き締まった印象はない。体育会系にしては機敏さのない緩やかな歩き、片腕を上げる速度。優しそうなお兄さん。そう言った物腰だった。そう言った物腰だったから、僕は無意識に警戒心を抱いた。
「そこ、女子シャワー室の真ん前だよ。女性が困惑するからそこからどいてもらえないかな。苦情も来てる。どかないようだったら引きずってでもどいてもらうよ」
 まるで子ども相手に話すみたいに、にこやかな笑顔は崩れない。まったく御し安い相手だと思われているらしい。
「つれが」
 あくびをした。手で口をふさぎ、はみ出た涙を拭う。
「つれが待っててくれって言うんです。よっぽど怖い目にあったらしくって。仕方ないんでここで立ちぼうけです。もうすぐ出てくると思うんで、ちょっと待ってもらえませんか?」
「ここはみんなの場所なんだよ」
 男が僕の手首を締め上げた。骨がきしむ。
 なんなんだろうか、この男。僕は危機意識が弱い。自己防衛本能が強いとも言う。心が、理性を超越した速さで来るべき恐怖を察知して、感受性をゼロにする。わからないのだ、自分へ向けられた悪意の種類が、原因が、その強さが。だから、簡単に見誤る。
「うがぁっ」
 僕は叫んだ。
 男が乱暴に僕の腕を振り回し、引っ張られた肩はちぎれそうな痛みを覚え、筋肉がぷつぷつと断線する音を立てる。足が滑り、背中は床に打ち付けられる。眼鏡が飛び出し、乾いた音を立ててどこかへ滑って行った。
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