メールの返信はすぐに来た。
携帯画面を閉じずに待っていた私は、即座にそれを開く。
件名:Re;
本文:今どこにいる?
簡素で強圧的な質問だった。文字がなくてほとんど真っ白なはずの携帯画面が黒く濁り、ドロリと白文字が溶け出すような、そんな雰囲気を放っている。実際はどうか知らないけども、そうじゃなけりゃいけないんだ。
「学校にいます」
と返信してから、学校の名前を具体的に書くべきだったかと反省し、打ち直している間に二通めが届く。
「学校を出て、最寄の公共交通機関に乗りなさい」
私は誘拐犯の意図を理解した。
「わかりました」
私は普段電車通学だけど、最寄の公共交通機関はバスだ。学校の真ん前にバス停がある。
「バスに乗りました」
「最後尾の席に座って。そのまま乗り続けなさい」
「わかりました」
どこまで乗ればいいのかは言われない。だが、言われないからこその本望で、言われればそれは、単なる移動になって、誘拐がさらわれる者に対して強いる自由意思の放棄と不本意さが無くなってしまう。
郊外へ向けて走る路線だったようで、窓の外を流れる近代的な町並みは、ゆっくりと赤茶けて年季を経て行く。木々や竹やぶの割合が増え、何年も色を塗り替えていない喫茶店の看板や、町外れには付き物の砂糖菓子みたいなホテルが現れては消える。夢中になってそれらを瞳に刻み込んでいるうちに、いつしかバスは山道をのっそりと登っていた。その間、小さな十×二×三立方メートルの箱体にはたくさんの人が乗って来て、降りて行ったけど、学生や若い主婦の姿はひとつもなく、シルバーカードを携帯していそうな背中の曲がった老人ばかりだった。世界には彼らしかいないのかと疑うほど老人だけのバスという、場違いな息苦しさに途中何度も下車したくなったが、誘拐されている身なのでそれは出来ない。
どこに行くんだろう、という不安が私の中にないことが残念だった。
私はどこへ連れていかれても構わないと思っていたし、そもそもどこかへ連れて行かれたいと願ったのは私なのだ。これでは、誘拐とは言い切れない。
「あなたは誰ですか?」
「知らなくていい」
「男ですか女ですか?」
「教えるつもりはない」
「じゃあ、私のことを話しましょうか?」
「必要ない。どうせ女子高生だろう」
質問責めの私に苛立ったのか、言葉遣いが乱暴になる。
「今乗って来たおばあさんと同じ駅で降りろ」
同時にバスが停車して、スーパーの袋から牛乳パックをはみ出させた小柄な女性が、足を一歩一歩踏み締めながら乗って来た。
私はこの時はまだ、致命的な違和感に気付いていなかった。
おばあさんの動きを見落としてはいけない。誰にともなく頷いて唾を飲む。
女性は一駅だけ乗ってすぐに降りたので、私も慌てて後を追う。
太陽が私の背後から肩を叩いて、木漏れ日がさわさわと笑った。風に髪を持って行かれる。バスが山を下って小さくなる。メールが着信する。
「今来た道を戻れ。脇道があればそこで曲がれ」
「犬の飼われている家で曲がれ」
「坂道を登れ」
「赤いポストの奥の道を通れ」
「神社を裏手に抜けろ」
「石段を真ん中まで登れ」
次々と送りつけられてくるメールの内容は、誘拐犯の要求というよりは、ゲームの指令みたいなものだった。メールに導かれて私は息を切らしながら歩く。メールのテンポは速く、私が指令をクリアするかしないか、その直前を見計らったように届いた。いつの間にか汗が脇に滲んでいる。ただ闇雲に歩いているだけのはずなのに、目をよぎる風景は静かで誰とも出会わず、だけどそこかしこに人の影だけがあった。民家の外へふんだんに飾られたプランターは、雨も降らないのに水をかぶってキラキラと水滴を光らせ、首輪をした猫がブロック塀の上でとろとろと眠りをむさぼり、神社の境内には新しい絵馬が数枚、微かに風で揺られていた。石段に落ちた木漏れ日を踏み、散らすようにして足を運ぶ私の首筋を撫でる風が熱くもなく冷たくもなくぬるやかで、産毛の一本一本、細胞一粒一粒を歓喜に震わせるほど心地良い。
石段を登った私は、赤い鹿と黄色い麒麟が腹の下から頑丈そうなコイルを出して地面と接着している遊具が目立つ公園にたどり着く。公園を突っ切った向こう側にはまだ石段が上へ上へと続いていた。携帯画面を確認した私は瞬きをして石段の先に開く空を見上げる。
雲一つ無い。無垢で無邪気な青。石段の繋がる先はわからないし、少し興味はあったけれど、私は誘拐されている。誘拐されているのだから、たどらない道は進めない。
赤い鹿に腰を下ろして、次のメールを待った。
今まで送られてきたメールを読み返したりして時間を潰す。
メールは来ない。
もしかしたら、ここでゴールなのかも知れない。それとも、途中で誘拐に興味が無くなって、もうメールを送るつもりが無いのかも知れない。単純に、誘拐犯に不測の事態が起きてメールを送れないだけなのかも知れない。可能性はいくらでもあったし、私は時間を急ぐつもりはなかったから、いつまでも待っていた。
陰り気味だった太陽がいよいよ本格的に沈み始め、辺りで橙色の光と、濃紺の闇による仁義なきせめぎ合いが始まる。優勢に思われた橙色だったが、いつの間にか両者の勢力は五分と五分になり、徐々に旗色を悪くしていく。
私は伸びていく自分の影をじっと見ていた。少しずつ角度が変わり、離れた位置にあった砂場に被さる。私の影がゆらゆらと揺れて分裂した。
瞬間、私は頭部に衝撃を与えられる。
あ、砂場が。
跳ねたように思った。
それだけ。
私は地面に顎を打ち付け、遅れてやって来た、脳みそを内側から頭蓋骨にぶつけるような痛みに眉をしかめ、そのまま意識を失った。
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