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群青に沈む(5)  



 昨日絵を丸めてゴミ箱に託したことを思い出し覗いてみたが、そこにあるのは空っぽのゴミ袋だった。掃除当番のクラスが片づけてくれたのだろう。ほんの少し後悔はあったけれど、あれ以上あの絵を進めることはできなかったのだからわたしの選択は間違っていない。
 新しい画用紙を取り出し、なにを描こうかと考えながら準備を進めていたところで扉の開く音がした。忘れ物をした生徒か、放任主義の顧問か、はたまた気まぐれを起こした幽霊部員のうちの誰かか。目線が合わないことを祈りながら扉の方に目を向けると、その人物と視線がかち合った。
「今日は水曜日だよ」
 金曜日では、モデルを頼んだ日ではないとそう暗に伝えた。貸していたノートは教室で返してもらったし、他に用事があるとは思えなかった。彼女は後ろ手になにかを持ちながらちらちらとわたしの様子を窺っている。
 珍しい、というよりははじめての彼女に若干の戸惑いを覚える。言いたいことがあれば臆せず言う人だ。そもそもそんなことをせずに伝えることすら諦めて、なにごとも無かったかのようにすることの方が多い人だけれど。
「いたら、邪魔かな」
「そんなことはないけど」
「ここは居心地がいいから」
「まあ、好きなようにどうぞ」
 深く聞くことはやめていつもの定位置に陣取った。空を描くとどうしても白木を描きたくなってしまうからやめたほうが良いだろう。でも、空は空でも夕暮れなら良いかもしれない。胸がざわつくような空も嫌いじゃない。
「空本」
「はい」
 意を決したような声で彼女がわたしの名前を呼ぶ。作業も思考も一時中断して彼女の方に向き直った。いつの日か空を眺め、群青に手を伸ばした位置に彼女は立っている。
「空に、群青に沈んでみたくなったよ」
 彼女の手には見慣れた一枚の絵があった。塗りかけの青空とわたしの中にいる彼女を描いたあの絵が。
「空本の手で、この群青に沈めてよ」
 
 彼女の視線は窓の外。空は快晴、群青だ。澄ました鼻先も、薄く開いた唇も、柔らかな頬も、彼女のパーツ一つ一つが愛おしくてたまらなくなった。
「空本」
 彼女がわたしの名を呼ぶ。耳に心地よい高音。返事はせずとも彼女はわたしの目を見つめながら続けた。
「空本となら沈めるよ。あの空にも、海にも、群青にも。青じゃなくて赤でも黒でも、紫だろうがなんだろうが。
 空本となら、どこにでもいけるよ」
 窓を開けた。風が彼女の長くて細い髪を揺らしきらめかせる。膝下のスカートが踊る。なんと美しい光景だろう。やはり彼女は画になる人だ。
「わたしも、同じこと考えてたよ」
 あの絵は少し描き直す必要がある。あれでは彼女の魅力が引き出せない。これから描く彼女の顔は笑った顔にしよう。美しい唇の形も、丸く輝く瞳も目立たなくなってしまうけれど。
 でも、なによりもこの群青に、深い世界に相応しい。


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