過去原稿 | ナノ


群青に沈む(4)  



「空本」
 美術室の電気は落ちていた。予感はしつつも声をかけてみたけれどやはり中に彼女の姿はない。借りていたノートを返せていなかったのだ。ただそれだけのことだから明日でも構わないのだけど、人の私物を持ち続けるというのはなんだか荷が重かった。
 いつも空本が座る席に腰を下ろす。私は彼女の描く絵が、絵を描いている彼女が、そのときの瞳が、感性が好きだ。美術室にいる彼女はどこか研ぎ澄まされていて、そんな彼女を見たいがためにモデルを引き受けていると言っても過言ではない。
 空本の席から窓の外に目をやった。もう少しで夕陽が空を支配する。彼女は群青を描くと言っていた。コンクール用の絵はどの程度進んだのだろう。
 勝手知ったる、というわけではないけれど、空本がいつも描きかけの作品や出来上がったものを置いてある棚の位置は知っていた。彼女がいままでに描いてきた作品が積み重なっている。水彩の絵が多く、淡く綺麗な風景画が多かった。ときどき動物の絵があるけれど、これは写真を模写しただけだと彼女が言っていたのを思い出す。写真を映すのと実物を見るのじゃぜんぜん違うよ、息遣いが聞こえないから。彼女の言葉はなんとなくわかるようでわからない。
 あれ? と首を傾げた。彼女は作品を捨てたりしない。たとえそれが納得のいかないものでも、下書きでやめてしまったものでもだ。それに作品は大体描いたものから下に置かれている。だから、一番上には新しいものが、コンクールに提出されるはずの絵があるはずだった。
 持って帰った? いや、それはない。家で作業はできないと彼女は言っていたし、キリが悪いときには下校の最終時刻まで残って作業をするような人だ。
 一番上にあるのは以前見せてもらった静物画だった。綺麗に咲き誇った百合の花。そして、その上はいつも私を描いているスケッチブック。もうそろそろ一冊目が終わると言っていた。それより上にはなにもない。彼女はまだ絵を描き始めていないのだろうか。なにごとも早め早めに動こうとする彼女が?
 違和感を覚えながらもスケッチブックを手にした。いつも描き終わった絵を見せてもらうけれど、実はじっくりと見たのは一度だけだ。初めて彼女が私を描いた、一年生のときの美術の授業。
 席に戻ってじっくり見てみようかと歩き出したところで、筒状の白い物体に目がいった。ゴミ箱の中でいづらそうに丸まっている一枚の画用紙。なんとなく気になって見てみると、端の方に日付とタイトルらしきものが書いてあった。空本のだ、と瞬時にわかる。 一枚一枚、空本は裏側にこうして書き込んでいる。動物を描いたら「犬」や「馬」、花なら「百合」や「ばら」、私のときでも「横顔」や「後ろ姿」など、簡易的なものばかり。この絵には「群青」と付いていた。「白木が沈みたいって言った空をね」という彼女の言葉を思い出す。あのときの彼女は真っ直ぐ前を向いていた。私と目は合わなかったけれど、でも彼女が微笑んでいたことはなんとなくわかった。絵の話をしているとき、空本の表情は柔らかくなる。
 あの顔を見ると描くことが好きなのだろうと素直に思える。誰かに褒められたいとか評価されたいとか注目されたいとか、まったくそんな気持ちがないわけではないだろう。でも、彼女の絵からは伝わってこない。この景色を見て、この花を、動物を。この素晴らしさをあなたにも教えたい、絵を通して教えたい、わたしなりの表現で伝えたい。そんな気持ちが伝わってくるようで不思議だった。そして、そんな彼女の絵が好きだと思った。
 だから、彼女が私の容姿を褒め、モデルを頼んできたときは嬉しかった。この人が伝えたい、表現したいものに私はなっているのだと思った。下心なんて、裏に抱えた感情なんて一つもなく、純粋な気持ちで私の容姿を褒めてくれたのは空本が初めてだった。
 悪いと思いつつ、あの空本が意図的にゴミ箱へと葬った絵を開いた。群青。目に鮮やかな深い青。私が沈みたいと言ったあの青が広がっていた。そして、私がいた。真っ直ぐに正面を向き、何かを祈るようにしている私が。
 胸がざわつく。空本がこの絵を捨てた理由はこれだろう。それ以外に理由はない。あの空本が自分の絵を捨てたのだから、絵の出来不出来どうこうなんかではないのだ。
 いつの間にか群青よりもそこに描かれた私を一心に見つめていた。意思の強そうな瞳と閉じた唇。冷たい印象は不思議と与えられず、薄く微笑んでいるように見えた。ここに描かれているのは、彼女の中にいる私だ。私はこんなポーズも表情も彼女がスケッチをする際にしたことがない。
 彼女の目に私はこう映っているのか、彼女の中にいる私はこんな表情をしているのか。嬉しさと恥ずかしさがごちゃ混ぜになり、思わず絵を伏せた。呼吸を整えながら手の甲で頬に触れる。熱い。冬だというのに変な汗までかいてきた。
 目立つことは嫌いだった。いい感情ばかりが向けられるわけではないから。なにもせずとも人目をひいてしまう容姿は厄介で好きになれなかった。
 絵のモデルを頼まれたのは初めてではなかった。絵だけではなく写真の被写体を頼まれたこともあった。そのほとんどを断り、断り切れないときは一度だけ引き受けてきた。でもそのたびに落胆してきたのだ。作品越しに見える感情に辟易としていた。今までの人たちは揃いも揃って「私」ではなく「他者に賞賛されやすい人物」を求めていた。そのことがわかってしまうのが気持ち悪く、そして腹立たしかった。
 伏せていた絵をもう一度手にし、描かれた自身を見つめた。群青に沈んだ私は、すべてを見透かしたような視線をぶつけてくる。

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